メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

桐島、部活やめるってよ

2013-08-30 21:44:31 | 映画

桐島、部活やめるってよ(2012年、103分)

監督:吉田大八、原作:朝井リョウ

神木隆之介、大後寿々花、橋本愛、東出昌大

 

原作(読んでいない)もこの映画もたいへん評判になり、賞もとっていて、映画館では見損ねた。ようやく見たわけだが、ちょっと肩すかしという感じだ。

 

ある県立高校の2年生から3年生になるあたり、つまり大学入試など進路を決める時期であり、部活も下の学年にリーダーシップを渡していく段階である。

ここでは、バスケット、バレー、バドミントン、野球どの運動部と吹奏楽部、映画部などの文化部の子たちが描かれる。

 

その中で、運動部ではキーマンらしい「桐島」が部活をやめるという情報が駆けめぐり、皆に動揺がはしるとともに、自分はどうするんだという問いがつきつけられる。

 

最後まで「桐島」は姿を見せず、それぞれの話も、かならずしも結末が見えるわけではない。

ただ一つ、なかなか皆に協力してもらえず苦労していた映画部の新作の製作がようやく進みだす。それがまたゾンビというかドラキュラというか、そういう系統の(この分野に詳しくないので)もので、誰かがラジオでいっていたが、相当な映画オタクが作った映画ということは確かなようだ。この映画自体が、この映画部がつくったもの、という劇中劇スタイルとみてもいいかもしれない。そこまでいうのは極端か?

 

そういえば監督の吉田大八は「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (2007)」を撮っていて、つながるところは感じる。

 

かなり不消化の感がのこるこれど、観終わっていやな感じがしないのは、登場するすべての子たちが、この状況の中で最後は「自分は本音として何がしたいんだろう、桐島はどうあれ」と自身に向かい始め、自分の足で少しづつ動き出すからだろうか。そしてそれが作り手の大声での主張になってないのがいい。

 

キャストで私が知っているのは神木隆之介、橋本愛くらいで、特に後者はこの後ずいぶん起用され評判にもなった。ただここでは見栄えは明らかだがそんなにキーになる役ではなく、むしろ吹奏楽部でサックスを吹いている大後寿々花に存在感がある。

 


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ノーベル殺人事件

2013-08-25 21:41:21 | 映画

ノーベル殺人事件 (Nobel's Last Will、2012スウェーデン、未公開、90分)

監督:ピーター・フリント  原作:リサ・マークルンド

マリン・クレビン(アニカ・ベングッソン)、レイフ・アンドレ、エリック・ヨハンソン、ペール・グラフマン

2013年7月 WOWOW

 

同じスウェーデン「ミレニアム」最初の映画とスタッフがかなりかぶっているらしいが、確かにそういうテイストはある。

ノーベル医学・生理学賞をの授賞後晩餐会で、受賞者のイスラエル人とダンスをしていた選考委員会委員長の女性が謎の女に撃たれ、女は逃走する。その瞬間を見ていた新聞記者が主人公。彼女は面倒な側面がありそうということで、警察から口止めされるのだが、そのうちテロ集団というよりは、選考委員会側になにかある感づき、困難な中で調べ始める。

 

「ミレニアム」の主人公の一人は雑誌の編集だったが、今回は新聞、ただしアクション・サスペンスとしては普通の女性だからそっちの場面で見せどころはないし、最近よく出てくる高度なハッキング技術があるわけでもない。

 

それでも登場人物は皆大人で、悪事をする側も、その動機は普通の人間が場合によっては持ちがちというものである。ただ日本人からすると、ここまですぐに残虐にやるか、という感じはする。

 

この時間、尺だと、ストーリーの細かい連鎖はよほど注意してないと、えっどうなってんのということもあるが、多分TVドラマ2回分なのだろう。昨今は米国のTVドラマでもサスペンスものはこういう成り行きをうっかりすると見失いがちなものもあり、密度が濃くて当然なんだろう。

 

画面の色調、家族ともいろいろ問題があるのはあたりまえ、というあたりも、そうなんだねと思う。

 


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陽はまた昇る

2013-08-20 15:00:10 | 映画

陽はまた昇る ( The Sun Also Rises、1957米、135分)

監督:ヘンリー・キング、製作:ダリル・ザナック、原作:アーネスト・ヘミングウェイ

タイロン・パワー(ジェイク)、エヴァ・ガードナー(ブレット)、メル・ファーラー(ロバート)、エロール・フリン(マイク)、ロバート・エヴァンス(ペドロ)、ジュリエット・グレコ(ジョルジェット)

 

これ見ていなかったようだ。ヘミングウェイの長編では一番好きなのだが、ハリウッドのスターシステムで、あまりドラマチックなつくりになっておらず、社会風俗映画みたいになってしまっている。

 

それでもタイロン・パワーはまずまずの雰囲気、それに比べるとエヴァ・ガードナーはこのころもっと妖艶だったはずだが、どちらかというと反対の感じを観るものに感じさせているだろうか。男から見ると、もう少しこっちが幼いように感じさせるほうが、終盤に闘牛士と行ってしまうところがいきるのに、と思う。

 

エロール・フリンはその名前は知っていても、若いころの今でいえば海賊ジョニー・デップをもっとにやけた二枚目にしたようなイメージ(そう勝手におもっているだけ)しかないのだが、ここは意外に渋くてうまい。

 

ジュリエット・グレコは冒頭にパリでジェイクと出会う高級娼婦、戦時の傷害で性的不能になったことを観客に気づかせる場面だけれど、うまい。

 

ウディ・アレンはミッドナイト・イン・パリ(2011)を撮るにあたって、この映画をみているだろう。夜の街路、室内など、似ているところはある。


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ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー

2013-08-16 22:14:24 | 映画

ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー (ELLES、2011仏・独・ポーランド、97分)

監督:マルゴスカ・シュモウスカ

ジュリエット・ビノシュ、アナイス・ドゥムースティエ、ヨアンナ・クーリグ、ルイ=ド・ドゥ・ランクザン

 

それほどドラマチックでもなく、結論もはっきりしていない、それでも映画としてまずまずという、フランス映画にはよくあるパターン。ビノシュを主演にしているから、多少とも注目はされる。

 

主人公アンヌは雑誌ELLEの記者、今は日本的にいうと援助交際をしている女子学生二人を追っかけ記事にしようとしている。彼女には夫と、反抗期とまだ幼い二人の男の子がいる。

 

女子学生にたいして最初は余裕をもって取材していたが、それまでとは違う男と女の関係に接するうち、自らの「仮面の夫婦」的な面が気になってきて、かなり危ないやり取りにもなるが、最後はあまり激烈なことにはならず、本質的な解決などないわけだが、なんとか少しだけ折り合いをつけて、生きていく、というもの。

 

前述したように、こういうフランス映画は、ちょっと見るのに悪くない。必見というわけではないけれど。

 

ビノシュは、ここでは抑え気味の演技だろうか。だから、見ている方が「でも、、、」と想像すればいい、という枠組みになっていると思う。

 

最後に夫が仕事で付き合いがある人たちを家に呼び、主人公は気の進まない中で料理をつくり相手をする。そのうちに幻覚で、客の人たち(数も増えている)は違う人たちで、しかも映画の観客は「えっ、どうしてこの人たちがここに?」というように見えるのだが、全員笑顔で機嫌よくあの「枯葉」を歌う。もちろんフランス語だからジャック・プレヴェールの歌詞だが、この場面であの歌詞は絶妙である。改めていい歌だと思う。

 

またキッチンにある大きな冷蔵庫、いくつもある開け閉めの場面で必ずといっていいほどうまく閉まらない。それは中にたくさんのものをいれている、入れ方がいいかげん、などからなのだろうが、まさにこの家庭、人間関係を示している、と受け取れる。ここはうまい。

 


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山口果林「安部公房とわたし」

2013-08-10 22:22:09 | 本と雑誌

「安部公房とわたし」 山口果林 著 (2013年 講談社)

 

安部公房が死んだとき、それは女優山口果林宅であった、ということは知らなかった。芸能ゴシップには疎くはなかったはずだが。

 

それはともかく、安部公房についてはもちろん知ってはいるものの、その作品については映画「砂の女」を見たくらいであり、山口果林についてもNHK TV 朝の連続ドラマ「繭子ひとり」、そしてかなりたってからフジTV「天上の青」(原作 曽野綾子)での死刑囚(白龍)役と交流する主人公くらいしか覚えていない。

 

演劇は音楽、美術に比べるとあまり見聞きしておらず、唯一三島由紀夫の作品を若いころ続けて見に行ったくらいである。また著者の出演リストを見るとTVドラマにはずいぶん出ているのだが、その多くが2時間サスペンス、時代物で、あまり見ないジャンルである。

 

それでも本屋で手に取って少し斜め読みしたときに、これは読みたいと思った。

 

こういう本だと、その波乱が多かった時間について、誰か相手に何か言っておきたい、自分の行動の正当性を主張したい確認したい、となりがちだが、ここではそういう記述になってない。

 

1993年の作家の死から20年近く経ったということもあるだろうが、細かい一つ一つの事実、記録をたぐり、かなり落ち着いて自然体に記述が進んでいく。

他人との関係がどうだったからではなく、これはこういう自分の半生なんだ、ということ、それは読むものにつたわり、おそらく読むものにもこれからについて何らかの思いをきたすだろう。

 

それと、二人のわがまま、意外に俗っぽい好奇心やこだわり(いわゆるモノや車をはじめとして)、これらが二人のいきいきとした描写になっている。

 

著者は私より一つ年下で、中学高校は御茶の水附属、私も都心近くの私立だから、この時期と大学に入ってからあたりのいろんなことの記述は、ああそうだったねと妙に納得できるものがある。

それは同じ学校の2年先輩でそのころちょっと面識もあった川本三郎さんが亡き夫人(川本恵子)について書いた「いまも、君を想う」にも感じるのだが、今回の本の方がより強い。

あのころ、音楽、アートに限っても、日生劇場、西武の辻井喬(堤清二)の仕掛けとその交友、はいつも注目していたし、その価値があった。

 

そういう中で、萩原延壽の名前がこの本に出てきたのは意外だった。幕末から明治にかけてこの人が書いたものはずいぶん読んだけれど。

 

そう、自分について書くということは、鏡に向かって自画像を描くことであり、誰に読まれてもいいという前提で書くことであり、その結果が、文学・出版という分野での評価などとは関係なく、その人の文体なんだ、とあらためて思った。

著者に感謝したい。

 


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