島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

日本最初の缶詰製造の地

2017-10-25 12:51:10 | 歴史・史跡
雲仙に戻って来てから出掛ける機会が増えて自然情報にも事欠かなかった。
だいぶ間が空いてしまったが、長崎県立図書館に出掛けたついでに周囲の紹介できそうなものも撮影して来た。
県立図書館のすぐ近く・・・というか入口付近に史跡と思われる石柱が立っていた。(表紙写真)
近寄って確認すると、

「日本最初の缶詰製造の地」、なにやら面白そうだな。w
「明治12年(1879)長崎公園で開催された長崎博覧会の終了後、県は缶詰試験所を設置、勧業御用係(産業を奨励する役目)に松田雅典を任命しました。松田は金屋町乙名松田家(金屋町の代表者である松田家)を相続、明治2年(1869)、広運館に在学中に教師レオン・ジュリーから缶詰製造法を学び、その後研究開発を続けました。同17年(1884)、同試験所の払い下げを受け、松田缶詰所を開きました。なお、松田が最初に作った缶詰はイワシの油漬けとされています。同30年(1897)、夫婦川町に移転した後は、跡地に長崎商品陳列所(旧長崎市立博物館の前身)が置かれました。」
面白くはなかったが、長崎が日本で初めて缶詰を作った地だったということや、最初の缶詰はイワシの油漬けだったという事が分かった。
これはこれで興味深い。w
コメント (2)
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竜造寺隆信五輪塔

2017-06-07 13:44:42 | 歴史・史跡
雲仙の温泉街の中には、竜造寺隆信のお墓と言われている「龍造寺隆信五輪塔」がある。
竜造寺隆信に関するものは、2010年に二本木神社神代城址沖田畷古戦場跡などでご紹介しています。
簡単に言えば、昔島原半島に攻め込んだ佐賀の武将です。
すっかり雲仙にある事を忘れていたのですが、先日当館に佐賀在住の女性からお電話があり、思い出した。
内容としては、「行ってみたらあまりにも荒れ果てていたので、何とかならないか」といったものだ。
私も忘れるくらい随分昔に行ったきりだ。
国の管理地なので、我々には報告するくらいしか出来ないのだが、現状の把握に久しぶりに行ってみた。

昔は児童公園があって、小さい子供が遊んでいたらしい。
その後は公園も無くなって、ご老人がゲートボールを嗜むゲートボール場になっていたが、それもだいぶ昔に無くなった。
あとは荒れ放題の状態らしい。

ここが、その五輪塔の入口。
佐賀の女性が行ったからか、踏み分け道が出来ている。

中に入ると、上半分が傷んで落ちた解説板がある。
文字は消えてしまって読めない。

写真の中央に木の幹が写っているが、その右に石製の塔が分かるだろうか?
それが「龍造寺隆信五輪塔」です。
10年か11年くらい前、気になって調べていると古い新聞記事を見つけた。
ただ、『昔の事で私もうろ覚えなためあまり信用しないで欲しいのだが、』と前置きした上で話すと、竜造寺隆信は島原の沖田畷の戦いで戦死している。
その時は島原半島の半分くらいはすでに龍造寺の軍門に下っていた状態で、半島内にも多くの龍造寺軍の配下がいたそうだ。
それで突然大将が討ち取られたものだから、佐賀に帰るに帰れず、半島内に残った部下も多かったらしい。
また、合戦で負けた代償として龍造寺の血縁のお姫様が所謂人質として有馬氏に嫁いだとか嫁いでいないとか。w
そのお姫様を中心に、かつての配下たちが結束して、この五輪塔を建立した。
雲仙の一部の方達は「龍造寺のお墓」と呼んでいるが、本当は供養塔だった・・・という記事を読んだ記憶がある。
真偽の程は、私には調べようもないが、逸話が残っている史跡というのは面白いものだ。
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金山(結城)城址

2017-04-08 10:18:59 | 歴史・史跡
少し余裕が出来たので、更新しておく。
3月末に行ってきたキリシタン関係の実地研修のお話です。
と言っても、初めて訪れた場所はここのみですし、内容もうろ覚えです。
その時は「ほぉ〜」とか「へぇ〜」とか感心しているのですが、さっぱり覚えられないものですね。(笑)
ここは国見町の金山(結城)城址です。(表紙写真)

「築城の時期は戦国期のはじめ島原半島における北辺の守りとして、この地に金山城を築城したと伝えられている。永禄の頃、有馬氏から土豪古賀越後は金山城・東古閑城(有明上町)の二城を与えられたが、天正二年(1579年)には龍造寺氏の侵攻にあい、一族ことごとく戦死したという記録が古賀氏末裔系譜に記されている。」
※上の写真は敷地内にある石碑だが、それとは何ら関係ないらしい。たぶん土地造成時の記念碑かと・・・。
「慶長七年(1602年)に切支丹武士結城弥平次(ゆうき やへいじ)が肥後の愛藤寺城(あいとうじじょう;矢部町)から有馬晴信の招聘で知行三千石を与えられて入城しキリスト教の布教活動が続けられた。
 その後、慶長十四年(1609年)には、突如晴信の命を受け、マカオ船マードレ・デ・デウス号攻撃に参戦し勝利を得たが、晴信は慶長十七年(1612年)、岡本大八事件で処刑された。
 晴信の子直純の時代になってから切支丹信徒一掃が激しくなり、結城弥平次も慶長十八年(1613年)2月には金山教会の鐘を聞きながら数名の家来と共に城を後にして消息を絶った。その後、廃城となっている。」(国見町教育委員会)
キリシタンゆかりの地ということで、地内には十字架が建っています。
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熊本ドライブ⑤霊台橋

2017-01-14 13:13:46 | 歴史・史跡
ドライブなので、目的地間の画像はすっ飛びます。
これが公共交通機関を使った移動との違いですね。
通潤橋から国道218号線を西進しまして、「霊台橋」に着きました。
(・・・?「れいだいきょう」も一括入力できない?PCの不具合か?)

早速渡ってみます。

橋の上からの眺め。
奥にちらっと写っていますが、崩落した斜面がそのままです。
(熊本地震か6月の大雨の影響でしょう。)

振り返って全景を撮影。
「霊台橋は、明治までに完成した石造単一アーチ橋としては、日本一の大きさを誇ります。
 緑川水系の中でも難関中の難関といわれた船津峡に架かっています。それまでに架けられた木橋は幾度となく流され、人々は難渋していました。
 永代不朽の橋は、地元の人々の悲願でした。1847年(江戸時代末期)に当時の惣庄屋 篠原善兵衛のもと、種山石工の卯助兄弟、大工の棟梁の伴七、さらには近在住民の総力(のべ4万人超)も加わって、約7ヶ月間という短期間で完成したといわれています。
 橋の全長約90m、アーチのスパン27.5m。
 明治33年、平坦になるようにかさ上げが行われました。昭和41年に上流の鉄橋が架けられるまでは、この石橋の上をバスやトラックも走っており、人や物資、文化も渡していました。
 昭和42年6月15日、国の重要文化財に指定され、昭和55年架橋当時の形に復元工事が行われました。」

霊台橋から上流の鉄橋を撮影。
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神話の里⑬太鼓番の墓伝承地

2017-01-07 13:18:13 | 歴史・史跡
高千穂に戻ってきましたが、宿に帰るにはちょっと早い時間帯でした。
そこで急遽「国見ヶ丘」に登ってきましたが、途中の移動が全部車だったので写真に唐突感が出ています。
表紙の写真は、駐車場から歩いて登って来た「中畑神社遥拝宮」です。
少し離れた場所に「中畑神社」があったようなのですが、立ち寄りませんでした。
写真の場所から、ふと後ろを振り返ると、

まだ上に行ける階段が。
「なんとかと煙は高い所が好き」と言いますので、私も勿論高い所は好きです。(ただし足元が確かな場所に限る。)
階段を登ると『「太鼓番の墓」伝承地』の看板と展望台がありました。

看板を読みはしましたが、はて何の事やら?
と、思いながら展望台を登っていると、

ああ〜、あれのことか。
『「太鼓番の墓」伝承地
「国見ヶ丘」のある大字押方(おしかた)の字名は、「地蔵原(じぞうばる)」と呼ばれていますが、その南側のこの辺りは、地元の伝承では「太鼓原(たいこばる)」と呼ばれています。
 現在の西臼杵郡(高千穂町・五ヶ瀬町・日之影町)に諸塚村を加えた旧西臼杵郡内には「高千穂四十八塁」と呼ばれる中世の山城が見晴らしの良い場所に残っています。
 中世の山城は、近世の城のような石垣や天守閣はありませんが、山を人工的に造成して、掘りを掘ったり土塁を築いたりして守っていました。当時の情報伝達の方法としては、“狼煙”や“太鼓”などが使われていました。
 高千穂町内には「太鼓原(たいこばる)」とか「太鼓番」といった地名が残っており、中世の山城ネットワークの重要な場所でした。
 ここ大字押方の太鼓原には「太鼓番の墓」と呼ばれる石造物が残っており、現在も地元でおまつりしてあります。』
それでは最後に展望台からの眺めをご覧下さい。



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神話の里-番外編③風土記・万葉の丘

2016-12-27 13:11:08 | 歴史・史跡
くしふる神社(社殿を含めた)の山体には色々な史跡がある。
とりあえず、天孫降臨された神々が天を懐かしみ遥拝した所といわれる「高天原遥拝所」を探して回る。
中腹に小高い丘を見つけたが、どうやらここではないらしい。

「風土記・万葉の丘」と名付けられた場所のようだ。
解説板の最初の書き出しが良かったので記しておく。
「皇祖発祥の地と伝えられる高千穂の地は日本国民の心のふるさとです。
 天孫降臨は一つの神話ですが、上代の歴史は洋の東西を問わず、神話の形式で伝えられています。
 神話は民俗を特色づける祖先の遺産であり、国の背景を形成する大きな要素とも言えます。」
なるほどねぇ〜。
同じ場所に「高千穂顕彰碑」(写真奥)や川田順歌碑、梅原猛氏植樹木があります。(一つ一つの紹介は長くなるので割愛します。)
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神話の里-番外編②高千穂太郎の墓

2016-12-13 09:56:55 | 歴史・史跡
高千穂峡を探して彷徨い歩いています。w
イラストマップの罠にかかってしまったのは自覚していましたが、そもそも道は間違っていない筈なので、信じて突き進みます。
こういう場合は予期せぬ出会いもあるもので、古民家風の建物を見つけました。(表紙写真)
一般の民家ではないらしいのですが、入口にチェーンがしてあって近づけませんでした。
どうも公民館か集落の集会場みたいだったようです。
更に歩を進めて行くと、見た事のあるマークを見つけました。

「オルレのマークじゃん。」
オルレとは、「韓国済州島から始まったもので、もともとは済州島の方言で『通りから家に通じる狭い路地』という意味です。自然豊かな済州島で、トレッキングする人が徐々に増え、オルレはトレッキングコースの総称として呼ばれるようになり、今では韓国トレッキングの中心的なコースになっています。オルレの魅力は、海岸や山などの五感で感じ、自分のペースでゆっくりとコースを楽しむ所にあります。」(九州観光推進機構HPより)
島原半島にも南島原コースとして口之津に同じマークがあるので、すぐに分かりました。

いよいよ本題です。
今日のタイトルにもなっている「高千穂太郎の墓」(正確には〜の入口)です。
ここはイラストマップにも載っていなかったので、本当に予期せぬ出会いでした。
「高千穂郷は、古来神武天皇の兄三毛入野命(みけいりのみこと)の子孫と称する三田井氏が治めていましたが、天慶年間(938〜946年)に家系が絶え、豊後国大野郡領主大上大太惟基(おおがだいたこれもと)の長子太郎政次を養子に迎え、代々高千穂太郎を通称したと伝えられています。
 その後、高千穂氏は室町時代に三田井氏とも称し、肥後の阿蘇氏とともに九州中部に小さいながらも独立圏域の平和郷を構築していました。
 戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定後の国割りにより、高千穂郷は県(あがた・延岡)城主高橋九郎元種(もとたね)の支配地となりますが、三田井氏はこれを不服として元種に反抗します。天正十九年(1591年)元種は三田井家の家老大人(おひと)城主甲斐宗摂(かいそうせつ)を一計を弄して味方に率いれ、三田井家領主親武(ちかたけ)の本城「仲山城」を攻略し、文禄三年(1594年)三田井一族は滅亡します。
 高千穂太郎の墓は、初代政次の墓として毎年四月十五日を例祭日と定め里人により大切に祀られています。尚、墓石には「卍捐館松翁永仙大禅定門神儀(えんかんしょうおおえいぜんだいぜんじょうもんしんぎ)」と
刻してあり、周囲には「仲山城跡」をはじめ三田井氏の菩提寺の跡が残されています。」(昭和四十四年三月十九日町指定史跡 高千穂町教育委員会)
そんな人がいたのか〜。
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神話の里②天安河原

2016-12-08 10:57:34 | 歴史・史跡
天岩戸神社の境内を通り抜けて、「天安河原(あまのやすかわら)」へ向います。
天岩戸神社西本宮からは岩戸川に沿って、歩いて10分ほどです。

時期がちょっと遅かったのですが、最盛期には綺麗な紅葉が見れたと思います。
自然が残る歩道を歩いていると、フユイチゴの実がなっていました。

「天照大神が岩戸隠れのため天地暗黒となり、諸神がこの河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟(奥行き25m、間口30m)です。」
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独立の掲額

2016-10-22 14:02:33 | 歴史・史跡
天佑寺の境内にはもう一つ「天佑寺の六地蔵石幢」なる諫早市指定の有形民俗文化財があるのだが、諌早家墓所内に三基、書院内に一基あるらしい。
しかし、諌早家墓所内には昨日書いたように入らなかったし、書院内は奥の方にありすぎて入る気がしなかった。w
んで、帰り際に撮影したのが表紙の写真です。ww
文化財に指定はされていないようだが、歴史あるもののようです。
「黄檗宗の僧侶 独立性易(どくりゅう しょうえき)が書いた額で、『鎮海勝境(ちんかいしょうきょう)』と書かれています。」
また出たな、黄檗宗。w
確か最近の記事に書いたぞ、そうそう上山公園の愛宕山の肥前鳥居だ。
鳥居の額束が黄檗宗の三筆の一人だった。
諌早では黄檗宗の僧侶の書が流行った時代があったのだろうか。
この辺の時代背景がよく分かっていないから、歴史の楽しみも半減だ。
もうちょっと勉強が必要だと反省しました。
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諌早家墓所

2016-10-21 13:21:14 | 歴史・史跡
天佑寺の境内にあります。
写真のように場所は見つけたのですが、扉が閉められており、恐れ多くて中まで入りませんでした。(施錠の有無も確認していません。)
「諌早家初代龍造寺家晴から十八代家興(いえおき)までの歴代領主の墓碑十八基、正・側室や子息の墓25基、家臣の墓30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵石幢4基、石室2基、住職の墓42基、石燈籠177基、弥勒四十九院形式の石柵27基があります。(よく数えたなあ〜。)
 1613年から1913年までに作られた墓碑群です。
 墓石は異形五輪塔とも称すべきもので、火輪の四隅が突出し宝篋印塔との折衷的様相を示すような形をしています。
 初代から3代までの墓碑後方の小さな墓は、領主に殉死した家臣達のものです。領主の墓碑を囲む石棚は、「弥勒四十九院」造りと呼ばれる形式で、弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)にある内院では中央は弥勒菩薩の宝殿、その四方に各十二院あると言われています。この宝殿を墓石としたのは、死後兜率天に生まれることを願って造られたものであろうと考えられます。
 幕藩時代の墓地形式をよく残しており、昭和五十二年に県文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)
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