島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

島原の乱戦没者追悼碑

2016-10-18 16:55:48 | 歴史・史跡
上山公園の散策は終わりましたが、まだ諫早市内をうろついています。
とりあえず、朝車を停めた駐車場まで戻る途中に天佑寺というお寺さんがあるので寄ってみます。(表紙写真)
この天佑寺には諫早市の文化財がいくつかあります。

その中の一つ「島原の乱戦没者追悼碑」です。
昭和54年4月1日に諫早市から指定された有形文化財です。
「寛永十四年(1637年)、天草大江村で重税・キリシタン弾圧に対する一揆がおこりました。一揆は島原半島に飛び火し、天草四郎時貞を総大将とする四万の軍勢が原城に立てこもりました(島原の乱)。
 時の諌早領主三代諌早茂敬(しげひろ)は2000人の手勢を率いて出陣しましたが、乱での戦いは熾烈をきわめ、諌早勢にも死者92名・負傷者296名の多くの犠牲者が出ました。
 この追悼碑は、乱の鎮圧後、三十三回忌の寛文十二年(1672年)に、犠牲者の霊を祀るために建立されました。石造り三段の基壇の上に、高さ2.45m・幅0.96mの石碑を載せ、総高3.37mとなっています。
 この碑には、戦死した武士67名・又者(家来の家来)14名・百姓11名・計92名の氏名が刻まれています。
 島原の乱の史料として貴重であることから、市の文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)
まさか諫早市散策に来て、島原半島由来の物に出会うとは思ってもみませんでした。
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上山公園を歩く、その5-愛宕山の肥前鳥居

2016-10-13 14:46:18 | 歴史・史跡
昨日は1日普賢岳を登っていましたが、その前日は休みだったので、宣言どおり上山公園にある「愛宕山の肥前鳥居」を撮影に行きました。(表紙写真)
「『肥前鳥居』は佐賀県を中心に福岡・長崎県の一部に分布する形式で、木鼻(きばな;一番上の笠木の両端)が流線的に伸びていること、柱・笠木・貫石の各部材が三本継となっていること、笠木と島木が一体化していること、などの特徴があります。」

「愛宕山へと続く石段の登り口・中段・頂上に三つの鳥居があります。それぞれ一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居と呼ばれ、このうち一の鳥居が「肥前鳥居」です。(上の写真)
この鳥居は諌早家四代領主 茂真(しげざね;1652〜1672年在職)の時に建てられ、額束(がくつか)は黄檗宗(おうばくしゅう)三筆の一人と称される中国の名僧「即非(そくひ)」の揮毫(きごう)で
『雪峯頭陀(せっぽうづだ)即非書 愛宕山 諌早豊前守藤原茂真立』
と記されています。」

「三つの鳥居の柱は下からそれぞれ三本継・二本継・一本造りとなっており、柱の太さは下の鳥居ほど太くなっています。
これは柱の石材を上に運ばなければならないため、上の鳥居ほど柱を細く、軽くする必要があったためと思われます。」
※上の写真が二の鳥居、下の写真が三の鳥居です。

結構な高さを登ってきました。(標高は70mだとか・・・)
ちなみに二の鳥居・三の鳥居は以前来た時に撮影。
三の鳥居は高さも低く、私は屈まねばくぐれないほど低かったです。
「諌早神社の前にも肥前鳥居がありましたが、昭和三十二年の諌早大水害で流出しており、諫早市内では唯一残存している点で貴重であることから、市の文化財に指定しています。」
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上山公園を歩く、その4-三重塔

2016-10-10 13:09:45 | 歴史・史跡
もう一つの諫早市指定有形文化財「三重塔」です。
愛宕社宝殿のすぐ隣に建っています。
「三重塔は『仁王経読誦(にんのうきょうどくじゅ)一千部并(ならびに)一字一石塔」で、享保六年(1731年)に建立されました。
 導師は平仙寺第十世法印運盛で、施主は百武与次兵衛昌芳という人物です。国家安泰・五穀豊穣を祈って護国の教典として尊重された仁王経を読誦し、読誦が終わったことを記念して建てられました。
 昭和五十九年に行われた再建の際の調査では、経文を墨書した多数の川原石と建立時の祭祀に使われたと思われる小皿二枚と銭貨十二枚が出土しました。」諫早市教育委員会
ニコイチ(2つで1つ)のような文化財だったので、2つ続けて紹介しました。
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上山公園を歩く、その3-愛宕社宝殿

2016-10-10 12:45:02 | 歴史・史跡
引き続き、上山公園を歩いています。
愛宕山に登って来ると、眼前に出現したのは「愛宕社宝殿(あたごしゃほうでん)」です。(表紙写真)
「愛宕信仰は中世期には武の神として、また近世期には鎮火・防火の神として広く信仰されました。
愛宕社は永禄六年(1563年)、大村純忠との戦いでの武運を祈った西郷純尭(すみたか)によって奉祀されたのが始まりです。
 愛宕社宝殿及び三重塔は諌早の中・近世史を研究する上で、また石造物研究の上からも欠くことのできない貴重な文化財です。」
すぐ隣に三重塔もあるのですが、2つ同時に掲載すると文章が長くなるので分けました。
2つとも諫早市指定の有形文化財です。
「『諌早日記』には元文元年(1736年)の記事に、山城国(現在の京都府)の愛宕山権現を遷宮したことを示す棟札(むねふだ)があったことが記されており、愛宕社を祀った目的が「一家一門群兵武運長久求顕円満子孫長久」であったと記しています。
 この宝殿は、元々は木造であったのを享和元年(1806年)に石造としたものです。」諫早市教育委員会
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南串山町のキリシタン墓碑(3基)

2016-03-06 14:08:53 | 歴史・史跡
雲仙市立南串第一小学校を過ぎるとすぐ目の前に見えた。
なにやら解説板があるが、あれがキリシタン墓碑か。

長崎県の指定文化財「南串山町のキリシタン墓碑(3基)」だ。
『この墓碑は、慶長の頃(1606~1612年)、あるキリシタンを祀ったものである。
 はじめ、池崎地区の畑の中にあったものを、いつの頃か定かではないが、昭和の初め竹下義巳氏家庭の池のほとりに移されたものという。
 墓碑は三基あり、それは支石形に組まれ、上の一基は平庵型で長さ130cm・高さ24cm・幅57cmあり正面軸面に「里阿(りあ)ん」、右側面に「慶長十一年」、左側面に「九月三日」と刻んである支石となっている。
 二基のひとつに「慶長十七年六月二十七日」、他のひとつの側面に「慶長十一年」と刻んであるが、これが貴重な文化財であることから昭和二年十一月八日、長崎県文化財(24)に指定された。
 以来、風化を案じて今日に至り、ここに県の協力をうけ現在地に移転安置したものである。
一九七八年九月二十日 南串山町教育委員会』
文化財に指定された年も古いですし、南串山町が雲仙市に合併する前の物だ。
古びて字は薄くなっていますが、文字ははっきりと読める解説板でした。

キリシタン墓碑から登る事少し。
T字路に突き当たりました。
案内板は右を指しています。
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土手之元のキリシタン墓碑(4基)

2016-03-01 15:08:09 | 歴史・史跡
表紙の写真をご覧下さい。
さて、問題です!
進んだ先の道がこんな分かれ道だったら、あなたはどちらに進みますか?
・・・
・・・
・・・
シンキングタイム終了。
どう見ても右カーブが主道ですよね?
側溝も右に曲がっています。
そう思って右に進むと民家の間を抜ける狭い道に突き当たります(ブッブ~はずれ)。
正解は左でした。
左の道を進むと暫くは民家の間を抜ける坂道になります。
これが結構キツめの坂道です。
ほぼ山登り状態で、坂道を登り上がると、

何も無い十字路に出ます。
さあ、探し物の「キリシタン墓碑」はいづこ?
左は下り坂、正面は真っすぐ畑の道、右は、

写真では分かりませんが、肉眼では矢印の下になにやら青い看板が見えます。
アレか。

「キリシタン墓碑」って書いてある。
どこから登るんだ??
ぐるりと回り込んでようやく到着しました。

詳しくは知らなかったのですが、帰ってきて調べると、『長崎県の文化財』に指定されている史跡でした。
何故、県の文化財がこんなに不案内で解説板の一つも建ってないんだ!?
「土手之元のキリシタン墓碑(4基)
◯花十字紋入半円柱蓋石型1基◯切妻蓋石型3基
 畑の中に叢林があり、その中にあった花十字紋入り半円柱蓋石型と無紋無銘の切妻蓋石型の2基は昭和2年に指定されていた。
 昭和54年2月環境整備の時、地中から2基の無紋無銘の切妻蓋石型の墓碑が新しく発見され、同年7月27日追加指定された。
 地中からいくつかの墓碑が出土し、しかも台石の固定状況からみて、島原の乱以前にこの地域にキリシタン共同墓地があったのではないかとも推定される。」(長崎県学芸文化課)
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三好屋新田

2016-02-28 14:45:16 | 歴史・史跡
時期的にそろそろカモ達が北上を始める。
カモを求めるのも、あと少しだ。
中尾川とトライアルでの買い物を済ませ、雲仙へ帰る途中でふと新田町に立ち寄ることにした。
新田町は、島原市役所から島原鉄道の線路を渡って海側に行ったところです。

海を望める場所に着きました。
以前ここには映画「まぼろしの邪馬台国」のロケ地だった看板があったのですが、なくなっています。
代わりに「古代の伝統漁法スクイ」のジオパーク看板が設置してありました。
見えている、この海の向きにスクイの石垣が設置されているようですが、潮が満ちていて分かりませんね。w

振り返ると道がカーブしてあり、先まで行けそうな道が続いています。
少しだけ進むと「島原海岸風致地区」の石柱と看板、それと教育委員会が設置した案内板があります。

「この区域一帯を三好屋新田といい、江戸時代の豪商三好屋が面積七町三反余り(約七万三千平方米)を干拓した土地です。
 三好屋・中山要右衛門が天保八年(1837年)三月 藩主に内海新田の築き立てを願い出て許可され、翌九年九月工事を終了しました。初期は塩田として利用されて、同十年六月には塩十俵を上納しています。
 この工事については次のようなエピソードがあります。
 中山要右衛門は大商人で、天保七年の飢饉の年に城下の地主や商人はそれぞれ金、米、麦等を寄附しましたが、要右衛門は一向に聞き入れず「けちんぼ」「情け知らずの強欲じじい」といわれました。
 この年干拓工事を始めて年寄りや女、子供に至るまで人夫として雇い、普通より高い賃金を支払いました。
 このとき要右衛門は「一時の寄附では当座は助かるが、それが無くなればまた苦しい目にあう。工事に出ていれば長い期間助かるから、品物をやる一時の救いと比べて、どちらが本当の救い方といえるか」と人々に話したということです。(島原市教育委員会)」

本日、雲仙にてウグイスの初鳴きを確認しました。
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金浜天満神社

2016-02-11 13:27:28 | 歴史・史跡
時を遡る事、2012年5月26日。
その日は宮崎先生をおむかえして、「巨樹・巨木観察会~千々石・小浜編~」を行っていた。
観察会も終盤、小浜町金浜(かなはま)にあるアコウの巨木を観察して、バスへ戻る途上に撮影したものが表紙の写真です。
私は皆さんの最後尾を歩きながら、(赤い矢印の下)山の中腹に見えた鳥居が気になっていた。
『いづれ訪れよう』と思いながらも、なかなか機会に恵まれずにいた。

ということで(どういう事だ?)、行ってみました!
えっちらおっちら(古い表現だ)、坂道を登って鳥居の場所までたどり着きました。

神額には「天満神社」と書かれてあります。
鳥居から本殿まではこれまたきつい傾斜の階段を登ります。

これが本殿です。
本殿の右に造営の記念碑がありました。
「天満神社は金浜地区の産土神(うぶすながみ)として、大切に守り伝えられてきました。(略)
氏子一同知恵を出し合い、協力して社殿の造営が相成った。」

本殿の左には産土神の石碑が、

右には先の造営記念碑と、新しくなる前のものと思われる神額がありました。
そして、振り返ってみると、

絶景かな絶景かな(笑)
やはり神様は見晴らしの良い場所から私達の生活を見守ってくれているんですね。
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森山町散策番外編-鳥島神社

2016-01-16 12:29:59 | 歴史・史跡
前回の散策時には見つけられなかった「鳥島神社」ですが、今回はある程度のあたりをつけています。
前回はかなり近くまで接近していたようですが、時間切れで帰仙せざるを得ませんでした。
山の中程を通る道からさらに一本登り上がった所にありました。(表紙写真)
元々は村境にあったそうですが、転々と移転を繰り返し、昭和二十一年に現在の場所に定まりました。

右の石柱に「献 昭和二十一年七月」の銘があります。
正面には使われなくなってどれくらい経ったのか、土俵に覆いが被せてあります。
考えると昔はそこここで相撲が取られていたんですね。
そりゃあ強い力士も出たんでしょうが、今は海外の力士ばかり活躍が目立ちます。

左には八大龍王の祠があります。
最初に書いたように昔は鳥島神社は村境にあって、右と左で祀っている神様が違ったようです。(参考図書のうろ覚えw)
そして、丁度真ん中が村境になっていたそうです。(右に祀ってあったのが何かは覚えていません。)
ここも町の文化財としては記載されていましたが、諫早市と合併する際に市の文化財としては落選したようです。
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森山町散策番外編-堂閣観音

2016-01-15 13:00:25 | 歴史・史跡
最近、冬らしい気候になりましたね。
遠くに見える多良岳では山頂付近は雪が降っているように見えます。
再びやって来ました「森山町」。
前回見つからなかった「鳥島神社」と「堅心道固禅定門板碑」を探しに来ました。
それと、以前諌早市役所森山支所で頂いた「森山町 文化財マップ」にその他の文化財として掲載されている「堂閣観音(どうかくかんのん)」を探しに来ました。
「堂閣観音」は、地図上ではどうやら河上神社(2014年12月4日記事)の近くらしい。
今回は公園の近くの駐車場に車を置かせてもらって歩きました。

雰囲気のある社を見つけました。
どうやらコレらしい。
中を覗き込んでビックリしました!

ま、眩しい!!
黄金の聖観音様がいらっしゃいました。
帰りに森山図書館で調べましたが、貸出不可の書籍だった為、内容がうろ覚えです。
「仏像は木彫の聖観音の立像で約1m程です。
当初、西側背後の傾斜面堂閣といわれる地にありましたが、現在地に移されました。
仏像は木彫のため損傷がひどく、昭和43年7月に補修されています。
仏殿の内側には天保四年十一月に土橋貞恵が施主となって再建が行われた銘があります。
由緒記によれば、現在の仏像は3代目で、元禄十五年八月江副権右衛門等が再興したと考えられています。」
現在でも地域の住民が手入れしているのでしょうね。
社の内外が綺麗に清掃されていました。
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