以前から「何だろう?」と気になっていました。
県道58号線を千本木から国見町の百花台方面に向かって車を走らせていると、少し広い広場の向こうに解説板らしき白い立て看板が見えます。
近くに車を停められるスペースもないし、その広場のあちこちに「立入り禁止」の看板が立っているので、今まで確認しに行けませんでした。
今回心の中で「失礼します。」と断りを入れてから近づき、やっと正体が分かりました。

島原市指定の有形文化財「礫石原環状石組遺構」です。
(「くれいしばるかんじょういしぐみいこう」と読みます。)
礫石原は、三会(みえ)扇状台地の最西部にあたり標高270mに及ぶゆるい傾斜台地です。
この地一帯は、藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維新ごろは禄(ろく;今で言う給料のこと)を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後まもなく、未墾地約70ヘクタールが開拓地に指定され、昭和21年(1946年)入植が始まりました。
開拓が始まるとともに各所で多量の遺物が出土し、縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。
その後、昭和35,36年にわたり日本考古学会西南九州総合調査委員会、昭和52年には百人委員会により調査が行われ、出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目されています。
この石組み遺構は、当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ、付近からは合わせ口甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されています。
埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺跡です。
県道58号線を千本木から国見町の百花台方面に向かって車を走らせていると、少し広い広場の向こうに解説板らしき白い立て看板が見えます。
近くに車を停められるスペースもないし、その広場のあちこちに「立入り禁止」の看板が立っているので、今まで確認しに行けませんでした。
今回心の中で「失礼します。」と断りを入れてから近づき、やっと正体が分かりました。

島原市指定の有形文化財「礫石原環状石組遺構」です。
(「くれいしばるかんじょういしぐみいこう」と読みます。)
礫石原は、三会(みえ)扇状台地の最西部にあたり標高270mに及ぶゆるい傾斜台地です。
この地一帯は、藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維新ごろは禄(ろく;今で言う給料のこと)を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後まもなく、未墾地約70ヘクタールが開拓地に指定され、昭和21年(1946年)入植が始まりました。
開拓が始まるとともに各所で多量の遺物が出土し、縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。
その後、昭和35,36年にわたり日本考古学会西南九州総合調査委員会、昭和52年には百人委員会により調査が行われ、出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目されています。
この石組み遺構は、当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ、付近からは合わせ口甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されています。
埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺跡です。
