諌早市の指定史跡「陣野家墓地」を探しに行きました。
地図で示されたあたりに案内板がありました。
それには「この史跡は、お寺の裏側にあります。右側石段をご利用ください。」と書いてある。
え?お寺の裏?(お寺はすでに廃寺になっているようでした。)
寺の裏に入っていけそうなスペースはないぞ?
それに右側石段?
石段どころか右は民家だぞ?
?ばかりだ。
一度この入口から離れて右へ右へ歩いて行ったが、それらしきものは何も見当たらない。
丁度人がいたので聞いてみたが、「分からんもんね~」の一言で教えてくれない。
もう一度探して見つからなかったら諦めるか、と戻って民家の庭を突っ切ってみた。
あった!が・・・これを登れってか!?
崩れかかった石段を注意して登ると解説板があった。
以下、解説板より(解説にあわせて写真を入れ込んでみました。)
この高台から見下ろす水田地帯は、かつては有明海の一部であり、天然の良港として船の出入りも多かったと伝えられています。
江戸時代にこの地を治めていた諌早藩は財政状態が貧弱であったので、その対策として干拓事業を積極的に進めました。
森山地方の干拓に先鞭をつけたのが有力な士族であった初代陣野甚右衛門徳昌(じんうえもん のりまさ)であります。代々陣野家では先祖の意を継ぎ、耕地の拡大(約15.6ha)に尽くしてきました。
寛文十三年(1673年)に万灯籠(まんとうごもり)の完成を期に弁財天を、それから26年後の宝永六年(1709年)に父母並びに祖父のご恩に報いるため、六喩庵(ろくゆあん)
と三重宝塔を
第三代陣野与四右衛門信秀(よしうえもん のぶひで)の手によって建立されました。
2002年4月3日 諌早市教育委員会
文章中の万灯籠がよく分かりませんが、一番最後の写真の一番左に写っているものだろうか?
弁財天は、一番最後の写真の右に写っている小さな社の中にいるようです。
地図で示されたあたりに案内板がありました。
それには「この史跡は、お寺の裏側にあります。右側石段をご利用ください。」と書いてある。
え?お寺の裏?(お寺はすでに廃寺になっているようでした。)
寺の裏に入っていけそうなスペースはないぞ?
それに右側石段?
石段どころか右は民家だぞ?
?ばかりだ。
一度この入口から離れて右へ右へ歩いて行ったが、それらしきものは何も見当たらない。
丁度人がいたので聞いてみたが、「分からんもんね~」の一言で教えてくれない。
もう一度探して見つからなかったら諦めるか、と戻って民家の庭を突っ切ってみた。
あった!が・・・これを登れってか!?
崩れかかった石段を注意して登ると解説板があった。
以下、解説板より(解説にあわせて写真を入れ込んでみました。)
この高台から見下ろす水田地帯は、かつては有明海の一部であり、天然の良港として船の出入りも多かったと伝えられています。
江戸時代にこの地を治めていた諌早藩は財政状態が貧弱であったので、その対策として干拓事業を積極的に進めました。
森山地方の干拓に先鞭をつけたのが有力な士族であった初代陣野甚右衛門徳昌(じんうえもん のりまさ)であります。代々陣野家では先祖の意を継ぎ、耕地の拡大(約15.6ha)に尽くしてきました。
寛文十三年(1673年)に万灯籠(まんとうごもり)の完成を期に弁財天を、それから26年後の宝永六年(1709年)に父母並びに祖父のご恩に報いるため、六喩庵(ろくゆあん)
と三重宝塔を
第三代陣野与四右衛門信秀(よしうえもん のぶひで)の手によって建立されました。
2002年4月3日 諌早市教育委員会
文章中の万灯籠がよく分かりませんが、一番最後の写真の一番左に写っているものだろうか?
弁財天は、一番最後の写真の右に写っている小さな社の中にいるようです。