昨日、実家へ帰る前に書いた記事です。
今日と明日はお休みで、時津に帰ってきています。
チサンC.Cをあとにして、次にやってきたのは森山東小学校の近くです。
(以前紹介したアベマキは森山西小学校です。今回は森山東小学校です。)
ここには諌早市指定史跡「土橋貞恵(つちはし ていけい)墓地」があります。
諌早市役所の前に2つの頌徳碑がありましたが、「福田渭水(2014年11月15日記事)」と並んでいたのが「土橋貞恵(つちはし ていけい)」です。
案内看板にしたがって坂道を登っていくと、山の中に入っていくようです。
親切に入口には杖も用意してあります。
地図を見る限りはそんなに距離はなさそうなので、カメラ以外ほとんど手ぶらです。
が、すぐに後悔することに。
「この急登、マジか!?」軽い登山じゃないか!
飲み物とタオルを持ってくれば良かった。
そんなこんなで汗だくになりながら、目的の場所に着きました。
「土橋貞恵翁は、安永五年(1776年)諌早市長田に生まれ、幼名を多助と呼び、『多助ぼっさん』の愛称で親しまれる郷土の先覚者であります。
はじめ多良の金泉寺で読み書きを学び、後に佐賀の諌早屋敷に移り住み下僕(下働きの意味)となりました。何事にもまじめに立ち働いたため信用も厚く、慕われていました。
その後、長崎の医者 吉松道碩(よしまつ どうせき)の門下に入り医術を学び、文化二年(1805年)森山杉谷の地に『永春』の名で開業しました。自らの生活は常に質素にし、貧しい患者を救い、「医は仁術なり」を地で行く慈善徳行の人でありました。医療で得た財は、石橋を架けたり、道路の改修、溜め池の築造等の社会奉仕にすべてを還元しました。
後に諌早領主は、数々の善行に報いるため士族に列し「貞恵」の称号を授けました。
翁自ら設計施工されたという墓所は、三段になった上段が仏の尊像、中段が土橋家の先祖高柳の祖と師匠の墓、
下段が土橋家の家族の墓となっています。
翁の慈愛は、鳥獣にもおよび水瓶を埋め、なお鳥獣が落ちて水に溺れないよう丸石を入れてあります。
慶応元年(1865年)5月9日、多くの人に惜しまれながら杉谷の地で没しました。(享年90歳)」
今日と明日はお休みで、時津に帰ってきています。
チサンC.Cをあとにして、次にやってきたのは森山東小学校の近くです。
(以前紹介したアベマキは森山西小学校です。今回は森山東小学校です。)
ここには諌早市指定史跡「土橋貞恵(つちはし ていけい)墓地」があります。
諌早市役所の前に2つの頌徳碑がありましたが、「福田渭水(2014年11月15日記事)」と並んでいたのが「土橋貞恵(つちはし ていけい)」です。
案内看板にしたがって坂道を登っていくと、山の中に入っていくようです。
親切に入口には杖も用意してあります。
地図を見る限りはそんなに距離はなさそうなので、カメラ以外ほとんど手ぶらです。
が、すぐに後悔することに。
「この急登、マジか!?」軽い登山じゃないか!
飲み物とタオルを持ってくれば良かった。
そんなこんなで汗だくになりながら、目的の場所に着きました。
「土橋貞恵翁は、安永五年(1776年)諌早市長田に生まれ、幼名を多助と呼び、『多助ぼっさん』の愛称で親しまれる郷土の先覚者であります。
はじめ多良の金泉寺で読み書きを学び、後に佐賀の諌早屋敷に移り住み下僕(下働きの意味)となりました。何事にもまじめに立ち働いたため信用も厚く、慕われていました。
その後、長崎の医者 吉松道碩(よしまつ どうせき)の門下に入り医術を学び、文化二年(1805年)森山杉谷の地に『永春』の名で開業しました。自らの生活は常に質素にし、貧しい患者を救い、「医は仁術なり」を地で行く慈善徳行の人でありました。医療で得た財は、石橋を架けたり、道路の改修、溜め池の築造等の社会奉仕にすべてを還元しました。
後に諌早領主は、数々の善行に報いるため士族に列し「貞恵」の称号を授けました。
翁自ら設計施工されたという墓所は、三段になった上段が仏の尊像、中段が土橋家の先祖高柳の祖と師匠の墓、
下段が土橋家の家族の墓となっています。
翁の慈愛は、鳥獣にもおよび水瓶を埋め、なお鳥獣が落ちて水に溺れないよう丸石を入れてあります。
慶応元年(1865年)5月9日、多くの人に惜しまれながら杉谷の地で没しました。(享年90歳)」