うう~ん、こちらももうちょっと良い写真撮ってくれば・・・(以下同文)。
昨日の雲仙市南串山町椎木川地区から車を走らせること数分、南島原市加津佐町津波見にある「長崎県のだんだん畑十選」認定の地、「津波見地区」です。
「年間を通じて馬鈴薯やレタスなど多彩な畑作物が生産されており、天草灘の海原や山肌の緑とだんだん畑を一望できる景色は、心安らぐ農村風景を産み出しています。また、農作業体験やグリーンツーリズムなど地域活性化へ向けた取り組みも盛んな地域です。」
国道沿いに大きな看板が立っており、
その地図を頼りに場所を探し当てました。
車で登ってこれないこともありませんが、Uターンできる場所がありません。
海岸沿いの車を停められる所に駐車し、徒歩で登ることをお薦めします。
昨日の雲仙市南串山町椎木川地区から車を走らせること数分、南島原市加津佐町津波見にある「長崎県のだんだん畑十選」認定の地、「津波見地区」です。
「年間を通じて馬鈴薯やレタスなど多彩な畑作物が生産されており、天草灘の海原や山肌の緑とだんだん畑を一望できる景色は、心安らぐ農村風景を産み出しています。また、農作業体験やグリーンツーリズムなど地域活性化へ向けた取り組みも盛んな地域です。」
国道沿いに大きな看板が立っており、
その地図を頼りに場所を探し当てました。
車で登ってこれないこともありませんが、Uターンできる場所がありません。
海岸沿いの車を停められる所に駐車し、徒歩で登ることをお薦めします。
もう夏休みイベントの告知も始めているので、隠しても仕方ないでしょう。
本日、夏休みジオツアーの「絹笠山登山会」の下見に登ってきました。
かれこれ6~7年ぶりの絹笠山です。
天気も良いし、いや~最高ですね~。
写真は絹笠山山頂から雲仙温泉街方向を眺めています。
下に見える赤い屋根の建物群が、雲仙温泉街です。
左の周囲より少し高い山が雲仙岳の中心、妙見岳と国見岳、ちょっとだけ平成新山も見えています。
夏休みジオツアー「絹笠山登山会~雲仙温泉街と橘湾の地形~」は、8月22日(月)ジオパークの日に実施します。
講師は、長崎県教育センターの寺井先生。
予約は、2週間前の8月8日(月)9:00~ 電話での受付開始です。
今から寺井先生のどんな話が聞けるのか楽しみです。
本日、夏休みジオツアーの「絹笠山登山会」の下見に登ってきました。
かれこれ6~7年ぶりの絹笠山です。
天気も良いし、いや~最高ですね~。
写真は絹笠山山頂から雲仙温泉街方向を眺めています。
下に見える赤い屋根の建物群が、雲仙温泉街です。
左の周囲より少し高い山が雲仙岳の中心、妙見岳と国見岳、ちょっとだけ平成新山も見えています。
夏休みジオツアー「絹笠山登山会~雲仙温泉街と橘湾の地形~」は、8月22日(月)ジオパークの日に実施します。
講師は、長崎県教育センターの寺井先生。
予約は、2週間前の8月8日(月)9:00~ 電話での受付開始です。
今から寺井先生のどんな話が聞けるのか楽しみです。
吾妻町の守山城址に寄った後、県道58号線を車で走っていた。
ある場所を探していたのだが結局見つからず、代わって表紙写真の解説板を見つけた。
「西原(にしばる)遺跡」とな?
どー見ても野っ原だが。
「東西500m、南北500m、標高250~300mのなだらかな斜面に広がる縄文時代の生活遺跡です。
当遺跡では第二次世界大戦後の開拓時に縄文時代早期(約7000年前)から縄文時代晩期(約2500年前)の土器や石器が多量に採集されている。
近接する東原遺跡や桑田遺跡、百花台遺跡(国見町)と、立地条件や出土土器の時期など共通点が多く、各遺跡には交流関係があったと考えられる。
瑞穂町教育委員会」
縄文時代、島原半島が栄えていたことが伺えます。
ある場所を探していたのだが結局見つからず、代わって表紙写真の解説板を見つけた。
「西原(にしばる)遺跡」とな?
どー見ても野っ原だが。
「東西500m、南北500m、標高250~300mのなだらかな斜面に広がる縄文時代の生活遺跡です。
当遺跡では第二次世界大戦後の開拓時に縄文時代早期(約7000年前)から縄文時代晩期(約2500年前)の土器や石器が多量に採集されている。
近接する東原遺跡や桑田遺跡、百花台遺跡(国見町)と、立地条件や出土土器の時期など共通点が多く、各遺跡には交流関係があったと考えられる。
瑞穂町教育委員会」
縄文時代、島原半島が栄えていたことが伺えます。
先程、気象庁から九州北部地方が梅雨明けしたとみられると発表がありました。
あれ?今朝の天気予報では明日から月曜にかけて雨マークがついていたのに?
・・・曇りに変わってやがる。
あくまで『みられる』ですので、今後改訂されることもありますが、一応梅雨明けです。
さて、昨日園内でテレビの撮影が行われました。
有名アーティストの方が、垂木台地の空の下で歌声を響かせてくれました。
写真はロケ前の準備中の様子です(この中にアーティストの方は写っていません)。
島原市内施設の他のブログなどではもう紹介している所もありますが、詳しくは7月31日(日)NIB(長崎国際テレビ)15:00~をご覧ください。
撮影中、残念ながらお山は姿を現してくれませんでした。
あれ?今朝の天気予報では明日から月曜にかけて雨マークがついていたのに?
・・・曇りに変わってやがる。
あくまで『みられる』ですので、今後改訂されることもありますが、一応梅雨明けです。
さて、昨日園内でテレビの撮影が行われました。
有名アーティストの方が、垂木台地の空の下で歌声を響かせてくれました。
写真はロケ前の準備中の様子です(この中にアーティストの方は写っていません)。
島原市内施設の他のブログなどではもう紹介している所もありますが、詳しくは7月31日(日)NIB(長崎国際テレビ)15:00~をご覧ください。
撮影中、残念ながらお山は姿を現してくれませんでした。
愛野町のお隣、雲仙市吾妻町にある「守山城址」にやってきました。
「守山城は、室町時代初期ごろ(1400年ごろ)在地の土豪守山氏によって築城され、代々その居城でした。
守山氏は早くから肥前の雄・有馬氏の外城を守る重心として活躍し、戦功をたてていますが、諌早の西郷氏や神代氏と行動を共にすることも多く、有馬氏に反旗を翻すこともありました。
特に佐賀の龍造寺が勢力を拡大し、島原半島に侵攻するや神代氏等と共に龍造寺の軍門に下りました。
沖田畷の戦いにおいて、龍造寺が島津・有馬の連合軍に敗れてから暫くの間、守山城は島津軍に接収されその前進基地として島津の猛将たちが加番しました。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐によって再び守山氏の居城となりましたが、天正十七年ごろ神代氏とともに有馬軍の謀略により夜襲をうけ、この城で一族郎党ともに全滅し、廃城となりました。
記録によると『守山氏は讒(ざん)にあって誅殺され、留守を守る土黒(とぐろ)等、城に籠り屠腹(とふく)して果てる』とあります。」(「と共に」が多いな。)
また、守山城は「切り通しの古城」とも呼ばれ、高地の中央を掘り起こして本丸と二の丸を吊り橋で結んでおり、庄の台地には出城として向城があったそうです。
現在は、守山城址公園として本丸部分が公園化されています。(公園の写真を撮ってくるのを忘れた!)