天草の青年の家の近くには「千巌山(せんがんざん)」という名前の岩山があります。
山そのものの写真は撮り忘れてきたのですが、山頂からの景色は撮影してきました。
残念ながら曇りの天気で遠くまでの眺望はききませんでしたが、ご覧ください。
「寛永14年(1637年)、島原の乱の総大将 天草四郎時貞が信徒の将兵を集め、島原出陣の祝酒を手杓子で酌み交わしたことから手杓子山と呼ばれていましたが、その後この山に奇岩が多いことから千巌山と命名されました。
昭和10年6月に国の文化財“名勝”に指定され、昭和31年には国立公園に指定されています。
標高162mの山頂からは、青い海に浮かぶ天草松島の島々や天草五橋を一望できます。」
西に有明海と雲仙

北に大矢野島や三角港

東に不知火海を隔てて八代平野を望むことが出来ます。(東の写真はなし)

真ん中よりちょっと右上に今回お世話になった「天草青年の家」が映っています。
山そのものの写真は撮り忘れてきたのですが、山頂からの景色は撮影してきました。
残念ながら曇りの天気で遠くまでの眺望はききませんでしたが、ご覧ください。
「寛永14年(1637年)、島原の乱の総大将 天草四郎時貞が信徒の将兵を集め、島原出陣の祝酒を手杓子で酌み交わしたことから手杓子山と呼ばれていましたが、その後この山に奇岩が多いことから千巌山と命名されました。
昭和10年6月に国の文化財“名勝”に指定され、昭和31年には国立公園に指定されています。
標高162mの山頂からは、青い海に浮かぶ天草松島の島々や天草五橋を一望できます。」
西に有明海と雲仙

北に大矢野島や三角港

東に不知火海を隔てて八代平野を望むことが出来ます。(東の写真はなし)

真ん中よりちょっと右上に今回お世話になった「天草青年の家」が映っています。

帰って参りました~。
クイズの正解は、上天草市にある熊本県立天草青年の家でした。
ここからだと対岸の島原半島が良く見えるハズなのですが、あいにく3日間ともずっと曇り空で、唯一2日目の朝に雲と雲の隙間に雲仙岳が垣間見えました。
天気が良ければこのように見える予定でした。

講習を受けに行ったのですが、普段働いている場所が向かいに見えている状況に、「遠くまで来たハズなのに、何故か普段と変わらない気がする。」変な感覚にとらわれていました。
実際、2時間ちょっと(3時少し前に講習が終わって、5時半くらい)で雲仙まで帰り着きました。
内容は新鮮で、自然を見る目に新しい眼鏡を手に入れた気分ですが、磨かなければレンズは曇っちゃうんだよな~。
クイズの正解は、上天草市にある熊本県立天草青年の家でした。
ここからだと対岸の島原半島が良く見えるハズなのですが、あいにく3日間ともずっと曇り空で、唯一2日目の朝に雲と雲の隙間に雲仙岳が垣間見えました。
天気が良ければこのように見える予定でした。

講習を受けに行ったのですが、普段働いている場所が向かいに見えている状況に、「遠くまで来たハズなのに、何故か普段と変わらない気がする。」変な感覚にとらわれていました。
実際、2時間ちょっと(3時少し前に講習が終わって、5時半くらい)で雲仙まで帰り着きました。
内容は新鮮で、自然を見る目に新しい眼鏡を手に入れた気分ですが、磨かなければレンズは曇っちゃうんだよな~。

以前から「何だろう?」と気になっていました。
県道58号線を千本木から国見町の百花台方面に向かって車を走らせていると、少し広い広場の向こうに解説板らしき白い立て看板が見えます。
近くに車を停められるスペースもないし、その広場のあちこちに「立入り禁止」の看板が立っているので、今まで確認しに行けませんでした。
今回心の中で「失礼します。」と断りを入れてから近づき、やっと正体が分かりました。

島原市指定の有形文化財「礫石原環状石組遺構」です。
(「くれいしばるかんじょういしぐみいこう」と読みます。)
礫石原は、三会(みえ)扇状台地の最西部にあたり標高270mに及ぶゆるい傾斜台地です。
この地一帯は、藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維新ごろは禄(ろく;今で言う給料のこと)を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後まもなく、未墾地約70ヘクタールが開拓地に指定され、昭和21年(1946年)入植が始まりました。
開拓が始まるとともに各所で多量の遺物が出土し、縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。
その後、昭和35,36年にわたり日本考古学会西南九州総合調査委員会、昭和52年には百人委員会により調査が行われ、出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目されています。
この石組み遺構は、当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ、付近からは合わせ口甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されています。
埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺跡です。
県道58号線を千本木から国見町の百花台方面に向かって車を走らせていると、少し広い広場の向こうに解説板らしき白い立て看板が見えます。
近くに車を停められるスペースもないし、その広場のあちこちに「立入り禁止」の看板が立っているので、今まで確認しに行けませんでした。
今回心の中で「失礼します。」と断りを入れてから近づき、やっと正体が分かりました。

島原市指定の有形文化財「礫石原環状石組遺構」です。
(「くれいしばるかんじょういしぐみいこう」と読みます。)
礫石原は、三会(みえ)扇状台地の最西部にあたり標高270mに及ぶゆるい傾斜台地です。
この地一帯は、藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維新ごろは禄(ろく;今で言う給料のこと)を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後まもなく、未墾地約70ヘクタールが開拓地に指定され、昭和21年(1946年)入植が始まりました。
開拓が始まるとともに各所で多量の遺物が出土し、縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。
その後、昭和35,36年にわたり日本考古学会西南九州総合調査委員会、昭和52年には百人委員会により調査が行われ、出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目されています。
この石組み遺構は、当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ、付近からは合わせ口甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されています。
埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺跡です。

巨樹・巨木観察会では残念ながら雨のため、バスを降りて観察ができなかった場所です。
一見ヒノキの林が広がっており、この中に巨樹・巨木があるのかと疑ってしまいます。

そんなヒノキ林の中に忽然と、タブノキの巨樹が存在します。
この辺り一帯は、ヒノキ林の前はタブノキの照葉樹林がつづく場所だったことから、地元の人たちは「タブわら」や「タブヤマ」と呼んでいます。
藩政時代は佐賀鍋島家の山林として長年にわたり管理されてきました。(※国見町周辺は、佐賀藩の飛び地でした。)
長崎県下最大のこのタブノキは、上部が枯死状態で太い幹には空洞ができ痛々しい姿ながら、強い生命力で全体にたくさんの葉をつけ、しっかりと大地に踏ん張っています。
少し視線を下にむけ下草を見て見ると、ハゼやアオキなどに混じって小さなタブノキの幼木が育っていました。
おそらく数十年後、数百年後にはヒノキに代わって、タブノキの照葉樹林が復活するのではないかと思いました。
人が植えた自然よりも、本物の自然の方が力強いってことですね。
一見ヒノキの林が広がっており、この中に巨樹・巨木があるのかと疑ってしまいます。

そんなヒノキ林の中に忽然と、タブノキの巨樹が存在します。
この辺り一帯は、ヒノキ林の前はタブノキの照葉樹林がつづく場所だったことから、地元の人たちは「タブわら」や「タブヤマ」と呼んでいます。
藩政時代は佐賀鍋島家の山林として長年にわたり管理されてきました。(※国見町周辺は、佐賀藩の飛び地でした。)
長崎県下最大のこのタブノキは、上部が枯死状態で太い幹には空洞ができ痛々しい姿ながら、強い生命力で全体にたくさんの葉をつけ、しっかりと大地に踏ん張っています。
少し視線を下にむけ下草を見て見ると、ハゼやアオキなどに混じって小さなタブノキの幼木が育っていました。
おそらく数十年後、数百年後にはヒノキに代わって、タブノキの照葉樹林が復活するのではないかと思いました。
人が植えた自然よりも、本物の自然の方が力強いってことですね。

観察会の時に面白い植物を教えてもらいました。
それは写真の「タラヨウ」です。
先日アップした「役小角の石像」の近くにあります。
タラヨウは、暖地の山地に生えるモチノキ科の常緑高木です。
庭木として植えられますが、特に寺院などに多いです。
この木の何が面白いかと言いますと、「葉に枝などで字や絵を書くと、そのあとがすぐに黒くなる」のです。
実験してみました。
手持ちに良いものがなかったので、シャープペンを使いましたが、芯が出ていないことを確認して下さい。

これをインドで古くから経文を書くのに利用された貝多羅樹(ばいたらじゅ)というヤシ科の植物になぞらえて、多羅葉(たらよう)の名前がついたと言われています。
(このことから寺院に多いのかも知れませんね。)
ちなみに、

ハガキの由来はこの木であり、郵便局の木に指定されています。
それは写真の「タラヨウ」です。
先日アップした「役小角の石像」の近くにあります。
タラヨウは、暖地の山地に生えるモチノキ科の常緑高木です。
庭木として植えられますが、特に寺院などに多いです。
この木の何が面白いかと言いますと、「葉に枝などで字や絵を書くと、そのあとがすぐに黒くなる」のです。
実験してみました。
手持ちに良いものがなかったので、シャープペンを使いましたが、芯が出ていないことを確認して下さい。

これをインドで古くから経文を書くのに利用された貝多羅樹(ばいたらじゅ)というヤシ科の植物になぞらえて、多羅葉(たらよう)の名前がついたと言われています。
(このことから寺院に多いのかも知れませんね。)
ちなみに、

ハガキの由来はこの木であり、郵便局の木に指定されています。
