島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

おしい!

2017-01-16 09:41:51 | Weblog
昨日からマイナス気温が続いているので、ひょっとしてと思い、朝から白雲の池の様子見に行きました。
池面は凍結しているのですが、2割凍らずに残っていました。
完全結氷ならず、おしい!

アヒルが泳いでいる辺りが凍結していません。
アヒル以外にカイツブリが1羽入っていました。
白雲の池はそんなに大きくないので、冬鳥が入るのは珍しいです。

朝から妙見岳には雲がかかっており、山は見えませんでしたが、徐々に雲が取れてきました。
妙見岳に白いものは見えず、霧氷は着いていないもよう。
国見岳に白いものが見えますが、おそらく前日からの残雪でしょう。
昨日は多くの登山客が登っていたみたいなので、登山道は圧雪されていると思います。
これから国見岳・普賢岳に登山される方は、くれぐれも足元にご注意下さい。
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熊本ドライブ⑥佐俣の湯

2017-01-15 13:10:40 | 観光・施設
霊台橋から車で走ること約15分、道の駅「美里(みさと)佐俣の湯(さまたのゆ)」に着きました。
名前に“湯”の文字が入っていることから分かるように、敷地内に源泉掛け流しの天然温泉施設があります。

上の写真は、敷地内の足湯。
他に、地元農家が生産した農産加工品を販売する物産館や地元食材を使ったレストラン、宿泊施設もあります。
一応、物産館を見ましたが、前日にお土産を買ったばかりだったので、特に必要とするものはありませんでした。

立派な銅像があるが、誰だろう?
傍らに石碑がある、「登仙 堅志田城主 西金吾之像」?
ああ、「登仙」はタイトルか。
もう一つ解説板がある。
「堅志田城(かたしだじょう)
 堅志田城は、美里町中郷(なかごう)に所在する山城と麓集落がセットになった典型的な中世の城郭です。別名を勢田尾(せだお)城などともいい、平成18年に国指定史跡に認定されました。
 遺跡は深い谷に囲まれた山の尾根に、削平された大小の平場(郭)を、堀切・土塁・畝掘(うねぼう)などで防備し、柵列・家屋・門などの柱穴跡も確認されています。また、城下の谷の栫(かこい)集落やその周辺には、大手・蔵前・倉御殿・味噌御殿・舞ノ御殿などの地名が残り、日常生活と防衛を兼ねた空間が想像できます。
 堅志田城は、中世阿蘇大宮司勢力圏が八代の相良氏、宇土の名和氏の領界と近接する地にあり、16世紀後半の肥後南部における戦国時代の歴史に、その名がしばしば登場する城です。」
しかし、よーく地図を見ると、道の駅がある場所から南西方向の少し離れた場所らしい。
そして、像の人物は?
「西金吾(にしきんご)
 堅志田城の城主です。本名は(本名じゃなかったの!?)西左衛門尉惟安(にしさえもんのじょうこれやす)と伝えられていますが、衛門の唐の官職名である金吾の名で後世まで知られた人物です。西氏は中世阿蘇氏の奉行人を出した家柄で、16世紀後期(天文後期から永禄頃)の城主と見られます。
 古老の伝承(『拾集昔語(じっしゅうせきご)』)では、彼には並外れた力があり、大石を持ち上げ、大木をおさえ、大寺の柱をゆすり、あるいは飛行の術をつかい、山伏姿で従者を連れ、ひと飛びで諸国に出掛けたという異色の城主です。
 また、城下の栫集落の梅林神社には、西金吾自作の金吾木像が納められていましたが、焼失したため、この姿を覚えていた地元の仏師が、慶長六年(1601年)に再刻した木像が現在も納められています。」
いや、逸話が役行者じゃないですか!?
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霧氷2016-3

2017-01-15 12:32:48 | 雲仙
今季最強寒波に襲われている日本列島ですが、ここ雲仙にも冬の寒さが押し寄せています。
昨日は一日凍結通行止めだった仁田峠循環道路ですが、今日は午前9時半から通行止め解除になったので、急いで霧氷の撮影に行ってきました。
※仁田峠循環道路の日陰には一部雪が残っていますので、皆様はくれぐれも安全運転でお願いします。w

日曜日ということもあり、仁田峠に登って来られる方や、これから普賢岳登山を楽しもうという、たくさんのお客様で賑わっていました。
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熊本ドライブ⑤霊台橋

2017-01-14 13:13:46 | 歴史・史跡
ドライブなので、目的地間の画像はすっ飛びます。
これが公共交通機関を使った移動との違いですね。
通潤橋から国道218号線を西進しまして、「霊台橋」に着きました。
(・・・?「れいだいきょう」も一括入力できない?PCの不具合か?)

早速渡ってみます。

橋の上からの眺め。
奥にちらっと写っていますが、崩落した斜面がそのままです。
(熊本地震か6月の大雨の影響でしょう。)

振り返って全景を撮影。
「霊台橋は、明治までに完成した石造単一アーチ橋としては、日本一の大きさを誇ります。
 緑川水系の中でも難関中の難関といわれた船津峡に架かっています。それまでに架けられた木橋は幾度となく流され、人々は難渋していました。
 永代不朽の橋は、地元の人々の悲願でした。1847年(江戸時代末期)に当時の惣庄屋 篠原善兵衛のもと、種山石工の卯助兄弟、大工の棟梁の伴七、さらには近在住民の総力(のべ4万人超)も加わって、約7ヶ月間という短期間で完成したといわれています。
 橋の全長約90m、アーチのスパン27.5m。
 明治33年、平坦になるようにかさ上げが行われました。昭和41年に上流の鉄橋が架けられるまでは、この石橋の上をバスやトラックも走っており、人や物資、文化も渡していました。
 昭和42年6月15日、国の重要文化財に指定され、昭和55年架橋当時の形に復元工事が行われました。」

霊台橋から上流の鉄橋を撮影。
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熊本ドライブ④通潤橋

2017-01-14 10:52:01 | 観光・施設
連休と駐車場勤務が続いたため更新できませんでした、すみません。m(_ _)m
さて、時間を巻き戻しまして研修および観光の最終日です。
この日は少しゆっくりしながらも、朝食後にはすぐに熊本に向けて走り始めました。
なにせ走ったことのないルートなので、時間がどれほどかかるのか見当もつきません。
立ち寄りたい箇所もまだ数カ所残っているので、それを加味しても夕方までには熊本新港に着かなければ。
と、どんどん進んだ結果、開店前の道の駅に到着してしまいました。

ここは「道の駅 通潤橋」です。
誰もいない、早過ぎた・・・。w
そして、肝心の『通潤橋』はこちら!

熊本地震の影響で、現在立ち入り禁止になっています。
「通潤橋は、我が国で最大規模の石造アーチ水路橋であり、昭和35年2月に国の重要文化財に指定された他、平成26年9月に国際かんがい排水委員会により初代の“かんがい施設遺産”として登録された。」(解説板より一部抜粋)
ご存知の方も多いと思いますが、通潤橋は人を渡すだけでなく、橋の上に石造パイプを3列ならべて通水管として水を運びます。
そして、土日祝日を中心に決まった日の午後1時に放水を見ることが出来ますが、現在は中止しています。
朝早かったにも関わらず、工事関係の方が数名作業を始めていました。
今回は見学どころか近づく事さえ出来ませんでしたが、できるだけ早い復旧・復興を心より祈念致します。

道の駅の敷地内にあったオブジェ。
比較対象物が近くにないので、分かりづらいかも知れませんが、かなり大きいです。
それが近くでよく見ると、材料は“藁(わら)”なのか?を撚り編んで作っているようです。
今回はこれらが見れただけでも満足です。
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神話の里⑮道の駅 高千穂

2017-01-10 12:57:53 | 観光・施設
国見ヶ丘から下ってきました。
再び高千穂町内です。
この日の最後に立ち寄ったのが「道の駅 高千穂」です。(表紙写真)
「道の駅 高千穂は、神話と伝説のまち『高千穂』の中心に位置し、神都高千穂大橋や高千穂峡が一望できる大自然の素晴らしいロケーションの中でゆったりとおくつろぎ下さい。」
神楽にまつわる大きなモニュメントも見えています。
最後に立ち寄ったのはお土産を買うためと、この日の夕食をすませるためでした。
敷地内には観光案内所もあり、ふと気になっていた事を尋ねるために立ち寄りました。
Q,昼間、高千穂峡を歩いてまわったのですが、あちこち通行止めになっていたのは熊本地震の影響ですか?
A,いいえ、6月の大雨で崩れた所が多いです。
との答えでしたが、私的にはやはり大雨で崩れる原因になったのは熊本地震だと思います。
地震で緩んだ地盤が大雨で崩れたのではないかな・・・と考えます。

道の駅内にあった「アメノウズメノミコト」の像。
高千穂神社の前にあったものとは随分違います。
あちらは夜神楽モチーフだったのだな。
結局この日も夜神楽見学には出掛けず、明日に備えて早々に休みました。
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神話の里14.5天孫降臨

2017-01-09 12:48:24 | 民話・伝承
国見ヶ丘の中央には小高い丘があります。
丘の上には大きな像が設置されているのが見えます。(表紙写真)
丘の周囲を一周できる歩道が整備されていますが、中央の丘にも登る事は出来ます。

像の足元にも文章が記されているのですが、ちょっと読み取り難かったので、別の場所にあった他の解説板を記します。
「遠い神代の昔、この地上界があまりにも乱れていましたので高天原のアマテラスオオミカミは大変ご心配になりました。そこでアマテラスオオミカミは孫にあたるニニギノミコトに地上界へ降りて国を治めるように命じました。
 多くの神々を従え、高天原を出発したニニギノミコトは日向の高千穂の二上峯(ふたがみのたけ)に到着されました。しかし、霧が深く夜や昼の区別もつかず、道も分からず、物の色もよく分かりません。
 その時、この地に住むオオクワ・オクワ(漢字が分かりません)という二人が現れて『ミコトが手に持たれている稲千穂を籾(もみ)にして、あたり一面にまかれるとこの霧は必ず晴れるでしょう』と進言しました。
 ミコトがその通りにすると、霧が晴れ地上界に無事おりることが出来ました。それでこの地は智鋪(ちほ・高千穂)といわれるようになりました。
 この神話は日向風土記に書かれていた物語です。風土記は七一三年、元明天皇の命により、諸国の国司(現在の県知事)が産物、地名の由来、伝承等を書いて提出した地誌です。日向風土記は現在残っていませんが、万葉集注釈(一二六九年)釈日本紀(一二七四年)という書物に引用されており、これを風土記逸文と呼んでいます。
 尚、古事記(七一二年)には天孫降臨の神山として高千穂のクシフルタケ、日本書紀(七二〇年)には襲(そ)のタカチホノタケ、クシフルノタケ、フタガミノタケ、セフリヤマタケ(祖母山)が記されています。」高千穂町
丘を降りてぐるりと一周してみます。

「正面向こうに見える山並みは阿蘇山です。
 お釈迦様が横たわった姿に似ていることから、別名『阿蘇の涅槃像』と呼ばれています。
 右が顔で根子岳、体が高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳と続き、阿蘇五岳と呼ばれています。
 ここ国見ヶ丘は、涅槃像、雲海とともに神々しい山々が見渡せる絶好の展望ポイントとなっています。」
ああ〜なるほど、仰向けに寝ているように見える。
と、その時!
背後に人影を感じ、さっと振り向くと!!

なんだ、さっきの像じゃないか・・・。w
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神話の里⑭国見ヶ丘

2017-01-08 10:22:02 | 観光・施設
太鼓番の墓伝承地とは反対側にある「国見ヶ丘」の展望所へ向います。

「神武天皇の御孫・タテイワタツノミコトは、九州統治のために働きます。その九州平定を前に高い丘から国見し、決意を新たにしたと言われています。」
写真にも写っていますが、標高は513m。
なんだ垂木台地よりも低いじゃん。

景色を色々と撮影してきたのですが、すみません、どこをどう撮影したのか記憶にありません。
本来なら方角と、何を撮影してきたのか記載するところですが、私にもよく分かっていません。
多分、上の写真は阿蘇方向、一番奥に写っているのが阿蘇の山々(高岳と根子岳かな?)。
高千穂から阿蘇方向というと、北西か。

そこから右へパン(カメラを振る)しています。
橋などは阿蘇から高千穂へ来る途中に渡ったと思います。

で、多分こっちは高千穂峡の方向かな?
画面真ん中の谷筋を奥に進むと高千穂峡があった筈。

さらに右にパンした所かな?
方角で言うと、南西方向?
すみません、最後の一枚だけどうしても方向が分かりません。w
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神話の里⑬太鼓番の墓伝承地

2017-01-07 13:18:13 | 歴史・史跡
高千穂に戻ってきましたが、宿に帰るにはちょっと早い時間帯でした。
そこで急遽「国見ヶ丘」に登ってきましたが、途中の移動が全部車だったので写真に唐突感が出ています。
表紙の写真は、駐車場から歩いて登って来た「中畑神社遥拝宮」です。
少し離れた場所に「中畑神社」があったようなのですが、立ち寄りませんでした。
写真の場所から、ふと後ろを振り返ると、

まだ上に行ける階段が。
「なんとかと煙は高い所が好き」と言いますので、私も勿論高い所は好きです。(ただし足元が確かな場所に限る。)
階段を登ると『「太鼓番の墓」伝承地』の看板と展望台がありました。

看板を読みはしましたが、はて何の事やら?
と、思いながら展望台を登っていると、

ああ〜、あれのことか。
『「太鼓番の墓」伝承地
「国見ヶ丘」のある大字押方(おしかた)の字名は、「地蔵原(じぞうばる)」と呼ばれていますが、その南側のこの辺りは、地元の伝承では「太鼓原(たいこばる)」と呼ばれています。
 現在の西臼杵郡(高千穂町・五ヶ瀬町・日之影町)に諸塚村を加えた旧西臼杵郡内には「高千穂四十八塁」と呼ばれる中世の山城が見晴らしの良い場所に残っています。
 中世の山城は、近世の城のような石垣や天守閣はありませんが、山を人工的に造成して、掘りを掘ったり土塁を築いたりして守っていました。当時の情報伝達の方法としては、“狼煙”や“太鼓”などが使われていました。
 高千穂町内には「太鼓原(たいこばる)」とか「太鼓番」といった地名が残っており、中世の山城ネットワークの重要な場所でした。
 ここ大字押方の太鼓原には「太鼓番の墓」と呼ばれる石造物が残っており、現在も地元でおまつりしてあります。』
それでは最後に展望台からの眺めをご覧下さい。



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熊本ドライブ③そよ風パーク

2017-01-07 10:01:39 | 観光・施設
国道218号線を熊本に向けて走っていましたが、清和文楽邑で一旦引き返します。
途中で左折して国道265号線を北上して向ったのが「道の駅 そよ風パーク」(表紙写真)です。
『泊まれる道の駅』が売り文句らしい。
私が入ったのは入口の物産館だけだったが、広大な敷地の奥には宿泊施設や入浴施設、スポーツなどを行える広場がある。
「九州のほぼ中央に位置し、国道265号と218号の接地点として交通の要衝であり、熊本市から延岡へ、阿蘇から宮崎へとまさに九州の縦軸と横軸の中心で、九州のあらゆる場所から立ち寄ることが出来る。」
清和文楽邑では、思ったようなお土産を見つけられなかったので、数品のお土産を買いました。
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