「ダイセンジガケダラナヨサ」。
若い日のおまじない。ぼくらの周りで流行ったのはごく一部かも知れない。カッコつけてこう唱えたものだ。意味は、なんでもない。逆から読めば…、
さよならだけがじんせいだ
と、なる。
出典は、于武陵という人が作った、「勧酒」。唐の時代、五言絶句の唐詩だ。
作家の井伏鱒二の名訳が以下だ。
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
無常ということの覚悟。母親の死に接したとき、切なさを振り切ろうと呪文のように胸で唱えた。
ダイセンジガケダラナヨサ
が、哀しみが薄れる訳などないと、確信しただけだった。
訳などあろうはずがない。馬鹿になって、馬鹿のように、そうした。
以来、長い間。この呪いは封印されていた。
ぼくには、「南平」姓をもつ大切な人が二人いる。
一人は。高校の先輩、地学教諭にして、作曲家の南平秀生氏。「伊勢志摩おもしろワールド」の主宰である。
もう一人が、近鉄駅員から家業の大工を継いだ、建築業の「南平康義」くん
6月のはじめ、高校1年のクラスメートだった、大忠食品株式会社 社長西村修一君からメールが届いた。
大変ご無沙汰しております。南平康義君の葬儀に6月5日(金)お参りしてきました。ご冥福をお祈りします。あまりに急なことでどこまで案内して良いものか悩みました。葬儀が終わりましたのでご案内させていただきました。
業務多忙な西村氏、簡潔な文章ながら、適切だ。
仕事にならない。
走馬灯のように思い出が駆け巡る。
一年に一度、突然、教室に現れ、授業中でもお構いなし、背中を向け、一人遊びのように、タイプ・レッスンをしていたものだ。
パソコンちゃ大工の修業と一緒やのぉ、頭で覚えるもんじゃなく腕に覚え込ませるもんやぞ
おっしゃる通りで、「お前はわかっとるなぁ」そのフレーズを戴いた。
美術部だったが、大工の倅だからと、ぼくの所属する演劇部に舞台監督として引っ張り、県の演劇コンクールに入賞をもたらせてくれた。それ以来、方々の部に呼ばれ(押しかけ?)、卒業アルバム、複数のページに「南平」が登場している。
ぼくが家業の化粧品屋を継ぐと決意したとき、はなむけに手作りのポスターを贈ってくれた。男性化粧品の瓶の陰影・光沢など、写実的で、見事なまで印象的だった。
母親の介護をしなければ…、と教室を訪ねてくれたのが、2012年正月明けのこと。ぼくのだらしなく伸びっぱなしの無精髭を、前に来たとき見て感じたのか、彼も髭を蓄え、しかもきれいにトリミングしていた。ぼくに諭すためにか、何かにつけ、彼は(ぼくを教えるために)よくこうしたものだ。シャイだったし、口が上手な方じゃなかったから、「手本にしろ」と口に出さずに教えようとした。それが彼のスタイルだった。寡黙だが、アイビーについてはうるさかった。
高校生から、メンズクラブを愛読し、就職を決めたのも、トラッドなファッションを購うためだったのかも知れない。
つらつら書いているのは、彼への決着を求めているのかも知れない。
7月の最終週、燕が巣立って行った。残骸を後始末もせず。
燕は来年も来るだろうけど、旧友は帰らない。
さよならだけがじんせいだ
ぼくの未練であり(逝くなよ)、後悔であり(もっと逢っておくべきだった)、すべてぼくの側の責任だ。なのに、繰り言を並べる。
お盆が近づき、ぼくのなかで呪文が復活している。
ダイセンジガケダラナヨサ
花に嵐の譬えもあるぞ さよならだけが人生だ。
後日、西村君から、「アルバムの整理していたら、こんなものが出てきた」と、メールに画像を添付して送ってもらった。高1の秋、伊勢道路を通り、大王崎の灯台まで仲間たちとサイクリングした時の一葉だ。ぼくが初めてドロップハンドルの自転車をゲットした時の記念だった。その頃、既に西村君は名古屋辺りまで自転車で往復してたようだ。伊勢道路が出来たての、交通量も少なくて、ピカピカしていた頃、通行料は有料で、自転車は10円(?)だったかな。
私も、先月とてもお世話になった伯父が長患いの後、他界しました。調度再就職が決まったところだったので(通夜前日に御顔は見に行けましたが)通夜、葬儀に参列することが出来ず、ちゃんとお別れできなかったのが残念です。
ハンマックで昼寝のネコちゃん、表情が可愛すぎます。画風が”らしく"なって確立してきましたね。色彩が綺麗で和みます。
さ~すがです。
職場慣れましたか? 緊張するでしょうがその空気も楽しんでください。
極暑、くれぐれもご自愛ください。