hyperclub

パソコン教室アイラブハイパークラブです。
教室に流れるBGMなどを紹介します。

死ぬより怖いこと

2005-06-30 23:55:00 | 音楽
「やがて地球滅亡の日がやって参ります…」

 今は亡き桂枝雀師匠が小米時代に噺の枕に使ったことを思い出す。独特の間合いで、ぽつんとさりげなく、しかも唐突に振られると、戸惑いつつも、結局は笑わされてしまったものだ。

 終末論はいつの時代にもある。ノストラダムスの予言が囁かれている頃の旧オウムの騒動は記憶に新しい。予言を利用したのか、そうだとしたら、それに乗っかり真剣に怖れた人たちがいた訳だ。

 子どもの頃に少年雑誌で読んだのだが、大昔、ハレー彗星だったかが地球に最接近し、地球上の空気をすっかり奪い取ってしまうというデマで日本中が大パニックに陥ったことがあるらしい。真空状態から我が身を長らえさせるために、大金持ちは競って空気でパンパンに膨れ上がったタイヤを買い求め狂奔したという。今なら笑い話にもならないが、当時のひとは真剣だった。

「もしそうなったら…」
子どものぼくは不安にかられ祖母に訪ねた。祖母は一笑に付した。
「みんな死ぬのやろ? 自分ひとりだけ生き残ってどうする。その方が怖いやんか」
 死ぬより怖いことがあるのか。

 スマトラ沖地震による大津波は決してよそごとではない。東海南海大震災に備えるひとは多いし、心配すればするほど不安のネタは数多い。映画のタイトルではないが、
「俺たちに明日はない」
のなら、
「俺たちには今日がある」
はずだ。

 言い残すことがあるのなら今のうちに言っておきたいし、し残していることがあれば今日から片付けておきたい。不安にかられるより不安を克服することに心を砕きたいものだ。

 子らが訊く。
「いまわのきわ(今際の際)に何ていうのやろ、父は…?」
何という会話だ。ぼくは答える。
「畳の上で死にたい…」
か、これはアメリカ合衆国、テネシー州はナッシュビルで迎えるその時の言葉だろう。
「ありがとう…」
せめてこう言えたらよいと願うのだが。

 滅亡の日が来るとしたら、取り急ぎぼくがすべきは謝罪と御礼と和解だろう。そうすれば先ほどの質問に子どもたちにこう答えることができるはずだ。
「来世のことを考えとるんで、今はそんな暇はないなぁ」

 オークションで、Worship & Faithをゲットした。ガース・ブルックに続くカントリー・ミュージック界の大御所だ。スティーブン・セガールの「沈黙の断崖」であっさり殺される殺し屋役で出てきてびっくりしたが、映画俳優の顔も持つカントリー界を代表する大スターだ。このDVDはタイトルどおり敬虔と信仰といった、いわゆる宗教的(キリスト教)な音楽の集成だが、日本人にも染み透る分かりやすさがある。末世を案ずるより、しばらくは自分の内面と語り合うことにする。


推敲をすべきだ、とは思う

2005-06-29 23:59:00 | 音楽
 そもそもブログを始めようと思ったきっかけは何だったか? パソコン教室である以上、日々あらゆる質問を受け付けている。メールはもとより電話だって少なくないし、いきなり駆け込んでくれる人もいる。ある意味、ネタの宝庫である。そのネタをひとり締めしてよかろうはずがない。よく似た事例で注意を促がす、もっと突っ込んで言えば、警鐘を鳴らすことでトラブルを未然に防げるのではないかと考えた。いわば教室と受講生間の、内々のコミュニケーションとしては最適のものではなかろか、だった。

 ただ想像もできなかったのは、不思議なことに訪問者のほとんどの皆さんが、Google、Yahoo、MSNサーチ、Niftyなどの検索エンジンを通して来られることだ。

 OCNのブログを利用しているが、このBlogzineでは有料オプションとはいえアクセス解析が可能になる。それも、

  • 累計アクセス数
  • 一日あたりの平均
  • この24時間
  • この1時間
  • 今週

と、細かいカウント表示をしてくれる。そればかりか、訪問者の「時刻」、訪れた「ページのタイトル」、それをどこから来てくれたのか「リンク元のURL」をリストにしてくれるのだ。

 さて、こうなると、教室関係者以外のアクセスが極めて多いことに嫌でも気づかされる。とても「内的な」で済まされない、怖さのようなものを感じ始めている。

 一日の締めくくりの時間に、ほんの20分ほど、サラーッと書き上げて…、の思惑が揺らぎそうだ。それでも、20分を制限とし続けるのは、もって生まれた厚かましさだろう。最近では、腰が定まり、あくまで生徒さんを第一にしている。何故なら、誤っていたり、適切でなかった場合、即座に
「ごめんなさい」
が言える密接な距離感を覚えるからだ。生徒の皆さんの優しさにまる投げしている観が否めないが、受け入れてもらっているという感覚は、ぼくにとって、とても大切なことのように思える。

 今日はこんなサイトを見つけた。60年代のオールデイズが聴けてしまうサイトだ。'60yearsPOPS CONCERT インターネットで聞ける懐かしの60年代ポップス(洋楽)は、ノスタルジーにひたれるばかりか、とっても得した気分になること、請け合いだ。

 今夜もご覧いただきありがとうございました。


Games People Play

2005-06-27 23:53:00 | 音楽
 mogeさんからコメントをもらっているのに気づいた。

ジョー・サウス貸してちょ
“Hush”と“Games People Play”だけは知ってるのだ~
でも、原曲はちゃんと聴いたことないんですよ。

 おそらくディープ・パープルの世代だろうか。件(くだん)の「ハッシュ」は、ディープ・パープルのデビュー・アルバム「ハッシュ」の収録曲、このアルバムからシングル・カットされて全米ヒット・チャートの第4位へランク・インした。ジョー・サウスが「孤独の影“Games People Play”」で最優秀楽曲部門のグラミー賞を受賞する直前のことだ。彼はリン・アンダーソンの大ヒット曲、「ローズ・ガーデン」の作者であり、多くのシンガーのために、これまたあまたの曲を提供する多才過ぎるぐらいな人だった。その才能の凄みはいわゆる才に溺れるという典型を踏襲する。哀しい言葉だが、「60年代の忘れられたシンガー」だ。

 そのmogeさんが教室に顔を出してくれた。あれやこれや話もできたはずなのに話題にも上らなかったのが不思議だ。当然、CDを貸すことなど思いもよらなかった。スマソ。

 教室にいると雑学博士になれるような気がする。今日のネタはこれにつきる。
女性はネックレスを外さずにお風呂に入る
だった。指輪は外すらしい。

 それがどうしたぁ、って? だって、想像してごらん? これってビジュアル化してみたら、萌えんかなぁ? えっ、ぼくだけ? すまぬ、ぼく固有のセクシャリティの問題なのだろう。想像から妄想へと隔たりが希薄になっている。明日こそ格調高く生きよう。


生まれたときは別々だが

2005-06-25 23:53:00 | 映画
 今夜は南勢町の田曽浦に行ってきた。この町には兄のような存在の人がいて、年に数えるほどだが訪問するのを楽しみにしている。漁師町独特のさっぱりした男気に接するたび心が洗われる。竹を割ったような気性と果てしのない優しさに満ちたまなざしに触れ、帰り道はいつも高倉健主演の「昭和残侠伝」を見終わった後のようなカタルシスを抱いている。

 思えば二人の結びつきも映画から始まった。パソコンの授業そっちのけで、「鉄道員」から黒沢明、フェリーニまで、それこそ古い昔の映画を語り合った。互いに忙しくて滅多に逢えないが、逢えば尽きない話で止め処がなくなってしまう。年齢も違い、生まれも育ちも異なっていても共感という通奏低音で結ばれる不思議な縁に感謝するばかりだ。

 田曽という町はイタリアのシチリアに似ていると思う。特に夕暮れ、夜に近い時間帯、ハーバーライトに浮かぶ佇まいは、ぼくには「ニューシネマパラダイス」を想起させる。港の灯りを、風を、匂いを感じるとき、懐かしい気持ちで優しくなれる。そんな町でどうして迷子になるのか、自分でも不思議なのだが、今夜も迷ってしまった。ぼくにとって幻想の世界なのかも知れない。

 昔、この町に一軒の銭湯があった頃、海水浴の帰りに入ったことがある。明かりとりの窓から筋を引いて昼の光が差し込む時間帯、男湯にぼくひとり、壁を隔てて若い女性がひとり。仕切りを越えて洗い桶のタイルに跳ねる音がカラーンと響いて、そのたび心がざわめいた。その女性が、今、家人として我が家にいる。


ジョー・サウス、孤独の影

2005-06-24 23:59:00 | 音楽
 「おっと、これは…?!」
H氏が思わず声を上げる。そうなのである、60'sが教室に流れている。
「マジョリー・ノエルやろ、『そよ風に乗って』やんかぁ…」
それを口火に、ぼくよりいくらか年長の氏の口から懐かしのアイドルの名が次々と挙がる。
「シルビー・バルタンやろ、フランス・ギャルやろ…」
「ウィルマ・ゴイクも外せんね」
と、ぼく。

 高一の大祐が怪訝な表情でぼくたちオヤジのやりとりを聞いている。思えば、ぼくが大祐の年齢でこの曲を聞いたのだ。大ちゃんにも新鮮に聞こえて欲しいし、感動もして欲しい。
「古い!!」
と切り捨て欲しくない。

 海外のPOPSでぼくはファルセットの魅力を知った。要するに裏声を使って歌うことだ。習得せんと頑張るぼくの艱難辛苦は如何ばかりだったか。不可能という言葉に気づかない馬鹿な情熱もあった。それでもJimmy Jonesの「素敵なタイミング」は今でもカラオケの18番だ。最近では末っ子がモノにしようと励んでいるようだ。頑張るべし、女の子にはインパクト強いぞ。
「なんちゅう親や!」
H氏はどこまでも固い。

 そういえば…。突然、ジョー・サウスの『孤独の影』を懐かしく思い出した。浪人中のことだったか、曲名が自分に重さなり印象に強かった。1969年のグラミー賞、Song of the Year に輝いている。ロックだろか、いや、やはりカントリーなのだろう、他にもお気に入りのあるはずなのに、何度も繰り返し聴き入っている。


メールサーバーから危ないメールを削除

2005-06-22 23:59:00 | 音楽
 そもそも…、と書き出しがあればハッピーエンドで終わるはずがない。顛末(てんまつ)と叙述されれば聞こえのよい話にはならない。で、今日はのっけの一言、
「ごめんなさい」。

 …で済めば警察は要らない。が、分かる人には分かる。温もりに包まれて救われた一日だった。

 何のことやら? いえ、森羅万象、見ている人は見えている。

 そもそも、50通以上のメールが3通目あたりで途切れてエラー表示が出る、なんてことがあるだろうか。昨日、それが起こった。

 教室のプロバイダーはOCNである。さっそくOCNのページから「Mail On Box」に飛び込む。メールアドレスとメールパスワードの入力が必要だ。受信メールサーバーに溜まったメールがずらっと並ぶ。

 問題の3通目のメール、件名なし、発信者のアドレスはいかにも胡散臭げだ。で、このメッセージにチェックを入れ、「このメッセージを削除」ボタンをクリックすれば、ことは簡単に終わるはず…。ところが、こんなメッセージが。
「エラー!! この機能を利用するにはOCNネットワークからアクセスしてください。」
「しまった! ADSLを平成電電に切り替えたのをそのままにしている」
つまり、電光石火に替えたということは、HEY-ISEYネットを経由する。OCNとはメールとブログのサービスだけを利用するだけなのだ。早い話、愛人(HEY-ISEYネット)宅から本妻(OCN)宅に通うようなもの、お手当てだって2重払いのままだ。どうだ、この喩え。甲斐性なしが初めて遭遇する事態だ。が、胸は張れない。

 こんなとき頼りになるのが、元N社社員のH氏だ。氏の宅のOCNのネットワークから削除してもらう旨、お願いする。
「らしくないなぁ」
と、冷やかしもせず快諾してくれるのは氏の篤実な人柄だろう。だから、メールパスワードだって、安心して委ねることができる訳だ。

 午後6時、
「他にも二つ、三つありそうやなぁ」
と、丁寧なお仕事をしてもらい、無事、メールが受信できた。その時には受信メールは58通に達していた。

 いえ、これが冒頭述べた妖しげな言い訳ではない。いつ何時、誰の身にも起こりうるネット上のトラブルであり、例えば、ISDNや電話回線によるダイアルアップのユーザーに500KBを超える添付ファイル付のメールが送られた場合など良くあるケースだ。その時はきっと必要になるだろう。OCNにはこういうサービスがある。他のプロバイダーやケーブル会社によるインターネットの場合も、受信メールサーバーからの削除ができるのか調べておきたい。

 で、いわくありげな書き出しの仔細は? それは武士の情けというものであろう。

 アンマレーを検索にかけて当ブログにたどり着かれた方、ようこそ。The Best...So Far の9曲目、"You Needed Me"を今宵、聞き込んでいる。美しいバラードで何度聴いてもあきない。1978年のヒット曲、長男が誕生したばかりの頃を思い出している。


憧れのMacとの邂逅

2005-06-20 23:59:00 | 音楽
 ぼくにとって禁断の果実といえば、何といってもMacだろう。憧憬と躊躇…、長らく内に秘めた葛藤を繰り返してきた対象にほかならない。ある意味、ファムファタール(運命の女)にも似て、できることなら邂逅を避けたいもののはずだった。そのMacがぼくと同世代のユーザーに伴われ、教室にやって来た。

 持ち主であるS氏はエンジニアで、原子炉や航空機などの検査用ソナーを設計されており、全国を股にかけ東奔西走されている方だ。喩えていえばメジャーリーガー級か。

 それがまたどうしてWindowsしか知らぬ、年齢だけ食い、キャラの立ったオヤジの教室の門を叩いてくれたのか。あえて秘するが、それが人生における不可思議な縁、面白さだ。それこそ運命だ。

 氏が無造作に抱えるMacは、PowerBook G4 というノート型だ。豊満とはいいがたいが、スリムで華奢で、まるでアリー・マクビール(アリーMyLoveのヒロイン、おっと彼女もMacか)の如くエッジが利いている。流麗といってよい。氏はおもむろに、でいて、あたかも若い愛人を誇るかのように、そのMacをぼくに見せつける。

 Macといえば美しさ、操作の簡便さ、印刷やグラフィックや音楽制作に強みを発揮する専門性といえば表現が単純過ぎるだろうか。教室のLANに繋げば余分な設定などなしに繋がるし、対応する周辺機器との接続は何の苦もない。買ってきて、電源を入れさえすれば、やりたいことがすぐ始められる。そんなPCが何故一般的にならないのか。愛人と言ったが甲斐性がなければ持てないのだ(えっ、ホント?)。

 氏が望むのは、プレゼン用のWebページ作成だ。職業柄、得意先で、詳細かつ繊細な解説を動画を見てもらうことで説得力を強化したいという。

 果たしてその任がぼくに適えられるだろうか。ぼくの謙遜でも謙虚さでもない。WebページをHTMLを書くことで作ってきた男に、アーキテクチャーやプラットホームがまるっきり異なるステージで果たして大丈夫だろうか。皆さんの方がご心配だろう。まあ、今後をお楽しみに。

 思ったことがある。パソコンは文房具に例えられる。しかし、鉛筆を持っていきなり紙に書きなぐるという印象はない。オブジェクト指向といって、Windowsではメモ帳なり、ペイントなり、エクセルなり、目的ごとのソフトを立ち上げておいてから作業を始めるのが普通だ。意味が分かってもらえようか? つまり紙で書き殴っていたようなものをある程度まとまってきたら、
「これ、ホームページにしたい」
と、その時点で右クリックしたら、ホームページが完成してしまう。ぼくたちが望む本来のオブジェクト指向とはこういうことではないのかい。

 Mac使いのS氏との出逢いはこんなことを考えるきっかけを与えてくれたようだ。

 今日、ネット上で著作権フリーのMIDI音源を探索し続けた。どっぷり音楽づけだ。その結果、こんなトップページが誕生することになった。モモちゃんの労作だ。曲はスコットランド民謡で、「スコットランドの釣鐘草」というおなじみの曲だ。


父の日

2005-06-19 23:59:00 | 音楽
 通学の時間が惜しいと娘が親戚の家に居候になって久しい。その娘からケンタッキー・フライドチキンを託ったと末っ子がやって来た。全部食ってもよいと言う。今日はじゃんけんをしなくてもよいらしい。我が家は全員ケンタッキーに眼がないので、いつもなら喧々諤々年齡も忘れ奪い合いが始まるところなのだが、ハテ? 4個目を食い終わったところで張り合いがないことに気づく。いつもと勝手が違うのだ。と言っても、5個目に手を伸ばすのだが。

 夕刻、長男が車を貸せという。返した後妙にニヤニヤしている。末っ子とバッティングセンターで汗を流そうと出かけた。コインに替えようとするとさえぎられる。どうやら息子が用意してくれているらしい。これも顔が笑っている。

 思い切りバットを振るのだが今日は口の方が達者なようだ。せがれとのかけ合い漫才。二人ともほめ殺しに長けている。爽快な、でも息切れを抑えながら家路にたどると、息子が言った。
「ガソリンある?」
確かガス欠に近い状態のはず。すかざずインジケーターを確認すると満タンになっているではないか。

 「父の日、ありがとう」
そうか、父の日かぁ。それにしても粋な計らいである。ぼくの望むものを適確につかみ、さり気にもてなしてくれている。べとつかない思いやりに子らの成長を見つけ、ひたすら嬉しくなる。成長どころか、父を凌駕してしていると言えば親馬鹿だろうか。いたらぬ父だからこそ子どもは子どもなりに育つてくれる。家で食事をこしらえてくれている家人に感謝した。

 ブルーグラスに限らずカントリーミュージック系のアーティストたちは家族を大切にする。その様を臆面もなく表現する。その点、実にプリミティブでもあり、ナイーブだ。国民性の違いだろうか。日本人なら照れるか、素知らぬフリをしたがるだろう。しかし、一連の若貴騒動を見ていると、ことのほか大切なことだと気づく。リッキー・スキャッグスのFamily & Friendsを聴きながら
「おおきに、おおきんな」
とつぶやいている。言葉に出せない分まだまだか。


The Cox Family

2005-06-18 23:59:00 | 音楽
 命の重さに心いたし、ひたむきで誠実な人の生きざまに激しく揺さぶられ、神妙に自分の来し方に向き合った日が終わろうとしている。であるにもかかわらず、浄化され、無垢に戻ったはずが、入札に血道をあげようとは…。た・か・ゆ・きぃ、それもこれも君のせいだ。

 出品商品には相場というものがあるはずだ。にもかかわらず、法外に立ち向かってくる猛者がいる。冷静、かつ丹念に対抗馬の入札履歴を読み、さらに相手プロフィール、評価などを分析する。その人なりの落札価格帯というものがあるはずで、過去の落札額を評価から入念に推量る。ブラウザは行ったり来たりを繰り返し、忙しない。Sleipnirはこんなとき重宝だ。終了予定時刻をとっくに過ぎても永遠に続くかのように止まる気配を見せない。それとなく他の同種の商品の検討に入る。Ctrl+N で新しいウィンドウを開き、いくつかのキーワードで検索をかける。数多くはないが、まだあるようだ。クールダウンのモードを意識し、やや流し気味にALT+←(戻る)とALT+→(進む)で確認する。最近お気に入りのショートカット・キーだ。BackSpaceキーでも戻れるが、次のページに進むにはALT+→しかない。

 どうやらここらが引き時らしい。ぼくのとった行動は結果的に出品者を利するだけだった。歓んでくれる人がいるのだと自分を慰める。ライバルにはお気の毒と思うが…。それはたかゆきのせいだ。オークションは難しい。ひとの営みが凝縮されているようで、だから面白いのかも。

 今夜のブルーグラス・ミュージックはおもにhymnを流している。hymn(ヒム)とは神をたたえる歌のことで、教会の賛美歌とか聖歌と言ったらよいだろうか。ぼくはクリスチャンではないが、学生の頃から折にふれ、何か事あるたびに聴いている。このブログによく登場するThe Cox Familyがアルバムを出しているように、ブルーグラスにおける重要なジャンルだ。お薦めは、"I Know Who Holds Tomorrow"。入札で俗世にまみれきった垢が洗い流されていくようだ。


二目と見られぬ

2005-06-17 23:23:25 | 本と雑誌
 二目と見られぬ、とか、おぞましい、とかいう表現は穏やかではない。まして人間の顔について語る場合には…。いや、ぼくの顔のことではない。まだそこまでは行っていないとは思うのだが、それは主観か。

 そんな男がいたとする。顔の美醜でその人間性まで判断はできまい。それは自明のことだが、当事者にとっては果たしてどうだろうか。幼児期、少年期、青年期と成長するにつれ、人格形成における影響は余人の想像を絶するものがあるはずだ。

 久しぶりに読み応えのある小説に出会った。読後感はすがすがしく、余韻が残っている。星5かな。早川書房から出ている、サイレント・ジョーのことだ。2002年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長編賞を獲得したのも当然か。主人公の生き様に圧倒されるのだ。

 赤ん坊の頃、実の父親に硫酸をかけられ顔面に大火傷を負った主人公ジョーは、施設にいるところを地域の実力者ウィルに引き取られる。一生消えない醜い傷跡を顔に残しながらも、慈愛に満ちた養父母のもとで立派に成長し、保安官補として刑務所勤務をこなしながら養父のボディーガードを勤めている。ある霧の深い夜、養父がジョーの目前で何者かに射殺される…。

 ジョーという青年が魅力的だ。自分に起きた運命をすっぽり受け入れ、克服し、真摯に生きようという潔さが、読者をぐいぐい挽きつける。すごいの一言だ。題名のサイレントは無口で、他者に訴えるのではなく自分自身に向かって語りかける様のことだろう。

 ストーリーは養父殺しの犯人に復讐すべく粛々と捜査を進める彼を追うのだが、ひねりが効いているのはもちろんだが、彼に絡む脇を固める人物像が複雑に入り組み一人ひとりのキャラが立って活きている。単なるミステリに終わらない、複雑な過去を背負うひとりの青年の成長物語として読んだ。読後感は爽快だ。