分水嶺という言葉が好きだ。分水嶺とは、雨水が二つ以上の水系へ分かれて流れる境界、いわゆる分水界になっている山稜のことで、足元の雨水が、右に向かうと太平洋、左に行けば日本海といった、まさにその場所のことをいい、ざっくりいえば、物事の分かれ目を言い表すにはぴったりの喩になる。
と、書き出してから、あまりに久しぶりのエントリなので、調子がつかめない。で、読み返して…、
毎度、ざっくりとアバウトな話ばかりで、教室には地学の先生をしてらした先輩もみえるというのに、相も変わらず救われないことに気づく。
で、分水嶺…。ここが分かれ目という区切り。覚悟というイメージ。
右左、吉凶、丁半…、潔さかということからこれほど鮮やかに別離の明確な概念と思われるが、そこはhyper流、
割れても末に合わんとぞ思ふ
のぼくのオプティミズムに救われているのも確かで、だから分水嶺という言葉にも肯定的である。
ろんぐ・たいむ・のーしー
って、言えるじゃない。
この分水嶺、いかにも標高の高い場所とのイメージがあるが、日本の中央分水界、つまり右、太平洋、左、日本海という場所、標高94.5mという兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)というから面白い。
昼間、町がざわめいて、夜、スペイン村の花火が上がってというGWのさなか、ひきこもってマウンテン・ミュージックばかりを聴いている。イングランドからアメリカへ流れついた移民の人々がめいめいが持ち寄った楽器を奏でながら一日の労働の疲れを癒やしたとされる音楽、プリミティブだが力強い魅力がある。聴いていて飽きないのだ。