どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

宮沢賢治の「幻燈」の謎

2013-12-22 23:33:57 | 写真の話し
小さな谷川の底を移した二枚の青い幻燈です

宮沢賢治 やまなし(1923年発表)の冒頭


宮沢賢治(1896~1933)の童話「やまなし」と「雪渡り」の中に幻燈と言う言葉が出てきます。
この幻燈ですが、一般的にはマジックランタン、現在のスライド映写機みたいな物と考えられます。辞典で調べれば真っ先にこれが出てきます。光源は多分植物油を使ったランプで、ロウソクのように光源が時間とともに動く物ではないと思わます。
19世紀末までは写真でなく、薄い紙かガラス板に画を描いた物を投影すると言うものです。結構イロイロ出来たみたいで、長尺の絵を横に動かしたり、画を重ねたりと様々な効果が出来たようです。

幻燈そのものは飾り灯籠や、回り灯籠のような物を指す時もあります。幻燈と言うのはエジソンのキネトスコープ(映画だが覗きからくりと言ったおもむきがある)も当たるだろうしそれこそ写真スライドもそうです。フランスのダゲールの発明したジオラマ(模型と幻燈、そして光の変化で様々な効果を出したもの)などもそうでしょう。
実は映画も幻燈と言われた時代があります。

幻燈機そのものは17世紀の文献にあるようだが、もっと古い可能性もあります。スライド写真がちょっと微妙で、1923年にコダックがモノクロスライドフィルムを発表しています。もちろん透明なフィルムは1889年当たりからあり、反転現像でスライドを作れます。映画と同じネガ・ポジ法を使っても出来ました。
所がスライド写真で鑑賞会をやるのは、1950年代のカラーの時代になって流行するので、賢治の時代ならどうかとなります。
ジオラマは日本でも興行的にはあったと思う。だが賢治が見た事があるかどうかとなれば、疑問はある。
エジソンのキネトスコープは1893年に発明、ルミエール兄弟のシネマトスコープは1895年。その2年後に日本に二つともやってきます。映画は1907年に日本でも流行が起き各地で映画館が出来たと言う。盛岡市でも1915年に映画館が出来ています。


雪渡り(1921年発表)から引用します。

『お酒を飲むべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔った人間のおぢいさんが何かをかしな円い物をつかんでいる景色です。

『わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。


雪渡り(1921年発表)


これって写真スライドショーに感じます。私もそう思っていました。これで幻燈といわれているなかでも、賢治の言う幻燈は、映画と写真スライドに集約されます。
困った事に映画の用語では、写真と絵とカットは同じと言うのもあります。実際映画と写真は原理的には同じですし、映画を写真と言う事もあったようです。活動写真と言う言い方もあります。
さてどっちなのでしょうか。


そこで光源を考えたいと思います。まずは燃焼させて光を作る物です。

まずローソクと灯油ランプはほぼない物と考えます。暗すぎるからです。エジソンのキネトスコープもルミエール兄弟のシネマグラフも、光源には電球を使っています。

次にガス灯があります。ガスマントル法が1886年に発明され、かなり明るいガス灯が出来ます。このマントルにセリウムやトリウムを使うためわずかに青緑の光になります。現在でもアウトドアのガスランタンでこの光を見る事が出来ます。ただガスの配管が必要だったのと、1930年代の合成ゴムの発明まで良いホースがなかった事から、移動型の器機は作りにくかったと考えます。現在のような小型ガスボンベも、かなり高価だったのではないのでしょうか。


アセチレンランプ・カーバイトランプと言う物があります。これは炭化カルシウムに水を加えるとアセチレンが発生する事から、水をポタポタとカーバイトに落としてアセチレンガスの発生量を調整、そのアセチレンを燃やして発光させます。アセチレンの燃焼温度は3300度と極めて高く青白い炎です。これを不完全燃焼させて黄色く光らせるのですが、それでもかなり明るい光になります。映画で言うライムライトはこの光の事です。石灰を使っている訳ではありません。カーバイトの反応した残差が消石灰になる事からそう呼ばれたのでしょう。1900年に特許を取っています。


次に電球です。エジソンの1879年の白熱電球の発明から実用的な電球が始まります。初めは寿命40時間だったのですが、1904年にタングステンフィラメントの発明、1910年にタングステン線をコイル状に曲げる事に成功、1913年にタングステンフィラメントとガラスを通して外の電極を結ぶジュメット線が完成、同年ガス入り電球が開発、1914年にフィラメントを切れにくくする方法が開発され白熱電球が完成されました。なおここに書いた発明特許を、全部ゼネラルエレクトロニクスが持っていると言うのも驚きです。
この間に電球は50倍に高寿命化、光変換効率も2.8倍に改善しました。ワット数も大きくなりかなり明るい物になっています。1000ワットの電球も発売されています。また発明当初の電球はかなり赤い光です。それがこの1914年までには今の電球に近い色まで改善します。
蛇足ですがガス入り電球をGEではMAZDA Cランプと呼んでいました。で、日本の東京電気が1925年に内面つや消しの白い電球を作るのですが、これが「マツダ電球」として発売されます。多分GEより良い製品だと言う自負と、それでいながらMAZDA Cにあやかったのでしょうか。


黒鉛アーク灯は一般的ではありません。二本の先端を尖らせた黒鉛棒を向かい合わせて高電圧をかけます。黒鉛棒を近づけると放電が始まり、黒鉛が高温になり4000度まで上がります。実用化は1876年のロシアのポール・ジャブロコフの発明で交流でも発光出来るのが特徴です。この時の発光がとても強く、温度でも解る通り今までの光源の中で一番青白い光です。1878年にロンドンで街灯に使われ同年サッカーのナイトゲームが行われました。
このアーク灯は1901年に水銀灯を生みます。実用化は1927年です。1941年には蛍光灯の発明、1964年にメタルハライドランプの発明と続きますが、賢治は水銀灯を見る事はなかったと思われます。
ネオン管も放電管に入ります。1910年に発明されています。日本では1918年に銀座に登場したのではないのかと言われています。
アーク灯では強力な紫外線を発するのでガラスで覆われていたのが普通です。火花を外に出す事はありません。あと発光効率が高かったので、光の強さの割に熱が少なかったと言えます。欠点は高電圧装置が必要な事と、電気消費が大きい事です。

映画用では1897年に日本にバイタスコープが来た時に、既にアーク灯が使われていたようです。ライムライトも使われています。アーク灯は1933年まで映画では主流でした。
国産の映写機の歴史から見ると、1898年の国産初のミクニ映写機はライムライトだったようです。1914年の国産初の電気駆動映写機ではアーク灯に変わっています。1926年の35ミリ小型映写機では500Wの電球が、27年の16ミリ映写機でも電球が使われているようです。


次にフィルムの話しになります。この時代のフィルムですが硝酸セルロースと言う物質で作られています。1889年から使われていますが、とても燃えやすいと言う欠点を持っています。というか、実は爆弾です。しかしこの当時、薄く加工できて、透明で、柔軟性の高く、平面性・耐湿性の高い物質はそうそうありませんでした。その上、写真乳剤、ゼラチンなのですがそれが薄く簡単に付く物質でなければいけません。当時は合成高分子がなく、表面加工技術もそうそう良い物がなかったので、こんな危険な物質をフィルムに使っていたのです。
先に白黒スライドフィルムが1923年に発表していますが、このフィルムは安全フィルムを歌っています。硝酸セルロースに何らかの安定剤を加えた物と思われます。そしてスライドフィルムと言いましたが、実際は映画用フィルムです。
1950年当たりから酢酸セルロースに置き換わってゆくので、この安全フィルムは過渡期の物と考えられます。

スライド映写がブームになるのは1950年代だと言いました。これにはまずカラーフィルムの登場が上げられます。カラーフィルムからプリントを作るのがとても高価だった時代、リバーサルフィルムを作ってスライド上映した方が安くて皆で楽しめたと言う事です。テレビに移行する隙間ですね。カメラもそれ以前の6センチ幅のフィルムから、カット数が多く稼げる35ミリカメラに移行しました。特にアメリカで流行りました。
ここで気がついてもらいたいのですが、フィルムの材質転換とスライドブームも一致していると言う事です。現実の話しですが、現在のフィルムでもファンの付いていないスライド映写機では、長時間差しっぱなしにすると溶ける可能性があります。一枚写すのに今でも10秒程度でしょうか。あまり長時間は投影出来ないものです。
確かに現在のハロゲン球の発熱はとても大きい物です。また150W以上の光量があります。これでは硝酸セルロースベースではどうなるのでしょうか。あっという間に燃えるでしょう。
当時のスライド映写機というのがどういった物かはよくわかりません。しかし電球のワット数はそれなりにあったと思いますし、今のような小型ファンが付いているとは思えません。そうすると光路長を長くして放熱していたと考えられます。またフィルムではなくネガからガラス乾板に焼き付けてスライドにした物もあったようです。そうするとサイズが一回り大きな物になったと考えられます。人工着色も可能だったのではないのかと思いますが、実物を見た事がないしネットでも報告はないようです。戦前の乾板でスライドショーをやったと言う記事も見つけましたが、どうも本文がないので解りません。ただ乾板はかなり薄いガラスで、材質にも寄りますが急加熱には弱いです。
もしかすると戦前の幻燈機について、書籍になっているようですが詳細は不明です。

なぜ映画フィルムが燃えやすくても大丈夫だったかと言えば、早いスピードでフィルムが動いているからです。その間に冷却されます。そして各コマごとにシャッターが動いています。連続して光が当たる事のないシステムになっています。これが燃えにくくしている理由だと思われます。とはいえそれでも火事になったりした訳で、ライムライトから電球やアーク灯に移行したのは自然な事です。

次にスライド映写機の問題なのですが、スライドのコマとコマの間に隙間が出来やすいと言う問題があります。一瞬光が漏れるのです。これを克服した映写機もありますが、この戦前の段階ではどうだったのでしょうか。私の知る限りだと、戦後でも機構的に一こまごとにスライドのはいっていないのが映し出されてしまう機種もありました。一枚ごとに真っ白な壁が写ってしまう訳です。


さて長々と書きましたが、結論です。賢治の言う幻燈とは映画の事ではないのでしょうか。まず光源があります。アーク灯か電球を使うのが映画です。スライドは電球だけだと思われます。明治時代の幻燈機にはランプを使った物があるようですが、これは昔からある画を映し出す幻燈ではないのかと思われます。「やまなし」の青い幻燈は、アーク灯やライムライトの光の質を言っているように思います。もちろん水中から見た空の青の意味もあると思います。
蛇足ですがテクニカラー映画の登場まで本格的カラー映画はありませんでした。当然賢治は亡くなっています。擬似的に人工着色したカラー映画もあったようですが、これは上映用フィルムに加工する物で、かなり高価な物であったと思われます。興行成績が望める所でなければ上映出来なかったのではないのでしょうか。

次に当時のフィルムの取り扱いの難しさです。とても燃えやすいのです。このため今と同じスライド投影は考えられませんし、乾板を使ったスライド投影と言うのも考えられますが実例がわかりません。コストも馬鹿になりません。スライド上映の流行は、1950年まで進まないとないように感じます。

そして35ミリフィルムを使ったカメラと言うのは、1914年のウル・ライカがありますが実際に販売したのは1925年のライカ I(A)になります。大体これが世界初の35ミリ写真機と言われています。ということで1925年以前にはスライド映写機の違うシステムがあったとなります。こうなると全く解りません。

調べる限り、映写機を幻燈機といったり映画を活動写真と言ったり、写真と言った例も多くあります。江戸時代に手回し幻燈機というオモチャもありますし、家庭用の映画映写機みたいな物もあります。スライド投影機になるといきなり1950年代の物がいっぱい出てくると言うのも、物証のような気がします。

そしてスライドであったなら、「雪渡り」のような字が現れ暗くなり写真が現れると言う描写は、スライド切り替えの明転、もしくは寸断で出来ない可能性があります。もちろん映写機のレンズを一時的に覆って解決出来ますが、少し手間なのは問題でしょう。

賢治のここでいう幻燈ですが、様々な要素が絡み合っています。家庭用の薄暗い映画映写機かもしれません。手回し式の物かもしれません。薄暗い光でのアニメーションだったり映画を見ていたのかもしれません。江戸時代のからくりだったりしますし、ヨーロッパの幻灯機かもしれません。電球の黄色い光だったかもしれませんし、ライムライトの薄く青緑の光だったかもしれません。この炎の揺らぎだったかもしれません。
それでいて映画館のアーク灯の青白い光で見る映画だったのかもしれません。そのないまぜが賢治の幻燈なのでしょう。
そう纏めてしまってはどうかとも思いますが、「やまなし」の光の具体的な描写を考えれば、映画のような描写に挑戦した作品とも言えそうです。


技術史的に言えば、賢治の幻燈は映画である。そう結論づけます。

ただそれでは面白くありません。それでは賢治の幻燈が映画だとして「雪渡り」の幻燈はどうやって撮影された物でしょうか。

1921年発表ですから、どうも8ミリ映画は考えられないようです。1932年のコダックのダブル8から始まる規格です。賢治は見ていません。そう言った事で16ミリ以上のムービーカメラで撮影されています。
この当時のフィルムの感度は増感現像等工夫してもISO感度で100でしょうか。もう少し低く見積もった方が良いと思います。
それでは今私の部屋では蛍光灯が60ワット光っています。今カメラで計測した所、1/10秒絞りF1.8です。16ミリ映画とし一秒間16フレームとします。シャッタースピードは17分の1秒になります。最低でもF1.4の明るさのレンズが必要です。かなりな高級レンズを使っているようです。私のレンズよりかなり高性能なようです。でも1912年ですとまだそこまで明るいレンズは出ていません。
照明を四倍以上明るくするしかありません。


狐はどのようにしてこの映像を手に入れたのでしょうか。カメラがあってもフィルムがあっても光がなければ撮影が出来ません。どのようにしたのでしょうか。

狐火でしょうか。しかしその明るさはろうそく程度です。今の蛍光灯とは比べ物になりません。

この狐たちはこの撮影のために、狐火をどこまで灯したのでしょうか。蛍光灯240W相当ですから総力戦で行ったと思います。そしてその姿を想像すると凄いです。

清作も太右エ門も酔っぱらって夜中に撮影されています。そこは真昼のように明るかったでしょう。よくそんな所で酔っぱらっていられるなと言うのが、私の感想です。

狐は解ってくれる四朗とかん子を招待しました。だが昔兄たちも招待されたようです。最後に兄たちが迎えにくるのでそれは推察出来ます。でも狐は映画の撮影でも解るように、かなり高度な文化を持っています。それがなぜ人間の子供に認めてもらわなければいけないのでしょうか。ここも面白い所です。

「雪渡り」に関してはもう少しあるかもしれません。ここで筆を置くのが大体の所でしょう。ただ狐の努力が何かと言うのがもの凄く面白いです。
そして話しを更に面白くするために蛇足を付け加えます。実は釜石街道・花巻市から東和町への間で、昔よく狐にだまされたひとがいたようです。それがなんと昭和40年の話しなのです。大体酔っぱらって、川原で素っ裸で発見されると言う物でした。で、狐のせいにされる…。そんなに古い話しではないと付け加えて、終わります。





引用

アーク灯水銀灯はここです。 
映像関連の照明や投影器具に関しては、ウシオ電気が詳しかった。ウシオ電気は本当に真面目な会社だと思う。以前もこのサイトを参照した事があった。正直な所ウイキではここまでの記述はあり得ない。シネマ光源ではまとまった記述だと思う。

白熱電球は産業技術知資料センターから引用していますです。今後科学技術史に関連する項目では使えそうです。
写真工業の昭和52年写真技術マニュアルも参照しました。あとはウィキですがこのジャンルでは相当苦しい内容の記述でした。
真面目に手元にある文献や記事をさらっても、1930年以前のスライド写真に関しては解りません。



後述

この項を書いていたら、なぜか接続分断がありました。おかげで5回書き直しました。おかげでとりとめもない文章が更に分け解らなくなったと思います。


コニカ Ⅰ を使ってみる2

2013-11-24 22:21:08 | 写真の話し
3


さてコニカ Ⅰの写りはどうなのでしょうか。レンズは和製テッサーF3.5です。まあこんなものでしょう。
むしろ60年前のカメラで修理していないようなものが、まだ動くと言う事がオドロキでして、ネガを見る限り1/50秒以下のシャッタースピードでなければ大丈夫なようです。1/250秒なら間違いが無さそうです。

この原因は、シャッター金属の黒化処理の際に小さな穴が空き、そこにしみ込んだオイルが時間が経つとシャッター表面に広がってシャッターの動きを止めてしまうと言うもの。油の酸化も原因の一つです。


2


ピントは良いのですが、にじんで見えます。バックのボケもどうなんでしょうか。

ただ戦前の設計レンズで、戦後6年経っての製造レンズです。あまり過剰な期待はしていませんでしたが、ああやっぱりと言った具合です。ただ色はとても良いです。

当時のフィルムの解像度から行くとこれでも十分だったと思います。ただ、60年頃からでしょうか、フィルムの感度と解像度が大幅にアップして、レンズの製造技術も大幅に変わって現在に至ると言った所があります。


1_2


半逆光でもきれいに写ります。

絞りなんですが、ほぼ解放なのは人物写真のみで、あとは深く絞っています。深く絞ると回折効果でピントが甘くなりますが、ここまで甘くなるのは回折効果ではないです。元々のレンズの特性です。

あとネガカラーフィルムを使ったのですが、今では感度400以下のフィルムはどの程度あるのでしょうか。入手しやすいフジの感度400を選びました。結果深絞りになっています。


4


ピント合わせの光学系の動きが悪いようです。なので今回の写真はピントが悪いのかもしれません。また無限遠が少しおかしいかもしれません。

被写体によっては、かなりいい感じにくるようです。

5


いやしかし60年前のカメラが動いて写真を撮れるのだからオドロキです。その上終戦直後ですから。

確かにライカやコンタックス、そしてイタリアのドゥカティみたいなものは作れなかった。しかしそれはそれ。当時の日本の技術を考えれば、このカメラはとてもよく出来ています。新規技術はないけど、オーソドックスな技術をキッチリまとめているところが良いです。戦前の設計ですが、多分イロイロ直していると思われます。


後はオーバーホールだけか。自分ではやらないけど。


コニカ Ⅰ を使ってみる1

2013-11-13 02:25:22 | 写真の話し
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ゴミ箱コニカです。ケースはこんな具合。多少こすれはありますが、美品です。

この皮ケースですが、皮が湿気を呼びます。皮からカビが生えて、カメラに移ってしまうともう悲惨。オーバーホールしても写りがだめになってしまいます。カメラの長期保管には皮ケースとカメラを分けて保管する事をお勧めします。合成皮革のケースでも、結果は同じです。使う時にケースを付ける方が良いでしょう。

ヨーロッパのような大陸では、皮ケースでも黴びなかったのでしょう。だからカメラの保護のために皮ケースがあったのだと思います。そのカメラを日本が輸入していたので、カメラは皮ケース付きじゃなきゃだめだ、みたいになったのだと思います。今では皮ケースは滅多に付けないものになっています。




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このカメラの場合、本体にストラップホルダーがないので皮ケースは必要だったと思います。このストラップホルダーなのですが、このカメラには付いていません。理由は多分昭和15年の設計で、新たに追加する余裕がなかったからだと思います。またストラップホルダーを付けるという発想がまだなかったのかもしれません。いずれストラップホルダーと簡単に言いますが、そこにかかる強度を考えなければいけない訳で、当時としてもこの価格でこれだけ小さいカメラ!では、ちょっと難しかったのかもしれません。

さてよく見ると、Made in Japan の文字が。このカメラの謎です。



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ストラップを首から下げるとこんな具合。私が下げるとセントバーナードの首から下げる樽見たいです。当時の日本人が小柄だとはいえ短すぎます。肩から下げるにしても短いです。

多分皮の供給の問題なのでしょう。ストラップは切れないように良質の皮が必要です。しかし長さを確保するのは意外と大変です。出来れば皮2枚張り合わせが良いのですが、さすがに出来なかったようです。ストラップ表面に見える縫い目は、実は染め付け模様です。一枚皮で出来ています。


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裏蓋の開け閉めには、右下の O - C のダイヤルを回して操作します。この操作なのですが、高級カメラには裏蓋ではなくて、底が外れるタイプがありまして、多分それを意識したのでしょう。三脚ネジ穴のあるほうの脇にあるポッチは、巻き上げダイヤルクラッチ解除のものです。ここを押してから巻き上げます。蓋の開け閉めのダイヤルと高さを合わせるために出っ張っています。

なおこの三脚ネジ穴なのですが、設計上かなり難しいものです。出来るだけカメラ中心部で、重量バランスのとれた場所におくのが理想です。あと強度の問題もあります。きちんと出来れば三脚に付けた時の操作性や安定性が変わります。三脚の操作も変わります。
そのバランスをどうとるのかも、設計者の腕の見せ所です。ここ当たりコンシューマーデジカメを買う時の目安になります。まあコンデジで三脚を使う人は滅多にいませんが。


このカメラ、ちょっとだけダイヤルの背が高いのが欠点です。これだけ原始的なカメラでも、まだレンズの下に三脚座を付けられない時代でもあります。当時とすればそれほどまでにコンパクトなカメラです。


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使う前に、沈胴式のレンズを引っ張り上げて、鏡胴の赤い線と上の赤い線をあわせてから回すとレンズが固定されます。このカメラはその固定が甘くなっています。

シャッターはレンズのなかにあるタイプ、機械式レンズシャッターです。シャッタースピードを設定して、シャッタースプリングを押し上げてチャージして、絞りを設定して、シャッターリリースを押せばシャッターが動く仕組みなのですが、まあ口で言えば暗号のようですね。


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沈胴式の固定赤マークですね。


Dsc_4478


手ぶれですいません。レンズシャッターの250の数字のある当たりにある小さいノブがシャッターチャージです。これをレンズに向かって時計回りに押し倒すとシャッターチャージされます。写真はチャージされていない状態。

右にある細長いギザギザの付いた棒がシャッターリリースボタンです。これを押し下げるとシャッターが切れます。

つまりフィルム巻き上げとシャッターが連動していないのです。全く別々に操作しなければいけません。シャッターはシャッターで別にあります。しかも機械式時計よりも壊れやすい代物です。


Dsc_4477


絞りはレンズに付いているウンコ型の小さなノブを回して操作します。ここはいつでも操作してもかまわない所です。レンズ根本に付いているレバーは、ファインダーの2重合従式で、ピントを出すダイヤルです。

とにかく操作がめんどくさいです。シャッターチャージは移動中チャージしていない状態が望ましい。更にチャージしてからシャッタースピードの変更はやらない。理由は、シャッターを動かすゼンマイをまくのがシャッターチャージだからです。ゼンマイが巻かれた状態で振動が加わると何らかの影響があって直後のシャッタースピードに影響が起きる可能性があります。シャッタースピード変更も、同じ事です。強く巻いた状態で、弱く設定し直せばシャッタースピードが狂う原因になります。

基本的にシャッターチャージ周りは、お作法を守らないと故障の原因になります。特にこの時代のカメラは要注意です。

シャッタースピードを変更する場合は、レンズキャップを付けて一旦シャッターを切って、チャージを解除してから再設定します。そんなこんなが解決して来たのが、いまのカメラなのですよ。本当便利。


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裏蓋を開けます。当時の工作技術だったらこんなものかと言う感じです。でも設計された時代を考えればかなりがんばっています。フィルムの平面性が悪そうですが、それは今のフィルムの話しです。当時だとフィルムが100線/ミリの解像度が出ればいい時代です。レンズも大体その程度です。多分平面性は問題にならなかったでしょう。

むしろ沈胴式レンズの誤差の方が大きいでしょう。





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フィルムを入れます。フジのネガカラーです。感度400。当時ではあり得ない高感度フィルムです。ファインダー横にあるボタンは、巻き上げノブのクラッチ解除ボタン。巻き上げる時にこのボタンを押してカチッと鳴ったら巻き上げます。1カット分巻き上げたらロックされます。


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フィルムの巻き上げはこんな感じ。

多重露光防止がありません。なので操作にはお作法が必要です。撮影したら、巻き上げておく。これを徹底しないといけません。今回どこまでミスっているのかが楽しみです。


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ファインダーから見えるのはこんな感じ。ピント合わせは解りやすいです。



Dsc_4081


さて、本当に写っているのかどうか。次はその写真を見せられれば良いですね。どうなるのかは全く解りません。多分間違いなくオーバー露出になっているでしょう。

動いただけでも奇跡のカメラです。詳しい操作方法はこちらから。私よりは解りやすいと思います。


D-7000修理終了

2013-10-04 23:59:23 | 写真の話し
Dsc_0029


D-7000が修理から帰って来た。自転車のかごに入っているのは、箱だけだ。当然ここは7000で撮影している。

さて修理項目なのだが、やはり恐ろしい事になっていた。

1)シャッター部組交換
6月に交換したはずなのだが、また交換。何があったのでしょうか。前回修理の遅さには、何か理由があったのでしょうか。とりあえず交換したようです。

2)絞り制御用メカ部組交換
ほとんど絞り優先で撮影しているので、なんでここがおかしいのかは解りませんが、何かがあったのでしょう。15万カット切ってりゃあるわな。

3)ミラー駆動部組
キター!多分ここが原因でシャッターの再交換になったのだろう。ここの交換はなかなかない事だ。

4)レンズ取り付けマウント交換
これはよくある話し。よっぽどすり減っていたのだろう。

5)グリップカバー部組
よほど手あかがたまっていたのでしょう。ただあんまりきれいになった気がしないのは、気のせいです。

6)接眼部組
ここなんですが、これもよくわからないのですが、もしかすると接眼部レンズユニットの交換です。

7)カメラ・画像制御回路基板交換
以前聞いていたのは、画像制御回路基板だったのですが、3文字増えています。ということはCPU交換と言う事でしょうか。よくわかりません。


ということで、カメラの中身がほとんど変わったようなものです。

気になるお値段ですが、部品単価が伝票にありません。ただシャッター部組は前回の修理で4720円と解っています。今回の部品代合計は21330円です。カメラ・画像制御回路基板は13000円程度です。あとは他の部品代です。

さて合計金額はと言えば、送料1600円と消費税1705円を含んで35805円です。なおオーバーホールは基本料金のみで16500円です。

計算が合わないですね。本当は4万近い修理でした。

5330円ニコンががんばっています。


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ということで、とってもキビシイ修理の時はオーバーホール指定がお安いですよ、と言う実例です。修理半年保証が確実に効きます。

とはいえ、前のシャッター交換は何だったのだろうと思います。差額があまり変わらないと言う疑問もあります。
でもこの重修理を日程上7日で終わらせたのですから、ニコンサービスは結構やります。

ユニット化では語れないのがカメラです。車よりめんどくさいのがカメラです。多分時計よりめんどくさい。それをまあよくやってくれたなと思います。ちょっとこの前はミソ付けましたが、ニコンのサービスはいいです。

ただやっぱり、付き合うカメラ屋をどうするのかは大きいです。中間で交渉をしてくれます。ここはやっぱり大きかったです。


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とはいえ、中身が全部変わったカメラと言うのはどうもしっくりきません。どう付き合っていいのか解らない所があります。なにして良いんだろうとか、少し考えます。

なにしろ設定が多すぎます。メカもリセットで、ソフトもリセットの状態で戻って来たのですが、そこからどう取り戻せるのか、今回はよくわかりません。
ファームウエアーもバージョンアップして戻ってきました。


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カメラと言うのは変な機械です。普通の機械は、命令通りに動くのを前提に作られます。しかしカメラは突然命令が来る、しかもここに来いといきなり言われる訳ですから、人間だったらたまったもんじゃない。

よくがんばったなと思うのだが、今のこのカメラは他人だ。


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折り合いはつけられそうな気がする。


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さてどうなるか。


カメラマンと写真20

2013-09-08 20:15:03 | 写真の話し
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軽い所から。明日、岩手大学にNHKラジオイベントカー、80ちゃんが来ます。こんな車だったんだと。初めて見ました。お昼から生中継があります。ちょっと楽しみ。


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さて、先月もお前は何を撮っても同じ写真を出す、と言われて頭に来ています。逆に同じ写真がどう意味が変わるのかを証明しなければ行けません。

つまりは作品作りです。

全く別個で、オレ今こうだよという写真を揃えなければ行けません。

シカーシ、ここで意地がおきます。オマエラ絶対解んないもの作ってやる。そうゆう天の邪鬼が起きる訳で、逆に作業が難航する訳です。実際自分でも初めての作業なので、まだ全然どうなるのかも解りません。せっかく見つけた被写体も、どんどん変わってゆく訳ですし、それがまあつまらないものだこと。
そう、まったくつまらないものを作品にして、同じものにしてしまうのが今回のコンセプトです。社会的な意味とかそう言ったものは、自分で考えて!と言った感じで現在進行しています。ただ量が撮れないので多分下らないと思います。そしてそれを予定しています。


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ということで、今回もオクラ入りの写真が出来そうです。真面目に量が撮れません。数うちゃ当たると言うのもあるのですが、さすがに今回の被写体はくだらないだけあって手強いです。
あと初のデジタルです。自分の作業履歴も問われます。ここが難点です。


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今日の夕方、少し虹が出ました。


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写真の技法の中で、反射をとると言う技法があります。鏡でもガラスでも何でも良いのですが、反射したものと被写体の関係性を表現出来ます。リフレクションと言う技法なのですがよっぽど気をつけない限りかなり難しい技法です。ニューズウイークにリフレクションだけの写真家が出ています。Q.サカマキとありますから日本人なのでしょうか。
実像をとる写真で、虚像を撮ると言う2重性がリフレクションにはあります。それが実像と虚像が同時にある場合虚と実がないまぜになる効果があります。意味の2重性も簡単に表現出来るのですが、このQ.サカマキ氏のようにはなかなか行かないものです。彼はトリプルまで持ち込んでいます。

この技法はモダンなものでした。最近では効果的にしか使われていないのですが、真面目に取り組めばこんな事も出来ると改めて考えました。

なお実はこの項、会議で取り上げられた写真でリフレクションがあったのですが、意味の2重性を持ち込めば更に良いよと言ったのが、やっぱり華麗にスルーされたので頭来て書いています。



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なにか猛烈に腹が立って来た。


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さて、当ブログでは写真の内容と言説が全く一致したりしなかったりと言う冒険をしています。これまた全く意味がないのですが、写真ってそんなもんだとも考えています。

けっこうそうなると、自由なものです。ただし人が写っていなければ、ですが。