「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

またまた城山へ

2006-01-10 10:43:08 | クライミング
帰ったばかりで、また城山へ行って来た。パートナーが宿題を残して、それを片付けに今回は行ったという訳だが、一つのルートに対する情熱はクライマーのサガを感じる。今回は、やっと宿題も片付けられ、私もこれでやれやれで、やっと目的のルートに取り付けたが、今度は私が宿題を残して来てしまった。フリーを始めてからこんなことの繰り返し。特に遠くへの遠征ではそう毎週行くという訳には行かないので、食い散らした状態で残ってしまう。しかし何年か後、新たにそのルートに取り付いたところ簡単だと感じることもあり、僅かながらも自分の成長に喜べたりもする。
城山も、これで3年目の5回目。ナインやテン台で必死に登っていたのに、イレブンに取り付ける自分に成長出来ていることは嬉しい。つくづく、クライミングは自己満足の世界だと思う。自分のことを自分でいいように評価するのは、人から見ればおめでたいことで、鼻持ちならないことと映るかもしれないが自分のことは自分が評価してあげないと可哀想だとこのごろ思う。
人と比べたり、人から言われたことを気にしていたら何も出来ない人になってしまうのではないかと思う。自分より上手い人は、なんぼでもいる。下手な人もなんぼでもいる。自分より奇麗な人も不細工な人も、背の高い人も低い人も、太い人も細い人も…。何かにつけて人は自分に無い物を羨む。私もその一人。スマートな上手い人(クライマー)に羨ましいと洩らしたりすることがある。
人との比較は、教育上もいい結果を残さないということを子育てで学んでいるはず。子供は、生まれたときから競争社会にいる。親がうちの子は隣の子より可愛いとか早く歩いたとかおむつが取れたとか…(笑)。これも親のサガ(?)。学校に行くようになったら、勉強ではクラスで何番、学校で何番…。そして、少しでもいい学校へ。そして就職しても、どんな仕事(企業)かというようなことで優劣をつけたがる。いくら競争してもきりがない。
問題点は、出来る出来ないということを優劣として捉えることにあるように思う。自分のことをこの劣(レツ)としか思えなくなってしまうと悲しいことだと思う。社会的にも、こういう子供が問題を起こしているのではないかと思う。
自分のことを認められなくなることは、生きて行くなと言われているような気がしないだろうか。
どんな人でも今の自分が認められて、自分なりに成長して行ける。そんな風になると少しは社会もましになるのではと思ったりする。最近「負け組、勝ち組」という言葉もよく耳にする。この言葉も私はきらいだ。どうして、何事もこういう見方で見てしまうのだろう。この言葉の流行も、やはり現実を表しているのだろう…。