新田次郎著『剣岳点の記』を読んでからもう5年近く経ってしまった。この本は新田次郎の本の中では一番感動した本だ。それだけに映画になるというのを知ってから,首を長くして待ち続けていた。
どんな映画もそうだが、この映画もやはり原作の方が良かった。
しかし,映画が良くなかったという訳ではない。これだけの映画を剣岳で実際に撮影した苦労は並大抵ではなかっただろう。映画は綺麗だったのに、素直に素晴らしかったといえないのは原作への思いが強すぎなのだろうか。木村大作監督の前口上でのこの映画に懸ける思いは十分に伝わっていたはずなのに、この映画を観た私にまでは届かなかったようだ。また日頃山に行っていない俳優やスタッフにとっては大変な撮影だっただろうとうことは察しがつく。この映画の一番達成感を味わったのは,映画を作った仲間たち(出演者やかかわった人をこう書いてあった)だったのだろう。観客は、その感動をどこまで共有出来ただろうか。
映画を見ながら思ったことは、やっぱり山は美しいなぁ~ということ。しかし映像での美は本物を見たときの感動よりは落ちるとも思う。やはり、原作は本物だったのだろう。
それより映画はもう少し違った視点で見るべきなのだろう。
2005年の下記の記事に、最近(7月5日付け)小笠原勇八氏のお孫さんという方から書き込みを頂いた。著書「剣岳・立山」と『剣岳点の記』を拾い読みした。
今は山には行けそうにも無いが、また歴史をたどって立山周辺を歩いてみたいと思った。
ブログの引用
2005/3/19「劔岳・点の記」
古本屋で見つけた「劔岳・点の記」新田次郎著(文藝春秋)を興味深く読んだ。
明治40年測量隊が立山周辺の山の測量に入り、剱岳に苦労して長次郎谷から初登を果たす。しかし、頂上では古い錫杖の頭と剱が見つかり、人の入った形跡が洞窟の中にも残されていた。
この時代の立山信仰のことや、歩いたルート、そして当時の山の装備など歴史的事実を踏まえて書かれた小説だけに納得できおもしろかった。また日頃何気なく見ている国土地理院の地図が、こんなにも苦労して作られていたことも改めて知った。
立山や剱はいろいろ思い出深い山だけに、感慨深いものがあった。1997年には、初めての剱の頂上に登り一旦雷鳥沢に戻り、雄山からザラ峠・五色ヶ原まで、縦走。そして越中中沢をピストンして黒部に降りた。
この時は剱沢では、かなりきつい台風を体験して、本来の予定は薬師岳までの縦走だったが、大幅に変更せざる終えなかった。(この時のことは、「山への想い」に書いている)剱という山の厳しさの、初体験だった。
この本を読みながら、それからも何度か行った剱のことが思い出されて来た。
そして、何よりも剱や立山にはまだまだ私の知らないところや面白い話がいっぱいあった。特にザラ峠から常願寺川の方にくだって行くと小説に出ていた立山温泉の廃墟に出会えるという。ここは、かなり好奇心が湧いてきた。ネットで調べたら、かなりの情報があった。
そしてもう一冊、夫が古本屋でずっと前に買って家の本棚に見捨てられていた古くて汚い本が、この「劔岳・点の記」を読み進むにつれて、日の目を見た。
この本は、昭和14年発行された。著者は「小笠原勇八」で、東京都岳連の初代理事長だったという。本の最後の綴じ込みの立山の概念図を見ると、アルペンルートがなかった時代ということもあり、より私の興味をそそった。
明治40年から昭和14年の間に、かなりの登山道や小屋が出来たことになる。それは、「劔岳・点の記」に出てくる、小島鳥水の日本山岳会と剱岳の初登を競い合っているように日本山岳会の貢献が大きい。このころから宗教的な登山から近代登山の幕開けとなっている。これも私には興味深かった。
この二冊の本からは、まだまだ好奇心が湧いてくる。
今年の夏は、「これだ!!」と思った。
そして立山温泉見学の時の報告
http://www.eonet.ne.jp/~iku-san/12kitayama/12kitayama05.html#6
どんな映画もそうだが、この映画もやはり原作の方が良かった。
しかし,映画が良くなかったという訳ではない。これだけの映画を剣岳で実際に撮影した苦労は並大抵ではなかっただろう。映画は綺麗だったのに、素直に素晴らしかったといえないのは原作への思いが強すぎなのだろうか。木村大作監督の前口上でのこの映画に懸ける思いは十分に伝わっていたはずなのに、この映画を観た私にまでは届かなかったようだ。また日頃山に行っていない俳優やスタッフにとっては大変な撮影だっただろうとうことは察しがつく。この映画の一番達成感を味わったのは,映画を作った仲間たち(出演者やかかわった人をこう書いてあった)だったのだろう。観客は、その感動をどこまで共有出来ただろうか。
映画を見ながら思ったことは、やっぱり山は美しいなぁ~ということ。しかし映像での美は本物を見たときの感動よりは落ちるとも思う。やはり、原作は本物だったのだろう。
それより映画はもう少し違った視点で見るべきなのだろう。
2005年の下記の記事に、最近(7月5日付け)小笠原勇八氏のお孫さんという方から書き込みを頂いた。著書「剣岳・立山」と『剣岳点の記』を拾い読みした。
今は山には行けそうにも無いが、また歴史をたどって立山周辺を歩いてみたいと思った。
ブログの引用
2005/3/19「劔岳・点の記」
古本屋で見つけた「劔岳・点の記」新田次郎著(文藝春秋)を興味深く読んだ。
明治40年測量隊が立山周辺の山の測量に入り、剱岳に苦労して長次郎谷から初登を果たす。しかし、頂上では古い錫杖の頭と剱が見つかり、人の入った形跡が洞窟の中にも残されていた。
この時代の立山信仰のことや、歩いたルート、そして当時の山の装備など歴史的事実を踏まえて書かれた小説だけに納得できおもしろかった。また日頃何気なく見ている国土地理院の地図が、こんなにも苦労して作られていたことも改めて知った。
立山や剱はいろいろ思い出深い山だけに、感慨深いものがあった。1997年には、初めての剱の頂上に登り一旦雷鳥沢に戻り、雄山からザラ峠・五色ヶ原まで、縦走。そして越中中沢をピストンして黒部に降りた。
この時は剱沢では、かなりきつい台風を体験して、本来の予定は薬師岳までの縦走だったが、大幅に変更せざる終えなかった。(この時のことは、「山への想い」に書いている)剱という山の厳しさの、初体験だった。
この本を読みながら、それからも何度か行った剱のことが思い出されて来た。
そして、何よりも剱や立山にはまだまだ私の知らないところや面白い話がいっぱいあった。特にザラ峠から常願寺川の方にくだって行くと小説に出ていた立山温泉の廃墟に出会えるという。ここは、かなり好奇心が湧いてきた。ネットで調べたら、かなりの情報があった。
そしてもう一冊、夫が古本屋でずっと前に買って家の本棚に見捨てられていた古くて汚い本が、この「劔岳・点の記」を読み進むにつれて、日の目を見た。
この本は、昭和14年発行された。著者は「小笠原勇八」で、東京都岳連の初代理事長だったという。本の最後の綴じ込みの立山の概念図を見ると、アルペンルートがなかった時代ということもあり、より私の興味をそそった。
明治40年から昭和14年の間に、かなりの登山道や小屋が出来たことになる。それは、「劔岳・点の記」に出てくる、小島鳥水の日本山岳会と剱岳の初登を競い合っているように日本山岳会の貢献が大きい。このころから宗教的な登山から近代登山の幕開けとなっている。これも私には興味深かった。
この二冊の本からは、まだまだ好奇心が湧いてくる。
今年の夏は、「これだ!!」と思った。
そして立山温泉見学の時の報告
http://www.eonet.ne.jp/~iku-san/12kitayama/12kitayama05.html#6