この冬は、食事の用意の時慌てて収穫するだけの畑だった。
おかげで畑も花壇も草ボウボウ。
昨年の夏野菜の残骸もそのまま。
草も虫も敵とせずがモットーの自然栽培そのもの。
家の野菜は野性的だが、ちゃんと育ってくれる。
固定概念に囚われ、紆余曲折で迷ってばかりの野菜作りだつた。
10年にしていい畑になってきて、夏野菜の残骸も美しいと思える自分が不思議だ。
もうすぐ迎える春には、残りの野菜たちから花が咲き、土中のチューリップの球根や思いもよらぬ種から花も咲き、フェンス脇のバラも咲くだろうと、私の頭の中は早くもやがて季節に思いを巡らしている。
野菜はほとんど賄え、また毎日収穫したお野菜は、我が家の食卓を彩る。
年越しのサツマイモもまだ食べられた。
見かけは悪いが、お味はいい。
ここに来る10年前までは考えられない生活で、「自然の営みの繰り返しは単純である」ということを思う。
しかしそれがまさに生きるということであると今では納得できる。
人生も流れがあり、その流れに身を任せてきて今がある。
人もまた自然の一部である。
これから終盤に向かう私は、日々凡々ながら小さな畑の自然を感じながら、母のように終焉を迎えるのだろう。
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おかげで畑も花壇も草ボウボウ。
昨年の夏野菜の残骸もそのまま。
草も虫も敵とせずがモットーの自然栽培そのもの。
家の野菜は野性的だが、ちゃんと育ってくれる。
固定概念に囚われ、紆余曲折で迷ってばかりの野菜作りだつた。
10年にしていい畑になってきて、夏野菜の残骸も美しいと思える自分が不思議だ。
もうすぐ迎える春には、残りの野菜たちから花が咲き、土中のチューリップの球根や思いもよらぬ種から花も咲き、フェンス脇のバラも咲くだろうと、私の頭の中は早くもやがて季節に思いを巡らしている。
野菜はほとんど賄え、また毎日収穫したお野菜は、我が家の食卓を彩る。
年越しのサツマイモもまだ食べられた。
見かけは悪いが、お味はいい。
ここに来る10年前までは考えられない生活で、「自然の営みの繰り返しは単純である」ということを思う。
しかしそれがまさに生きるということであると今では納得できる。
人生も流れがあり、その流れに身を任せてきて今がある。
人もまた自然の一部である。
これから終盤に向かう私は、日々凡々ながら小さな畑の自然を感じながら、母のように終焉を迎えるのだろう。
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