命を落とした遊女は着物も取られ投げ込み寺に……多くの遊女が感染したが当時は治療法がなかった恐るべき病
1/25(土) 7:17配信
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プレジデントオンライン
十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸幕府公認の遊廓・吉原が、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)などで再注目されている。遊廓について研究する髙木まどかさんは「遊女は22、23歳頃までに年季が明けるなどして自由になれるが、そこまで生き延びられる人は少なかったと史料に記されている。彼女たちが若くして亡くなった原因は主に病気、それも感染症が多かった」という――。
【画像】十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。
※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■廓の主人の別荘で療養した遊女もいた
吉原に生きた人々と、廓外の人々のつながり――その解明はまだまだ途上ですが、周辺地域とのかかわりでいえば、興味深い点として、遊女屋の主人が廓外に別荘をもっていたことが挙げられます。遊女屋が市中に住もうとして叱責を受けたなんて話もありますが、吉原周辺に別荘を持つことは許されていたわけです。
どうして遊女屋は別荘をもっていたのか? その理由の一つとして、遊女の療養があります。吉原の遊女は廓外にでることを厳しく禁じられていましたが、病気の場合は例外的に、廓外に出ることが許されたのです。そして、今戸・山谷・箕輪といった吉原周辺にある「寮」と称された楼主の別荘へ出され、新造や禿といった妹女郎をつけ、快復に努めたといいます。
江戸時代の遊女の病としては、やはり梅毒が有名でしょう。遊女が梅毒で床につくことを、当時は「鳥屋につく」といいました。語源は諸説ありますが、梅毒で毛の抜けていくさまを、鳥が換毛するのに見立てたともいわれます。そして遊女が鳥屋につくと、楼主の別荘での療養が許された訳です。
■病死した遊女が、素巻きにされ投げ込み寺に葬られることも
とはいえ、「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったように、遊女の位が低かったり、快復の見込みがない場合、そうした待遇をうけることはできません。楼内に病室として設けられた薄暗い一室に押し込められ、いちおう医者にはみてもらえたそうですが、ほとんど看病はされず、食物も満足に与えられなかったといいます。
遊女が死去すると、江戸に遊女の親がいるときは引き渡しますが、親元が遠国のときは、粗末な棺桶に入れられ、投げ込み寺としてよく知られる三輪の浄閑寺や、日本堤沿いにあった西方寺に葬られました。といっても、筵(むしろ)に素巻きにされて投げ捨てられ、戒名さえつけてもらえないことも珍しくはなかったようです。
1/25(土) 7:17配信
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十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸幕府公認の遊廓・吉原が、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)などで再注目されている。遊廓について研究する髙木まどかさんは「遊女は22、23歳頃までに年季が明けるなどして自由になれるが、そこまで生き延びられる人は少なかったと史料に記されている。彼女たちが若くして亡くなった原因は主に病気、それも感染症が多かった」という――。
【画像】十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。
※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■廓の主人の別荘で療養した遊女もいた
吉原に生きた人々と、廓外の人々のつながり――その解明はまだまだ途上ですが、周辺地域とのかかわりでいえば、興味深い点として、遊女屋の主人が廓外に別荘をもっていたことが挙げられます。遊女屋が市中に住もうとして叱責を受けたなんて話もありますが、吉原周辺に別荘を持つことは許されていたわけです。
どうして遊女屋は別荘をもっていたのか? その理由の一つとして、遊女の療養があります。吉原の遊女は廓外にでることを厳しく禁じられていましたが、病気の場合は例外的に、廓外に出ることが許されたのです。そして、今戸・山谷・箕輪といった吉原周辺にある「寮」と称された楼主の別荘へ出され、新造や禿といった妹女郎をつけ、快復に努めたといいます。
江戸時代の遊女の病としては、やはり梅毒が有名でしょう。遊女が梅毒で床につくことを、当時は「鳥屋につく」といいました。語源は諸説ありますが、梅毒で毛の抜けていくさまを、鳥が換毛するのに見立てたともいわれます。そして遊女が鳥屋につくと、楼主の別荘での療養が許された訳です。
■病死した遊女が、素巻きにされ投げ込み寺に葬られることも
とはいえ、「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったように、遊女の位が低かったり、快復の見込みがない場合、そうした待遇をうけることはできません。楼内に病室として設けられた薄暗い一室に押し込められ、いちおう医者にはみてもらえたそうですが、ほとんど看病はされず、食物も満足に与えられなかったといいます。
遊女が死去すると、江戸に遊女の親がいるときは引き渡しますが、親元が遠国のときは、粗末な棺桶に入れられ、投げ込み寺としてよく知られる三輪の浄閑寺や、日本堤沿いにあった西方寺に葬られました。といっても、筵(むしろ)に素巻きにされて投げ捨てられ、戒名さえつけてもらえないことも珍しくはなかったようです。
■過酷な生活ゆえ、年季明けまで生き延びられる遊女は少なかった
『吉原失墜』という史料には、そもそも「遊女はたいてい14、15歳から22、23歳までに、年季が明けたり、身請けされたりするが、多くは死んでしまう」とあります。まず生き延びることができるかわからないという、厳しい現実があったことがみてとれます。
どうして遊女たちは次々と命を落としていったのか。はっきりした統計が残っている訳ではありませんが、やはり、その死因の多くは病だろうといわれます。
遊女が病に罹りやすかった理由として、しばしば、その生活の過酷さが挙げられます。遊女は客に応対している際、いくらご馳走が出されても、口をつけることは許されません。客の前でものを食べるのは、「はしたない」とされたからです。客と懇意になるとそうした縛りも緩くなったようですが、多くの遊女は客が寝静まった後に台所に忍び込み、残り物をつまみ食いをする「納戸飯(なんどめし)」をしていたといいます。そして日の出前には客を送り出し、わずかな仮眠をとって支度をしたら、昼からはまた見世にでなければなりません。
■性感染症が多くの遊女たちの命を奪った
生活のタイムスケジュールは、時代や地域、遊女の等級によって異なったでしょう。ただ、似たような生活を送れば、免疫も下がり、さまざまな病に罹患しやすくなったのは当たり前です。そして遊女をめぐっては、数ある病のなかでも、やはり梅毒についての記述が目を引きます。
梅毒は、その起源ははっきりしないものの、15世紀末頃にコロンブス一行がアメリカ大陸から持ち帰ったことで世界的に広まっていった病です。日本にも永正9年(1512)の頃に伝来し、はじめは関西で流行します。当初はもっぱら唐瘡(とうがさ)や琉球瘡(りゅうきゅうがさ)と呼ばれており、中国や琉球との交易を経て伝来した病と認識されていたようです。
戦国時代に輸入された梅毒は、江戸時代をとおして全国的に広がりをみせ、とりわけ都市の遊廓では、あって当然のものになっていきます。幕末に横浜などでおこなわれた検黴(けんばい)(梅毒検査)では、遊女が100人いれば80人は罹患しているような状況だったとも。買売春を生業にして梅毒にならないようにする、というのは当時においてほとんど不可能だったんじゃないでしょうか。
『吉原失墜』という史料には、そもそも「遊女はたいてい14、15歳から22、23歳までに、年季が明けたり、身請けされたりするが、多くは死んでしまう」とあります。まず生き延びることができるかわからないという、厳しい現実があったことがみてとれます。
どうして遊女たちは次々と命を落としていったのか。はっきりした統計が残っている訳ではありませんが、やはり、その死因の多くは病だろうといわれます。
遊女が病に罹りやすかった理由として、しばしば、その生活の過酷さが挙げられます。遊女は客に応対している際、いくらご馳走が出されても、口をつけることは許されません。客の前でものを食べるのは、「はしたない」とされたからです。客と懇意になるとそうした縛りも緩くなったようですが、多くの遊女は客が寝静まった後に台所に忍び込み、残り物をつまみ食いをする「納戸飯(なんどめし)」をしていたといいます。そして日の出前には客を送り出し、わずかな仮眠をとって支度をしたら、昼からはまた見世にでなければなりません。
■性感染症が多くの遊女たちの命を奪った
生活のタイムスケジュールは、時代や地域、遊女の等級によって異なったでしょう。ただ、似たような生活を送れば、免疫も下がり、さまざまな病に罹患しやすくなったのは当たり前です。そして遊女をめぐっては、数ある病のなかでも、やはり梅毒についての記述が目を引きます。
梅毒は、その起源ははっきりしないものの、15世紀末頃にコロンブス一行がアメリカ大陸から持ち帰ったことで世界的に広まっていった病です。日本にも永正9年(1512)の頃に伝来し、はじめは関西で流行します。当初はもっぱら唐瘡(とうがさ)や琉球瘡(りゅうきゅうがさ)と呼ばれており、中国や琉球との交易を経て伝来した病と認識されていたようです。
戦国時代に輸入された梅毒は、江戸時代をとおして全国的に広がりをみせ、とりわけ都市の遊廓では、あって当然のものになっていきます。幕末に横浜などでおこなわれた検黴(けんばい)(梅毒検査)では、遊女が100人いれば80人は罹患しているような状況だったとも。買売春を生業にして梅毒にならないようにする、というのは当時においてほとんど不可能だったんじゃないでしょうか。
■江戸時代にはなかった、梅毒の根源的な治療法
梅毒のよく知られる症状としては、その名称を象徴する、淡く赤い発疹があるでしょう。現代では薔薇(ばら)疹と呼ばれることが多いですが、もともとはこの発疹が揚梅(やまもも)に似ていることが、梅毒と呼ばれるようになった由来といいます。もっとも、江戸時代には「瘡(かさ)」や「瘡毒」「黴毒」と書かれる方が多く、この表記が一般的になったのは近代以降です。
梅毒の発疹は発症して数カ月であらわれ、自然と症状は消えますが、病が進行していくと様々な症状が顔を出すことになります。なかでも、「鼻が落ちる」というのが有名でしょう。鼻欠(はなかけ)、鼻腐(はなくた)などともいいましたが、鼻周辺にゴム腫ができることで、骨や皮膚組織が破壊され、鼻が削げてなくなってしまうわけです。
そのため、下級娼婦などは自分で鼻に詰め物をしていたといいますが、江戸後期には入歯・入目(義眼)と同じく、入鼻をする商売までも登場したとか。そして、そのように見た目に影響がでるだけでなく、末期には心臓や脳、血管や神経が梅毒によっておかされ、まもなく死に至ります。
■「男たるもの梅毒にかかってこそ!」とあえて笑い話にする者も
死ぬのはもちろん、鼻がなくなるなんて、想像するだけで恐ろしい病です。現代ではペニシリンによる治療法が確立されていますし、性感染症検査も充実しているので、発疹すら出る前に治療をはじめる罹患者も多いようです。しかし、江戸時代においては、残念ながら、徐々に死にいたる、不治の病でした。
そんな病が蔓延(はびこ)っていれば買売春なんてとても……と思いますが、江戸時代には「男たるもの梅毒にかかってこそ!」とか、梅毒を笑い話にする風潮さえうまれました。梅毒という病が日本に伝わった頃はずいぶん恐れられていたようですが、徐々に日常に浸透したのかもしれません。その辺の経緯は、コロナウイルスを経験した世代であれば、なんとなく類推がつくでしょうか。ただし、コロナウイルスに対してもさまざまな見方があったように、江戸時代のひとびとが皆揃って梅毒を笑い話にできたかというと、そうではありません。
梅毒のよく知られる症状としては、その名称を象徴する、淡く赤い発疹があるでしょう。現代では薔薇(ばら)疹と呼ばれることが多いですが、もともとはこの発疹が揚梅(やまもも)に似ていることが、梅毒と呼ばれるようになった由来といいます。もっとも、江戸時代には「瘡(かさ)」や「瘡毒」「黴毒」と書かれる方が多く、この表記が一般的になったのは近代以降です。
梅毒の発疹は発症して数カ月であらわれ、自然と症状は消えますが、病が進行していくと様々な症状が顔を出すことになります。なかでも、「鼻が落ちる」というのが有名でしょう。鼻欠(はなかけ)、鼻腐(はなくた)などともいいましたが、鼻周辺にゴム腫ができることで、骨や皮膚組織が破壊され、鼻が削げてなくなってしまうわけです。
そのため、下級娼婦などは自分で鼻に詰め物をしていたといいますが、江戸後期には入歯・入目(義眼)と同じく、入鼻をする商売までも登場したとか。そして、そのように見た目に影響がでるだけでなく、末期には心臓や脳、血管や神経が梅毒によっておかされ、まもなく死に至ります。
■「男たるもの梅毒にかかってこそ!」とあえて笑い話にする者も
死ぬのはもちろん、鼻がなくなるなんて、想像するだけで恐ろしい病です。現代ではペニシリンによる治療法が確立されていますし、性感染症検査も充実しているので、発疹すら出る前に治療をはじめる罹患者も多いようです。しかし、江戸時代においては、残念ながら、徐々に死にいたる、不治の病でした。
そんな病が蔓延(はびこ)っていれば買売春なんてとても……と思いますが、江戸時代には「男たるもの梅毒にかかってこそ!」とか、梅毒を笑い話にする風潮さえうまれました。梅毒という病が日本に伝わった頃はずいぶん恐れられていたようですが、徐々に日常に浸透したのかもしれません。その辺の経緯は、コロナウイルスを経験した世代であれば、なんとなく類推がつくでしょうか。ただし、コロナウイルスに対してもさまざまな見方があったように、江戸時代のひとびとが皆揃って梅毒を笑い話にできたかというと、そうではありません。
■ゴシップも多数載る「遊女評判記」に梅毒のことが書かれなかったワケ
その証拠に、遊女評判記には滅多に梅毒に関する記述がでてきません。ありふれた病だったのであれば、遊女を批評するなかにもさぞ記述が多かろう、と思いませんか。しかし、いくら評判記をめくってみても、でてくるのは「病で引き籠もる」といった程度の記述ばかりで、梅毒とはっきりわかるものは稀です。
もちろん、まったく記述がない訳ではありません。たとえば、京都の島原を扱った最古の遊女評判記『嶋原集』には、次のようなことが書かれています。
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和泉(いずみ)は、もとは梅の位(天神)の中にはならぶ人もいなかったが、煩い以後、頭は瓢箪(ひょうたん)のように、額には虎のように斑が出来た。とても興(きょう)がある。
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梅の位(天神)とは、大坂や京都の遊廓における遊女の位で、最高位の太夫(松の位)に次ぐ第二の位です。つまり和泉は高級遊女で、そのうえ他にならぶ遊女がいないほどだったと。しかし「煩い」(病)のあとは、頭や額に後遺症が残ってしまったようです。
これだけでは何の病かわかりませんが、この記述のうしろには「河風引(かわかぜひく)な瘡はかせ山」という歌がふされています。「河風(皮風邪)」や「瘡」は天然痘など種々の皮膚病を指しますが、局所的に目立つ痕が残ったというあたり、梅毒の症状のようにも思われます
■遊女と客の命を奪う梅毒は「遊女評判記」でも取り上げにくかった
作者はその痕について「とても興がある」なんて評していますが、歌に詠まれた「瘡はかせ山」の「かせ」は、かさぶたの「痂(かせ)」と、枷(かせ)になるの「枷」をかけているのでしよう。つまり、その痕は客に嫌がられたということです。
数多くの遊女が梅毒に罹患していたのであれば、こうした記述はもちろん、もっと具体的なことが遊女の評判に書かれていてもよさそうなものです。もちろん、遊女評判記は遊女の宣伝も兼ねていますから、病についての記載が少ないのは当然といえば当然です。
しかし、遊女評判記はゴシップ色の強い媒体で、人気が落ちそうなことも好き勝手に書くのがウリでした。それにもかかわらず梅毒があまり登場しないのは、さすがに避けた方がよい事柄として認識されていたからに他ならないでしよう。遊女が梅毒にかかっていることは、笑い話にはならなかったということです。
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髙木 まどか(たかぎ・まどか)
成城大学非常勤講師ほか
東京都生まれ。成城大学非常勤講師、徳川林政史研究所非常勤研究員ほか。成城大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。著書に『近世の遊廓と客』がある。
その証拠に、遊女評判記には滅多に梅毒に関する記述がでてきません。ありふれた病だったのであれば、遊女を批評するなかにもさぞ記述が多かろう、と思いませんか。しかし、いくら評判記をめくってみても、でてくるのは「病で引き籠もる」といった程度の記述ばかりで、梅毒とはっきりわかるものは稀です。
もちろん、まったく記述がない訳ではありません。たとえば、京都の島原を扱った最古の遊女評判記『嶋原集』には、次のようなことが書かれています。
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和泉(いずみ)は、もとは梅の位(天神)の中にはならぶ人もいなかったが、煩い以後、頭は瓢箪(ひょうたん)のように、額には虎のように斑が出来た。とても興(きょう)がある。
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梅の位(天神)とは、大坂や京都の遊廓における遊女の位で、最高位の太夫(松の位)に次ぐ第二の位です。つまり和泉は高級遊女で、そのうえ他にならぶ遊女がいないほどだったと。しかし「煩い」(病)のあとは、頭や額に後遺症が残ってしまったようです。
これだけでは何の病かわかりませんが、この記述のうしろには「河風引(かわかぜひく)な瘡はかせ山」という歌がふされています。「河風(皮風邪)」や「瘡」は天然痘など種々の皮膚病を指しますが、局所的に目立つ痕が残ったというあたり、梅毒の症状のようにも思われます
■遊女と客の命を奪う梅毒は「遊女評判記」でも取り上げにくかった
作者はその痕について「とても興がある」なんて評していますが、歌に詠まれた「瘡はかせ山」の「かせ」は、かさぶたの「痂(かせ)」と、枷(かせ)になるの「枷」をかけているのでしよう。つまり、その痕は客に嫌がられたということです。
数多くの遊女が梅毒に罹患していたのであれば、こうした記述はもちろん、もっと具体的なことが遊女の評判に書かれていてもよさそうなものです。もちろん、遊女評判記は遊女の宣伝も兼ねていますから、病についての記載が少ないのは当然といえば当然です。
しかし、遊女評判記はゴシップ色の強い媒体で、人気が落ちそうなことも好き勝手に書くのがウリでした。それにもかかわらず梅毒があまり登場しないのは、さすがに避けた方がよい事柄として認識されていたからに他ならないでしよう。遊女が梅毒にかかっていることは、笑い話にはならなかったということです。
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髙木 まどか(たかぎ・まどか)
成城大学非常勤講師ほか
東京都生まれ。成城大学非常勤講師、徳川林政史研究所非常勤研究員ほか。成城大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。著書に『近世の遊廓と客』がある。