またまた暫くぶりのアップです。
今回は国家『君が代』について話してみたいと思います。
これ、以前にもこの地味ブログでも話しました。
君が代は壮大なラブソングです。
君はあなた
きは男、伊邪那岐命
みは女、伊邪那美命
男と女がいて新しい命が生まれ
生まれた命がまた新たな命を生む
そんな世が千代に八千代に続く
あなたがいて私は生きている
そんな世がさざれ石が岩をとなるまで
命が命を生み、命が命を育む
そんな世が千代に八千代にさざれ石の巌となりて
そこに苔生すまで
こんな感じです。
しかし、これだけではないのです。
これを今回は少し違う角度から話してみたいと思います。
我々の中心である天皇陛下。
何故、神の末裔である天皇陛下に寿命があるのか?
それは
邇邇芸命が石長比売という不美人を蔑ろにした結果、石長比売の呪いにより寿命が与えられ、以降神の末裔には寿命があるのです。
と、いう話はしましたね。
国家君が代は五七五七七。
これは和歌の形式です。
元々これは『古今和歌集』に収録されていた和歌です。
非常に古い千百年前の和歌です。
そもそもは祝い歌です。
自らが尊敬する、尊い方の健康や長寿を願う祝い歌です。
しかし、これを国家としての側面から見れば
君は天皇
そういう意味を持ちます。
我々民を宝とする、現人神である天皇陛下がお元気で長生きして欲しい。
それを願う祝い歌という意味も持ちます。
時間を例えるには色んな表現がありますね。
新芽が出て、それが伸びて大きくなり、やがて縄文杉の様な大木になる。
一滴の雫が徐々に集まり小川となり、やがて大河となって海に注ぐ。
しかし、この和歌では『岩』を用いて表現しています。
『千代に八千代に』て、どれぐらいの時間なんでしょうか?
小さな礫や石が集まり、それが岩になる。
どれぐらいの時間が必要でしょう?
更にその岩に苔がびっしりと生える。
其れ程の長い時間、天皇陛下には元気でいて欲しい...
それを岩で現しているのです。
天皇の御命を『長く』と例えるなら、やはり岩なんです。
天皇の御命を短くしている、つまり寿命があるのは岩の神の霊力に守られていないからなんです。
邇邇芸命が嫌って石長比売を蔑ろにした。
だから岩の神の霊力に守られていない。
岩の神の霊力は寿命に関わるのです。
ですから天皇陛下には、少しでも岩の神の霊力がその御身に注ぎますように!
天皇陛下の御命が少しでも長くなりますように。
そんな国民からの願いでもあるのです。
古事記を見ても、重要な場面では和歌を詠みますね。
天皇陛下もよく和歌を詠まれます。
国民一人一人の幸せを祈り和歌を詠まれます。
五七五七七
このリズムは神に直結するリズムなのではないでしょうか?
天皇は和歌を通じて祈り上げる。
明治天皇は生涯に十万首の和歌を詠まれたとか。
生涯三万日。
どうやって十万首もの和歌を詠まれたのでしょうか...
それは一日に何首も詠まれ、和歌を詠む事で国民の幸せを祈り上げるのです。
天皇陛下が和歌を以て、我々民の幸せを祈り上げて頂くならば、我々民は天皇陛下の長寿健康を和歌を用いてお祈りする
だから『君が代』は五七五七七。
そして岩の神の例えが示されている。
これが国家君が代の、もう一つの意味です。
そう考えれば、我々民は天皇陛下へ何もお返しできないのです。
ですから国家『君が代』は我々臣民が唯一天皇陛下に恩返し出来る手段なのかもしれません。
毎日、毎日、我々民の為にお祈り頂いているのだけれど、その天皇陛下に我々は何か恩返し出来るのか?
そう考えると、何の手段もないのです。
ただ一つ恩返しが出来るなら、それは
君が代を歌うこと
そう考えれば『君が代』を歌う事は義務や強制などではありません。
これは天皇陛下へ唯一恩返しする手段。
つまり、これは
我々の権利
君が代を歌うことぐらいしか、我々には陛下に報いる手段がないのです。
だから、これを強制だの義務だの言うバカは日本人ではないのでしょう。
邇邇芸命は石長比売を蔑ろにしてしまい、後の世の神の末裔は寿命を持ってしまった。
しかし『君が代』を歌う事で石長比売にも、その霊力をほんの少しでもいいから分けて頂く。
君が代を歌うことで石長比売に民の願いが届き、ほんの少しだけれども、その霊力が降り注ぐのだとイメージして歌う。
我々にはそれぐらいしか出来ないのです。
君が代を歌う事。
これは我々が天皇陛下の恩に報いる権利です。
今回は国家『君が代』について話してみたいと思います。
これ、以前にもこの地味ブログでも話しました。
君が代は壮大なラブソングです。
君はあなた
きは男、伊邪那岐命
みは女、伊邪那美命
男と女がいて新しい命が生まれ
生まれた命がまた新たな命を生む
そんな世が千代に八千代に続く
あなたがいて私は生きている
そんな世がさざれ石が岩をとなるまで
命が命を生み、命が命を育む
そんな世が千代に八千代にさざれ石の巌となりて
そこに苔生すまで
こんな感じです。
しかし、これだけではないのです。
これを今回は少し違う角度から話してみたいと思います。
石長比売
我々の中心である天皇陛下。
何故、神の末裔である天皇陛下に寿命があるのか?
それは
邇邇芸命が石長比売という不美人を蔑ろにした結果、石長比売の呪いにより寿命が与えられ、以降神の末裔には寿命があるのです。
と、いう話はしましたね。
国家君が代は五七五七七。
これは和歌の形式です。
元々これは『古今和歌集』に収録されていた和歌です。
非常に古い千百年前の和歌です。
そもそもは祝い歌です。
自らが尊敬する、尊い方の健康や長寿を願う祝い歌です。
しかし、これを国家としての側面から見れば
君は天皇
そういう意味を持ちます。
我々民を宝とする、現人神である天皇陛下がお元気で長生きして欲しい。
それを願う祝い歌という意味も持ちます。
時間を例えるには色んな表現がありますね。
新芽が出て、それが伸びて大きくなり、やがて縄文杉の様な大木になる。
一滴の雫が徐々に集まり小川となり、やがて大河となって海に注ぐ。
しかし、この和歌では『岩』を用いて表現しています。
『千代に八千代に』て、どれぐらいの時間なんでしょうか?
小さな礫や石が集まり、それが岩になる。
どれぐらいの時間が必要でしょう?
更にその岩に苔がびっしりと生える。
其れ程の長い時間、天皇陛下には元気でいて欲しい...
それを岩で現しているのです。
天皇の御命を『長く』と例えるなら、やはり岩なんです。
天皇の御命を短くしている、つまり寿命があるのは岩の神の霊力に守られていないからなんです。
邇邇芸命が嫌って石長比売を蔑ろにした。
だから岩の神の霊力に守られていない。
岩の神の霊力は寿命に関わるのです。
ですから天皇陛下には、少しでも岩の神の霊力がその御身に注ぎますように!
天皇陛下の御命が少しでも長くなりますように。
そんな国民からの願いでもあるのです。
古事記を見ても、重要な場面では和歌を詠みますね。
天皇陛下もよく和歌を詠まれます。
国民一人一人の幸せを祈り和歌を詠まれます。
五七五七七
このリズムは神に直結するリズムなのではないでしょうか?
天皇は和歌を通じて祈り上げる。
明治天皇は生涯に十万首の和歌を詠まれたとか。
生涯三万日。
どうやって十万首もの和歌を詠まれたのでしょうか...
それは一日に何首も詠まれ、和歌を詠む事で国民の幸せを祈り上げるのです。
天皇陛下が和歌を以て、我々民の幸せを祈り上げて頂くならば、我々民は天皇陛下の長寿健康を和歌を用いてお祈りする
だから『君が代』は五七五七七。
そして岩の神の例えが示されている。
これが国家君が代の、もう一つの意味です。
そう考えれば、我々民は天皇陛下へ何もお返しできないのです。
ですから国家『君が代』は我々臣民が唯一天皇陛下に恩返し出来る手段なのかもしれません。
毎日、毎日、我々民の為にお祈り頂いているのだけれど、その天皇陛下に我々は何か恩返し出来るのか?
そう考えると、何の手段もないのです。
ただ一つ恩返しが出来るなら、それは
君が代を歌うこと
そう考えれば『君が代』を歌う事は義務や強制などではありません。
これは天皇陛下へ唯一恩返しする手段。
つまり、これは
我々の権利
君が代を歌うことぐらいしか、我々には陛下に報いる手段がないのです。
だから、これを強制だの義務だの言うバカは日本人ではないのでしょう。
邇邇芸命は石長比売を蔑ろにしてしまい、後の世の神の末裔は寿命を持ってしまった。
しかし『君が代』を歌う事で石長比売にも、その霊力をほんの少しでもいいから分けて頂く。
君が代を歌うことで石長比売に民の願いが届き、ほんの少しだけれども、その霊力が降り注ぐのだとイメージして歌う。
我々にはそれぐらいしか出来ないのです。
君が代を歌う事。
これは我々が天皇陛下の恩に報いる権利です。