我々が戴く天皇は政治には関わりません。
それは、天皇自身が政をする事を避けて民を自らの大いなる宝だとしているからです。
また、闘争などと言う穢れを纏わせることを避けてもいます。
ですから、私は天皇には世界にない大いなる存在で居て頂きたいと考えます。
その大いなる存在の大いなる宝である民として生きる事はこれは神勅なのだと私は考えています。
これを知るには古事記や日本書記などの記紀を読むことで知ることが出来ます。
我々の政治、我々の国造りはこれが根っこなのです。
だから私は天皇不親政は絶対だと考えます。
神話に遡っても最高権威が親政なんて事はないのです。
天皇の勅命で行う政治を主張する方もいらっしゃるけれど、それはよくよく考えれば天皇を政治利用する事になるのです。
天皇陛下という存在は権力のプロではないのです。
権威の無い権力に力はない!
その様に仰る方もいらっしゃる。
この言葉のままなら、権力者に権威を与える事になります。
つまり今なら安倍晋三に権威を与える事になります。
そんな存在が我が国に必要か?
権威ある権力者となった安倍晋三が有難い存在か?
我々は共和制国家でも連邦国家でもありません。
我が国の権威は天皇であり、国家元首はその権威であるのです。
権力者はどんなに頑張っても、この権威にはなれません。
この権威を超える事はありません。
例えば権力と権威が一体ならば、確かに力もあり政治のスピードは早いでしょう。
しかし、世界を見れば共和制国家や連邦国家、更に共産主義の独裁国家を見て、あれが素晴らしいと私は思えない。
ロジックの天才が考えて考えて、それでも考えて最後には
天皇に帰一する
と、言う国。
そんな日本の根っこは理屈ではないのです。
それが二千年を超えて紡いで来た我が国の根っこであるからです。
古事記の国譲りに代表される我が国の根っこは
アライアンス
争い、奪い、独り占めする事ではない。
お互いを認め、お互い助け合う。
相手の意見を認め、自らの意見を示し、それを合議して一致点を見いだす。
そういう生き方をするのが正しいと、古事記に書いてある。
日本人の哲学が示しているのです。
我々は天皇という御存在に政治を任せるのではありません。
天皇という存在は、民こそが我が宝として『あなたこそが大事』と私を真っ先に脱する生き方をなさる
だから我々は天皇の所有物ではないのです。
その証拠に天皇は政を民に任せ、名字も持たず、居住の自由もなく、職業選択の自由もない。
事に当たっては、昭和天皇がなさった様に民の為に真っ先に命を使おうとなさるのです。
我々はその御存在が日本人の根幹だと知っている。
だからこそ我々民と天皇は強い相互信頼の絆で結ばれていて、決して支配と服従の関係性ではない
そしてその絆を考えるなら、例えば我々民が皇統やお妃の問題に口を出すものでもない。
あまりに不敬です。
くだらぬ現憲法の第一条を理由に皇室に対する意見を言うなど、アホな話しです。
そんなものはクソの左翼の反日論です。
この根っこをしっかりと体現して国を作っていかねばならんのです。
その為には
政教分離なるくだらぬ条文を憲法から外す!
そして神道理念とする本物の保守政治を作る!
そしていずれ
宗教でもない神道を宗教法人から外す。
世に保守などと吐かすバカタレは、一体何が保守なのか等、一切理解など出来ていない。
本来の日本を取り戻すと言いながら、本来の日本など理解出来ていません。
理解出来ていないから、多数決が民主主義だなどとバカな事を言う。
多数決に拠るなと神話に遡ってみても理解出来るのです。
また、天皇に権力を持たせる等というバカタレも何もわかっていない。
神勅がなんであるかを考えれば、天皇不親政はこれはもう否定のしようがありません。
世に言う保守とは一体何がしたいのか?
私は保守でも、革新でもありません。
真っ直ぐ真ん中から見れば、明らかに本物の保守とは何なのかが見えて来るものです。
神道理念の政治
神道を宗教法人から外す
そして
靖国神社を国家施設とし、それと共に本当の戦争記念館を国家施設として運営する
いつ実現するのか?
それはわからない。
我々が生きている間には出来ないかもわからないけれど、これが実現した時こそ我が国が本物の国家として生まれ変わることが出来るのではありませんか?
本当の日本の根っこを取り戻す。
敗戦後の秩序が壊れ、明らかに世界の秩序は新しい時代に入っています。
そんな時代に必要なのは、長きに渡る揺るぎない歴史と理念を持った民族ではないか?
私はそう思えてならないのです。
それは、天皇自身が政をする事を避けて民を自らの大いなる宝だとしているからです。
また、闘争などと言う穢れを纏わせることを避けてもいます。
ですから、私は天皇には世界にない大いなる存在で居て頂きたいと考えます。
その大いなる存在の大いなる宝である民として生きる事はこれは神勅なのだと私は考えています。
これを知るには古事記や日本書記などの記紀を読むことで知ることが出来ます。
我々の政治、我々の国造りはこれが根っこなのです。
だから私は天皇不親政は絶対だと考えます。
神話に遡っても最高権威が親政なんて事はないのです。
天皇の勅命で行う政治を主張する方もいらっしゃるけれど、それはよくよく考えれば天皇を政治利用する事になるのです。
天皇陛下という存在は権力のプロではないのです。
権威の無い権力に力はない!
その様に仰る方もいらっしゃる。
この言葉のままなら、権力者に権威を与える事になります。
つまり今なら安倍晋三に権威を与える事になります。
そんな存在が我が国に必要か?
権威ある権力者となった安倍晋三が有難い存在か?
我々は共和制国家でも連邦国家でもありません。
我が国の権威は天皇であり、国家元首はその権威であるのです。
権力者はどんなに頑張っても、この権威にはなれません。
この権威を超える事はありません。
例えば権力と権威が一体ならば、確かに力もあり政治のスピードは早いでしょう。
しかし、世界を見れば共和制国家や連邦国家、更に共産主義の独裁国家を見て、あれが素晴らしいと私は思えない。
ロジックの天才が考えて考えて、それでも考えて最後には
天皇に帰一する
と、言う国。
そんな日本の根っこは理屈ではないのです。
それが二千年を超えて紡いで来た我が国の根っこであるからです。
古事記の国譲りに代表される我が国の根っこは
アライアンス
争い、奪い、独り占めする事ではない。
お互いを認め、お互い助け合う。
相手の意見を認め、自らの意見を示し、それを合議して一致点を見いだす。
そういう生き方をするのが正しいと、古事記に書いてある。
日本人の哲学が示しているのです。
我々は天皇という御存在に政治を任せるのではありません。
天皇という存在は、民こそが我が宝として『あなたこそが大事』と私を真っ先に脱する生き方をなさる
だから我々は天皇の所有物ではないのです。
その証拠に天皇は政を民に任せ、名字も持たず、居住の自由もなく、職業選択の自由もない。
事に当たっては、昭和天皇がなさった様に民の為に真っ先に命を使おうとなさるのです。
我々はその御存在が日本人の根幹だと知っている。
だからこそ我々民と天皇は強い相互信頼の絆で結ばれていて、決して支配と服従の関係性ではない
そしてその絆を考えるなら、例えば我々民が皇統やお妃の問題に口を出すものでもない。
あまりに不敬です。
くだらぬ現憲法の第一条を理由に皇室に対する意見を言うなど、アホな話しです。
そんなものはクソの左翼の反日論です。
この根っこをしっかりと体現して国を作っていかねばならんのです。
その為には
政教分離なるくだらぬ条文を憲法から外す!
そして神道理念とする本物の保守政治を作る!
そしていずれ
宗教でもない神道を宗教法人から外す。
世に保守などと吐かすバカタレは、一体何が保守なのか等、一切理解など出来ていない。
本来の日本を取り戻すと言いながら、本来の日本など理解出来ていません。
理解出来ていないから、多数決が民主主義だなどとバカな事を言う。
多数決に拠るなと神話に遡ってみても理解出来るのです。
また、天皇に権力を持たせる等というバカタレも何もわかっていない。
神勅がなんであるかを考えれば、天皇不親政はこれはもう否定のしようがありません。
世に言う保守とは一体何がしたいのか?
私は保守でも、革新でもありません。
真っ直ぐ真ん中から見れば、明らかに本物の保守とは何なのかが見えて来るものです。
神道理念の政治
神道を宗教法人から外す
そして
靖国神社を国家施設とし、それと共に本当の戦争記念館を国家施設として運営する
いつ実現するのか?
それはわからない。
我々が生きている間には出来ないかもわからないけれど、これが実現した時こそ我が国が本物の国家として生まれ変わることが出来るのではありませんか?
本当の日本の根っこを取り戻す。
敗戦後の秩序が壊れ、明らかに世界の秩序は新しい時代に入っています。
そんな時代に必要なのは、長きに渡る揺るぎない歴史と理念を持った民族ではないか?
私はそう思えてならないのです。