犬神スケキヨ~さざれ石

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古事記を摘んで日本を知る...53

2018-08-15 22:00:57 | 古事記
さても久しぶりの古事記です。

前回のおさらいは52をご覧下さい。

では早速物語に参りましょう。

理解してなかった?


豊玉毘売(とよたまびめ)と結婚した火遠理命(山幸彦)、結婚の宴会で浮かれて三年。
三年も宴会やってたわけですよ。

『あれ?俺は何しに来たんだっけ?』
三年経って気がつきました。

『しまった!兄さまの釣り針を探しに来たんだよね...確か。』

それで『はあ...』なんてため息ですよ。

そのため息を見た豊玉毘売。

『あら?この人は今ため息ついたわ...どうしたのかしら?今まで三年間、こんな姿を見たことないわ』
そう思います。

そこで父上に相談です。

『お父様、あの方が今日はため息をついておられて、こんな事は初めてですわ。一体どうしたのかしら』

お父様はエライこっちゃ!とばかりに事情を聞きに行きます。

『なんだかため息をついていらして、娘が心配しておりますが大丈夫ですか?』
そう尋ねます。

さらに

『て言うか、そもそもここへは何しに来たんですか?』

と、三年間訪れた理由を聞いてなかった事実が判明します。

いやいや、普通その日に聞くでしょうよ!

今更『youは何しに海神へ?』みたいな話しあるのか!という事ですよ!
あんた三年間も考えんかったんか!

そこで火遠理命は
『あ、いや実は私もすっかり忘れておりましたが...』
三年間もすっかり忘れてしまう。

『実は兄様の釣り針を失くしてしまい...』

三年経ってやっと話しが進みます。
兄様、この三年釣り針なくてどうしていたのでしょうか...。

すると

『な〜んだ!あんたなんでそれ早く言わないのよ!私、海の神ですよ!なんだそう言うの早く言ってよ〜!』

『え?そうなの?でも小さい針ですよ、あんなの見つかりますか?』

『まかせなさい!』

すかさず綿津見神は魚達を呼び寄せます。

魚達は『なんだ?どうした?』と寄って来るわけです。

そこで『おい!お前達の中に釣り針を持った奴はおるか?』と尋ねます。

『あー、そういえば確か鯛の野郎が最近、喉になんか引っかかって物が飲み込めねえとか言ってやしたぜ』

『おぉ、そうか!じゃあ鯛を呼んで来てくれ』

そうやって鯛を呼び出し喉を見て見ると、釣り針が刺さってるんですよ。
鯛もそりゃツラかったでしょうね。
三年間も釣り針が喉に刺さってたんですからね。
『なんか食うたびに痛いわ飲み込めねえわ』とか言って三年間も過ごしてたわけですよ、よく生きてましたね。

それでもってすぐに抜いてやって火遠理命に見せたら『これです!これです!』と、一件落着。

しかし三年もかかりますかねこれ。

ただ綿津見神は『じゃ、これ返しなさい』とは言わなかったのです。
『あなたのお兄さん、随分と意地が悪いじゃないの、これは懲らしめてやりなさいよ』
そう言うのです。
呪いをかけろと言うのです。

心の寒がる釣り針〜!心の猛り狂う釣り針〜!貧乏な釣り針〜!愚かな釣り針〜!

呪いをかて後ろ手に渡せ!
そう言うのです。

出ましたよ!

普段と違う、逆さ作法!

こういうの呪いですからね!

誕生日プレゼントとかお祝いとか、バレンタインでも後ろ手に渡されたれた呪いですからね!

『兄が高いところに田を作ったらあなたは低いところに作りなさい。兄が低いところに作るならあなたは高いところに。私は水を支配している。上手いことやるからね。兄は三年の間に貧しくなるだろう』
海の神はそう言うのです。

しかし...
ここで衝撃の事実が発覚しました!

山幸彦は野山を駆け回って獣を取る猟師!
海幸彦も釣りをする漁師!

と、思ってきましたが!

実は

兼業農家だった!

どうも本業は米作ってたみたいですよ!

その米作りの合間に猟師やったり、魚釣りの漁師やってたりしたみたいです!

海幸彦とか山幸彦とか言うから、プロの猟師やプロの漁師だと思ってましたけども違うみたい。

そして塩盈玉(しおみつたま)とか塩乾玉(しおふるたま)とか貰って使うわけです。

塩盈玉は満潮にして兄さんを溺れさせます。
塩乾玉は干潮にします。

兄さんを溺れさせて『助けてくれ!』と言ったら
干潮にして助けてやります。
しかし、水は干上がり作物は育たない。
とにかく、そんな感じで兄さんを苦しめます。

そもそも悪いのは火遠理命ですよ。
狩人がいきなり魚釣りなんか出来るわけない。
だから兄さんの火照命は断ったんですけど強引に道具を交換した。
けど釣り針を失くした弟にキツく当たり過ぎたのですね。

五百も千も釣り針を作って来たのですから、それで許しやれば良かったのですけど。
兄さんやり過ぎましたね。

窮鼠猫を噛むの法則ですよ。

謝っても代わりの針を渡しても許してくれない。
じゃあどうすんだ!
そう言う事です。

で、まあ、あんまりにも意地悪したんで塩盈玉とか塩乾玉でキツイ仕返しにあいます。
結局、兄さんは弟に未来永劫仕えなくてはならなくなってしまいした。

その為、火照命の子孫隼人族は朝廷に仕える身分となったのです。

神話では、兄弟喧嘩は弟が勝つのです。

実際歴史的にもそういう事は多々あるわけです。
聖書の中でもカインとアベルとか、イシュマエルとイサクとかあるわけです。

壬申の乱やら保元の乱でも、なんの因果か兄弟喧嘩はよくあるわけで、しかし弟が勝つと。
その典型的な話しが古事記にもあるのです。

儒教が入る以前の日本は、末息子が後を継いだとか言う話しもありますから、その辺り何らかの因果を感じずにはいられませんね。

この御代の終わりに

2018-08-06 16:30:05 | 草莽崛起
今年の夏は非常に暑い。

今まで経験した事のない暑さですね。

しかも台風に豪雨災害、大阪では地震とここまででも災害の多い年です。

しかしこの夏はこの御代最後の夏なのです。
平成と言う御代最後の夏。
来年の夏は新しい時代の夏になるのです。

うちの爺さん婆さんは明治の生まれです。
ですから明治、大正、昭和と3つの御代を体験しているのです。

私は昭和の生まれですから、昭和、平成、そして次の元号を経験するのです。
まさか自分が爺さん婆さんと同じ様な経験をするとは...
そんな変な心持ちでもあります。

御譲位をもって考えませんか?


さて、来年は御代が変わります。

つまり、新しい天皇が誕生し元号が変わる。
我々庶民はこの様に考えればよろしいわけですが、これが我々日本人の根っこを考える良い機会なのです。

例えば、即位の礼などの儀式。
日々の祈り。

祭日に行われる儀式など、一番わかりやすいのは勤労感謝の日などと訳の分からないものに変えられてしまった新嘗祭など、これを良く考えなければなりません。

ちなみに御代代わりの年に行われる新嘗祭は新嘗祭とは言わず大嘗祭(だいじょうさい)と言って、神に御代が代わったことを報告する大切な祭祀です。

これら祭祀をどう考えるのか?

天皇が行う祭祀や日々の祈り、更に御譲位の儀式ははっきり申せば日本神道に立脚しているのです。

立脚なんてもんじゃない。
それが根っこな訳です。

また、天皇と言う御存在もそこが根っこです。

しかし、その祭祀や祈りが現在は私的行為とされているのです。

それは何故か?

敗戦後のGHQの政策によるものです。

詳しくは拙著記事を参照下さい。
今一度足元を見て - 犬神スケキヨ~さざれ石


GHQの政策により天皇による祭祀や祈りは私的行為とされてしまいました。

政教分離なる言葉の基にです。

アメリカは日本の神道における天皇の存在を『教祖』だと考えた。
神道と言うカルト教が基で戦争を起こしたのだ!
そう考えたのです。

つまり神道を宗教と考えたのです。

一神教の国らしい考え方ですね。

全知全能たる神がこの世にいて、全ての創造主だと考える一神教。
その象徴こそが天皇で、カルトだと考えたのです

つまり

神道なる宗教は邪教である!

そんな考えのもとに神道を変え、祭祀を変えてしまったのです。

しかし、我々の神道は宗教などではありません。
そもそも『宗教』なる言葉すらなかった。

神道の根っこは古事記に記された神話です。

その神話は我が国の成り立ちを示しています。

神々から繋がり初代神武天皇が即位し、今上天皇へと繋がるのです。

歴代天皇は終始一貫、質素倹約を旨とし、ただ民の為に祈る事で統治をしてきました。

古事記を読んで、この本の中に教義や教祖があると思う人がいたら、それは頭がイカレてますよ。

西洋の例えば、キリスト教などは『自然とは克服すべきもの』と考えます。
しかし我々日本人にとっての自然とは『ありのままそこにあるもの』
決して克服などするものではなく、共に生きながら我々に恵みを与えてくれるもの。

natureと言う言葉は、我々が考える自然ではないのです。
つまり、この自然もありのままそこにあるのですから全知全能の神が作ったものではない。
我々の神々は、ありのままの姿で、それすらも自然なのです。

一神教のGODは、我々日本人の神とは意味が違うのです。
GOD=神ではない。

神話から繋がる神道は宗教などではなく、日本人の哲学であるのです。
どう生きて、どう死ぬのか?
生きる理由、死ぬ理由。
それが神道であり、そして天皇が行う儀式の意味であるのです。

白人達はそれがわからないのです。
だから、天皇を教祖とする『カルト教』と認識し、我々の信仰を変えてしまおうと考えたわけです。

だから戦後、GHQは神道を宗教にしてしまったのです。
また政教分離を強く進めた。

天皇の統治とは、これは祈る事です。
祈る事により国を守るのです。
そして一切の権力を持ちません。


権力は我々民に託したのです。

権威である天皇と権力である民が一緒になって国を造り、国政を担う。

君民共治

と言います。

『君民一体』の国政こそが我が国の根っこです。

天皇とは決して宗教の教祖ではありません。
そして我が国の神々は唯一絶対、全知全能の存在ではありません。

いわばありのままの自然を表し、我々日本人の始まりや生き方、そして死に方。
それを表したものであってこれは哲学です。

その神道を戦後政策により宗教と言う、古来日本にない概念に押し込み『祈りと感謝』と言う当たり前の事を禁じてしまったのです。

神武天皇は『私は民の為に祈る』と言い権力を我々民に託した。
仁徳天皇は『天皇とは民があって天皇』と言って民の為、人の為、あなたこそ大切と生きた。

これが政教分離なるバカなもので、公の行為で無くなったのです。

本来、民の為に祈る事で統治をして来た我が国の天皇の祈りを禁じる事がどれ程、我々日本人の心を破壊するか考えなければなりません。

民の為の祈りが私的行為などバカげた話しだ!

天皇の公務とは本来の目的は祈りです。

その根っこを我々日本人は忘れてしまったのか?

いつまでも私的行為などと言っていたら、我が国の本来の目的、本来の生き方、そして死に方を失ってしまいます。

そして何よりも我々民がその天皇と言う御存在をここまで繋いで来たのです。

このままでは我々日本人の心はバラバラに壊れてしまいます。

天皇の祈りは民の為。
天皇の祈りは公務。
天皇の祈りは国事行為。

それが我が国の本来の生き方なのです。