昭和天皇の言葉を数回にわたり紹介していこうと言うことで、今回2回目となります。
自分の考えや意見は排除し、昭和天皇が仰る言葉を紹介して行く事にしています。
あなたは、これらの言葉をどう受け止めるか?
あなた次第です。
軍備は縮小すべからず、さりとて国家財政の不均衡を来すがごとき増兵も許すべからず、その調整こそ誠に重要なり
海軍では1933年9月に軍令部が公示され、用兵について陸軍参謀本部と同等の権限を持つようになりました。
昭和天皇におかれては、歴史上のイギリス、オランダの戦争では、オランダが一度は海戦で勝利しながらも、陸軍の増強の為に海軍を縮小し、最終的にには敗れた例を引いてこう語られたのです。
謀略などというものは当てになるものじゃない
大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議なくらいだ
日中戦争当時、中華民国国民党軍と共産党は抗日の為に協力関係を結んでいた。
日本側は切り崩しも狙い、国民党内部で反共派の汪兆銘に対して対日講和を働きかけるのです。
しかし昭和天皇におかれてはこれには期待していませんでした。
蒋介石率いる国民党は重慶に遷都し、日本への抗戦を続け、日本による汪兆銘政権の樹立は失敗しました。
ただ緊縮を叫ぶときには
かえって不景気を紹来せずや
満州事変後、国内外の厳しい状況から荒木貞夫陸軍大臣な支出を抑える緊縮財政を唱えました。
しかし、昭和天皇は以前にも井上準之助蔵相が緊縮財政を唱えた時、かえって景気を縮小を招いたことをあげて政策の偏りを危惧していました。
短期的な視野による急激な改革や極端な政策を避けるという天皇陛下の姿勢は戦前戦後も一貫していました。
戦争に反対する者の意見は抽象的であるが
内閣の方は数字を挙げて戦争を主張するのだから遺憾ながら戦争論を抑える力がなかった
敗戦の翌年にあたる1946年春、昭和天皇は、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、寺崎英成御用掛ら側近に昭和初期から終戦までを語られました。
この中で陛下は開戦前に重臣たちを招いている意見を聞いたが、開戦に反対する近衛文麿首相らの意見は抽象的なのに対し、開戦を唱える軍や外交関係者は資源の問題や勝算など具体的な数字を挙げて主張するので、明確に反対することができなかったと説明しています。
民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである
しかも神に誓われた
そうして『五箇条のご誓文』を発して、それが基となって明治憲法ができた
民主主義とは決して輸入のものではないということを示す必死が大いにあったと思う
那須御用邸での定例記者会見。
1946年1月に発表された『新日本建設に関する詔書』についてのお言葉です。
昭和天皇におかれては五箇条のご誓文にあった『広く会議を興し、万機公論に決すべし』を近代民主主義の基礎と考えられていた様です。
この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置き難いことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて少しでも種子が残りさえすれば
さらにまた復興という光明も考えられる
ポツダム宣言の受諾が最終決定された1945年8月14日の御前会議の席上、昭和天皇は『国民が玉砕して君国に殉ぜんとする気持ちもよく分かるが...』としたうえで、最終の聖断を下しました。
和平に出ても先方の方針を信頼できるかどうか、その様な不安は認めつつも日本の存続を選ぶのでした。
陛下は自らの意見を述べた後涙を流され、会議に参加した閣僚らも号泣したと言われます。
自分の考えや意見は排除し、昭和天皇が仰る言葉を紹介して行く事にしています。
あなたは、これらの言葉をどう受け止めるか?
あなた次第です。
天皇の言葉
軍備は縮小すべからず、さりとて国家財政の不均衡を来すがごとき増兵も許すべからず、その調整こそ誠に重要なり
海軍では1933年9月に軍令部が公示され、用兵について陸軍参謀本部と同等の権限を持つようになりました。
昭和天皇におかれては、歴史上のイギリス、オランダの戦争では、オランダが一度は海戦で勝利しながらも、陸軍の増強の為に海軍を縮小し、最終的にには敗れた例を引いてこう語られたのです。
謀略などというものは当てになるものじゃない
大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議なくらいだ
日中戦争当時、中華民国国民党軍と共産党は抗日の為に協力関係を結んでいた。
日本側は切り崩しも狙い、国民党内部で反共派の汪兆銘に対して対日講和を働きかけるのです。
しかし昭和天皇におかれてはこれには期待していませんでした。
蒋介石率いる国民党は重慶に遷都し、日本への抗戦を続け、日本による汪兆銘政権の樹立は失敗しました。
ただ緊縮を叫ぶときには
かえって不景気を紹来せずや
満州事変後、国内外の厳しい状況から荒木貞夫陸軍大臣な支出を抑える緊縮財政を唱えました。
しかし、昭和天皇は以前にも井上準之助蔵相が緊縮財政を唱えた時、かえって景気を縮小を招いたことをあげて政策の偏りを危惧していました。
短期的な視野による急激な改革や極端な政策を避けるという天皇陛下の姿勢は戦前戦後も一貫していました。
戦争に反対する者の意見は抽象的であるが
内閣の方は数字を挙げて戦争を主張するのだから遺憾ながら戦争論を抑える力がなかった
敗戦の翌年にあたる1946年春、昭和天皇は、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、寺崎英成御用掛ら側近に昭和初期から終戦までを語られました。
この中で陛下は開戦前に重臣たちを招いている意見を聞いたが、開戦に反対する近衛文麿首相らの意見は抽象的なのに対し、開戦を唱える軍や外交関係者は資源の問題や勝算など具体的な数字を挙げて主張するので、明確に反対することができなかったと説明しています。
民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである
しかも神に誓われた
そうして『五箇条のご誓文』を発して、それが基となって明治憲法ができた
民主主義とは決して輸入のものではないということを示す必死が大いにあったと思う
那須御用邸での定例記者会見。
1946年1月に発表された『新日本建設に関する詔書』についてのお言葉です。
昭和天皇におかれては五箇条のご誓文にあった『広く会議を興し、万機公論に決すべし』を近代民主主義の基礎と考えられていた様です。
この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置き難いことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて少しでも種子が残りさえすれば
さらにまた復興という光明も考えられる
ポツダム宣言の受諾が最終決定された1945年8月14日の御前会議の席上、昭和天皇は『国民が玉砕して君国に殉ぜんとする気持ちもよく分かるが...』としたうえで、最終の聖断を下しました。
和平に出ても先方の方針を信頼できるかどうか、その様な不安は認めつつも日本の存続を選ぶのでした。
陛下は自らの意見を述べた後涙を流され、会議に参加した閣僚らも号泣したと言われます。