dedication(デディケィション)
それはイキイキとして生きる為に必要なものではないか?
と、考えます。
では
dedicationとは何でしょう。
生きているのか?
あなたは生きていますか?
そう聞かれたら「当たり前だ!」と皆さんは答えるでしょう。
当然です。
死人はこのブログを読めるはずありません。
読んで頂いているという事は間違いなく生きている。
では生き生きと生きているのか?
そう聞かれると少し戸惑います。
「果たして自分は生き生きと生きているのか?」
例えば哺乳類は生物学的には、メスは閉経を迎えると死にます。
これは、子孫を残せなくなったからです。
子孫を残せないと死んでしまいます。
つまり、動物は子孫を残して行く事が生きる理由なのですね。
だから子孫を残す機能が終われば死にます。
例えば哺乳類は一夫多妻が多いです。
ライオンなどは典型的です。
ライオンは一頭のオスに数頭のメスがいて、一つの群れを形成しています。
オスライオンの役割りは群れを守る事にあります。
そして、若いオスライオンが現れ、群れを守るオスがその若いライオンに群れを奪われたら、奪われたオスは死にます。
何故なら、オスライオンはメスを従え群れを守り強い遺伝子の子孫を残すことが生きる理由だからです。
群れを奪われ、自らの遺伝子を残せなくなれば生きる理由がなくなります。
だから死にます。
すべからく生物には生きる理由が必要なのです。
繰り返しの平等
生物には生きる時間があります。
例えば、ネズミ。
ネズミの寿命は3年程度です。
しかし、象の寿命は70年程度です。
ずいぶんと不公平な感じがしますね。
象はネズミの20倍強生きるのですからね。
しかし、この感覚は我々人間が感じるものです。
ネズミと象では代謝速度が違います。
象とネズミでは代謝速度が20倍違うのです。
体が大きく、動きがゆっくりとした生き物ほど代謝速度が遅い。
ですから、何年生きた!では寿命とは言えません。
ネズミは代謝速度も早く動きも早い。
振り返るスピードを見てもチョコマカ素早く振り返ります。
一方、象はゆっくりと振り返るり、代謝速度も遅い。
これを振り返りの回数で見てみると生涯の振り返り回数はどちらも同じ。
例えば6000回振り返ると死ぬとします。
ネズミは3年で6000回振り返り死にます。
象は6000回に至るまで70年かかると言う事です。
象もネズミも生涯の心拍数は同じ。
同じ数だけ心臓が鼓動すると死にます。
つまりは繰り返しの数はどの動物も同じなのです。
人間は違いますが…
では我々人間はどうでしょう?
少なくとも人間のメスは当てはまりません。
メスとはつまり
女性ですね。
人間の女性は閉経を迎えても死にません。
閉経を迎え、子を産めなくなっても生きています。
今や日本の女性の平均寿命は80歳を超えます。
だいたい50歳で閉経を迎えたと仮定しても、その後30年以上も生きています。
生物学的には何の生きている理由はありません。
しかし、人間は知能が発達し複雑な社会構造を持ちます。
この様な人間界では女性は閉経後もやらなければならない事があるのです。
孫の世話もそうですし、経験を次の世代に伝えなければなりません。
複雑な社会構造であればある程に、そうした事が沢山あり閉経後直ぐに死んでは子孫が繁栄しないのです。
子孫に良い事や悪い事を伝えていかねばならないのです。
女性というのは何と偉大なる生き物何でしょう!
方や人間のオス。
要するに男性は、平均寿命は女性より短いです。
だいたい79歳ぐらいです。
それでも自然から考えればずいぶんと長生きです。繰り返しの平等からは外れます。
しかし、その長い寿命も妻帯者や異性のパートナーが存在している場合です。
独り身でパートナーのいない男性は10歳近く寿命は短いのです。
男性の場合はパートナーの存在こそが生きる理由だからです。
守るべきパートナーがなければ死にます。
ライオンと同じですねぇ。
人間の男性は寿命は自然界よりは長いけれど生物学的制約は受けているのです。
人間の男性というのは女性の存在があって初めて成り立つと言っても良いのではないか?
そう思います。
そんな男性が女性より上位だと考える白人社会は一体どういう社会構造なんでしょうかね…
生きていると言う事
ここで、先述の質問に立ち返ります。
生きているのか?
私は生命活動をしていることだけが生きているのか?
そう考えます。
生物が生物として生きる為には理由や意味が必要です。
生きるとは
呼吸をしている
これは当たり前ですね。
呼吸がなければ死んでます。
死人です。
これは単なる生命活動であって人間として生きているのか?と考えます。
私は人間として生きているとは生物としての生命活動だけではないと思います。
生きているとは生きている実感ではないでしょうか。
例えば
愛する人がいる
愛されている
今日より明日が良くなっていると思える
飯が美味い
過ぎた昨日を悔やまない
まだ来ぬ明日に不安にならない
誰かの助けになっている
いつ死んでも良い
まだまだありますが、こんな感じではないでしょうか?
愛する人がいて、愛されていると感じるだけで人は生き甲斐を感じます。
生物には生きる理由が必要です。
愛する人を守るとか愛してくれる人を大切にしたいと思う事は生きる理由に値します。
今日より明日が良くなっていると思えたなら、また明日頑張ろうと思えます。
日に日に悪くなると考えていたら頑張ろうと思えませんね。
だから、過ぎた昨日を悔やまない。
今日は夜になり終わります。
夜が明け、朝が来ればもう過去です。
時間は巻き戻せません。
反省はしても後悔は必要ありません。
また、まだ来ぬ明日を不安に思っても意味はありません。
明日にならなければ明日は解りません。
解らないことをあれこれ不安に感じて萎縮しては何も出来ない。
いつ死んでも良い。
死を恐れては何も出来ませね。
人は必ず死にます。
死なない人はいません。
いつ死ぬかも解らない。
解らないことを不安に思っても死にます。
死を過剰に恐れては通りも歩けません。
歩いているだけなのに車に轢かれて死ぬかもしれない。
御飯が喉に詰まり死ぬかもしれない。
死など直ぐ側にあるけど、いつ我が身に起こるのかは誰も解らない。
ならば、いつ死んでも良い覚悟で毎日を精一杯過ごした方が有意義ではありませんか?
誰かの助けになっている。
我々日本人と世界では「労働」や「勤労」に対する考え方が違います。
日本人にとっての勤労は喜びです。
世界では勤労や労働は「苦役」です。
世界は働くことが苦痛なんです。
しかし日本人は然程苦痛とは思わない。
何故ならば、その労働で誰かの助けになっていると考えるからです。
そして自分自身も誰かの労働に助けられて生きていると考えるからです。
誰かが私の労働で助けられて生きていて、私も助けられて生きている。
人の役に立っていると思える喜び。
これが日本人なのです。
他者を尊重する社会構造こそが我々日本人の生き方であり、労働や勤労はその他者を尊重し思いやる一つの手段であると思います。
dedication
dedicationとは日本語にするならば
献身或いは
献上と言うことになりましょうか。
例えば、メジャーリーガーのイチロー選手やサッカーの本田圭佑選手。
彼らにはもちろんプロアスリートとしての野心もあります。
しかし、インタビューなどを見聞きすると、その根底にあるのは「好きだから」。
野球が好きで野球がやりたくて、一生懸命にやってきた。
その結果、メジャーリーガーとなり素晴らしいキャリアを積み一流選手となる。
サッカーが好きで、楽しくて、その好きなサッカーが誰よりも上手くなりたいと思った。
一流選手となる道のりは険しく、簡単にはなれません。
しかし、辛くても苦しくてもスポーツを続けた。
結果、一流選手となったのです。
そして、野球やサッカーの素晴らしさを伝えたい、広めたい、子供達に夢や希望を与えたい。
それは「好き」だからです。
だから野球やサッカーに「dedication」してきたのです。
子供達に夢や希望を持って貰える様に。
それがアスリートとしての生きる理由です。
自分の為だけに生きていても、虚しさしかありません。
何故なら、喜びを得られないからです。
人間には動物とは違う生きる理由が必要で、生きる理由なく生きていても虚しさが増していくのです。
自分の為に死ぬ人はいません。
女は命の源で、次世代を育てて生きていてだから女性は寿命が長い。
男は女と子供を守る為に生きて死ぬ。
誰かが誰かを支えて、自らも誰かに支えられて生きて、そして死にます。
それが繰り返されて世界にも稀な長い歴史を育んできたのが日本です。
それが国歌「君が代」の詩ですね。
和食は精神
昨今は世界的にも和食はブームですね。
スリムで健康な日本人に欧米人は「何故?」と考えました。
着目したのは
食でした。
日本の食文化、和食はヘルシーだとわかってきました。
健康的な美味しい。
和食はブームとなりました。
しかし、真似をしてみたけれど欧米人の健康が改善されたかと言えば、そうでもない。
何故あまり改善しないのか?
今度は日本人そのものに興味を抱きます。
日本人を調べてみると、体が丈夫でスタミナもある。
では、やはり和食に要因があるのか?
しかし欧米人にはあまり和食の効果は感じられていません。
では何が違うのか?
暑さにも寒さにも強く、病気にも強い。
何より強靭な精神力がある。
日本という国は四季があり雨季もあります。
一年の間に暑さ寒さ、穏やかな気候の時期もあれば雨ばかりの日もある。
一年間に日本人は寒暖差を体験します。
四季がある故に、自然は美しい。
しかし、厳しい災害ももたらす。
そんな自然と共に生きて来ました。
山に分け入り、海に出て自然を敬い生きてきました。
そうやって自然に分け入り、自然を敬い、自然と共に生きて来る中でいつの間にか体に免疫力がついているのではないか?
私はそう考えます。
中国や朝鮮半島で新型ウィルスが流行しようと、日本で同じように流行しない。
もちろん、海という隔たりや水際での防疫などもあります。
しかし、今や世界は簡単に往き来出来る時代です。
新型インフルエンザが話題になったとき、どういう訳か日本人の30代以上は、その新しいインフルエンザの抗体を持っていました。
また、ある研究者の話によると世界一笑顔が絶えない民族が日本人だという話しもあります。
西洋人にとって「苦役」と思える過酷な重労働の最中にも冗談を言い合って笑っている。
どんな過酷な状況でも笑顔を忘れない。
笑うということは免疫力を上げるそうです。
作り笑顔でも効果はあるそうです。
そして和食もそんな背景から生まれたのではないかと思います。
食だけを真似てもダメなんですね。
どんな時も底力
日本人というのは本当に強い民族だなぁ
そう思います。
例えば、東日本大震災を見ても、あれ程の災害にみまわれながらも人々は思いやりを忘れず秩序を乱すこともありません。
そんな民族だとわかってはいた「友達作戦」で日本を助けてくれた米兵が改めて驚いたと言っています。
ここ一番、死を覚悟する状況にも決して思いやりと秩序を忘れません。
例えば、先の大戦で「生きている英霊」とか「不死身の軍曹」と呼ばれた
船坂弘軍曹を見ても感じます。
以前に紹介しました、船坂弘軍曹です。
不死身の分隊長
死を覚悟しても、自暴自棄にならず最後のど根性を見せる日本人。
それは現代にも繋がり、あの東日本大震災で我が身を捨て必死に避難を呼びかけ、遂に津波に巻き込まれ帰らぬ人となった南三陸町の防災センター職員の方々。
我々、日本人には長年培ってきた強靭な肉体を持ち、その肉体には
「他者を思いやる」という精神が宿っています。
他者の為に生きて、他者に生かされる。
肉体と精神は切り離せません。
それが魂という表現になるのではないかと、私は考えます。
我々日本人は魂の穢れを嫌います。
魂は連綿と続くと考えるからです。
魂が穢れては、ここ一番のど根性は出せません。
他者を思いやり、他者を生かし自らを生かす。
そんな生き方をしてきた日本人の魂こそdedicationという生き方ではないでしょうか。
そうでなければ、あの悲惨な沖縄戦、硫黄島の戦い。
東京大空襲を始めとする都市爆撃や広島長崎の原爆投下などの民間人大虐殺。
これらの厄災を笑って乗り越えては来られなかったと思います。
たとえ身はそつるとも魂は穢さず。
少しだけ、根っこを見つめてみました。