我が国は、それはそれは他に類を見ない長きに渡る歴史を有しており、あまりに古すぎていつから日本なのかよくわからない程です。

聖徳太子がいつの間にやら『厩戸皇子』とかなんとか変えられて。

学術的に意味はない!等と歴史教科書から坂本龍馬が外されたり。
やまと王権が出来たことを建国と見れば、日本書紀によれば2685年となります。
これはあくまで初代神武天皇がやまとの地に於いて御即位なさった日でありますから、踏み込んで考えればどこを紀元と考えるのかと悩ましいところです。
そんな歴史を我々現代日本人はよくわかっていません。いや、わかっているのですがわかっていないのです。
学校で習う歴史は『日本史』として習います。中身は単に『学術』としての歴史です。
いついつ、何年に何があり誰がどうして...
実に何の味も匂いもありません。
全くつまらないもので、知っていようが知らなかろうが、どうと言う事はありません。
全く日々の生活に影響もありません。
死にもしなければ、飯が食えなくなる事もありません。
それが我が国の歴史です。
その様なくだらないものを義務教育でならいます。
覚えるのも試験に必要な暗記のみです。
年代と出来事を覚えるだけです。
味などあるはずもなく、匂いなどするはずもないのです。
何故なら『日本史』なるものを学ばされているからです。
外国の歴史、例えばフランスの歴史、アメリカの歴史、イギリスの歴史、或いは『世界史』なるものと同列にして学ばされるからです。しかも受験の為に。
何の味も匂いもありません。
分子人類学や遺伝子学により、我々は例えば縄文人の末裔だとわかっているのです。
なれば『縄文時代の人々』などと習うのはおかしな話しです。
『我々の先祖』と習うべきであろうと思います。我々の先祖が数千年前に日本列島のあちらこちらで生きて生活し、結婚して子を産み育てて現代日本人にまで繋がっているのです。
フランスやアメリカやイギリスは我々の先祖ではありません。それと同列とは何事でしょうか?
我々日本人の歴史は『日本史』などと言う陳腐なものではないのです。
我が国の歴史は我々の先祖が何を考え、何を為してどう生きてきたのかを知ることなのです。
これは国の歴史、つまりは『国史』なのです。我々が学ばねばならないのは『国史』であって『日本史』なるもなではありません。
そこに生きた先達を知る事が国史を学ぶ最大の理由です。
世界にも歴史を研究する人々がいます。
自国の歴史を研究する為にあらゆる文献を読み込みます。
それは口伝や神話にいたる迄全てです。
そして『神話に書かれたこれは、基になった事実があるはずだ』と必死に探します。
遂にそれが発掘されると『ほら!あったじゃないか!』と。
例えば、永らく神話だと考えられていた『トロイアの戦争』、トロイの木馬で知られますが遂にその神話の通りに発掘された。
トロイアの戦争は事実だったのです。
この戦いの英雄アガムメノンはゼウスの末裔と言われます。
英雄アガムメノンの血統が父系(男系)で現在も繋がっていれば『万世一系』と言う事です。
神話の末裔である人々にとってこれは手に汗握る歴史のダイナミズムです。
さて、我々現代日本人はこの手に汗握る、ワクワクドキドキする『国史』を学んでいるのでしょうか?

聖徳太子がいつの間にやら『厩戸皇子』とかなんとか変えられて。
聞けば『聖徳太子』は学術的に正しくないとか言う始末。アホかいな!
我々の先達が厩戸皇子を第一人物と称えて聖徳太子と呼んだのですよ。
これが国史なんです。味も匂いもする我々の歴史なんです。
我々の歴史は、先土器時代を経て縄文時代にいたり、弥生時代から古墳時代に至ると習って来ました。
これを疑問に感じる人はいないでしょう。
しかし、これも敗戦後教育なのです。
先土器や縄文時代、弥生時代は学術的時代です。文字もない時代ですから考古学研究会からしか理解できません。
しかし古墳時代は古墳時代ではありません。
古墳時代は正確には『やまと時代』です!
九州北部におられた神倭伊波礼毘古命、後の初代神武天皇が東征し橿原の地に都を定め詔勅を発せられた。
『八紘為宇』
ここにやまと王権が誕生したのです。
橿原の地『やまと』を都とする『やまと時代』です。
魏志倭人伝にある様に支那は我々日本人を侮蔑する呼称で『倭人』と呼びます。
『倭人』とは小さい人々と言う意味です。
支那は自分達以外は野蛮だ獣だと呼び侮蔑していましたから、我々を小さい人々と呼んだわけです。
これはまだ良い方で『おチビさん達』と言う可愛らしさがあります。
しかし、朝鮮の人々は気の毒で『濊人(わいじん)』と呼ばれていました。
『濊』とは糞尿と言う意味です。
つまりは『糞尿まみれの人々』と言う酷いものですが、確かに当時の朝鮮半島は糞尿まみれでしたから仕方ないのかもしれません。
似た文字で『穢』とありますが、これは神道で言うところの『けがれ』で全く意味が違います。穢れはぎょうにんべんです。
これは通常でない状態とかを表すもので、さんずいの『濊』は糞尿です。
さて支那の侮蔑にも我々は『やまと』と言ってきました。
『倭』と書いて『やまと』と読んでいたのです。
やまと王権はやがて九州北部から東北地方までを一つに束ねて『やまと王朝』へと発展しやまとの地を中心とした国家へと成長し、3世紀に突如として古墳が出来るわけです。
ですからこの時代は古墳時代などではなく『やまと時代』と言うのです。
戦後GHQにより『やまと』と言う呼称を禁じられ苦肉の策で『古墳時代』と言って来ただけの話し。一体それから何年経ったと思っているのでしょうか?
殆どを話し合いと血縁を築く事で国家を成した世界に稀な国が我が日本です。
これは、どこかの大陸の話しではありません。
現代日本人が暮らす、この足元で紡いで来た歴史です。
我々日本人が今存在するのは『日本人』が紡いで来た歴史があればこそですね。
そこにあるのは手に汗握る一大スペクタクルロマンである『俺たちの国史』です。
そしてやがて『倭』を、我々は日出る国、日の本『日本』と国号を改めます。

学術的に意味はない!等と歴史教科書から坂本龍馬が外されたり。
ふざけるな!と言う話しです。
ワクワクドキドキ!
手に汗握る!日本人が主役の『俺たちの国史』を舐めるな!
そう言う事です。
我々は我々の先達を知る事が国史を学ぶ最大の理由なんです。
学術や学問は大切だが、それだけじゃない!
知るべきことがあるのです!
それが『国史』です。
古事記に書かれた神話も、坂本龍馬も全てが『俺たちの歴史』だ!
縄文時代の日本人も『俺たちの国史』だ!
我々日本人が知るべきは、味もない匂いもしない歴史などではなく、生き生きとして手に汗握る血生臭い『国史』なのです!
坂本龍馬を通して、聖徳太子を通して、神武天皇を通して感じる味や匂い、俺たちに流れる受け継がれた血を学ぶ事です。
知らなければ、民族が途絶えるかもしれない。
明日死んでしまうかもわからない。
それが『国史』です。
拉致された同胞を救えないのも無味無臭の歴史しか知らないからです。
戦後受けた教育は一体なんだったのだろうかと、今一度考え直してみようではありませんか。
そして俺たちの国史を再び取り戻しましょう。