犬神スケキヨ~さざれ石

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田中新兵衛

2018-03-29 18:00:52 | 維新の剣
田中新兵衛

幕末四大人斬りの一人。

岡田以蔵と並ぶ、暗殺実行回数では抜きにでた存在でもあります。

しかし人斬りに恍惚としたり、興奮したりする殺人マニアの岡田以蔵と比べても、動きに無駄がない。

狙った相手は冷静かつ確実に仕留める

いかにもプロフェッショナルと言った感じでしょうか。

薩摩男らしい、寡黙さ。

無駄口を叩かず、仕事をこなす。

幕末のゴルゴ13のようです。

更にこの男、出自が謎で諸説あるのです。
薩摩藩領に生まれた事だけは間違いないようですが、最も有力な説としては鹿児島城下近郊の前之浜にいた船頭の息子であると。

つまり、上士でも郷士でもない。
武士階級でもない町人です。

普通一般には庶民に剣術修行は許されないのだけれど、この男自顕流を身につけていました。

自顕流とは薩摩お家芸である示現流の別派で、城外の郷士たちによく学ばれた流派です。

城下中心の示現流よりは門戸が開かれていたようで、幕末の動乱期、物騒この上ない時代から新兵衛の様な町人も学べたのではないかと思います。

自顕流の真髄も、渾身の気合を込めた初太刀。
防御を捨て、初太刀に全身全霊を込める。

初太刀をかわされたら斬られる特攻剣術。

単純明快!

しかし、死の恐怖を克服する胆力と体力がなければ会得し難い剣法でもあるのです。

田中新兵衛の気骨と体力はこの流派にぴたりと合ったのでしょう。
めきめきと上達したのです。

この凄腕の船頭に目をつけた男がいた。

西郷隆盛を盟主と仰ぐ薩摩精忠組とも関係の深かった豪商森山新蔵が目をつけます。

安政の大獄に激昂した精忠組の者達が、上洛して報復を計画します。
その為に森山新蔵は船を仕立てます。
その船長に指名されたのが田中新兵衛。

上洛計画は藩主の命令で中止となるものの

『あの船頭、腕はかなりだぞ』

いつしか勤王派の間でも田中新兵衛の剣客ぶりが噂になります。

いつしか家臣に取り立てようという藩士も現れ、晴れて帯刀を許され武士となります。

しかし、この藩士が田中新兵衛を家臣にしたのは単なる親切とか友情なんて甘っちょろい話しではありません。

幕藩体制の身分制度の頂点にある武士からすれば、庶民の新兵衛などは一つの駒。
しかし、剣術の腕前は凄い!
『使える』と思ったのでしょう。

勤王派は安政の大獄への復讐は諦めていません。いずれやる、京での報復の為に田中新兵衛の様な男が必要だったのです。

一方、田中新兵衛本人が何を考えて武士となり勤王派の地下活動に加担したかはわかりません。
寡黙なこの男の本心を知る者はいません。

文久二年(1862)に上洛してからも寡黙に仕事をこなすのみ。
しかしその仕事は凄まじい。

上洛して早々に、もうやっている。

標的は安政の大獄で勤王派を弾圧した九条家家臣島田左近です。

幕府の威光を傘に、京の政界を牛耳るフィクサ。

この島田、大変用心深くなかなか隙を見せない。

剣法はスピード勝負の一撃必殺の自顕流

しかも暗殺のチャンスをじっくりとまつ辛抱強さも人並み以上。
標的への執着はヒットマンとしてはこの上ない資質ではないでしょうか。

そして田中新兵衛の執念は実ります。

島田の愛人が住む家を見つけ数日張り込みます。

そこへ遂に島田が現れた。

『天誅!』

濡れ場の最中にいきなり乱入!

田中新兵衛を含む刺客三人。

島田は慌てふためく。
しかし、逃げ足の速さに定評のある島田。
この時も素早く塀を乗り越えて逃走。

唖然とする刺客を置き去りに、夜の路地を走りに走って逃走。

『ここまで来れば...』逃走は成功...と、思い余裕が出来たのか、ふと後ろを振り返ると、阿修羅の如く形相で田中新兵衛が迫って来た。

船頭で鍛えた足腰。

京の都で贅沢三昧の島田が逃げ切れるものではありません。

至近距離まで迫られ、背中に一太刀、臀部に一太刀!
全力疾走での太刀筋に必殺の威力はないけれど、その出血は獲物の体力を確実に奪う!

遂に島田は動けなくなった。

命乞いも、断末魔の叫びも許さぬ太刀筋。
躊躇いもなく振り下ろした刀は、島田の首筋から頸動脈を切断する。

血飛沫を上げながら、一瞬の絶命。

この後、島田の首は青竹に串刺しとなって四条の河原に晒されてしまいます。

京の影の支配者の哀れ末路。
街は騒然となってしまいます。

『おい!あれは田中新兵衛の仕事らしいぞ』

勤王志士たちの間に瞬く間に広がり、一夜にして有名となってしまったのです。

やがて田中新兵衛は土佐勤王党・武市半平太とも親交を持つようになります。

武市半平太からの依頼で同じ尊皇派で越後浪士・本間精一郎を暗殺する事になります。
この暗殺には土佐の人斬り岡田以蔵も参加しています。

作戦はほろ酔いで一人、暗い路地を歩いて来た本間を待ち伏せ、三人の同志に襲わせるというものです。

田中新兵衛と岡田以蔵は路地の入り口で待機です。

しかし、本間精一郎も剣の腕は立つ。
それなりに修羅場の経験もある。

この襲撃にも動じず、三人の同志を斬って撃退。
レベルの違いを見せつけた。

やはりここは、同じ修羅場を潜り抜けてきた剣客の出番というところ。

田中新兵衛と岡田以蔵は逃さぬよう、抜刀して前後から襲いかかる。

しかしこの時、岡田以蔵自慢の長刀が路地沿いの家の軒先に引っかかるというアクシデント。

本間はその隙を逃さず、岡田以蔵の脇をすり抜け脱出を図る。

『キェイ!』

気合いを入れて飛び込んで行く田中新兵衛。

本間精一郎の前に回ると素早く身を沈め、目にも止まらぬ速さで抜き打ち!

本間の剣が振り下ろされるよりも早く、田中新兵衛の刀が本間の胸を突いた。
一撃で絶命。

噂が噂を呼び『田中新兵衛に狙われたら絶対にやられる』

田中新兵衛の標的となった4人の町奉行与力は、恐怖にかられて洛中から逃亡します。
執念深い田中新兵衛は地の果てまでも追いかけて来る。

三十人の暗殺団を率いてこれを追い詰め、遂に逃亡先の近江の宿で襲撃。
命乞いする4人を、眉一つ動かさず無表情に首をはねたのです。

この非情さ、その正確な太刀筋。
仲間の志士達でさえ、背筋に寒気を感じるほど。

しかし、常に正確無比、完璧な仕事をしてきた田中新兵衛も思わぬ失敗をしでかします。

文久二年(1863)

五月二十日

姉小路公知(あねのこうじきんとも)が御所北側で襲撃に会います。

重傷を負い、姉小路公知はその日に死にますが、刺客と乱闘しその刀を素手で奪うという、公家には珍しいド根性を見せるのです。

現場に残された刀。
奥和泉守忠重の業物。

犯人特定の重要な証拠です。

京町奉行が持ち主を探したところ、田中新兵衛のものである事が判明します。

早速、田中新兵衛を奉行所に呼び説明を求めますが、彼は一切語らず。

それどころか、いきなり奉行に襲いかかり脇差しを奪うと自らの腹を突き、更に喉を突いて絶命してしまうのです。
あまりの突然の出来事に呆然としてしまい誰も止める事が出来ませんでした。

見事な自決と言えるでしょう。

自らを殺す事で事件を闇に葬り去ったのです。

仕事完遂の為なら、必要とあらば自らの命さえも容赦なし。

しかし、一説によれば田中新兵衛愛刀は事件数日前に盗まれたとも言われます。
それが事実ならば濡れ衣という事ですが。
それでも彼が一切の弁明なく、自ら死を選んだのは刀を盗まれた失態を恥じたからか?

今となっては真相は闇の中。

しかし、田中新兵衛というヒットマンのプライドだけは間違いないのではないかと思います。

千葉周作

2017-12-10 01:00:47 | 維新の剣
江戸三大道場と言えば

鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)

神道無念流(しんとうむねんりゅう)

そして

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)

その中でも入門者が多かったのが北辰一刀流です。
人気の秘密は開祖である千葉周作が命がけで会得した、合理的な『養成マニュアル』にあったようです。

幕末期に北辰一刀流が流行した理由とは、それは他流派に比べて
わかりやすい
これに尽きるのです。

昇段の基準をわかりやすくして、そのシステムも簡略化したのです。

それ以前の剣法と言えば『一子相伝』とかなんとか
なにやら秘密めいた呪術ような胡散臭さプンプンします。

神秘性とハッタリで弟子を獲得する。

しかし、刃傷沙汰が珍しい太平の世ならいざ知らず、乱闘暗殺が日常茶飯の幕末期。
危ない事この上ない時代に、そんなヤワな剣法じゃ生き残れません。

斬り合いの中で如何に生き延びるか?
斬り合いに勝つには?

そうなると、本気で強くなる方法を具体的にわかりやすく説明してくれる流派に人気が集まります。

また、北辰一刀流は実に実践的で、防具と竹刀による実戦的な試合形式の稽古に重きを置いているのです。

更に、攻撃や防御など腕の角度、足の運びに至るまで懇切丁寧に指導するのです。

それは

開祖・千葉周作が自らの戦いの中で会得したもの

この合理的流派の近代剣法が完成するまでには、千葉周作が命がけでくぐり抜けて来た『修羅場』の経験が活用されているのです。

千葉周作の出生地については諸説あります。

牛馬の獣医だった父に連れられ東北から、江戸近郊上総国松戸に移り住みます。

祖父は相馬藩剣術指南役。

北辰夢想流の開祖でもありました。
しかし、御前試合に敗れ浪人となり流浪の境遇になった。

千葉家の汚名を晴らし、北辰の剣を再興する事を願い孫の周作に望みを託して剣術を教え込みます。

真剣の前に出ても平然としていられる胆力。
超人的な腕力。
少年ながら周作には心身ともに剣客としての資質充分でした。

やがて江戸に出た周作。
中西忠兵衛に師事し一刀流を学びます。
ここでの修行は
毎日欠かさず百試合
と、言うような猛稽古。

祖父から叩き込まれた北辰の剣と一刀流を融合させ、我の目指す剣法の形が見え始めた。

その総仕上げとして修行の旅にでます。

関東各地で他流試合!
と、言えば聞こえは良いけれど...
その実態は

道場破り

負ければ良くて半殺し。
下手をすれば本当に殺される。

たとえ木刀でも骨折、頭を直撃すれば死に至る。

大勢によってたかって襲われて試合とは名ばかりのリンチに合いそうにもなっています。
しかし、逆に相手の顎を砕き、腰骨を叩き割ったとか。
数人を再起不能にしています。

『他流派と試合をする時はなるべく離れて挨拶をしろ。さもなくば頭を下げたところを打たれてしまうぞ。』

これは北辰一刀流マニュアルにある言葉です。
これも千葉周作が命がけで得た心得。

関東でも荒っぽいことこの上ない上州で他流試合を数々こなしてもいます。
彼の強さに憧れて弟子入りする者も現れる。

しかし、これが地元に勢力をもつ馬庭念流から逆恨みを受けます。

『縄張り荒らしだ!』

ま、確かに上州各地で馬庭念流の道場で他流試合をして道場主を次々に半殺しにしていました。
これは確かに縄張り荒らし。

相手は人数を集めて闇討ちしたという話しですが、千葉周作が無傷で江戸に戻っていることを見れば、恐らく返り討ちにしたのでしょう。

彼が上州から無傷で生還した事で評判は高まり、やがて北辰一刀流は江戸随一の人気道場へと発展するのです。

そして現代剣道の源流にすらなるのです。

中村半次郎(桐野利秋)

2017-04-13 22:50:24 | 維新の剣
幕末四代人斬り

その様に呼ばれた人斬り達がいます。

一人は土佐藩・岡田以蔵
一人は熊本藩・河上彦斎

そして残り二人は薩摩藩出身

田中新兵衛

中村半次郎

今回は中村半次郎のお話しです。

人斬り半次郎
そう呼ばれ恐れられた薩摩藩の剣客。

明治維新後は陸軍少将にまで出世した、幕末の人斬りには稀な経歴の持ち主です。

人斬りの経験値では田中新兵衛の方に分がありますが、しかし剣の腕は中村半次郎の方が上。

その凄まじい豪剣は猛者揃いの薩摩藩でも際立った存在だったのです。

軒先から滴り落ちる雨だれが地面に達するまでに、三度抜いて三度収める

それほどの居合の達人でもあったのです。

此れ程の使い手なら電光石火の速技であっと言う間に三人斬り倒す事が出来たでしょう。

倒幕派の志士の中には下級武士が多くいます。

岡田以蔵田中新兵衛などはその下級武士の中でも最下層で、岡田以蔵に至っては足軽出身で武士ですらありません。

中村半次郎とて同様。

例えば、西郷隆盛や大久保利通などは下級武士と言えども城下に居を構える事を許された、れっきとした武士です。

しかし中村半次郎は鹿児島近在の吉野村に住む郷士です。

名字帯刀は許されていたものの、城下士との身分は歴然です。

薩摩藩の身分序列では武士と農民の間と言ったところでしょうか。
とにかく極貧で衣食にも困窮する始末。

この当時、極貧から脱出するには一流の剣士として認められるしかありません。

十五歳より城下にあった小示現流の道場に通い始めます。

小示現流示現流から分派した流派です。

一子相伝の秘技があるとかないとか、とにかく謎めいた流派でもありました。

元々、体も大きく筋力も強かった、更に闘志も旺盛な男。
一の太刀に渾身の気合を込めて振り下ろす小示現流は向いていたのかもしれません。
メキメキと上達していきます。

『もうお前には教える事がない』

ついには師を脱帽させてしまいます。

この時、小示現流の奥義を授けられたとも言われています。

この後も独学で剣の腕を磨き続けます。

きぇえぇい!
渾身の気合いと共に樹木を打ち続ける。
まるでその極貧の生い立ちを恨むかの様に。

打ち付けられた樹木はことごとく立ち枯れてしまう程です。

文久二年
島津久光に従って上洛する頃には、藩内でも有数の剣客として知らぬ者はいなかった。

しかし、身分は剣の腕よりも強い。
260年の幕藩体制の身分は、その遺伝子に深く刻まれ、抗う事を拒みます。
剣の腕があっても最下層の身分にある者は汚れ仕事に従事させられます。

しかしこの中村半次郎だけは違った!

身分が上の者にも生意気な態度で、気に入らなければ、納得できなければ言う事を聞かない、聞く耳をもたない。

なんせ怒らせると、直ぐに抜刀しそうな危ない雰囲氣すら醸し出しています。

例えば土佐藩の岡田以蔵などは怖い人斬りではある。
けれど、土佐勤王党リーダー武市半平太のコントロール下にあります。
武市半平太の命令で人斬りをやる。

切れ味鋭い刀かもしれないけれど、武市半平太という鞘に収められている。

しかし中村半次郎という男は違う。

『ヤツは斬ると言ったら必ず斬る』

だからこそ仲間すら恐れたのです。

誰かに命令されたから斬るのではなく、自分が殺ると思った相手を斬る。

まるで抜き身の刀

ピストルよりも早く

中村半次郎は佐幕派の人物を斬った。

信州藩士・赤松小三郎を斬った。

この赤松小三郎は中村半次郎に洋式兵学を教えた言わば師でもあります。

そんな恩師を平然と斬り捨てるところが恐ろしい

赤松小三郎は薩摩藩の招きに応じて京の薩摩藩邸にで洋式兵学を教えていました。
しかし、佐幕派という事で幕府側と内通しているという噂があったのです。

中村半次郎が数人の薩摩藩士と四条烏丸を歩いている時に偶然、赤松小三郎を見かけた。

獲物を前に殺意が湧き起る。

もう、こうなると誰も止められない。
いや、止めるのが怖い。

暗い路地へ入ったところで赤松を呼び止めた。

すると赤松小三郎、素早く右手を懐に入れる。

当時と言えば危険極まりない京の都。
赤松は常にピストルを携えていました。

銃器の扱いになれた赤松なら、この距離ならば外す事はない。

しかし…

中村半次郎は迷わず抜刀して飛び込んだ。

銃を撃つ間も与えない!

そのまま飛び込んで袈裟懸けに切り下ろす!

小示現流渾身の一太刀は、左肩から鎖骨をへし折り、肋骨から肺にまで達した。
その時、右手も斬り飛ばし、赤松の体から離れて道端にピストルを握りしめて転がっています。

中村半次郎渾身の一撃を浴びても赤松はまだ絶命していなかった。

生への執念でしょうか…

恐ろしい形相で路地を這いずり回ります。

後ろに隠れていた他の薩摩藩士達が抜刀して赤松に斬りかかるも止めを刺せない。

丸太を打ち込むのとは訳が違います。

生身の人間を斬るにはやはり躊躇があります。
どうしても打ち込みが浅くなる。

『おはんら、どいちょれ』

そう言うと鞘に収めた刀を再び抜くと、背中からズブッと心臓をひと突き。
赤松は雷に打たれた様に動きがピタりと止まり絶命します。
赤松の死を確認すると、中村は悠然と立ち去るのです。

実は、中村半次郎が暗殺に加担したのはこれ一回だけ。
たった一回の暗殺で人斬り半次郎の伝説を作ってしまったのです。

それ程、中村半次郎の太刀筋は凄まじかった。

生き残る方が難しい


記録に残る暗殺は先の一度のみ。

しかし、暗殺、内ゲバ、何でも有りの物騒極まりない時代には殺すことより、殺されず生き残る方が難しいのです。

中村半次郎の様に、名の売れた男ともなれば暗殺の標的にされる事も多々あったのです。
しかし、それらを返り討ちにし、明治維新まで生き残ったのです。

岡田以蔵や田中新兵衛などは人斬りとして名を馳せたけれど死んでしまった。

中村半次郎は生き残った。

まず、薩摩藩西郷隆盛がテロ路線を取らなかった事は一つに大きな要因でしょう。

岡田以蔵や田中新兵衛は言われるがままに、テロ路線に突き進む。
それは使い捨てでもあるのです。

中村半次郎を使い捨てにしなかった西郷隆盛と言う人物がいてこそ生き残ったのかもしれません。

戊辰戦争に中村は隊長として従軍しています。

過酷な時代を生き延び、名を馳せたならば最下層の身分でも出世出来る。

彼もその一人。

そして江戸に進駐しています。

しかし、ここにも中村半次郎を憎み、命を狙う者はいる。

ある日、職務を離れて近くの銭湯に行った帰り道の出来事です。

三人の刺客に襲われた。

さすがの中村半次郎も、この時ばかりは死を覚悟したとか。

しかし、武士たる者死を覚悟する場においてこそ一歩たりとも引いてはならん、幾多の修羅場を潜り抜けてきた中村半次郎の肝の座り方はハンパじゃない。

斬りかかってきた一人が石につまづいた隙を見逃さず
きえぇえぇい!

気合いとともに抜刀して飛び込んだ!

袈裟懸けに一太刀!

相手も相打ち覚悟で横に薙いできた!

確かに相打ち。

しかし、相手の太刀筋は軽い。

それに対して中村の一太刀は言わばフィニッシュブロー。

強烈な一撃は肩口から深々と斬り裂き、動脈を切られて勢いよく血を吹き上げる。

小示現流の真骨頂炸裂!

しかし、胴を狙った相手の一撃を間一髪かわしたが、剣先は中村の右手中指を飛ばした。

一人は倒したものの、利き手の指を飛ばされ戦闘力は著しく低下。

しかし、残った二人は中村の太刀筋と気合いに圧倒され逃走するのです。


中村半次郎という人斬り、最後には西南の役にて西郷隆盛に殉教し腹を斬って人生を閉じるのです。

原田左之助

2016-02-29 14:23:54 | 維新の剣
槍の使い手

新撰組十番隊長。

原田左之助

ご存知でしょうか?

暴れ出したら誰も止められぬという、この男。

戊辰戦争で戦死したと伝えられるが、しかし…
死後も尚、伝説を残した新撰組隊士。

暴れん坊

新撰組一の暴れん坊。
槍を使わせたなら史上最強!

そう呼ばれる男が新撰組十番隊長
原田左之助です。

伊予出身、松山藩で雑事に従事していた様ですが、この男に使用人のような務めを大人しく出来るはずもありません。

左之助の怒りがピークに達した時は、あの近藤勇や沖田総司すら戦慄させたと言われます。

伊予松山藩時代に主である武士と口論となり「切腹の作法も知らん輩が!」と罵られ、売り言葉に買言葉。

「そんなもん簡単じゃ!」

ブチキレた左之助は腹に短刀を突き刺し大量出血、仲間が慌てて止めに入り命は取り留めた。
この男、キレると何をしでかすか解りません。

この騒ぎで故郷に居れず江戸に出奔。

そこで試衛館に出入りするようになり、そのまま居着いて新撰組結成に加わります。

槍術は種田流免許皆伝。

命知らずの鉄砲玉。

新撰組最初の手柄は芹沢鴨暗殺です。

左之助は刺客の一人として八木邸を急襲しています。
この時、芹沢鴨と一緒に側近の平山五郎と平間重助という隊士がいました。
この平間重助は山南敬助と原田左之助の手にかかったと言われています。

池田屋事件

池田屋事件では遅れて参戦したものの、逃走を図り屋外に出て来た浪士を有無を言わさず殺害。

得意の槍で串刺しにした。

相手が悶絶し血を吐いても許さずに内臓を槍でグリグリ搔きまわしたとか。
我が腹に短刀を突き刺す男ですから、他人に情けはかけないのです。

この後、新撰組が関わるあらゆる修羅場に参戦。
最多出場記録を樹立する暴れん坊ぶりを発揮しています。

アームストロング砲

原田左之助と言えば、坂本龍馬暗殺の嫌疑を真っ先にかけられた男です。
それは、殺害現場に左之助の朱色の鞘が落ちており、中岡慎太郎の「伊予弁だった」という証言により嫌疑をかけられたのです。
しかし、左之助は数日前に刀を盗まれ、さらに伊予弁かどうかも曖昧で私は否定的に見ています。

鳥羽伏見の戦い甲州勝沼の戦いでも生き残った原田左之助。

敗戦続きで苛立ちもあったのか、近藤勇や土方歳三と仲違いし新撰組を離脱しています。

凄まじい戦闘力と爆発力をもつ男。
ある意味制御の難しい男です。

しかし、動乱の世が彼を放って置くはずもありません。

また大人しく傍観しているはずもありません。

左之助は彰義隊に参加し上野山に立て籠もりました。

得意の槍で大勢の官軍兵士を血祭りに上げました。
しかしこの火の玉野郎も近代兵器には敵わず。

官軍は新兵器アームストロング砲で上野山を激しく砲撃!

原田左之助も被弾。
その傷が悪化し死んだ…
そう伝えられています。

しかし、彼を知る者はこの人間兵器の様な男の死を信じませんでした。

その後も原田左之助生存説は各地で語られます。

満州に渡り、馬賊の頭目になって大陸で暴れ回っているとか…

日清、日露戦争から帰還した兵士達の中には

「原田左之助と名乗る馬賊の親玉に助けられた」

その様に証言する者が多数現れたとか…

日本軍が窮地に陥ると颯爽と現れ敵を蹴散らす!

原田左之助は死後も尚、伝説となって大陸で生き続けたのです。

るろうに…

2015-12-27 13:30:27 | 維新の剣
年末に至り、とんでもない話しが出てきましたね。
ここへ来て日韓協議で慰安婦問題に妥結する。

以前から出ていた話しではありましたが…

これは今現在独自調査中です。
今解ることは、散々色々話しが出て来てますが、殆どが日本側からのリークの様です。

その意図はなんであるか?

又、機会を設けて自著ブログにアップしようと思います。



今回は幕末の剣士を紹介

以前にこのブログにて「山岡鉄舟」を紹介しましたね。

今回はご存知の方はご存知。

知る人ぞ知る剣士を取り上げてみます。

いつもと違うぞ?
と、感じる方もおられるでしょうが、幕末は現代日本に繋がる重要な時代であり当時の人々の振る舞いから日本の違う側面もみてみよう!

そんな試みです。

まぁ、気軽に読んでみて下さい。

るろうに剣心



佐藤健主演のるろうに剣心をご覧になった方もおられるでしょう。

自分も全部見ました。

明治となった世で、人斬りで名を馳せた剣士が殺さずの誓いを立て「逆刃刀」なる腹が峰、反りが刃の刀で明治の世で生きるという話しですね。

主人公の名前は緋村剣心。

この緋村剣心にはモデルがいたようです。
その人物とは?

出自は僧侶?

その人物の名前は

河上彦斎(かわかみげんさい)

幕末の砲術、蘭学の権威であり勝海舟の義理の兄であり坂本龍馬とも交流もあった。
佐久間象山を斬った男として有名です。

幕末四大人斬りの一人でもあります。

この男、ゴリゴリの尊皇攘夷思想者。

攘夷の為なら鬼にも悪魔にもなる程の男です。
幾多の人斬りに加担したのも、その崇高な目的の為であるという話しです。

この河上彦斎はビジュアルは丸で女の子の様な出で立ちです。

背も低く、当時の日本男子の平均身長が150~155cm程度の時代に150cmなかったとも言われています。
細身で色白。

歌舞伎の女形でもいけそうな美形であったようです。

どうやら出自は僧侶だったようで、到底血生臭い荒事とは最も縁のないはずです。

しかし、江戸時代の二百数十年を太平で過ごして来た武士の世で野性味をすっかり失った者よりは余程か肝は据わっていた。

そんな胆力を見せたのが後の騒乱の幕末へと向かう契機となった事件での事でした。

桜田門外の変

桜田門外の変が起こったのが万延元年(1860)の3月3日。

この時、河上彦斎は熊本藩家老付の坊主として、江戸城和田倉門付近の藩邸にいました。

そこに大老・井伊直弼を襲撃した直後の浪士達が訪れました。

あちこちに刀傷を帯び、更に返り血で血まみれ。
殺気だった表情に大勢いた熊本藩士はビビってしまい誰一人対応に出ない。

そんな状況で河上彦斎ただ一人が落ち着き払って彼らの前に出て事情を聞くのでした。

そこで「井伊直弼を暗殺した」と浪士達の口から明かされると藩邸内は更に騒然となりました。
江戸で大規模な争闘事件が起きるのは赤穂浪士事件以来です。

その当事者が目の前に現れたのですから藩士達は混乱状態です。
思考停止に陥り、浪士達を玄関先に放置状態。

正義漢で、坊主のクセに短気でもあった河上彦斎は藩士達の不甲斐ない態度にキレた!

「我が藩を頼って来た者を捨ておけません!礼を尽くして遇するべきです!」

医者を呼び、自らも付きっ切りで介抱しました。

河上彦斎の献身さに浪士達も彼には心を開き語りあったと言います。

この一件で河上彦斎は藩士達からも一目置かれ、勤王志士の間でも知られる存在となりました。
その後、僧侶から志士へ華麗に転身するのでした。
そして騒乱の京都に現れた。

井伊直弼襲撃の浪士達と語り合う中で感化されたのでしょうか?

いやいや!元々この男にはその志向があったのです。

幼少の頃からバリバリの勤王派であった国学者である林桜園に学んだ筋金入りの勤王派。
かなり本気の尊皇攘夷思想者です。
そもそも純粋無垢な男だけに尊皇攘夷思想を植え付けると恐ろしい。

背信者には鬼となり、何ら良心の呵責もなく平然と斬り殺す危険極まりない始末に負えない。

剣は我流の変則殺法

河上彦斎の剣はどこで修業したのか不明です。
しかし、かなり腕はたつ。

我流とも言われますが、その太刀筋はかなり独特なスタイルでありました。

映画「るろうに剣心」で主人公が見せた必殺剣はググッと腰を低く落とし、下から上に鋭く斬りあげる。

この河上彦斎もまた同じようなスタイル。

右手一本で持った剣を低い体勢のから相手を斬る。
剣はググッと地を這う様に相手の急所を狙う。

身長が低いと言う不利を有利にする為に考え出した様です。

このあたり映画とよく似てますね。

こんな太刀筋は、初めて対戦する相手はかなり戸惑いますね。

初戦なら必殺剣となります。

殺し合いの真剣勝負では二回目はありませんから、真剣勝負の場では変則殺法は相手にとって防御不能な技でしょうね。

目にも止まらぬ

河上彦斎が斬り殺した人物で最も有名なのが佐久間象山です。

佐久間象山と言えばあらゆる学問や西欧の知識に精通した天才です。

この頃一橋慶喜後の15代将軍徳川慶喜のブレーンとなって「公武合体」に奔走していました。
蘭学に精通していたこともあり、攘夷主義者にとって「西洋かぶれ」した忌むべき人物。

過激な尊皇攘夷思想の河上彦斎にとって殺す理由に値する。

しかし、この佐久間象山という人物ただの青白い学者ではありません。

剣術の心得もある。
風貌も態度もデカイくて迫力満点。
並みの剣客ならば一喝されただけで退散。

暗殺のその日も佐久間象山は三条通りのど真ん中を馬に乗り大威張りで闊歩していました。

この態度のデカさに義理の弟である勝海舟は「いつか狙われますよ」と注意していました。

そこへ「天誅!」と先ずは仲間の浪士三人が抜刀して立ちはだかる。

「うるさい!邪魔するな!」

ハエでも払うかの様に二人を鞭で打ち払う佐久間象山。
落ち着き払った態度で馬を走らせる。

まるで役者が違い過ぎた。

当初の計画では二人の浪士が佐久間象山を馬から引きずり落とし、そこへ物陰に隠れていた河上彦斎が飛び出して仕留める。
はずだったのですが…

このままでは逃げられる!

「いかん!」

焦った河上彦斎はすぐさま飛び出し、佐久間象山の馬の前に立ちはだかるのです。

佐久間象山、またもや鞭の一撃で刺客を撃退しようとした。

しかし河上彦斎の方が早かった!

瞬時に抜刀し佐久間象山の横を駆け抜けた!

佐久間象山の脇腹は鮮血染まっていました。
腸まで達する深手!

致命傷です。

佐久間象山、苦しい息を吐きながらも尚、強気で凄む!

しかし河上彦斎には効果なし。

更にもう一太刀。

同じ様に佐久間象山の横を駆け抜ける。

二の太刀は更に深く落馬した佐久間象山は既に絶命していました。

熟れる前に千切るべし!

河上彦斎の人斬りは趣味でも仕事でもない。

己が信じる思想の為にこそ斬るのです。

見た目は小柄で華奢。
大人しく思慮深く見える風貌。

しかし、本当は気の短い男です。

志士たちが集まる酒の席では、佐幕派や開国派の者達の話が酒の肴になるもんです。

「あいつは奸賊だ」とか「西洋かぶれ」だとか散々悪口を言って最後には「あいつはいつか斬らんといかん」と。
最後には欠席裁判というオチがつく。

そんな仲間との話しを黙って聞いていた河上彦斎はふらっと一人出ていく。

暫くして彼が戻って来た時には仲間達の顔が凍りつくのです。

さっき話題になった奸賊の首をぶら下げているではありませんか。

「酒飲んでる暇に斬らねばならん相手をさっさと斬って来い」

ある時に仲間から「お前は人を殺し過ぎる」と窘められた際には「君だって野菜は熟れすぎる前に千切ってしまうだろ?それと同じだ。ヤツらをいつまでも生かしておいてはダメだ。早く首を千切ってやる方が良い」と返すのです。

河上彦斎は慶応3年帰郷したところを、当時は佐幕派だった熊本藩に捕らえられ投獄されてしまいます。

しかし時の情勢が一気に薩長有利に傾くと、熊本藩は一転倒幕派にシフトチェンジ。

河上彦斎も出獄し、熊本藩兵を率いて戊辰戦争を戦いました。

遂に明治維新を迎え、戊辰戦争で西欧の最新兵器に触れた武士達に最早攘夷などと叫ぶ者は一人としていない。

坂本龍馬が示した新政府綱領の様に西欧列強に対抗できる新しい国造りを目指す世になった。

その中で未だ「幕府を倒した!後は攘夷を断行するのみ!」と叫ぶ河上彦斎。

激動の時代です。人の思想も信念もコロコロ変わるのです。
むしろ幕府を困らせる為の方便としか考えない者もいたのです。

その新たな時代を迎えた明治の世に「攘夷断行」を迫る河上彦斎。
この時代遅れの熱い男にさすがの明治新政府も困り果ててしまいます。

なまじ剣の腕もたち始末に悪い。

そのうち一人で攘夷断行をし、外国人大量殺戮なんてされてはたまりません。

長州出身の木戸孝允(桂小五郎)は一時期は京で一緒に行動していた時期もあったことから、河上彦斎のことを良く知る人間でもありました。
しかし助けるどころか「放置すれば、国を壊しかねん!あの男だけは適当な罪を付けて早く始末してしまえ」と処刑を命じてます。

河上彦斎

その純粋な心
剣の腕

敵に回すと此れ程に恐ろしい存在はありません。