犬神スケキヨ~さざれ石

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もったいない(日本人の哲学)

2017-02-15 22:00:50 | 草莽崛起
さて今回は『もったいない』を考えてみたいと思います。

もったいないと我々はよく口にします。

あの国連ですら『mottainai』と演説した人がいました。

『もったいない』とは何なのか?

一度、思いを致してみてもよいかな…

そんな話しです。

もったいない

『もったいない』て、どういうことか?
捨てるのはもったいない

私にはもったいない

もったいないことをするな!

そんな使われ方をしますよね。

例えば、欲張って食べれもしない量の料理を注文して食べ残すともったいないと言う。

自分の身の丈に合わぬもてなしを受け、あまりの身に余る光栄にもったいないと言う。

まだまだ使える着物、気に入らなくなったと捨てるのはもったいないと言う。

そうやって日々、簡単に口にしているけれど、その言葉の本質を考えた事はあまりありません。

我々は日々、生きています。
生きる為に必要な事があります。

火を使い、料理をし、飯を食い、水を飲む。

当たり前の話しです。
それこそが
もったいない
の全てだと思います。

木や燃料を燃やし火を得る。

その火を使い生きる為に必要な食事を作り、飯を食う。

水を飲まなければ我々は死んでしまいます。

例えば焚き火で料理するなら木を切り薪にして使います。

その焚き火の薪は山に生えていた木々です。
しかし、我々も生きて行く為には木を切るしかありません。
木は我々を生かしてくれている。

海や川で獲る魚は我々が生きて行く為に必要な栄養を与えてくれます。

我々は生きる為に何かを犠牲にしなければなりません。

木も魚も、野菜も肉も水も我々が生きて行く為に犠牲にしなければなりません。

我々は何かを犠牲にしなければ生きていけないのです。
だから犠牲にする『何か』を無駄にしたり、必要以上に犠牲にしない。
それが
もったいない
ではないかと私は考えます。

もったいないことをするな!は、折角の犠牲を無駄にするな!ではないか?

私にはもったいないことは、私には身の丈に合わぬ犠牲をいただいた。

そう言う事ではないでしょうか?

人は一人では生きられない。

何かの犠牲、誰かの犠牲で我々は生きている。

そんな誰かも、私の犠牲の上に生きている。

それは互助なのかもしれない。

人は一人では生きられないのだから、誰かの犠牲、私の犠牲で社会は成り立っているのです。

我々は一人では生きられず、一人では身を守れない。
だからお互い少しづつ犠牲になり、生きて行く。
誰かに生かされ、誰かを生かす。

だから犠牲を無駄にしてはもったいないのです。

だからもったいない


現代我々が生きているのは、それは我々を産み育てた親がいたからです。
その親は、その上の世代の親がいたからです。

遡れば、我々は先達の少しづつの犠牲で今を生きています。

先の大戦だけを見ても先達の犠牲がなければ、今我々は生きていません。

前にもこの地味ブログで話しましたが、戦争を選択しなければ犠牲者は310万人を遥かに超えていただろうと容易に想像できます。
それは歴史を見れば一目瞭然です。
我々は先達の犠牲があったからこそ1億2千万を超える民族を維持出来ている

敗戦後、嘘の刷り込みにより、定義すらない平和なる言葉を信じこまされてきました。

敗戦後72年の間、平和なる嘘の言葉を信じて生きて来たけれど、その嘘の後ろで100人を超える日本人が北朝鮮なる国に拉致されました。
そして拉致が明らかになり、我々は自国のおかしさに気づきました。

拉致という犠牲があって、我が国は変わろうとしています。

我々は何かを犠牲に生きています。犠牲を無駄にする事をもったいないと言うのです!

我々はもったいないを今一度、心に言い聞かせなければならないのではないでしょうか?

本当に啓蒙しなければならないこと

2017-02-13 20:30:28 | 草莽崛起
今回の話しは、私自身常に申して来たことを話してみようかな…

と、思います。

それは拉致被害者に対する話しです。

いつぞやのアップで
網羅主義的だ
と、申しました。

その考えは全く変わってはいません。

その上で、主権者として、つまりは日本国の主たる権利者であり更に
最終責任者
としての意味も含めた主権者として心せねばならん!

その様に考える話しです。

この話しの本質


私は常々『哲学を持とう』と言っています。

哲学とは事の本質を見る、本質を洞察する。
その本質を洞察する考え方や方法を見出し本質を洞察することだと思います。

しかし、頭の中で組み上げただけのものでは、検証もなく、下手をすれば独善に陥りかねません。

それを避けるには、事実や根拠や論理性をしっかりと考えなければなりません。

時に科学的な見知も駆使して考えなければなりません。
更に、冷徹なほどの分析も必要かもしれない。

その上で最近の青山繁晴議員の発言に注目したいと思います。

青山繁晴議員の発言は

『安倍晋三総理の親書を携え、北朝鮮に一人乗り込む』

その様なものです。

もちろん、そう簡単には出来ません。

しかし、これが実現するならば私は
断固支持!
と、いう立場です。

その為に一票を投じたのですからね。

青山繁晴議員は
「自分は殺されるかもわからないが、しかしそれでもやらなければ拉致被害者は取り返せない」と発言しています。

国会の承認も得て、議員の身分として北朝鮮に渡航すると発言しています。
少しでも拉致について進展させるには、最早この様な手段に出るしかないとも言えます。

これを、まぁ妬む輩もいる。
左翼勢力の中には『カッコつけやがって』と言う人間もいる。

しかし、如何なる手段も否定しないなら、これはその内の一つです。

では哲学を以って見てみる


この青山繁晴議員の発言に諸手を上げて賛成!賛成!と言う人もいます。

確かにそうではあるのですが…

では、あなたはしっかりと覚悟が出来ているのか?

そう私は問うてみます。

あなたはどうですか?

私は
やる事やってたら、とっくに取り返せてる!
と毎回話しています。

青山さんは、確かに殺されるかもしれない。
しかし私は青山さんは人質に取られるだろうと考えています。

私の勝手な忖度だと、この場では申しておきます。

つまり人質に取られることが狙いで、下手をすれば或いは殺される可能性もある。

国会承認を得て、総理の親書を携えた現職の国会議員が北朝鮮に行く。
北朝鮮は、その人間を無闇には殺しはしないでしょう。

北朝鮮は青山繁晴議員は行方不明とか、或いは日本の議員が工作には来たとか、どう言うかはわかりませんが、とにかく人質に取る。

現職の国会議員が北朝鮮の人質になったならば、我が国は動かざるを得ない。

また、約49万票の支持者が一斉に取り返せ!と騒ぐ。
現職の国会議員が北朝鮮に人質に取られると言うニュースはセンセーショナルで、日本のマスコミは疎か世界のマスコミも取り上げざるを得ない。

まして殺されたとなったら、国会承認も親書も持った議員ですよ!
どうなることでしょうか?

何もしない、嘘の平和を唱えたオバマ政権から変わりトランプ政権になったアメリカ。
そのトランプは北朝鮮に対する日本の振る舞いを支持すると言っている。
更に、北朝鮮と取り引きのあるイランに圧力をかけだしたトランプ大統領。

我が国と米国の安全保障に対する利害は一致しています。

また、弾劾裁判をしている韓国大統領朴槿恵。

もし、弾劾が無罪判決で大統領の職に復帰したなら何をやり出すか?
自らを追い込んだ勢力を粛清し出すでしょうね。
その勢力とは親北朝鮮勢力です。

つまり、北朝鮮に対峙すると言うことです。

その中で、北朝鮮に渡航する現職国会議員。

やる事をやったら取り返せる!

やる事やったら取り返せる、そのやる事をやる

その様に我が国は動かざるを得ない。

我が国には反日勢力が喧しく、やるべき事を阻むのです。
必ず、このやる事をやる政府を徹底的に妨害するでしょう。

しかし私は徹底的に支持する。

拉致被害者を取り返す為には手段を選ばず。

その選ばぬ手段を徹底的にやるならば、主権者としてその責任を取る。

突然話しが飛躍したような手段に出るかもしれない我が国の政府。

その時、必要なのが
哲学

本質を洞察する力です。

青山繁晴議員が正しい事を、身を挺してやるならば一票を投じた主権者として責任を取る。

青山繁晴とて、議員ならば我々の代理人です。
その代理人が、私が投じた一票を重く受け止め仕事をやろうとしている。
ならば断固支持するしかありません。

国が、政府が私の思いを実行しようと言うならば徹底的に支持する。

そして、あらゆる手段で拉致被害者を取り返すならば、それは正しい仕事です。

拉致について啓蒙すべきは、ここであると私は考えます。

いよいよ、やるべきことをやろうとする時、アホの上っ面の観念論や反日勢力のレッテル貼りに惑わされず、正しい事は何かを見る

世の雑音に惑わされず、正しい事はなんなのかを考え、本質を洞察する。
その為に哲学を持つ。

拉致を知ってくれ!と言うのは、そう言う事であって、お涙頂戴の可哀想な話しではありません。

世界一長い歴史を持つ我が国の哲学が試されているのです。

敗戦後の教育で失われた日本人の生き方、日本人の哲学。
それを取り戻せなければ、拉致被害者は奪還出来ません。

人肉の宴

2017-02-07 21:00:41 | 草莽崛起
2016年5月16日

文化大革命から50周年を迎えた支那。

支那国内では文化大革命中に行われた非道行為や、その実態或いは責任の所在などを明らかにすることはタブーとされています。

習近平体制になり、ますます統制されています。

そういう昨今のなか、外国メディアによる掘り起こしが盛んになって来ています。

広西チワン

2016年5月13日、AFP通信が広西チワン族自治区で起きた事件を報じています。

通称『人肉宴席』

現地取材をして書いています。

文化大革命の研究者の間ではよく知られた事件ではあります。

記者は当局の公式調査団員に接触をし、未公開の報告書草案を確認しています。

この草案にはショッキングな内容が書かれていました。

「首切りや殴打、生き埋め、水責め、釜茹で、集団虐殺、内臓抜き出し、心臓や肝臓、性器切り取り、肉の削ぎ落とし、ダイナマイト爆破、あらゆる方法が使われた」

長編ノンフィクション『紅色記念碑』という作品があります。

この広西チワン族自治区の事件を含む広西南部で多発した文化大革命中の食人事件を最初に世に知らしめた作品です。
在米支那人作家鄭義の本です。

鄭義が1986年から現地取材を行い、天安門事件の指導者の一人として指名手配を受けて逃亡中の三年間で書き上げ、知人を介して原稿を海外に持ち出し、ようやく日の目を見た!ていう奇跡的な本です。

鄭義がこの事実を暴く80年代初頭には、当局は既に公式調査団を派遣し調査を行っていたそうです。

鄭義は公式の資料にもアクセスし、極めて緻密な取材を行い、実際に食人した元民兵や犠牲者の遺族へのインタビューも行っています。

当然、鄭義は地元政府や党の妨害も受けましたが、地元にはこの食人事件に怒りを覚えて取材協力する元役人や知識人もいました。

少なくとも天安門事件前には、こうした文化大革命の残忍性を告発しようという体制内部に知識人は多数いたようです。

しかしその後『人肉宴席』や他の食人事件の調査結果は封印され、鄭義の本も発禁となります。

性器も心臓も

文化大革命中、広西チワン自治区ではおよそ
15万人が虐殺されたと推計される

南部では激しい武装闘争や批判闘争(いわゆる吊るし上げ)により
交通が阻害されるほど路上に死体の山が出来たのです。

極限状態の飢えでもなく、身内が殺された復讐心でもなく、祭祀的宗教的風習でもなく、ただ政治的扇動による隣人への嫉妬からの殺戮と食人行為

美女の心臓を食べると病気が治る!と、いう迷信から、美人女子学生を狙って殺したケースも多数あったようです。

特に激しかったのは武宣県でした。

糾弾大会が行われる度に、人肉目当てのババアが籠を持って現れ、人が殺されるのを今か今かと待ちわびて、殺害が行われるや否や死体に群がり人肉を切り取った

武宣県革命委員会女性副主任王文劉という女はもっぱら『男性器』を好んで食べたという報告書が1985年に下部組織から党中央工作組に挙げられています。

当局が調査したが、彼女は党除籍処分を受けて一般労働者に格下げされただけで大した処分は受けていません。

武宣県の文化大革命は北京より一年遅く、1968年から激化、主流派と非主流派の武闘が5月4日から12日まで繰り広げられました。

非主流派の総指揮者・周偉安は逮捕され惨殺。首と足を切り取られ木の上に掲げられた。周偉安の妻は妊娠中であったが、掲げられた夫の死体の下で辱められた。周偉安の二番目の兄も惨殺。

この事件の直前に逃げ出した非主流派の学生二人は群衆に捕まり
縛られて学校の門衛に生きたまま腹を裂かれ、心臓と肝臓を素手で掴み出され豚肉と一緒に料理されて皆に振る舞われた。

鄭義は周偉安の兄に会いインタビューをしています。
文化大革命後に彼ら遺族に補償金が支払われていますが、一人当たり220元というわずかな金額でした。

遺族は自分の家族を食った人々に囲まれながら暮らし続け、仕事もままならず貧しいまま顔を上げて往来を歩くことも出来ないといいます。

人肉は当たり前

先の武闘後も、武宣県ではあちらこちらで食人事件が頻発していました。

批判闘争が起きる度にリンチが起き、人が死ぬ。
人が死ねば食人の宴が繰り広げられていました。

6月18日
武宣中学校庭や人民公社など3カ所でリンチが起き、当たり前に食人が行われました。

人民公社街頭引き回しデモでは小学校教師ら7人が吊るし上げられ、うち6人がリンチで殺され細切れにされて群衆に食われた

この人民公社販売部では一尺八寸の鍋で人肉を調理して十数人に振る舞われました。

こうした話は県の党委員会の資料にも残り、多数の目撃者、実際に殺戮や食人に関わった人物も生存しています。

なんと80年代にはまだ、それらの行為は階級の敵を倒した証だ!と、人肉食を犯罪だと認識しない人もいた

こうした食人事件は日時、場所、犠牲者、加害者の名前から、いかにして殺戮し食べたかまで細かい記録が党の資料と実名の 当事者の証言で裏付けられています。

鄭義の本は、アイリス・チャンの誤謬だらけの本とも、本多勝一の嘘の都市伝説本とも全く違う。

文化大革命資料を掘り起こし、関係者の証言で裏付けた取材で、記録です。

文化大革命時代、食人が行われたのは広西だけではありません。
それこそ支那各地で起きていました。

文化レベルの低い山岳少数民族地域だから起きたとかいう特殊な話しでもありません。

漢族の間で起きた事件!

人肉に薬効があると信じられる地域もあったり、過去の戦乱中に共食いするケースもあり、元々食人に対する倫理的なハードルが低い民族的、文化的背景があるのでしょう。

群衆が政治的狂乱の中で人を次々に殺し食う、こんなホラー映画かゾンビ映画の様な光景が僅か50年前に支那各地で行われていた

支那共産党もその事実に驚愕し、公式に調査したけれど、あまりの凄惨さに封印。
加害者は大した罪にも問われず、なかば野放し状態で食人した者の中には幹部に出世した者もいるという話し。

こんな背景を持つ民族と、我々日本人は対峙せねばなりません。

例えば、沖縄で基地反対を主張し無法を繰り返す反日の連中は、この僅か半世紀前に起きた事件を繰り返すつもりなのか?

いじめ…根っこを見つめる

2017-02-05 20:19:42 | 草莽崛起
今回はブロガー企画になります。

連携いたしておりますブロガーさんに同じテーマでブログをアップして頂きます。

人それぞれ違う見解、違う意見があります。

そのそれぞれ違う意見から一つの事に対して、様々な角度から考えてみよう!

そんな感じです。

今回は『いじめ』について考えてみたいと思います。


いじめなんてないのでは?


私は個人的に、よくニュースなどで見聞きするいわゆるいじめと呼ばれるものは『いじめではない』と思います。

そもそもいじめとは何なのか?と思います。

子供の世界だけでなく大人の世界にも『いじめ』はあるのでしょう。
しかし、子供の世界のいじめを見聞きすると『はて?それはイジメなの?』と思います。

例えば、怪我をする程の暴力。

つい最近も沖縄で一方的に殴る蹴るの暴力を与える動画をアップして問題となっていましたね。

例えば、金銭を要求する。

横浜で福島から自主避難していた子供に同級生が金銭を要求し150万も使わせたとか。

コレ、いじめなんですか?

普通、我々が暮らしていて此れらの事態に遭遇したら事件ですよ。

一方的に暴力を受けたなら『暴行傷害』事件

金銭を要求されたら『恐喝』

普通はそう考えます。

それが『いじめ』なる言葉にする。

沖縄の暴行動画は親御さんが警察に『傷害事件』として被害届けを出したそうです。

しかし、横浜の場合は皆さんもご存知と思いますが教育委員会で『いじめ』ではないと結論付けました。
しかも事件にすらしていない。

150万もの金は『いじめから逃れる為に奢った』という結論です。

それは大人の世界な明らかな恐喝だぞ!

毎度感じる違和感

いじめを苦に子供為が簡単に『死』を選ぶ。

その度に

そこまで追い込まれなければならない理由は何だ?周りは助けられなかったのか?

自殺して問題になり、大人達は慌てます。

学校の対応が、教師の対応が、親の対応が…
そんな問題が常に取り沙汰されるけれども、いじめは無くならず毎年数件いじめを苦に子供は自ら死を選ぶ。

まだ若い、余りにも若い年齢で先の人生に失望し自ら死を選ぶのです。

大人達はいじめを目にしても、何故か『それは子供達の世界の話し』として考える。

子供達は人生の経験が浅い。
だから将来を考えることが出来ない。
この先の人生に失望して死ぬ。

大人達は子供達の考え方がわからず、理解しようともしない。
子供達が死を選んだ理由が人生の経験が邪魔をして全く理解出来ない。

子供達の世界は子供達の世界ではあるけれど、そこで起こった事はいじめ等というものではなく犯罪行為です。

犯罪行為は人権を踏みにじるものです。

子供達の世界で起こった犯罪を大人達は『いじめ』と言って誤魔化している。

それは大人達が子供達の世界で起こった犯罪を見て見ぬふりをしている。
犯罪だと認めたくはない。
もし、犯罪だと認めれば犯罪を未然に防げなかった責任を問われてしまう。

子供達は『いじめ』が犯罪だと教えられていないし、それが人権を踏みにじる行為だなんて考えたこともなければ教えられてもいない。

マスコミの報道を見ても此れらを犯罪だとは報道しません。

死んだ子供の親にしても、そのいじめが犯罪だと気が付いていない。

つまり大人は何も解っていないのです。

つまり全く理解出来ない、出来ていない大人が『いじめ』に対応するなど不可能なのです。

事実を見る

私の同級生の話しです。

私が中学生の頃に私の同級生が殺されました。

犯人はその同級生の両親です。

同級生は学校に来ていませんでした。

彼は『いじめ』にあっていた。
それは後に知ったのです。

いじめに絶えかねた彼は、自ら死を選ぶことはありませんでした。
彼がいじめから逃れる方法は『登校拒否』でした。

私はこの選択を支持します。

自ら死を選ぶよりも、生きる事を選んだ。
死ねば全て終わってしまうけれど、生きていれば彼には将来選ぶ道も見つかる。

しかし、彼は家庭内で荒れていた。

親や兄弟に暴力を振るう様になっていたのです。

いじめがあったけれど、学校も教師も仲間も全く対応しなかった。
また、親御さんも対応出来ていなかった。

彼は自身に起きていることに苛立ちもあったと思います。
何せ人権を踏みにじられているのですから…

しかし、大人達はこれが理解出来ないのです。

自身を弱い人間だと、彼は思ったのかも知れないし、自身の将来も見えなかったでしょう。

その葛藤が『家庭内暴力』と言う形で表れたのではないかと私は思います。

連日、繰り返される息子の暴力。

もう手も付けられず、どうして良いかわからぬ両親。
遂に疲れ果てた両親が取った行動は
最愛の息子を殺害する
そういう選択でした。

だからこそ

同級生は自ら死を選ぶ事はしなかったけれど、やはり最後には死に向かってしまったのです。

私はよく、先達の話をします。
このブログでも、例えば硫黄島での先達の振る舞いや、例えば沖縄での学徒看護隊と呼ばれた、まだ恋すら知らなかった少女達の話をして来ました。

この先達達は他者の為に生きて、他者の為に命を燃やしたのです。
それは戦争だから、綺麗事ではありません。
しかし、一人一人は他者の為に命を燃やしたのは事実であり、そうやって生きた人々がいて、現在の我々日本人が生きている。

これは私事や私心から出来るものではない。

子供達の世界で起こった事は小さな世界の話しです。
しかし、いじめに悩む子供達も誰かの役に立つ。

例えば沖縄の少女達を知れば、硫黄島の先達を知れば
今はいじめに遭い、こんな小さな世界で悩んでいるけれど、そんな自分でも誰かを助け誰かを生かす、そんな生き方が将来出来るんだ!

そうすれば自ら死を選ぶことも、先の同級生の様に家庭内で暴力を振るう事もなかったかも知れない。

そして大人達は何をしているのか?

大人達は子供達の世界が理解出来ず、理解しようともしない、だから大人達は自分達が理解出来る範囲に押し込めて考える

だから、助ける手段を取らないのです。

やるべき事をやっていれば子供達が死ぬ事もありません。

それは拉致や領土問題も同じです。

やるべきことを、取るべき手段を講じていれば拉致など起きず、拉致被害者はとっくに取り返せています。
竹島だって、島根の漁家が殺されれずに領土も取られない。

我々が取るべき手段を全く取っていないから子供達は死ぬのです。

子供達は我々の財産です。

民族の根っこです。

いじめなるものは犯罪だと認め、それを子供達にしっかり教えなければ大人の役割りは一体何なのでしょうか?

全てにおいて取るべき手段を全てとる!これは大人の責任です。

教えるべき時に教えず、教えられるべき時に教えられなかった…

では一体いつ学ぶのでしょうか?

若い時は過ちを犯すこともある。
けれど、それを過ちと教えられずに大人になったらどうなるのか?

教えられずに来た大人が子供を教育する。

この連鎖を止めるのも大人です。


死と共に

2017-02-02 21:00:52 | 草莽崛起
さて前回は『死』について書いてみました。

あくまで死に対する私の考えです。

皆さんには皆さんの、それぞれの死に対する考え方があると思います。

それを改めて考えるキッカケになれば幸いです。

そして今回も私の考えを書いてみようと思います。

あくまで私個人の考え方です。

しかし、一つの問題提起となれば、皆で考えるキッカケになればと思います。

自らの死を見つめて

前回は自らの死を見つめてみました。

私自身は死を自らの中にある自然であると考えています。

そして何の為に死ぬのか?

死ぬ理由とは?

死ぬ理由こそが生きる理由

死ぬ理由を見つければ、逆に何故生きるのかを知ることができるのではないか?

今現在の私の結論です。

死ぬ理由は人それぞれです。
自らの名誉の為、愛する人の為、愛する国の為。

しかし、それらの理由は何であれ生きる理由となります。

自らの苦しみから逃れる為に自殺するなどは利己主義とも言えるかもしれません。

自ら死を覚悟するなら、愛する何かを守って死ねるならば満足したと思えるかもしれません。

そして私は死と共にある、もう一つの考えがあります。

それは

戦う

愛する何かの為に死ぬならば、やはりそれは生きる理由です。

ならば、その生きる理由とは愛する何かを守る為に徹底的に戦うということです。

例えば、あなたの愛する人が暴漢に襲われ殺され様としている。
その時、あなたは身を呈して愛する人の身代わりになるかもしれない。

それと同時に愛する人を守るに徹底的に戦うということも同時に存在するのです。

それは
愛する人の為に死ぬこともあるが、殺すこともある

死と生は紙の表裏です。

しかし愛する人の為には死も覚悟するが、殺す覚悟も必要なのではないか?

私はそう思います。

例えば私は拉致の話をする時に『金正恩を殺す』と、よく話します。

その意味はここにあるのです。

愛する祖国に住む、愛すべき人々。

我々の同胞(はらから)が拐われ、日本国民としての尊厳を踏みにじられている。その家族が我が子の、我が家族の帰りを待っている

その愛すべき人々を救い出す為に、今日死ぬ。

もしも明日、横田めぐみが愛する家族と再会出来るなら、今日死ぬ価値はある

私はそう考えます。

ならば死ぬ理由は見つけた。

それが生きる理由となるならば、それは…

救い出す為ならば手段は選ばず、金正恩すら殺す!

北朝鮮人民も殺す。

当然、我が身の保証などありません。

つまり私の中には愛する者の為に『死ぬ』こと、愛する者を守る為に死ぬことと同時に、愛する者の為に、愛する者を守る為に殺す覚悟もあるということです。

それは遡って考えても、あの大東亜戦争を戦った先達も同じなのだと、私は考えます。

死ぬ覚悟も殺す覚悟も出来る人間は強い!

他者の為に死ぬ覚悟も殺す覚悟も出来ない人間は、覚悟のある人間には決して勝てはしません。

昭和天皇は国民の命の為にダグラス・マッカーサーに仰った。

『我が身と引き換えに国民を助けてくれ』

それが日本人の生き方なんだと思います。

だから私は、私の愛する祖国、愛する人、愛する日本人を守る為に死ぬ。

そして、愛する祖国、其処に暮らす日本人、愛する人を貶める者を必ず殺す。