久しぶりに『拉致』について考えてみたいと思います。
新年を迎え、もう2月になろうとします。
しかし、今国会では年度末までには予算、その後は天皇陛下の御譲位が審議されます。
つまり、今年も余程の事がない限りまたしても拉致について進展を見ない可能性が高い。
拉致被害者を取り返そうとする思いは、なかなか叶いません。
その中で、私自身を含め日本国民として考えなければならないことがあるのではないか?
これは一つの問題提起です。
皆さんも是非一緒に考えていただきたいと思います。
感情をむき出しに考えるなら、北朝鮮の振る舞いはとても腹立たしい限りです。
拉致された我々と同じ日本国民に一体、拉致されなければならない理由があるのか?
勿論、そんなものはありません。
横田めぐみさんは偶然、北朝鮮工作員とすれ違った程度の話しで、顔を見られたと勘違いした工作員が咄嗟に拉致したということです。
しかし、我々は冷静に或いはある種、冷徹に考えなければなりません。
それは感情的にヒートアップすれば正しいものの見方が出来なくなるからです。
何が正しいのか?
それは人それぞれかもしれないけれど、しかし先ずは真ん中をしっかり見極め、それを踏まえなければ必ず方法を間違えます。
右だ左だ、保守だの革新だのと二分していては全く解決など望めません。
拉致被害者奪還を掲げるのは保守だ!とか、消極的な人は間違ってる!などと声高に主張したり、日本は過ちをしたから拉致被害者ぐらいで文句を言うな!先ずは謝れ!などと主張してみたり。
こんな主張は単なるバカの主張です。
これら盲目的な主張こそが
拉致被害者奪還の邪魔である!
私はそう考えます。
例えば『日本は朝鮮半島を植民地支配し酷い事をした、その謝罪もなくて拉致されたからと文句を言うな!』などと主張する辻元清美なる日本人のフリをする人間などの意見は論外です。
しかし、私自身を含め拉致被害者奪還を目指している人間にも問題がある。
ここを冷徹に考えなければなりません。
昨今、拉致被害者奪還について見るに志ある方々は様々な活動をされています。
拉致を考える集会、街角での街宣による啓蒙。
ネットを駆使して広く知らしめること。
ブルーリボンバッジ。
様々な活動があります。
それら活動は全て拉致被害者奪還という志です。
しかし、その中に『これは保守活動だ!』と、おかしな結び付けをする人間がいるのも事実です。
保守とはこう言う事だ!とか主張する人間がいて、例えば『原発推進こそが保守だ、反対する奴は反日だ』とか言うことと同じ様に私は感じます。
実際に私自身も、その様に言われた事があります。
『貴方は保守なんでしょう?』
全くくだらぬ質問です。
私は保守だの革新だのと名乗った事はありません。
私の判断は是々非々であって、右だ左だなどどうでも良い話しです。
私の基準は保守でも、革新でもありません。
そんなものに拠り所を求めれば、その属性に考えは支配され自由を奪われてしまいます。
保守だのなんだのと言う方は
一体何の為に活動しているのでしょうか?
拉致被害者奪還の為の障害となる事が我が国には大変多い。
憲法の制約
敗戦後の刷り込み
国民の意識
憲法の制約により、軍隊ではない自衛隊を奪還の為に派遣することが出来ない。
敗戦後の教育により、撤退的に刷り込まれた自虐的思想が拉致に対する国民の意識を高めない。
マスコミはこ拉致に対する報道が消極的である。
敗戦後、利己的に振る舞う国民は自分が今日死ななければ平和だと信じて疑わない。
これだけではありません。
種々、様々、我が国は構造的に問題がある。
しかし、それらを声高に叫ぶばかりです。
『こんなに拉致被害者奪還には障害や問題があるんだ!』というばかりです。
こんなものは単なる
網羅主義
問題をやたら網羅して、散らかしているだけに過ぎません。
おもちゃを広げるだけ広げ、片づけられなくなった子供と同じです。
もう時間はない!と言いながら、取り返す為の手段の収れんを見せない。
拉致被害者奪還の為には憲法改正も必要、教育も必要、国民の意識も必要だが、それらをクリアしなければ奪還出来ないのか?
その疑問しか湧いてきません。
もう時間はないと言いながら時間のかかる話しばかりです。
これでは拉致被害者に対し、或いはその家族に対して『それらが解決するまで待っていろ』と言っているようなものです。
啓蒙にしても、散見されるのは『知らしめる事で国民の意識を高め政府を動かす』と言う主張です。
それは勿論必要な事です。
しかし、それはある種の『人任せ』なのではないか?
啓蒙していればいつか誰かが、いつか政府が動くだろうと、どこかにそんな気持ちがあるのではないか?
これは自分自身に対しても思います。
自戒を込めて考えなければならないと私は感じます。
今の憲法があろうと、教育に偏りがあろうと、国民の意識が高くなかろうと、今やれる最大限の事を考え、実行しなくてはなりません。
古事記でも申しましたが、我々日本人は神話から地続きの系譜を持つ民族で、全ての日本人はその系譜に繋がり、皆家族です。
これが神武天皇が即位の際に掲げた
八紘一宇
例えば、貴方の家族が何者かに拐われ、その居場所が解ったなら、愛する家族を取り返す為に手段を選ぶのでしょうか?
その犯人と対決するでしょう?
自分は死ぬかもしれない。
相手を殺すかもしれない。
その覚悟はあるはずです。
それを阻害しているのが、我が国の憲法だったりするのです。
憲法はこれは守らねばならない。
しかし
自分自身や愛する者を守る為に如何なる手段を用い様と戦うという権利を侵害している
これは法や憲法の問題ではありません。
人間全てが持つ自然権です。
自らや、或いは愛する者を守るのは当たり前に全ての人が持つ権利です。
これを憲法や教育や、或いは他の理由で行使しないならば、行使出来ないならばそれは『座して死ね』と言うことです。
我が国の憲法や法が、国民にそれを強いることこそが問題ではあります。
が、しかし、では何も出来ない訳ではない。
国際法だってあるんです。
自ら血を流し、必ず愛する者を守る!
その意識こそが、国や国民、国際社会を動かすのです。
必要ならば金正恩を殺し平壌を火の海にする!
不足の事態が起きようと、自衛官に犠牲者が出ようと、自衛官が何人殺害しようと、愛する者を取り返し、愛する者を守る為に、その責任は我々主権者が負う!
その意識と覚悟こそが、取り返す為に一番必要であり、我々が一番話し合わねばならないのです。
新年を迎え、もう2月になろうとします。
しかし、今国会では年度末までには予算、その後は天皇陛下の御譲位が審議されます。
つまり、今年も余程の事がない限りまたしても拉致について進展を見ない可能性が高い。
拉致被害者を取り返そうとする思いは、なかなか叶いません。
その中で、私自身を含め日本国民として考えなければならないことがあるのではないか?
これは一つの問題提起です。
皆さんも是非一緒に考えていただきたいと思います。
冷徹に考えること
感情をむき出しに考えるなら、北朝鮮の振る舞いはとても腹立たしい限りです。
拉致された我々と同じ日本国民に一体、拉致されなければならない理由があるのか?
勿論、そんなものはありません。
横田めぐみさんは偶然、北朝鮮工作員とすれ違った程度の話しで、顔を見られたと勘違いした工作員が咄嗟に拉致したということです。
しかし、我々は冷静に或いはある種、冷徹に考えなければなりません。
それは感情的にヒートアップすれば正しいものの見方が出来なくなるからです。
何が正しいのか?
それは人それぞれかもしれないけれど、しかし先ずは真ん中をしっかり見極め、それを踏まえなければ必ず方法を間違えます。
右だ左だ、保守だの革新だのと二分していては全く解決など望めません。
拉致被害者奪還を掲げるのは保守だ!とか、消極的な人は間違ってる!などと声高に主張したり、日本は過ちをしたから拉致被害者ぐらいで文句を言うな!先ずは謝れ!などと主張してみたり。
こんな主張は単なるバカの主張です。
これら盲目的な主張こそが
拉致被害者奪還の邪魔である!
私はそう考えます。
例えば『日本は朝鮮半島を植民地支配し酷い事をした、その謝罪もなくて拉致されたからと文句を言うな!』などと主張する辻元清美なる日本人のフリをする人間などの意見は論外です。
しかし、私自身を含め拉致被害者奪還を目指している人間にも問題がある。
ここを冷徹に考えなければなりません。
幾つかの問題
昨今、拉致被害者奪還について見るに志ある方々は様々な活動をされています。
拉致を考える集会、街角での街宣による啓蒙。
ネットを駆使して広く知らしめること。
ブルーリボンバッジ。
様々な活動があります。
それら活動は全て拉致被害者奪還という志です。
しかし、その中に『これは保守活動だ!』と、おかしな結び付けをする人間がいるのも事実です。
保守とはこう言う事だ!とか主張する人間がいて、例えば『原発推進こそが保守だ、反対する奴は反日だ』とか言うことと同じ様に私は感じます。
実際に私自身も、その様に言われた事があります。
『貴方は保守なんでしょう?』
全くくだらぬ質問です。
私は保守だの革新だのと名乗った事はありません。
私の判断は是々非々であって、右だ左だなどどうでも良い話しです。
私の基準は保守でも、革新でもありません。
そんなものに拠り所を求めれば、その属性に考えは支配され自由を奪われてしまいます。
保守だのなんだのと言う方は
一体何の為に活動しているのでしょうか?
拉致被害者奪還の為の障害となる事が我が国には大変多い。
憲法の制約
敗戦後の刷り込み
国民の意識
憲法の制約により、軍隊ではない自衛隊を奪還の為に派遣することが出来ない。
敗戦後の教育により、撤退的に刷り込まれた自虐的思想が拉致に対する国民の意識を高めない。
マスコミはこ拉致に対する報道が消極的である。
敗戦後、利己的に振る舞う国民は自分が今日死ななければ平和だと信じて疑わない。
これだけではありません。
種々、様々、我が国は構造的に問題がある。
しかし、それらを声高に叫ぶばかりです。
『こんなに拉致被害者奪還には障害や問題があるんだ!』というばかりです。
こんなものは単なる
網羅主義
問題をやたら網羅して、散らかしているだけに過ぎません。
おもちゃを広げるだけ広げ、片づけられなくなった子供と同じです。
もう時間はない!と言いながら、取り返す為の手段の収れんを見せない。
拉致被害者奪還の為には憲法改正も必要、教育も必要、国民の意識も必要だが、それらをクリアしなければ奪還出来ないのか?
その疑問しか湧いてきません。
もう時間はないと言いながら時間のかかる話しばかりです。
これでは拉致被害者に対し、或いはその家族に対して『それらが解決するまで待っていろ』と言っているようなものです。
啓蒙にしても、散見されるのは『知らしめる事で国民の意識を高め政府を動かす』と言う主張です。
それは勿論必要な事です。
しかし、それはある種の『人任せ』なのではないか?
啓蒙していればいつか誰かが、いつか政府が動くだろうと、どこかにそんな気持ちがあるのではないか?
これは自分自身に対しても思います。
自戒を込めて考えなければならないと私は感じます。
今の憲法があろうと、教育に偏りがあろうと、国民の意識が高くなかろうと、今やれる最大限の事を考え、実行しなくてはなりません。
古事記でも申しましたが、我々日本人は神話から地続きの系譜を持つ民族で、全ての日本人はその系譜に繋がり、皆家族です。
これが神武天皇が即位の際に掲げた
八紘一宇
例えば、貴方の家族が何者かに拐われ、その居場所が解ったなら、愛する家族を取り返す為に手段を選ぶのでしょうか?
その犯人と対決するでしょう?
自分は死ぬかもしれない。
相手を殺すかもしれない。
その覚悟はあるはずです。
それを阻害しているのが、我が国の憲法だったりするのです。
憲法はこれは守らねばならない。
しかし
自分自身や愛する者を守る為に如何なる手段を用い様と戦うという権利を侵害している
これは法や憲法の問題ではありません。
人間全てが持つ自然権です。
自らや、或いは愛する者を守るのは当たり前に全ての人が持つ権利です。
これを憲法や教育や、或いは他の理由で行使しないならば、行使出来ないならばそれは『座して死ね』と言うことです。
我が国の憲法や法が、国民にそれを強いることこそが問題ではあります。
が、しかし、では何も出来ない訳ではない。
国際法だってあるんです。
自ら血を流し、必ず愛する者を守る!
その意識こそが、国や国民、国際社会を動かすのです。
必要ならば金正恩を殺し平壌を火の海にする!
不足の事態が起きようと、自衛官に犠牲者が出ようと、自衛官が何人殺害しようと、愛する者を取り返し、愛する者を守る為に、その責任は我々主権者が負う!
その意識と覚悟こそが、取り返す為に一番必要であり、我々が一番話し合わねばならないのです。