明治政府
初等教育だけではなく、国を背負って立つ人材の育成にも力を注ぐのでした。
明治10年(1877)
日本初となる、近代的総合大学として
東京帝国大学
が、開校します。
大東亜戦争の終戦までに内地に7校(東京、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)
外地に2校、朝鮮京城帝国大学、台北帝国大学。
大正に入り慶應義塾大学や早稲田大学などの私立大学も次々と開校していきました。
更に、政府は軍人や教員の養成にも力を注ぐのでした。
明治の早い段階で陸軍士官学校や海軍兵学校や師範学校なども開校しています。
何より特筆すべきは、これら高等教育の門戸は
全ての国民に開かれていた!
現代我々にとっては当たり前の事です。
しかしこれは画期的な事です。
江戸期には、受ける教育が身分により違うからです。
武士階級とそれ以外では受ける教育が違う。
更にどんなに勉強が出来ても身分の垣根を超えることは大変難しい。
しかしこれは日本に限った事ではありません。
ヨーロッパの国々なども教育の機会を得るのは限られた人々でありました。
しかしそれは明治に入り一新!
全ての国民が高等教育を受ける機会を得たのでした。
戦前の日本には、教員を養成する師範学校、軍の将校を養成する陸軍士官学校や海軍兵学校のような学費がかからず、給料まで出る学校があったのです。
師範学校は卒業すると、高等師範学校や文理大学と言うコースに進めて、最終的には大学と同程度の教育を受ける事が出来ました。
陸軍士官学校や海軍兵学校の卒業生は、軍の幹部になる事が約束されました。
貧しい家庭の子供でも勉強を頑張れば、立身出世の道が開けた!
そんな時代でもあったのです。
国民全てに初等教育を施し、貧しい者でも能力さえあれば、高等教育を受けさせる。
そうした大日本帝国の教育システム。
当時のアジアの中でも最も進んだシステムでもあったのです。
明治の終わり頃には、アジア諸国から日本に多くの留学生がやって来ます。
戦前の日本では様々な国から留学生が学びにやって来ていましたが、最も多かったのは支那人でした。
支那人の留学生は明治29年(1896)、支那外務省に選抜された13人の留学生が最初であるとされます。
明治29年と言えば日清戦争から僅か2年後!
支那がそれだけ、我が国の教育を認めていたと言う事実に他ならない。
支那人留学生はその後、徐々に増え日露戦争で日本が勝利するや、一気に急増し一万人、或いは別の資料では二万人とも言われます。
我が国はヨーロッパを差し置いて支那人の最大の留学先となります。
この当時日本で学んだ者には中華民国の蒋介石(1907年・陸軍士官学校の前身である東京振武学校)や周恩来(1917年・東亜高等予備学校)などもいたのです。
日本ではその後も多数の支那人が学びました。
いわゆる日中戦争が勃発し、学生の殆どが引き上げるまでは常時千人はいたとされます。
うち、最も多かったのは日本領朝鮮の出身者で戦時中の昭和17年には三万人近くいました。
陸軍ではこの者達の為に特別クラスを用意するほどでした。
陸軍士官学校出身者は、後に韓国の中枢を担う人間になっています。
朴正煕も大日本帝国陸軍士官学校出身であるのは有名なところ。
正確な数字は残されていませんが、ベトナム、フィリピン、インド、インドネシアなどからも多数の留学生が来日していました。
東南アジア諸国は、当時まだ独立する前であり、学生にとってオーソドックスな出世コースは宗主国に留学することでした。
日本への留学は宗主国にとっては面白くない!
その為に様々な妨害行為もあったようです。
しかし、東南アジア諸国の人々はあえて日本で学ぼうとしたのです。
その様な素晴らしい教育システムと内容であったと言えるのではないでしょうか。
初等教育だけではなく、国を背負って立つ人材の育成にも力を注ぐのでした。
明治10年(1877)
日本初となる、近代的総合大学として
東京帝国大学
が、開校します。
大東亜戦争の終戦までに内地に7校(東京、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)
外地に2校、朝鮮京城帝国大学、台北帝国大学。
大正に入り慶應義塾大学や早稲田大学などの私立大学も次々と開校していきました。
更に、政府は軍人や教員の養成にも力を注ぐのでした。
明治の早い段階で陸軍士官学校や海軍兵学校や師範学校なども開校しています。
何より特筆すべきは、これら高等教育の門戸は
全ての国民に開かれていた!
現代我々にとっては当たり前の事です。
しかしこれは画期的な事です。
江戸期には、受ける教育が身分により違うからです。
武士階級とそれ以外では受ける教育が違う。
更にどんなに勉強が出来ても身分の垣根を超えることは大変難しい。
しかしこれは日本に限った事ではありません。
ヨーロッパの国々なども教育の機会を得るのは限られた人々でありました。
しかしそれは明治に入り一新!
全ての国民が高等教育を受ける機会を得たのでした。
戦前の日本には、教員を養成する師範学校、軍の将校を養成する陸軍士官学校や海軍兵学校のような学費がかからず、給料まで出る学校があったのです。
師範学校は卒業すると、高等師範学校や文理大学と言うコースに進めて、最終的には大学と同程度の教育を受ける事が出来ました。
陸軍士官学校や海軍兵学校の卒業生は、軍の幹部になる事が約束されました。
貧しい家庭の子供でも勉強を頑張れば、立身出世の道が開けた!
そんな時代でもあったのです。
国民全てに初等教育を施し、貧しい者でも能力さえあれば、高等教育を受けさせる。
そうした大日本帝国の教育システム。
当時のアジアの中でも最も進んだシステムでもあったのです。
明治の終わり頃には、アジア諸国から日本に多くの留学生がやって来ます。
戦前の日本では様々な国から留学生が学びにやって来ていましたが、最も多かったのは支那人でした。
支那人の留学生は明治29年(1896)、支那外務省に選抜された13人の留学生が最初であるとされます。
明治29年と言えば日清戦争から僅か2年後!
支那がそれだけ、我が国の教育を認めていたと言う事実に他ならない。
支那人留学生はその後、徐々に増え日露戦争で日本が勝利するや、一気に急増し一万人、或いは別の資料では二万人とも言われます。
我が国はヨーロッパを差し置いて支那人の最大の留学先となります。
この当時日本で学んだ者には中華民国の蒋介石(1907年・陸軍士官学校の前身である東京振武学校)や周恩来(1917年・東亜高等予備学校)などもいたのです。
日本ではその後も多数の支那人が学びました。
いわゆる日中戦争が勃発し、学生の殆どが引き上げるまでは常時千人はいたとされます。
うち、最も多かったのは日本領朝鮮の出身者で戦時中の昭和17年には三万人近くいました。
陸軍ではこの者達の為に特別クラスを用意するほどでした。
陸軍士官学校出身者は、後に韓国の中枢を担う人間になっています。
朴正煕も大日本帝国陸軍士官学校出身であるのは有名なところ。
正確な数字は残されていませんが、ベトナム、フィリピン、インド、インドネシアなどからも多数の留学生が来日していました。
東南アジア諸国は、当時まだ独立する前であり、学生にとってオーソドックスな出世コースは宗主国に留学することでした。
日本への留学は宗主国にとっては面白くない!
その為に様々な妨害行為もあったようです。
しかし、東南アジア諸国の人々はあえて日本で学ぼうとしたのです。
その様な素晴らしい教育システムと内容であったと言えるのではないでしょうか。