犬神スケキヨ~さざれ石

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思いを致す2

2016-09-28 14:01:22 | 草莽崛起
二つ目に話したのは北朝鮮についてです。

我が国は北朝鮮のミサイルや核の脅威に晒されています。

この脅威に対する対応は全く出来ていません。

更に我が国には拉致事件という問題も抱えています。

なのに、国民の関心は低い。

ミサイル

我が国はミサイル攻撃を北朝鮮から受けました。

しかし、Jアラートと呼ばれるミサイルなどの攻撃を受けた時に鳴らす警報は出されませんでした。

出なかった理由は国土に着弾する恐れがなかったからだそうです。

しかし我が国の排他的経済水域に着水しています。
我が国の管轄下にある海域にミサイルを撃ち込まれながら、何ら警報を出していないのです。

排他的経済水域は我が国の漁師が仕事をし、資源を採取したり研究する人々が仕事をしているのです。
今回、たまたま被害が出なかっただけですが、着水したミサイルの破片や燃料が環境汚染を引き起こす恐れはあります。

我が国の管轄下にミサイルを撃ち込む行為は明らかな戦争行為です。
それを撃ち落としもせず、警報すら出さないとは一体政府は国民の命を何だと思っているのでしょうか?

排他的経済水域は漁師の仕事場です。
そこを攻撃されたのです。

例えば、畑で農家が仕事をしています。
畑は農家の仕事場です。

その畑に突然、他国の戦闘機が現れて機銃掃射をして飛び去ったらどうするのでしょう?
人的被害がなければ、何もしないのでしょうか?

それと同じだと考えられない現在の日本は大問題です。

我々は策源地攻撃、つまり敵地攻撃をする能力を有していません。
厳密には無くはないのですが、我が国の空自は空対地攻撃の訓練が殆ど出来ていません。

これは専守防衛なる訳のわからん安全保障の理念を掲げているからです。

だから盾はあっても鉾はない。

例えばアホの左翼は
「日本にも個別の自衛権がある」とアホな事を言って憲法に定めた交戦権放棄を「素晴らしい」と賛美しています。
これはアホです。

交戦権とは単純に戦う権利だけではありません。
交戦権には戦地を選ばないということと報復する権利があるのです。

やられたらやり返す。
これは国際法にも定められています。
戦地を選ばないとは、やられたら防ぐと共に相手国に出向いてやり返すこと。
だから、相手はやり返されるので攻撃を躊躇するのです。
これが抑止力というものです。

と、いう事は我が国には抑止力がないのです。

来たら防ぐぞ!

これは抑止力ではありません。
盾は抑止力の意味を殆ど持ちません。
やり返すがあって盾は抑止力となるのです。
我が国は米国にその鉾を預けてしまっています。

北朝鮮に対する我が国の抑止力はありません。
我が国が北朝鮮に対し抑止力を発揮するならば、飛んでくるミサイルを弾道計算し、我が国の管轄下に進入する恐れのあるものは全て撃ち落とす。
更に、やり返す能力を有して常に発揮出来る状態にあらねばなりません。

その鉾を持たないからこそ、自国民を拉致されるのです。

自国民を拉致されたなら軍事的オプションを選択する、あるいは北朝鮮の要人を片っ端から拉致してくるぐらいでなければならないのです。

拉致を単なる国際犯罪とかテロと見る向きもあります。

確かにそう言えます。

しかし、我々はもう少し踏み込んで考えなければなりません。

北朝鮮とて国連加盟の主権国家です。
主権国家として国連加盟193か国中、166か国と国交を持っています。

その主権国家が他の主権国家の主権者を拉致する事は国際法上戦争行為です。
これは明らかな侵略行為です。

そういう立ち位置で考えなければなりません。

その立ち位置ならば、現憲法や現行法で充分対処出来ます。
我が国は法治国です。
ならば、その法治国らしい振る舞いで拉致被害者を取り返す方法を考えなければなりません。

立ち位置をしっかり考えれば、現行法や現憲法でやれることはあるのです。

憲法改正や法整備をしなければ、拉致被害者を取り返すことが出来ないなどでは考え方として間違いです。

その上でツイデモ等の啓蒙も考えなければなりません。

少しでも多くの人に拉致を知ってもらう。
少しでも多くの人に拉致を考えてもらう。

これは必要なことです。

しかし、我が国で拉致を知らない人はいないでしょう。

ならば、どんな啓蒙が必要なのか?
それを考えてみなければならないと思います。

先に述べた様に、我が国は戦争行為を仕掛けられています。
拉致もミサイルも、或いは核の脅威も全て同じ線上にあるのです。

皆に考えてもらうには、その『考える為の材料』が必要であり、知ってもらうことから更に一歩も二歩も進めて取り返す方法を考えていかなければなりません。

国民は拉致を知っています。
知っていながら、国の対応に『どうせ取り返せないだろう』と見ています。

それは諦めです。

諦めたら終わり!決して諦めない!
そう言いながら、具体的に諦めずに考えて行く方法を示せずにいるのが現状ではないか?
その様に感じ、更に危惧もします。

もう少し踏み込んで考えてみるべきではないかと思います。

思いを致す

2016-09-28 14:00:59 | 草莽崛起
さてさて少し間が空いてしまいました。

ご存知の方もおられると思いますが、ツイキャスなるものを始めてみました。

ツイキャスアカウント

ここまで計三回配信いたしまして。

第一回には行橋市小坪議員にも参加頂きました。
第二回はダラダラとやりまして、夜遅くには下ネタ大会になるという大人の時間でした。
第三回は約3時間ほどを一人で話切りました。

宜しければツイキャスのフォローなどして頂きましたら有り難いです。

この地味ブログで発信して来ましたが、合わせて直接皆さんに話しかけることで更に伝わる事もあるのではないか?
その様な趣旨で始めてみました。

ツイキャスの私のページには過去三回の録画アップしてますので、お暇な時間にでも飛ばし飛ばし見て、と言うか聞いていただけたらと思います。

不定期ながら、ツイキャスでも発信して参りますので、その際は一度御視聴下さい。

足元を見る

今回は第三回にてツイキャスで話した事を文字にしてみようという試みです。

と、言っても発信そのものを文字起こしするのではなく話した内容を、ブログに置き換えて話してみたいと思います。

話した内容は、特に意見の違いがある事がらだと思います。
それを敢えて発信してみました。

世の人の中には『他者の意見』を認めない人もいます。
自分の意見が正しい!
そう思って他者を攻撃する人もいて、それは右とか左とか、保守だリベラルだ、関係なくいます。
反日の連中でも仲間同志で内ゲバ張りのモメ事を起こしたり、或いは保守を標榜する人でも気に入らない人を攻撃したり。

ネット上では、よく見かけます。

明らかに間違った行為や間違った認識に対しては抗議や意見をしても構わないでしょうが、そうではない単なる見解の相違などをあげつらうとか、上げ足を取るなんてのは気をつけなければなりませんね。

むしろこうした事は、幾ら意見や見解が正しいとしても人に受け入れられるものではありません。

事実、根拠、論理性をよく考えなければなりませんね。

その上で、このブログやツイキャスで述べる私の意見はあくまで私の意見であり見解であり、そして問題提起です。

私が正しい!なんて申すつもりはありません。
私が知りえた事実を基に、出来るだけ論理性を以って話そうとするもので、その私の意見をどう受け取って頂こうと構わないのです。

「あ〜確かにそうだな」とか「ん?そういう考えもあるのか」など様々でしょう。
「いや、お前は完全に間違ってる」と思う方もおられるでしょう。

それで、直近のツイキャスにおいては敢えて見解や意見の分かれるであろう話しをしてみました。

少し立ち止まってみませんか?

その様な問題提起をしてみようと考えたからです。

人も時間もどんどん流れ、ともすれば当初見えていた『目的』を見失ってしまいがちです。
少し立ち止まって今いる場所を見つめ直すことをしてみようと考えたからです。

日本の開戦

我が国は先の大戦に負けました。
負けたが故に変わってしまいました。
アホの反日にとっては現在の日本は正しい日本みたいです。
私にとっては『生き難い』日本です。

何故なら我が国は、本来の姿ではないからです。
日本人が日本人として生きる為に必要な日本ではないからです。

戦争に負けた、負けたが故に憲法を変えられ生き方を変えられているからです。

我が国が行なった戦争を賛美するつもりはありません。
しかし、我が国には我が国の大義名分があり、そして戦ったのです。
ひとたび戦争となれば多大なる犠牲を払わねばなりません。
しかし、我が国は国際条約を守りフェアに戦ったのです。
その事により、世界を変えたのです。

私は戦争そのものよりも開戦に至るプロセスがマズかったのではないかと考えます。

戦争をさけられたのか?
そう聞かれたら『世界の潮流』を見れば、まず避けらなかったであろうと考えます。
ならば、しっかりとした内容を持たねばならなかったと思います。

白人至上主義とも言える世界の中で、差別と搾取をされ続けた有色人種が立ち上がった戦争であった事は、これは事実を見ればわかります。
世界が帝国主義に走る中、有色人種国家で唯一白人と渡り合った我が国は、やはり白人相手の戦いを避けらなかったであろう。

ならば負けてはならない。

勝ちはなくとも負けてはならない。
後世に勝ちを委ねられる戦いをしなければならなかったのです。

日本は白人に仕掛けられた戦争をまともに戦ってしまった。
これがまず間違いです。

これにより大東亜宣言をしたにもかかわらず、これを後世なかった事にされてしまいました。

日本が主張したアジアの独立、アジアの自由、人種差別撤廃は白人達にとっては都合の悪いものばかりです。

経済封鎖をされ、資源を断たれては我が国は死活問題。
戦争と言うある種の極端な外交に出なければならないのです。

それは我が国の国柄をも無くしてしまいかねないからです。

世界と日本の労働に対する意識の違いも、その一面であるのです。
例えば、バブルが弾け経済が落ち込んだ近年を見れば理解出来ます。
長い不況の中で、庶民は喘いでいました。
年間の自殺者数は異常と思える人数となっていました。

しかし、クソ民主党政権から第二次安倍政権に移り『アベノミクス』により、失業率や就職率が改善されるにつれて自殺者数は減っていきました。
ここに、先の大戦に至るヒントが隠されています。

我が国は仕事がなくなると国民は死ぬ

そういう国なのです。

世界では労働は苦役です。
しかし、我が国の労働は歓びなのです。
白人にとって労働は苦役です。苦しい事はしたくない、だから代わりに奴隷に働かせて自分達はその労働で生じた利益を得ようとします。

しかし、奴隷などという概念もない日本人は『自ら働く事で利益を得て国を作る』意識です。
労働する事で国が栄え、皆が食える世を作る。
古事記にも示されたそれが根っこなのです。

他人に苦役を課して利益を得ようという概念がありません。
ですから我が国は奴隷など持った事はありません。

自分の労働で誰かの助けになっている。
誰かの労働で自分は生きている。
そうやって世の中成り立つんだ。

そう考える日本人にとって労働は生きる為に必要なものです。

経済封鎖をされ資源を断たれたらどうなるでしょうか?

物を作ろうにも資源がなければ作れません。
経済封鎖をされては経済活動が出来ません。
経済活動や物作りが出来なくなれば、それは働く事が出来なくなってしまいます。

つまり仕事がなくなってしまうのです。

我が国は仕事がなくなってしまうと国民は死ぬのです。

外圧に屈し、仕事がなくなって国民が死ねば国家は意味を無くします。
民族は滅んでしまいます。

やるべきだった

さて上記した事は開戦に踏み切った理由の一つで、これが全てではありませんが少し身近に感じられたのではないかと思います。

その上で、あの世界の潮流の中、戦争を避ける手段があったのか?
と、考えてみると、その手段は恐らく
天皇陛下と米国大統領の会見というウルトラCしかなかったであろうと思います。

それ以外にはハルノートと呼ばれる要求を受け入れるという方法はありますが、受け入れたなら先に述べように『国民は死ぬ』事になります。
だから、これをのまずに開戦したのです。

天皇陛下のお出ましを仰ぎ、米国大統領と会見して頂く事で戦争を避ける事は出来たかもわかりません。
実際当時の我が国首脳陣にも、この意見はありました。
しかしこれをやれば『天皇不親政』の原則を破り天皇の政治利用になってしまいます。

そして、戦争を避ければ『大東亜会議』における『大東亜宣言』をも自ら否定し、白人達の行うアジアやその他地域における植民地主義は未だ続いていた事でしょう。
アジアの盟主として、アジアの独立、人種差別撤廃を高らかに宣言した事も嘘になってしまいます。
他者の為にこそ生きる我が国の国柄を自ら否定してしまうのです。

これらを考えると開戦は避けることの出来ないものであったと思います。

ひとたび開戦したなら絶対に負けてはなりません。
崇高な理念を掲げても負けたが故に有りもしない罪を着せられるのです。
日本は侵略戦争をしたと言われてしまいます。

しかし、物量と経済規模、工業力を見れば米国有利であるのは間違いありません。
幾ら性能の良い航空機を開発しようとも、工業力に勝る米国は大量生産。
我が国は手作りレベルです。
負ける戦をせねばならない。

ならば、最悪負けてもより良い負けを得なければならず決して都市空襲や原爆による無辜の民の大虐殺を許してはなりません。

その為に我が国がやるべきだったことを幾つか考えてみます。

まず、突きつけられたハルノートについてです。

これは当時のハル長官が、いわば政府には黙って日本に突きつけたというもので、ルーズベルト大統領も知らなかったと言われています。

いや、例え知っていたとしても我が国はこのハルノートをつき返せば良かったのです。
その上でこの様な物は到底受け入れられるものではないとはっきり宣言する。
そして全世界に向けて発信するのです。

今般この様な要求を我が国は米国より突きつけられたが、この要求を飲めというならば、白人達はアジア他、南米やアフリカ、中東における人種差別を撤廃し植民地主義を辞め統治国の独立を認めて解放しろ!

と、全世界に宣言する。

その上で、これらを受け入れなければ日本は開戦に踏み切るとすれば良かった。
これにより我が国は侵略主義という誹りを免れ、更に期限を設け回答を求める事で戦線布告となり不意打ちの真珠湾という嘘の喧伝は成し得なくなるのです。

そして戦争する期間をある程度定めておき、無駄に戦線を拡大せずに常に講和の道を残して戦争をすれば良かったのです。

これに対しては、勿論違う意見はあるでしょう。

しかし、負けてもより良い負けとし、より少ない犠牲でアジアやその他地域の白人による植民地主義を砕き我が国が掲げた民族自決の理念を実現することが出来たのではないか?

そう、考えます。

我々は今現在も近隣国から国土と国家を狙われ、更にミサイルや核の脅威に晒されています。
その中で、いよいよ力を行使せねばならない事態も覚悟しなければならない恐れもあります。

未だ、連合国から見れば『敵国』である我が国が力を行使するのは容易ならざる状態です。
例え自衛権の範疇であっても難癖を付けられます。
過去の失敗を充分に理解し、現在考え得る事態に対処するズ太さを手に入れなければ腹黒い国際社会と渡り合うことは出来ません。

そうすれば、どう改憲するべきか?なども見えてくるのではないかと思います。

2へ続く

大日本帝国の国家戦略7

2016-09-21 21:00:13 | 大日本帝国
随分と間が空いてしまいました。
前回は明治の世を迎えた日本で行われたインフラ整備の要『鉄道』について話しました。

おさらいはここです。

今回は海運業について話してみたいと思います。

駆逐

明治新政府は鉄道だけではなく海運業の充実にも力を入れて来ました。

岩倉使節団で欧米を見聞した政府高官達は、海運業が一国の経済の発展に不可欠だと気づくのでした。

なかでも大久保利通は大英帝国の栄光が海運業の発展と共にあることを知り「海運業のあり方を英国に学ぶべきだ!」と考えるのでした。

英国では17世紀に航海条例というものが作られていました。

これは1951年に英国イングランドで制定された法律です。当時、貿易で大きな比重を占めていたオランダ船を締め出す目的で作られた法律で、英国の植民地における外国船の交易が禁じられる事になるのです。

つまり、当時海運業で圧倒的な力を持っていたオランダに対抗する為に、入港船の船籍を限定するなどして、自国の海運業を保護したのです。

この航海条例は200年間続き、海の大国イギリスをつくる上で大きな役割を担ったのです。

大久保利通らは、この英国の航海条例に学び海運業者の保護育成に乗り出すのです。

締め出し

幕末から明治初年にかけて、日本沿岸の船舶輸送というのは英米国が大半を握っていたのです。

明治維新期には、日本の民間人には西洋船の所有が禁じられていました。
それにより競争のしようもなかったのです。

そのため新政府は明治2年(1869)に日本の民間人による西洋船の所有を解禁したのです。

続いて明治4年(1871)駅逓頭の前島密が政府肝いりによる運輸会社の設立を画策するのです。

駅逓(えきてい)とは、郵便事業などを司る明治初期の官庁です。そこの頭とは今で言う『長官』にあたります。

その運輸会社が日本国郵便蒸気船会社です。

前島は、廃藩置県により没収された各藩所有の船を払い下げるなどの保護を行い『日本国郵便蒸気船会社』を外国の運輸会社に対抗出来る様に育成しようとしたのです。

明治7年(1874)には台湾出兵に伴い、兵員輸送の為に13隻(1万1974t)の汽船を購入。
これらの船舶は台湾出兵後に岩崎弥太郎の三菱商会に委託されています。

岩崎弥太郎とは、ご存知三菱財閥の創始者で元土佐藩の地下浪人。下級武士です。
下級武士ながら土佐藩の参政吉田東洋に見出され、幕末には土佐藩商務部『土佐商会』を任されます。
坂本龍馬とも親交のあった人物です。

政府は三菱商会に多額の援助金を出し後押しもしています。

政府の後ろ盾を得た三菱商会は日本沿岸の航路を瞬く間に占有してしまいます。

三菱商会が次の戦いの舞台に選んだのが『上海〜横浜』を結ぶ上海航路でした。

当時この上海航路はアジアの重要な海のルートで、海運業者にとってのドル箱航路です。
しかし、上海航路は外国の海運業者の独占状態でした。
米国の太平洋郵船です。

政府の支援を受けた三菱商会は明治8年に日本初の外国航路である上海航路を開拓すると、太平洋郵船に対して『運賃値下げ競争』で挑むのです。

激しい値下げ競争の末に、太平洋郵船は遂に撤退を決断するのです。

日本政府の交渉により、太平洋郵船の船舶と港湾施設を総額81万ドルで買収。
同社をこの航路から撤退させる事に成功するのです。

翌年には英国のP&O汽船が上海航路に参入してきます。
しかし、三菱商会は政府の支援で価格競争を仕掛け、同社を撃退してしまいました。

これらの保護政策により明治9年(1876)には、日本の開港間の航路は日本船が89.1%を占めるほどになりました。
日本沿岸の航路から外国の船会社をほぼ駆逐してしまったのです。

これは、そこまで外国の船会社から得ていた運賃収入を日本人が得るという直接的な利益もありましたが、軍事上でも大きな利点があったのです。

日本沿岸の海運を押さえておけば、戦争になった時、素早く兵員や軍事物資を輸送出来るのです。

『富国』だけでなく『強兵』も同時に実現しようとする明治新政府のしたたかさの表れと言えるでしょう。

日本人は日本人!

2016-09-18 23:30:51 | 草莽崛起
さて、ついに二重国籍の『自称日本人』が党首になった民進党。

更に失敗を全く生かせない元総理の幹事長。

民進党はこの自称日本人と能無し幹事長と心中するようです。

また、サポーターなるわけのわからん投票者。
じゃ、党費を払ってる党員は一体何なんでしょうかね?

さっぱりわけがわからん!

これで秋にはあるかもわからない衆院選。
完全に与党の一人勝ちということになってしまいますね。
それはそれで問題です。
主権者は積極的選択ではなく、またもや消極的選択をしなければなりません。
それでは、政治は良くなりません。

祖先は渡来人?

我々の体の設計図、遺伝子。
遺伝子は長い長い時間をかけて少しずつ変化していくのです。
この変化を突然変異といいます。

これは親から子へと引き継がれますね。
いわゆる遺伝というやつです。

遺伝子の中にあるDNA配列が変わっていく順番や変化した部分なんかを鑑定し、親と子の関係から民族の成り立ち、人類が世界中に広がってきた流れから人類の起源にまで迫るのが
分子人類学
と、言う学問があります。

これはアフリカで誕生した人類(ホモサピエンス)に迫り、肌の色が変わっていく過程も解るのです。

よく聞かれる『ミトコンドリアDNA』。
かつてはこれがDNA鑑定に使われて来ました。
これは母親から娘に引き継がれるDNAですから、女系のルーツを探ることは出来ました。
そこで、近年確立された『Y染色体鑑定法』で、民族の男性のY染色体の相違を知ることが出来る様になりました。

ミトコンドリアDNAは古い人骨から採取出来ます。
ミトコンドリアDNAは違いと順序を知ることが出来るので、人の流れのおおよその年代が追えるのですね。

『分子人類学』で日本人のルーツを探ることが出来るのです。

ただし、分子人類学のみではありません。
様々なデータから祖先に迫るのです。
文献資料、例えば古代史や考古学などの及ばない時代を探るには分子人類学のみではなく、他の学問も垣根を越えてデータを基に探らねばなりません。

現在までは東南アジア起源の縄文人を基層とし、弥生時代以降に北東アジア起源の渡来人が覆い被さる様にに分布して混血し現代日本人が形成されたとされています。
これを二重構造モデルと言います。
我々も学校ではこの様に習いましたね。

しかし、この二重構造モデルには大変矛盾を含んでいるのです。
二重構造モデルが成立する為には渡来人が大挙押し寄せなければなりません。

ところが福岡県の遺跡調査から見えた事実は違いました。
考古学の研究結果では弥生時代の渡来について
確かに縄文以前の渡来に比べると規模が大きかった事は間違いないけれど、渡来人が大挙押し寄せた様な状況は考え難い。渡来してきた人の数は多く見積もっても数百年で数千人、一年にならすと数十人。二家族とか三家族とか、長い期間にパラパラと来たのが実態ではないか?
と、言う結果が導き出されました。

二重構造モデルという定説とは違う結果ですね。

二重構造モデルは縄文人は狩猟民族で人口増加率が低く、渡来人は稲作民族なので人口増加率が高い!という前提になっています。
縄文人の人口増加率を0.1%、渡来人の人口増加率を2.9〜3.0%という設定らしいですが、これなら300年もすると縄文人と渡来人の人口比率は逆転してしまいます。
すると8割が渡来人、2割が縄文人という事になり渡来人の数が少なくても結果、渡来人系が多くなるというものです。

しかし、この渡来人系の人口増加率に根拠はありません。
しかもこの増加率で人口が増え続けると25年で人口は倍になります。
3世紀には1億人を突破してしまいます。

これは
渡来人が縄文人と混血して弥生人になった
という結論ありきの理論です。

まぁ、我が国の学者というのは、こう言うものです。古事記にしても「アレは神話だから」とか言ってる訳ですからね。
しかし、実際には因幡のウサギにしてもワニに乗って…は、日本にワニなんかいないからとか言ってだから鮫だろうと。
すると、実際に大阪でワニの化石が出土したのです。マチカネワニてやつです。
出雲にしても「そんな建築技術は当時はなかった」だから作り話しだ!とか言ってました。
しかし、古事記の記述通りに天にも届く建築物の跡が見つかりました。
我が国の学者は何故か、我が国の否定をしたがるんですよ!

で、話を戻します。

考古学で稲作の研究なんかしてる学者は、今だに二重構造モデルを、根拠に自説を展開しているのです。

しかし、実際には日本人男性と韓国人男性のY染色体のDNA鑑定結果は構成比率は大きく異なっていたのです。
渡来人系と考えられる男性のDNAは11%程度。
1割強では渡来人縄文人混血説は成立しません。
方や女性のミトコンドリアDNA解析による研究ですと、日本人も韓国人も其れ程違っていません。
この研究からは日本人女性では縄文系が80%を超えていると考えられます。

稲作は縄文時代から我が国では行われていました。という事は、渡来人系だけが爆発的に増える根拠はないという事になります。

つまり、日本人女性と韓国人女性は同じような遺伝子型を持っていると考えられます。

例えば、征服したとか考えると、征服する側は男性を殺します。
女性は殺さずに征服側の男性と子供を作ります。
例えば支那がチベットやウイグルでやっているのがこれで、いずれは純血はなくなり漢人だけが残っていきます。

男性のY染色体は、これだと入れ替わりますが女性のミトコンドリアDNAの系統は大きく変わり難いですね。

渡来人男性と思われる割合は低い、日本人女性と韓国人女性は遺伝子型で見分け難い。
と、なると女性だけが大挙押し寄せたと考えることもありえません。

となると

我々日本人は一万年以上、太古の時代から日本列島の主人公であり続けた縄文時代からの人々

と、言うことになります。

また、縄文人と弥生人の骨格が違うから、これは渡来人系が…なんて話しも聞いた事ありますね。
これに関しては東京大学名誉教授である鈴木尚氏が環境や食べ物で身長や骨格は変化する可能性を示しています。
これを『小進化』と言います。

縄文時代から弥生時代は大きく生活環境が変わっていた時代です。
しかも500年、或いは1000年とも言われる空白期間を経て発掘された人骨を比べて「これが縄文人、これが弥生人」なんてのは、そもそも間違いなんです。

進出した日本人

平壌の考古学博物館には縄文式土器が展示されています。
韓国の国立博物館にも縄文式土器が陳列されていました。
九州の縄文式土器と類似しています。

先に述べた様に、考古学者も朝鮮半島から日本の土器は出る事を認識しています。
しかし『定説』が覆るので、口が裂けても
日本人が朝鮮半島に進出した
なんて事は言えません。

朝鮮半島の歴史を考えると、旧石器時代の遺跡は50〜60程度しかありません。
ところが日本は1万以上です。
桁が違います。

紀元前1万年〜5千年間は無遺跡時代で、半島からほとんど人がいなくなりました。
ところが、無遺跡時代直後から各地で縄文式土器が出土し始めるのです。
このことから半島へ縄文人が移り住んだと考えられます。

一体、日本の考古学者は何の為に定説を守っているのでしょうか?
『日本と日本人と日本文化のルーツは朝鮮半島」
明らかに間違っていると感じますね。

現在の韓国人のルーツは紀元前2,000年頃に半島に移り住んだ人々で、これについては韓国の学者も認めています。

釜山にある、東三洞貝塚からは縄文式土器と黒曜石が見つかっています。
佐賀県の腰岳産のものでした。
韓国の言う『櫛文土器』の時代の貝塚で、これは明らかに九州から運ばれたもの。

以前にも話しましたが魏志倭人伝には半島に倭国があって、と書かれています。

これらの状況から考えると、3世紀の支那人が狗邪韓國を倭が支配する国と認識していたのは間違いないでしょう。

また三国史記には『辰韓の風習は倭に近く、時々文身するものがいる』と書かれています。
出土品から半島南部と九州の文化が共通している事、DNA鑑定でほぼ同じ型を持っていることは明らかです。

例えば、韓国から前方後円墳が出た時は「ほら見ろ!古墳は韓国由来だ」と韓国は当初は言っていた、埴輪なんかも博物館に陳列していました。
ところが、その後の調査で日本よりも年代が新しいとわかると陳列を撤去してしまいました。

更に前方後円墳をブルドーザーで削って円墳にしてしまう始末です。
現在もどんどん壊しているのです。

朝鮮の正史『三国史記』には新羅第四大王脱解(タレ)が倭国の北東一千里から来たと書かれています。

「前提として」と前置きを付けて考えてみると、邪馬台国が北部九州説を取るなら、脱解は但馬辺りから新羅に渡ったと考えられます。

新羅の倭種王権は脱解だけでなく、第九代から第十二代、十四代から十六代の王は脱解の子孫です。

最近までは九州で人骨がでると「半島南部の骨と類似している」と騒いでました。

この既成概念にはマスメディアの加担も大きいのです。

釜山市近郊礼安里古墳群からは4〜7世紀の人骨が発掘されました。
形態人類学的分析結果は現代韓国人とは全く違う数値が出たのです。
むしろ、同時代の北部九州、山口地方に近い数値が出たのです。

データをして語らしめる。

これらは日本人の半島進出を裏付けるのでは、ないでしょうか。

稲作

稲の伝来についての定説は

中国南部で始まった水稲耕作が朝鮮半島を経由して日本に伝来した

その様になっています。

しかし、稲作には畑作もあるのです。
考古学者は水田がなければ稲は作れないと思い込んでいます。
ところが畑作や焼畑で縄文人は稲を作っていたと主張する植物遺伝学者もいます。

その論拠は稲特有の細胞プラントオパールです。

この物質は非常に強靭で稲が腐食しても焼かれても残ります。

これが縄文稲作の根拠です。
全国の縄文遺跡から見つかっています。

2005年には岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期、約6000年前の地層から大量のプラントオパールが発見されています。

朝鮮半島からは3000年前のプラントオパールが発見されていますがたった一粒です。

縄文遺跡から見つかる稲は『熱帯ジャポニカ』と言う稲で中国大陸にはありません。

これは日本人の祖先は稲と共に黒潮に乗って日本にやって来た、或いは当時の気候などを考慮すると南方の稲が黒潮に乗ってやって来て自生したと考える方が矛盾は少ない。

1980年に佐賀県唐津市で紀元前10世紀の畦畔を伴った水田遺跡が発見されています。
つまりは水田稲作も縄文人が始めていたとわかります。
支那大陸で見られる温帯ジャポニカ米も、いつどこで生まれたのかわかりません。
1万年以上前から稲作をしていた日本で生まれた可能性だってあるのです。

弥生時代になっても熱帯ジャポニカ米は受け継がれて、熱帯ジャポニカ米と温帯ジャポニカ米が自然に交配され早生種が出来た可能性があるのです。

健全な歴史認識

そもそも今の学者の見解というのは戦後に生まれたもので、そのスタートは皇国史観という戦前の日本の否定から始まっているのです。
そして今尚、在日朝鮮人や韓国人に阿る動きがある訳です。

大学などの教職員は厳しい検閲と、それによる教職追放に怯えていたのです。

日本の歴史を肯定的に言う者は全て追放されたりしていた訳です。

古代史は我が国と日本人のルーツを知ること。
それに関わる大事な問題です。
しかしそれが歴史捏造に近い状態にあるのです。

韓国では正史である『三国史記』は用いられません。
何故なら現代韓国人にとって不都合な事ばかり書かれているからです。

例えばよく左翼や韓国人から出て来る『天皇渡来人』説は何の根拠もなく更に、日本、中国、朝鮮半島の文献には一切出てきません。
しかし、新羅の王族が日本出身だと『三国史記』には出てきます。

戦後我が国は『古事記』や『日本書紀』を否定するところから始めました。
方や韓国は大事な正史を否定しました。

イデオロギー先行の歴史観を棄て、先人が残した文献を謙虚に読むことをしなければならない。

我々は健全な歴史認識を持たねばなりません。

古事記【スピンオフ3】

2016-09-10 15:02:03 | 古事記
さて、武士道の中に我々日本人の哲学を見ることが出来る!
という実感が湧いてきましたか?

そう感じていただけたら幸いです。

そうやって考えると、例えば幕末の侍達、鎌倉の侍達の振る舞いが見えてきませんか?

元寇の役や、幕末の薩英戦争や、なぜ日本の武士が強かったのか?

何となく理解できる感じがしますね。

そうすると敵に塩を送るという話しも、日本人ならば理解できるのですね。

武士にとって最も重要な徳目は『名誉』です。
その名誉には武士の身分とそれに伴う義務があり特権があると考えます。

それを守る為に、卑怯な行動や不正を憎む。
正義の為に振るうべき勇気。
弱者や敗者に対する思いやり。
他人対する思いやり、敬意。
約束を守る心構え。
目上への服従と忠実。
叡智を持つこと。
無闇に心にある思いや感情を露わにしない。

これが武士道であり、武士道でありながら日本人全体に共通する哲学ともなっています。

最初の項で話した、蓮舫議員。
日本人ならば理解できるはずですね?
この哲学が、理解できるはずですね?

生まれた時から日本人ならば、この哲学の素養を持ち合わせているはずです。

泰平の武士道

さて、山本常朝が語った葉隠(はがくれ)に触れてみたいと思います。

この葉隠は、いわば平時の処世術とも言えるものです。
中身は『あくび』の嚙み殺し方から、日々の勤めや、いわゆる奉公におけるhow-to的なものです。

この葉隠の編纂が完成したのは1716年。
八代将軍徳川吉宗の時代です。あの、暴れん坊将軍の時代です。

戦国時代もすっかり昔。
世は天下泰平です。
今や武士の仕事は戦場にあらず。
武士の仕事が城中での執務となり、よりいっそう主君への奉公と忠義を求められる世になって、侍とはどう生きるべきか?
より、名誉を重んじ世になって武士の役割を山本常朝なりに考えたものではないかと思います。

そのhow-to的な中に武士道を滲ませたのではないでしょうか?

武士といふは死ぬことと見つけたり

そして、この言葉に集約したのでしょう。

この言葉は戦時中には歪曲して使われたりもしました。
侍は最後には死ね!と。
しかし、この言葉の本質は生きよと言っているのでしょう。
武士とは他者の為に生きる道だと新渡戸稲造も結論付けています。
ですから、生から死、死から生を見出せと言っているのではないでしょうか。

自分の為に生きるのではなく、他者を生かすのであって自らのは他者の為に使え。他者を生かす為にすることもある。

つまり葉隠の本質は生きる哲学を示しているのではないかなと、私は考えます。
武士ならば主君の為に、他者を生かす為にこそ自らの命を尽くすことこそが武士の本懐。
その為のhow-to本ではないでしょうか。

楠諸士教

楠諸士教(くすのきしょしきょう)と呼ばれるものがあります。

武士はかくあるべきを示したものです。

例えば、人を騙したり、礼を失すれば余計な軋轢を生みお互い殺し合いに発展したり、名誉を守る為に腹を切らねばならなかったり。
とにかく、そうそう物騒なことばかりになってはいけない。
ですから、普段から心がけて人として守るべきものを説いているのです。

嘘を言わない

利己主義にならない

礼儀作法を正す

上の者に諂わず、下の者を侮らない

人の悪口を言わない

約束を破らない

人の窮地を見捨てない

してはならないことをしてはならない

死すべき場では一歩も引かない

義理を重んじる

と、言うものです。
読めば「当たり前じゃないか」と思うことばかりですよね。
それが当たり前と感じることが重要なんです。
なぜ当たり前と感じるのか?

それは日本人だからと言うことです。

我々日本人には、遥か昔から我々は古事記を読み、そして武士の世にあってどう生きるべきかを考えて考えて体系化してきました。
その日本人の考えは世代を超えて受け継がれ、我々日本人の血となり肉となり知らぬ間に細胞に浸透しているのです。

ですから、武士道というマニュアルがあった訳でもなく、自然に日々の生活の中で編み出され広く浸透し、そして知らず知らずに身につけているのです。
その生き方は「これは素晴らしい」と、他人との関わりから余計な軋轢も生まず皆が幸せにに暮らすにはどうすべきかを考えて行ううちに磨かれて出来あがったのではないかと思います。

それは自然発生的なもので、誰かが上から「こうしろ」とか言ったものではない。

神道にしても、武士道にしても日本人の観念とはそれは日々の生活の中で編み出され、誰言うことなく自然発生したものばかり。

そうやって生きているうちに、信用を得ることが出来て人が幸せに生きる道を歩いて行く事が出来るのですね。

幕末、最後の将軍徳川慶喜の家臣であった高橋泥舟。
この人物、慶喜が側に置いて離さなかった程の人物で槍の名手です。
無血開城にも貢献し、江戸を戦火から防いだ人物でもあり、勝海舟、山岡鉄舟と共に幕末三舟と呼ばれます。
その振る舞い、所作、生き様は正に武士道そのもの。
慶喜自身常に側に置いておきたい程に信用し、宮中に上がる際にも連れて行きたいが為に『伊勢の守』の位を与えてしまいました。
口の悪い勝海舟は「槍仕事で伊勢の守になりやがった」と揶揄する程。

この高橋泥舟が義理の弟である山岡鉄舟の死後、山岡鉄舟が残した借金の肩代わりをすることになってしまいました。
その時のやり取りで金貸は高橋泥舟に「それで高橋様、担保はごさいますか?」と聞かれます。
高橋泥舟はこう返します「この顔が担保でござる」
金貸は「あい、わかりました」と金を貸しました。

これが武士と言うものです。
高橋泥舟程の武士が他人を欺くことなどあり得ない。
これが、もう既に明治の世になってからのことなをですから凄い話しです。
その義理の弟である山岡鉄舟も明治天皇が一番に信頼を寄せ側に置いて離さなかったのですから凄いです。
徳川家の家臣であり剣の達人であった山岡鉄舟。
いわば、武士の身分を奪われた立場の人間がそれを奪った天皇の侍従を勤めたのです。

このエピソードを知るだけで、我が国とは一体どういう国なのか?
それを知ることが出来るのではないでしょうか?

武士道から見えるのは、他者への思いやり。

そして日本人の根っこは他者を生かし、他者の為にこそ命を使うこと。

そうすれば先の大戦での先達の思いや振る舞いを理解できるのです。
そして何故、我が国が戦禍に身を投じたのか?

武士の世がなくなって随分と時間は流れました。
現代日本において忘れ去られたとさえ思う武士道は今やもう既に瀕死の状態です。

しかし、新渡戸稲造はその著の最後にこう締めくくります。

たとえ武士道が死んだとしても、その美徳は滅び去ることはないだろう