またまた久しぶりの古事記です。
前回は石長比売(いわながひめ)の悲劇について話しました。
この石長比売の悲劇が後々皇統に多大なる影響を与えてしまうのです。
見た目が、あ、まぁハッキリ言うとルックスがよろしくない石長比売を無下に扱ってしまった邇邇芸命が招いた皇統への影響とは?
邇邇芸命はブサイクな石長比売を、いきなり帰してしまいました。
何も見た目が醜いからと、いきなり帰してしまうことはなかったでしょうに…
美人は三日で飽きる
そんなことも言うじゃないですか?
木花之佐久夜毘売は確かに美人ですよ。
けど、性格はとんでもないかもわかりませんよ。
石長比売はブサイクだけど、実は物凄くいい奴かもわかりません。
ブスも噛めば噛むほど味が出る…
か、どうかはわかりませんがね。
良妻賢母になるかもわかりませんよ。
ところが、家の敷居もまたがせずに、とっとと追い返してしまいました。
はいそこでゲキ怒りなのは、お父っつぁんですね。
大山津見神です。
父さん喜んで、舞い上がって娘二人を送り出したわけですから。
最高の準備をして、しかも祝いの言葉まで述べてですね。
『日の御子が木花之佐久夜毘売を側に置いてくれるなら、日の御子の系譜は未来永劫桜の花の様に栄える。日の御子が石長比売を側に置いてくれるなら、日の御子の系譜は岩の様に未来永劫の命が保証される』
ところが、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売だけ側に置き、石長比売を追い返してしまいました。
これはですね
日の御子の系譜は未来永劫桜の花の様に栄えるが、その系譜は桜の花の如く儚いものになる
つまり、その系譜は桜の花の様に見事に咲いて栄えるけれど、しかしその御命は桜の花の様に儚くて、一代毎に散り逝くということ。
石長比売の『岩』は普遍性を表しています。
木や紙は数百年、数千年と経つうちに朽ち果ててしまいます。
ところが、岩で出来たものは朽ち果てる事はありません。
岩とは普遍性の象徴でもあるのです。
木花之佐久夜毘売と石長比売。
花と岩を側に置いていたなら…
花の神の霊力、岩の神の霊力により皇室は守られたはずです。
ところが岩の神を帰してしまったのです。
岩の神の霊力の加護を失ってしまいました。
岩の神の霊力は寿命です。
これにより何が置きたのか?
恐ろし事に
邇邇芸命に寿命が与えられてしまった!
邇邇芸命だけではありません。
以降、その子孫、その系譜はことごとく寿命が与えられてしまったのです。
つまり、天皇の系譜に寿命が与えられてしまったのです。
神と人の違いは、寿命です。
実は神と人は見分けが難しいのです。
神には寿命がない
これが神の特徴です。
神には老いがない、病気にならない、癌とか肺炎とか、風邪もひかない。
脳溢血とか心筋梗塞とかもありません。
しかし、人には寿命があり、病気にもなるし結局は死んでしまいます。
邇邇芸命は神ですよ、天照大御神の孫ですから。
しかし石長比売を帰してしまった。
この事により寿命が与えられてしまいました。
ですから『日本書紀』には崩御の記述があるのです。
埋葬された場所まで示してあるのです。
神が埋葬されたのです。
伊邪那美命は火傷して死にましたが黄泉の国で生きています。
大国主神も若い頃に死にましたが、生き返らせたのです。
しかし、邇邇芸命は埋葬までされました。
邇邇芸命から始まる『日向三代』は天皇が成立してゆく過程を表し、同時に神が人になる物語なのです。
ですから以降、寿命が与えられ神武天皇にも寿命は与えられ、それぞれ実際に埋葬され御陵もあるわけです。
神が人になる
これが日向三代で、物語上、寿命が与えられなくてはならない、それが石長比売のお話です。
そして恐ろし事は
ブスの呪いだった…
我らが天皇陛下に寿命があるのは実はブスの呪いだったわけです。
ブスは神に寿命を与えてしまうほど恐ろしい。
あなた!ブスを蔑ろにしてませんか?
恐ろしい呪いがありますよ!
人に寿命があるのは、これは伊邪那美命の呪いです。
伊邪那美命が死に黄泉の国へ行ってしまった。
妻恋しい伊邪那岐命は黄泉の国へ会いに行くのですが、あの可愛いかった妻は世にも恐ろしい姿になっていた。
その姿に驚き逃げてしまいます。
それに怒った伊邪那美命は『あなたの国の人々を一日千人しめ殺しましょう』というのです。
それ以来、地上世界の人々は毎日一定数の人が死ぬ事になるのです。
これが人の寿命です。
人に寿命があるのは伊邪那美命の呪いです。
しかし、伊邪那岐命は『ならば毎日千五百の産屋を建てよう!』と仰る。
つまり千人しめ殺すなら、千五百人産んでやる!
そういうわけです。
これにより毎日死ぬ人より、産まれる人の方が多い世の中になったのです。
我々人間は伊邪那岐命の霊力により産まれ、伊邪那美命の霊力により死ぬ
そして生よりも先に死があるのだとわかります。
我々の神々は自然です。
我々は自然には逆らえないのです。
それが神勅であると私は考えます。
神勅には逆らえない。
神勅は死よりも生を上回れと言っているのではないのか?
つまり、死ぬ数を上回る生を!
我々日本人は伊邪那岐命・伊邪那美命の男女神が愛し合い、神々を産み、国々を産んだこの真実を知って伝えなければならないのではないか?
男と女がいて愛し合い子が産まれる。
これは価値観なんて、くだらない理屈ではない。
それは神勅であり、神勅とは自然なのです。
その自然は『死を乗り越え、生を育め』と我々に言っているのではにいでしょうか?
そしてその願いが込められたのが
国歌『君が代』の歌詞である
我々は神勅を深く理解する必要があるのです。
前回は石長比売(いわながひめ)の悲劇について話しました。
この石長比売の悲劇が後々皇統に多大なる影響を与えてしまうのです。
見た目が、あ、まぁハッキリ言うとルックスがよろしくない石長比売を無下に扱ってしまった邇邇芸命が招いた皇統への影響とは?
それはブスの呪いだった…
邇邇芸命はブサイクな石長比売を、いきなり帰してしまいました。
何も見た目が醜いからと、いきなり帰してしまうことはなかったでしょうに…
美人は三日で飽きる
そんなことも言うじゃないですか?
木花之佐久夜毘売は確かに美人ですよ。
けど、性格はとんでもないかもわかりませんよ。
石長比売はブサイクだけど、実は物凄くいい奴かもわかりません。
ブスも噛めば噛むほど味が出る…
か、どうかはわかりませんがね。
良妻賢母になるかもわかりませんよ。
ところが、家の敷居もまたがせずに、とっとと追い返してしまいました。
はいそこでゲキ怒りなのは、お父っつぁんですね。
大山津見神です。
父さん喜んで、舞い上がって娘二人を送り出したわけですから。
最高の準備をして、しかも祝いの言葉まで述べてですね。
『日の御子が木花之佐久夜毘売を側に置いてくれるなら、日の御子の系譜は未来永劫桜の花の様に栄える。日の御子が石長比売を側に置いてくれるなら、日の御子の系譜は岩の様に未来永劫の命が保証される』
ところが、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売だけ側に置き、石長比売を追い返してしまいました。
これはですね
日の御子の系譜は未来永劫桜の花の様に栄えるが、その系譜は桜の花の如く儚いものになる
つまり、その系譜は桜の花の様に見事に咲いて栄えるけれど、しかしその御命は桜の花の様に儚くて、一代毎に散り逝くということ。
石長比売の『岩』は普遍性を表しています。
木や紙は数百年、数千年と経つうちに朽ち果ててしまいます。
ところが、岩で出来たものは朽ち果てる事はありません。
岩とは普遍性の象徴でもあるのです。
木花之佐久夜毘売と石長比売。
花と岩を側に置いていたなら…
花の神の霊力、岩の神の霊力により皇室は守られたはずです。
ところが岩の神を帰してしまったのです。
岩の神の霊力の加護を失ってしまいました。
岩の神の霊力は寿命です。
これにより何が置きたのか?
恐ろし事に
邇邇芸命に寿命が与えられてしまった!
邇邇芸命だけではありません。
以降、その子孫、その系譜はことごとく寿命が与えられてしまったのです。
つまり、天皇の系譜に寿命が与えられてしまったのです。
日向三代とは
神と人の違いは、寿命です。
実は神と人は見分けが難しいのです。
神には寿命がない
これが神の特徴です。
神には老いがない、病気にならない、癌とか肺炎とか、風邪もひかない。
脳溢血とか心筋梗塞とかもありません。
しかし、人には寿命があり、病気にもなるし結局は死んでしまいます。
邇邇芸命は神ですよ、天照大御神の孫ですから。
しかし石長比売を帰してしまった。
この事により寿命が与えられてしまいました。
ですから『日本書紀』には崩御の記述があるのです。
埋葬された場所まで示してあるのです。
神が埋葬されたのです。
伊邪那美命は火傷して死にましたが黄泉の国で生きています。
大国主神も若い頃に死にましたが、生き返らせたのです。
しかし、邇邇芸命は埋葬までされました。
邇邇芸命から始まる『日向三代』は天皇が成立してゆく過程を表し、同時に神が人になる物語なのです。
ですから以降、寿命が与えられ神武天皇にも寿命は与えられ、それぞれ実際に埋葬され御陵もあるわけです。
神が人になる
これが日向三代で、物語上、寿命が与えられなくてはならない、それが石長比売のお話です。
そして恐ろし事は
ブスの呪いだった…
我らが天皇陛下に寿命があるのは実はブスの呪いだったわけです。
ブスは神に寿命を与えてしまうほど恐ろしい。
あなた!ブスを蔑ろにしてませんか?
恐ろしい呪いがありますよ!
少し人について
人に寿命があるのは、これは伊邪那美命の呪いです。
伊邪那美命が死に黄泉の国へ行ってしまった。
妻恋しい伊邪那岐命は黄泉の国へ会いに行くのですが、あの可愛いかった妻は世にも恐ろしい姿になっていた。
その姿に驚き逃げてしまいます。
それに怒った伊邪那美命は『あなたの国の人々を一日千人しめ殺しましょう』というのです。
それ以来、地上世界の人々は毎日一定数の人が死ぬ事になるのです。
これが人の寿命です。
人に寿命があるのは伊邪那美命の呪いです。
しかし、伊邪那岐命は『ならば毎日千五百の産屋を建てよう!』と仰る。
つまり千人しめ殺すなら、千五百人産んでやる!
そういうわけです。
これにより毎日死ぬ人より、産まれる人の方が多い世の中になったのです。
我々人間は伊邪那岐命の霊力により産まれ、伊邪那美命の霊力により死ぬ
そして生よりも先に死があるのだとわかります。
我々の神々は自然です。
我々は自然には逆らえないのです。
それが神勅であると私は考えます。
神勅には逆らえない。
神勅は死よりも生を上回れと言っているのではないのか?
つまり、死ぬ数を上回る生を!
我々日本人は伊邪那岐命・伊邪那美命の男女神が愛し合い、神々を産み、国々を産んだこの真実を知って伝えなければならないのではないか?
男と女がいて愛し合い子が産まれる。
これは価値観なんて、くだらない理屈ではない。
それは神勅であり、神勅とは自然なのです。
その自然は『死を乗り越え、生を育め』と我々に言っているのではにいでしょうか?
そしてその願いが込められたのが
国歌『君が代』の歌詞である
我々は神勅を深く理解する必要があるのです。