我が国のかたち弐でございます。
前回の壱では『御成敗式目』について話しました。
前回の記事は壱にて。
御成敗式目は武士の理念や心情や生活様式にぴたりとハマるものでした。
ですから多くの武士に受け入れられました。
御成敗式目は言わば武士の憲法。
では今、我々が抱えてる日本国憲法やいかに?
歴史は我々に問題提起をしているのでは?
大陸より伝わった儒学は、我が国でも学ぶ者は大変多くいました。
しかし、戦国時代など歴史的背景もあり、儒学を始め学問をする者がだんだん減少していく事になります。
しかしながら、ここで学問は進みます。
京都においても秀吉の時代には藤原惺窩(ふじわらせいか)と言う大学者がおり、漢学の第一人者として活躍しています。
この弟子が林羅山(はやしらざん)で、後に徳川家康の学問顧問となります。
しかし、藤原惺窩らの時代には実際の支那がどんな国であるかなど知識として殆どなかったのです。
その為、支那は聖人の国であると当時は崇められていました。
藤原惺窩自身、支那に憧れ『武士が天下を取る日本は野蛮な国』と考えていました。
ところが時代が下ると漢学を学ぶ者達は、矛盾に行き着く事になります。
支那人は実に良い事を言っているが、実際にやっている事との間に、極端な開きがあるではないか。
学問としては立派な事を言っているが、その実、王を殺しては次から次へと王朝が変わっているではないか
そんな疑問に行き着きます。
徳川家康が取り入れたのは朱子学、しかしこの朱子学なる学問も、かつては元によって滅ぼされた宋の学者が、自分達の国を尊んで作り上げたもの。
彼らにとっては『元』、つまり蒙古族王朝などは野蛮な異民族で、国として立派なのは『宋』であるとして、政治、人道の理想が語られたものであるのです。
しかし江戸中期辺りの漢学者達は『では、宋の国はどの様にして出来たのか』となります。
漢が滅ぼされた後、五胡十六朝と言われた戦乱の後に出来たのが『隋』ではないか。その隋の後の『唐』や五代の興亡の後に出てきた国ではないか
この様に疑問を深めていきます。
こうして結局のところ、支那な学者が理想として書いている事を現実的に実践出来ているのは、日本だけではないか?
と、いう事に気づく事になるのです。
これが徳川時代の儒学の後半に見られる特徴なんだとか。
儒学の中でも、偽政者に一番影響を与えたのが
貞観政要(じょうかんせいよう)
唐王朝二代目太宗李世民にまつわる話を綴ったものです。
これは大変立派なものらしく、これが実践されたかと言えば唐の太宗自身はさて置いても、代々の君主で実践出来た者は殆どいません。
ところがこれを、北条氏による執権政治の基礎固めをした北条政子も和訳させて積極的に学び、且つ実践していました。
徳川家康もこの『貞観政要』を愛好し、これを出版させ普及にも務めています。
各藩の歴代当主にも『貞観政要』に親しんでいる者も多数いました。
歴代天皇の中にも、この書ね進講を受けた方も少なくない、明治天皇もそのお一人で『貞観政要』には深い関心を持たれていたと言われています。
貞観政要の中に『創業時とその後ね維持し続ける時と、どちらが大変であろうか』という様な問いかけがあります。
太宗のこの問いかけに諫臣・房玄齢は『無秩序混乱の時には、あちらこちら群雄割拠し、武力によって相手を征服し、これを併呑して国家を建設するのですから創業時の方が維持するより遥かに大変』と答えています。
これに対し魏徴という者は『玄齢の論には一理ある、なれど世に草創(創業時)の苦労を重ねてやっと平定しても、天下はついつい気が緩み、酒池肉林にふけり、安逸を貪りいる内に再び天下を奪われてしまう。そうすると創業時より、維持し続ける方が難しい』と答えています。
この両諌臣の発言の食い違いについて太宗は
『房玄齢は隋末の混乱の中から、我と艱難辛苦を共に幾度も生死の境を潜り抜けて来た、それが故に草創(創業時)は難きを主張するのである。しかし魏徴は、民心の安定、反乱の防止に務めてきた。その為、人が冨貴になると、驕慢(きょうまん)になり、気が緩みせっかくの天下がひっくり返る事を知っているから守成の難しさを語るのであろう』
その上で
『両者の意見はもっともではあるのだが、天下泰平となった今日、草創の困難は去り、守成の世に入った。これからは諸侯と共に驕奢を戒め、慎重に一歩一歩、天下の基礎を固めて行こうではないか』
この様に結んでいるのです。
理想的な統治をしたと言われて名君と呼ばれた唐の太宗と諌臣である房玄齢や魏徴とのやり取りが書かれてある『貞観政要』は今の時代にも通用する言葉、普遍の言葉が多数盛り込まれているのです。
日本も経済大国と呼ばれるようになって久しいけれど、守成に苦労していると言えるのではないでしょうか。
世界は混沌とする時代にこそ、連綿と維持をしてきた国の底力。
混沌とした時代だからこそ求められるのではないか?
そう思えます。
次回へ続く...
前回の壱では『御成敗式目』について話しました。
前回の記事は壱にて。
御成敗式目は武士の理念や心情や生活様式にぴたりとハマるものでした。
ですから多くの武士に受け入れられました。
御成敗式目は言わば武士の憲法。
では今、我々が抱えてる日本国憲法やいかに?
歴史は我々に問題提起をしているのでは?
貞観政要
大陸より伝わった儒学は、我が国でも学ぶ者は大変多くいました。
しかし、戦国時代など歴史的背景もあり、儒学を始め学問をする者がだんだん減少していく事になります。
しかしながら、ここで学問は進みます。
京都においても秀吉の時代には藤原惺窩(ふじわらせいか)と言う大学者がおり、漢学の第一人者として活躍しています。
この弟子が林羅山(はやしらざん)で、後に徳川家康の学問顧問となります。
しかし、藤原惺窩らの時代には実際の支那がどんな国であるかなど知識として殆どなかったのです。
その為、支那は聖人の国であると当時は崇められていました。
藤原惺窩自身、支那に憧れ『武士が天下を取る日本は野蛮な国』と考えていました。
ところが時代が下ると漢学を学ぶ者達は、矛盾に行き着く事になります。
支那人は実に良い事を言っているが、実際にやっている事との間に、極端な開きがあるではないか。
学問としては立派な事を言っているが、その実、王を殺しては次から次へと王朝が変わっているではないか
そんな疑問に行き着きます。
徳川家康が取り入れたのは朱子学、しかしこの朱子学なる学問も、かつては元によって滅ぼされた宋の学者が、自分達の国を尊んで作り上げたもの。
彼らにとっては『元』、つまり蒙古族王朝などは野蛮な異民族で、国として立派なのは『宋』であるとして、政治、人道の理想が語られたものであるのです。
しかし江戸中期辺りの漢学者達は『では、宋の国はどの様にして出来たのか』となります。
漢が滅ぼされた後、五胡十六朝と言われた戦乱の後に出来たのが『隋』ではないか。その隋の後の『唐』や五代の興亡の後に出てきた国ではないか
この様に疑問を深めていきます。
こうして結局のところ、支那な学者が理想として書いている事を現実的に実践出来ているのは、日本だけではないか?
と、いう事に気づく事になるのです。
これが徳川時代の儒学の後半に見られる特徴なんだとか。
儒学の中でも、偽政者に一番影響を与えたのが
貞観政要(じょうかんせいよう)
唐王朝二代目太宗李世民にまつわる話を綴ったものです。
これは大変立派なものらしく、これが実践されたかと言えば唐の太宗自身はさて置いても、代々の君主で実践出来た者は殆どいません。
ところがこれを、北条氏による執権政治の基礎固めをした北条政子も和訳させて積極的に学び、且つ実践していました。
徳川家康もこの『貞観政要』を愛好し、これを出版させ普及にも務めています。
各藩の歴代当主にも『貞観政要』に親しんでいる者も多数いました。
歴代天皇の中にも、この書ね進講を受けた方も少なくない、明治天皇もそのお一人で『貞観政要』には深い関心を持たれていたと言われています。
貞観政要の中に『創業時とその後ね維持し続ける時と、どちらが大変であろうか』という様な問いかけがあります。
太宗のこの問いかけに諫臣・房玄齢は『無秩序混乱の時には、あちらこちら群雄割拠し、武力によって相手を征服し、これを併呑して国家を建設するのですから創業時の方が維持するより遥かに大変』と答えています。
これに対し魏徴という者は『玄齢の論には一理ある、なれど世に草創(創業時)の苦労を重ねてやっと平定しても、天下はついつい気が緩み、酒池肉林にふけり、安逸を貪りいる内に再び天下を奪われてしまう。そうすると創業時より、維持し続ける方が難しい』と答えています。
この両諌臣の発言の食い違いについて太宗は
『房玄齢は隋末の混乱の中から、我と艱難辛苦を共に幾度も生死の境を潜り抜けて来た、それが故に草創(創業時)は難きを主張するのである。しかし魏徴は、民心の安定、反乱の防止に務めてきた。その為、人が冨貴になると、驕慢(きょうまん)になり、気が緩みせっかくの天下がひっくり返る事を知っているから守成の難しさを語るのであろう』
その上で
『両者の意見はもっともではあるのだが、天下泰平となった今日、草創の困難は去り、守成の世に入った。これからは諸侯と共に驕奢を戒め、慎重に一歩一歩、天下の基礎を固めて行こうではないか』
この様に結んでいるのです。
理想的な統治をしたと言われて名君と呼ばれた唐の太宗と諌臣である房玄齢や魏徴とのやり取りが書かれてある『貞観政要』は今の時代にも通用する言葉、普遍の言葉が多数盛り込まれているのです。
日本も経済大国と呼ばれるようになって久しいけれど、守成に苦労していると言えるのではないでしょうか。
世界は混沌とする時代にこそ、連綿と維持をしてきた国の底力。
混沌とした時代だからこそ求められるのではないか?
そう思えます。
次回へ続く...