犬神スケキヨ~さざれ石

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我が国のかたち...弐

2017-11-16 23:00:21 | 草莽崛起
我が国のかたち弐でございます。

前回の壱では『御成敗式目』について話しました。
前回の記事はにて。

御成敗式目は武士の理念や心情や生活様式にぴたりとハマるものでした。
ですから多くの武士に受け入れられました。
御成敗式目は言わば武士の憲法。

では今、我々が抱えてる日本国憲法やいかに?
歴史は我々に問題提起をしているのでは?

貞観政要


大陸より伝わった儒学は、我が国でも学ぶ者は大変多くいました。

しかし、戦国時代など歴史的背景もあり、儒学を始め学問をする者がだんだん減少していく事になります。
しかしながら、ここで学問は進みます。

京都においても秀吉の時代には藤原惺窩(ふじわらせいか)と言う大学者がおり、漢学の第一人者として活躍しています。

この弟子が林羅山(はやしらざん)で、後に徳川家康の学問顧問となります。

しかし、藤原惺窩らの時代には実際の支那がどんな国であるかなど知識として殆どなかったのです。

その為、支那は聖人の国であると当時は崇められていました。
藤原惺窩自身、支那に憧れ『武士が天下を取る日本は野蛮な国』と考えていました。

ところが時代が下ると漢学を学ぶ者達は、矛盾に行き着く事になります。

支那人は実に良い事を言っているが、実際にやっている事との間に、極端な開きがあるではないか。
学問としては立派な事を言っているが、その実、王を殺しては次から次へと王朝が変わっているではないか


そんな疑問に行き着きます。

徳川家康が取り入れたのは朱子学、しかしこの朱子学なる学問も、かつてはによって滅ぼされたの学者が、自分達の国を尊んで作り上げたもの。

彼らにとっては『元』、つまり蒙古族王朝などは野蛮な異民族で、国として立派なのは『宋』であるとして、政治、人道の理想が語られたものであるのです。

しかし江戸中期辺りの漢学者達は『では、宋の国はどの様にして出来たのか』となります。

漢が滅ぼされた後、五胡十六朝と言われた戦乱の後に出来たのが『隋』ではないか。その隋の後の『唐』や五代の興亡の後に出てきた国ではないか

この様に疑問を深めていきます。

こうして結局のところ、支那な学者が理想として書いている事を現実的に実践出来ているのは、日本だけではないか?
と、いう事に気づく事になるのです。
これが徳川時代の儒学の後半に見られる特徴なんだとか。

儒学の中でも、偽政者に一番影響を与えたのが
貞観政要(じょうかんせいよう)

唐王朝二代目太宗李世民にまつわる話を綴ったものです。
これは大変立派なものらしく、これが実践されたかと言えば唐の太宗自身はさて置いても、代々の君主で実践出来た者は殆どいません。

ところがこれを、北条氏による執権政治の基礎固めをした北条政子も和訳させて積極的に学び、且つ実践していました。

徳川家康もこの『貞観政要』を愛好し、これを出版させ普及にも務めています。

各藩の歴代当主にも『貞観政要』に親しんでいる者も多数いました。

歴代天皇の中にも、この書ね進講を受けた方も少なくない、明治天皇もそのお一人で『貞観政要』には深い関心を持たれていたと言われています。

貞観政要の中に『創業時とその後ね維持し続ける時と、どちらが大変であろうか』という様な問いかけがあります。

太宗のこの問いかけに諫臣・房玄齢は『無秩序混乱の時には、あちらこちら群雄割拠し、武力によって相手を征服し、これを併呑して国家を建設するのですから創業時の方が維持するより遥かに大変』と答えています。

これに対し魏徴という者は『玄齢の論には一理ある、なれど世に草創(創業時)の苦労を重ねてやっと平定しても、天下はついつい気が緩み、酒池肉林にふけり、安逸を貪りいる内に再び天下を奪われてしまう。そうすると創業時より、維持し続ける方が難しい』と答えています。

この両諌臣の発言の食い違いについて太宗は
『房玄齢は隋末の混乱の中から、我と艱難辛苦を共に幾度も生死の境を潜り抜けて来た、それが故に草創(創業時)は難きを主張するのである。しかし魏徴は、民心の安定、反乱の防止に務めてきた。その為、人が冨貴になると、驕慢(きょうまん)になり、気が緩みせっかくの天下がひっくり返る事を知っているから守成の難しさを語るのであろう』

その上で

『両者の意見はもっともではあるのだが、天下泰平となった今日、草創の困難は去り、守成の世に入った。これからは諸侯と共に驕奢を戒め、慎重に一歩一歩、天下の基礎を固めて行こうではないか』

この様に結んでいるのです。

理想的な統治をしたと言われて名君と呼ばれた唐の太宗と諌臣である房玄齢や魏徴とのやり取りが書かれてある『貞観政要』は今の時代にも通用する言葉、普遍の言葉が多数盛り込まれているのです。

日本も経済大国と呼ばれるようになって久しいけれど、守成に苦労していると言えるのではないでしょうか。

世界は混沌とする時代にこそ、連綿と維持をしてきた国の底力。
混沌とした時代だからこそ求められるのではないか?

そう思えます。

次回へ続く...

我が国のかたち‥‥壱

2017-11-08 11:00:52 | 草莽崛起
今回は日本人論としての『我が国のかたち』について少し考えてみようと思います。

あくまで数多ある日本人論のうちの一つであります。

今回長くなりますが、よろしければ一読くださり一緒に考えて頂ければ幸いです。

御成敗式目


承久三年(1221)
後鳥羽上皇が台頭する鎌倉幕府に対して兵を挙げたものの、幕府によって鎮圧される事件が起きました。
これを承久の乱と言います。

これにより、朝廷に勝った鎌倉幕府は西日本にも急速に伸びていきます。
つまり武士勢力が近畿を中心に西に急速に拡大することになりました。

これにより、現地人とのいざこざも増え、直属の武士達の土地家屋の相続問題なども生じる事態となります。
その為に仕事や役割分担など明確にする必要が出て来ました。

この様な経緯から北条泰時によりある式目が作られる事になります。

御成敗式目

それまで道理習慣などで行われて来たものを成文法としたものです。

つまり武家の憲法と言えましょう。

この中には武家の道理とされていたものを盛り込み、武士達がこれまで習慣として来た生活様式や約束事が上手く反映されてもいました。
その為、武士の心情に上手く合致するものです。

武士にとっては、土地に関して絶対的な力の源であり、これを守る為に仕事があると言っても過言ではありません。
その上で御成敗式目なるものは、土地、相続、仕事や役割が中心に書かれてあります。
これは武士の生活を守る為の法律とも言えるのです。

これまでにも、飛鳥時代辺りから『律令』なる法律はあったけれども、これは言葉も難しく貴族や役人ぐらいしか理解出来ない。
一般人は勿論、武士にとってもよくわからない曖昧なものであったのです。
『大宝律令』やら色々建前としてお触れは出され続けるですが、一般人や武士からは触れ流しと呼ばれます。
つまり、右から左へ受け流すて事です。

ところが御成敗式目は武家法とも言うべきもの。
武家同士の揉め事と道理で上手く納得させることが出来るのです。
そう言う規約で成立していたのです。

実はこの『道理』に長けていたのは源頼朝であったわけです。
武士にとって争い事を治めるには道理です。
この道理の立て方が上手かったのが源頼朝。
こうした源頼朝のやり方、伝統を継承し、北条泰時が文章化したのが『御成敗式目』であったのです。

北条泰時は朝廷に於ける法律を無くすつもりはなく、『律令』は漢文の様なものだが、此方は仮名書きだと言う様な主旨の事を述べてもいます。

大宝律令などは漢文で書かれている為に、ある程度漢文の素養がなければ読めない、故に形式的な『触れ流し』でもよかった。
けれど『御成敗式目』は血で血を流して出来たもの。
約束事の集大成
そう言うべき条例式目で、充分に武士達の納得を得られるものでなければならないのです。

武士の習慣は長い間の生活様式など様々なことの積み重ねとして出来たものであるから、戦国時代にあっても、大筋では変わりません。

御成敗式目は触れ流しの様にうやむやに流れる事なく、多くの武士に浸透し、確固たる地位を築くことになったです。

鎌倉幕府は『承久の乱』で天皇の軍を制し、武士による独自の条例式目を作りはしましたが、朝廷側の『律令』を廃止したわけではありません。

そもそも『承久の乱』で天皇側に勝利しても、北条家が天皇なろうなどとはしてません。
この争いに大きく関わった後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の三方を島流しにはしたけれども、将軍家側と最も関係は薄いと言えども後鳥羽上皇の兄である守貞親王の御子を天皇にしています。

ある意味主権在民型と言えるものであるかもしれないけれど、それでも将軍が自ら天皇の地位に就くということは考えていません。

北条氏は元々、桓武平家(かんむへいけ)の出、桓武天皇の末裔です。
つまり、天皇家は本家ということです。
本家の相続争いには口出しするが、自分が本家になるわけにはいかない。
そういう道理があったのです。

実質的な権力を手中にし『主権在民型』となった事は実に革命的であったのですが、権力を持った者が天皇にはならないというと、コレは逆に保守的ということにもなります

国体は変化すれども断絶せず!
この様な『道理』の真髄が御成敗式目にはあったのです。

国体とは『国柄』。
これは実は英語ならば『Constitution』。
これは日本語では憲法と訳されています。

近代立憲主義の始まりであるイギリスには『憲法』としてまとめられたものはありません。
しかし議会が定めた重大な法律があります。
『Constitutional』憲法的、国体に関わるという様な形容詞で示されます。

英語の Constitutionは元来は『体質』という意味があり、国にも固有の体質の様な国柄があるので、それを法律用語に用いた程度の話しです。

その体質(国柄)を壊せば革命、絶命と呼び、しかしながら体質を壊さず上手く変えて行けば伝統と呼びます。

我が国の国体は

変化すれども断絶せず!

そういうことです。

次回へ続く...