犬神スケキヨ~さざれ石

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事実の涙

2024-06-30 16:00:00 | 草莽崛起
あ未だに我が国は大東亜戦争に於いて『無条件降伏』をしたと思い込んでいる人が多数います。

話しを聞いてみると『学校で先生がそう言っていた』とか、両親からそう聞かされた、マスコミはそう報じている等様々です。
しかしこれらが何故か我が国の常識であるかの如きに扱われ、またそれが故に疑う事なく大多数の国民に刷り込まれています。

しかし事実は違います。

我が国は無条件降伏などしていません。
ポツダム宣言受諾により敗戦したわけですが、それは有条件による降伏です。
國體護持を条件にポツダム宣言を受諾したのです。

経緯を見れば米国も『天皇の地位を認めれば日本は直ぐに降伏する』と言う見解は首脳陣の一致するところでした。

実際にポツダム宣言草高にも明記されていました。それが実際、ポツダム宣言に対する連合国側の調印の場になって削除されていました。此れには様々な思惑はあるものの、一番の理由はやはり原爆であろう事は間違いありません。

草稿に関わったスチムソン陸軍長官は『ある公に出来ない軍事的理由』と自身の日記に書いてある事からも理解できます。
トリニティー実験(原爆実験)まで後二か月と言うところでした。
それまでに日本が降伏してしまっては都合が悪いと言う事です。
英国がポツダムに於いて戦後処理を議論する会談を再三申し入れていたにも関わらず、米国は理由を付けては意図的に一カ月以上引き伸ばしをしていました。
トリニティ実験までの時間稼ぎをしたのです。


それほどトルーマンにとってトリニティ実験は重要であったのでしょう。
そもそも有色人種への偏見もある白人社会である米国です。
また日本悪の世論形成もやっていましたから、米国内世論も『天皇処刑論』が大多数を占めていました。

そんな折に米国は重大な情報を入手します。
1945年7月3日付の機密報告にて東郷茂徳外務大臣が『早期終戦を望む天皇の意思をソ連外相に伝達』するよう駐ソ大使である佐藤尚武に電報を打ったのです。
これを米国は傍受します。
スチムソンは『今こそ草稿を発表すべきだ』と大統領に迫ります。
しかし、7月16日原爆実験に成功と言う一報をトルーマンは受けとります。
翌17日ポツダム会談が始まる前日です。
この原爆実験以降、トルーマンの人格が変わったとすら言われています。
しかしコーデル・ハルらの助言もあり、先述の通り天皇の地位を保障する一文は削除されました。

ポツダム宣言には『國體』について明記されていませんでした。
日本にとって受け入れ難い話しです。
また我が国もソ連に終戦の仲介を頼むと言う失態もありました。
我が国が降伏しない理由は『國體護持』にある事は明確な事であり、それは米国とて理解していましたし英国側も理解していました。
スチムソン陸軍長官にしても『こと、ここに至ってもまだ天皇の地位にこだわるのであるから、それを認めてやれば良い』と発言してもいました。
それは我が国が『ポツダム宣言は國體護持を含むのか?』と問うていたからです。



これにジェームズ・バーンズ国務長官は回答しました。
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官にsubject toする
これは直訳すれば隷属する、従属すると言う意味です。
天皇が連合国に従属するとは日本にとって受け入れ難いはなしです。
そのまま読めば『國體護持』の拒絶です。
これでは抗戦派は激昂です。当然です。
しかし天皇陛下は至極冷静に『公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかも疑わしい。それをつかまえて喧しく議論立てする事など慎むべし』

バーンズの回答には『最終的な日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される』

米国のギリギリの回答でもあったのでしょう、天皇の地位については日本国民が決めろと言う事です。

その顛末は映画『日本の一番長い日』でも描かれた様に意見の割れた内閣ですが、鈴木貫太郎の策により陛下の御聖断を仰ぐ形でポツダム宣言受諾へと決定します。
これを殆どの人が『ポツダム宣言受諾』のみにフォーカスしますが、それだけではありません。
陛下の御聖断で最も重要なのは『自由に表明される国民の意思』と言う回答を汲み取った事にあるのです。
そして『朕は英米の善意を信じる』と仰った事にあるのです。
つまり、ここで陛下は自ら全ての責任を負うご決断を表明されたと言う事です。
自由に表明する国民の意思は『天皇排斥』であるかもしれない。皇統は断絶するかもしれない。上手く皇統断絶を免れたとしても自らの身は滅するほかない。その様なお覚悟であったのは『もうこれ以上、国民が苦しむ姿を見るのは辛い』と言う一言にも表れている様に思います。

かくして我が国はポツダム宣言を受諾し、停戦となったのです。
そもそもポツダム宣言には軍に対する全面降伏にしか触れていません。
何故なら、対ドイツに対して国家の全面降伏を迫り大失敗をしたからです。
ドイツは連邦国家です。トップはヒトラーで、そのヒトラーは自決。役所があちこちにある程度の連邦国家で誰が降伏を決めるのか?軍の無条件降伏武装解除は出来ても、ヒトラー亡き後、国家の無条件降伏など不可能です。役所の役人とてそんな話しをされても何も出来ません。連合国は始末に窮したわけです。
もう少し踏み込み考えれば、米国とて博打に近いものであったでしょう。
天皇の地位の保障さえすれば日本が降伏する事はわかっていました。ですから、ポツダム宣言→原爆投下→天皇の地位の保障と言う流れを考えていたのでしょう。しかし、米国首脳陣は『原爆投下をしても日本は降伏しないであろう。むしろソ連が参戦すれば降伏するだろう』と分析していました。
この米国の流れを考えれば、原爆は二発しかなく、その後の天皇の地位の保障で日本が降伏しなければ打つ手はなくなるわけです。
そうなればソ連を引き込み参戦させるしかないのです。
終戦後の事を考えれば米国としては避けたいところでしょう。実際原爆投下に慌てたソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して侵略して来たわけですから。
容易くソ連を参戦させれば戦後の日本はソ連と米国の分割統治となり、丸で東西ドイツの様になっていたかもしれません。

そう考えると陛下の御聖断はギリギリのタイミングであったのです。
これが天皇陛下の神通力と言うもんです。

ポツダム宣言を受諾し、昭和20年9月2日戦艦ミズーリ艦上にて降伏文書に調印し日本は正式に敗戦国となりました。
我が国では天皇陛下の玉音放送があった8月15日を終戦記念日としていますが、世界では降伏文書調印こそが終戦日となっています。

例えばソ連は、9月2日までは戦時下であったから南樺太、千島列島、北方4島への進軍は正当だったと主張していますね。
ならば、歯舞諸島には9月3日に侵攻していますから明らかな侵略行為です。

そして同年9月27日、マッカーサーと昭和天皇の会見となります。
翌年4月15日まで11回行われたのは皆さんご存知の通りです。




フィリピンで日本軍にコテパンにやられて逃げたマッカーサー。反日感情はあったでしょう。当初『命乞いに来た』と考えていました。しかし命乞いどころか、自らの身を差し出して引き換えに国民保護を訴える陛下にマッカーサーは心揺さぶられます。
この時、何故あれ程日本人は不利な状況にも関わらず國體護持を強く主張したのか理解した事でしょう。
後の大日本帝国憲法から日本国憲法へ繋がる歴史の事実がここにあるのです。
右や左のイデオロギー病に犯された人間にはこの事実を正視する事は誠に耐えがたいでしょう。
あらゆる意味に於いてやっとその事実が認識される時なのです。

さて、降伏文書調印後に米国は三布告なるものを日本に突き付けてきました。

布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。

布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。

布告第三号:日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。

これはつまり米国が軍政により我が国を占領統治しようとするものです。

これには流石に日本政府も慌てました。
当時の外務大臣である重光葵がマッカーサーと直談判します。
『此れでは國體護持が不可能だ!ポツダム宣言を履行せよ』と迫ります。
マッカーサーも政府の意図を理解し、即日中止を発表します。
重光葵の言うポツダム宣言の履行とは『自由に表明せらる国民の意思』と言うバーンズの回答そのものです。要は『そんな事は日本国民が決めろ』と言うのがバーンズ回答です。
この一連の流れからも我が国が無条件降伏ではないと容易に理解出来るでしょう。
このポツダム宣言の一文は後の旧憲法から新憲法への改正と國體護持へと効いてくるのです。

昭和20年12月17日極東委員会が設立されます。極東委員会とは連合国が日本を占領統治する為に設けられた11カ国の代表からなる最高政策決定機関です。
GHQもその決定に従わねばなりません。

降伏文書調印後、極東委員会が設立されるまでにマッカーサーから憲法改正を示唆する発言を政府は受けていました。
その為、天皇に奏上し草案が作られました。
当初、日本側は改憲について余り真剣に考えてはいませんでした。
帝国憲法を少しイジって改憲とすれば良いと言う程度の草案であったし、そんなものは今すぐやるべき事でもないと考えていました。

しかし天皇と会見し、その存在の意味に気付いていたマッカーサーは違いました。
ソ連やオーストラリアが加わっている極東委員会が発足すれば『天皇戦犯』とし処刑する事は間違いない。
そうなれば、天皇と言う御存在が危うくなります。翌年2月、民政局にGHQ草案の作成を指示します。
同月、日本政府はGHQに『憲法改正綱領』を提出しますが、GHQはこれを拒否。
日本側にGHQ草案を渡します。

日本政府はGHQとの協議を重ね改正綱領を発表、4月『憲法改正草案』発表。
5月22日吉田内閣成立
6月20日帝国議会に改正案提出
11月3日日本国憲法公布
昭和22年5月3日日本国憲法施行

我が国の憲法について、東大憲法学の考えが蔓延しています。
いや、厳密には東大と京大の二つの解釈があり東大が優位であると言えるのでしょうか。
東大憲法学説とはご存知宮澤俊義『八月革命論』ですね。





現憲法に関して
八月革命論

現憲法無効論

旧・新憲法改憲論

これらがあると思います。

GHQが書いた草案だから無効と言う『押し付け憲法論』も無効論に入ります。

八月革命説は『旧・新憲法』は根本建前が変わると言う法理ではありえない改正をやったので、それは法律の限界を超えた。
よって旧新憲法への改正により『國體』が断絶した事は『革命』である。
昭和天皇は新たに新憲法により象徴天皇として即位した初代天皇であると言う説です。
宮澤俊義が言う根本建前とは『主権』です。

帝国憲法では、天皇主権であったものが新憲法では国民主権に変わった。これは改正の限界を超えるもので『革命』でなければ不可能だと言う主張です。
また、ポツダム宣言に於いても連合国は『国民主権』を要求している。よって我が国の國體は断絶した。
この様な解釈を示しています。
しかしポツダム宣言の一体どこにそんな条文があるのでしょうか?
確かに戦時下に於いて民主主義の後退と立憲主義が充分に機能していなかった事は事実です。それは戦時だからです。しかしポツダム宣言第十項には『民主主義的傾向ノ復活強化』を要求する文言があります。
つまりは我が国は本来民主主義的傾向が存在している前提とした内容です。

京都大学佐々木惣一は『デモクラチック傾向の復活強化を要求しているのであって、この要求が君主国から民主国に変更すると言う様なことに関係ない』と述べています。




つまり、我が国は帝国憲法下に於いても普通選挙は行われており、不十分であったとしても民主主義は機能していたのです。
そこへ大戦前には軍閥等が政治に関与する事になり、民主主義的傾向が弱まったというのは歴史的にも事実です。
我が国が民主主義ではなかった、今の北朝鮮の様な軍国主義であったと言う様な事実はありません。
その証拠にハワイにある米国の戦争記念館には米国と日本と言う新興国がお互いの国益の為に、お互い避けようとしたが避け難く遂に戦争になってしまったと表示されており『軍国主義』など一切記述はありません。

天皇主権であったと考えた場合、開戦前の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製『四方の海』を2回詠まれ、戦争を反対する意思を示されています。
なれば、これは主権者に逆らって開戦したと言う事になります。

他方、天皇の『大御宝』とは臣民、現在では国民です。天皇の『大御心』とは臣民の総意です。これは古事記に示された仁徳天皇・民の竈に示されています。
つまりは、天皇と言う存在は『大御宝』に逆らうことは出来ません。
当時を振り返れば事実として国民が対米戦へと突き進んでいたのは間違いない。
つまりは天皇主権と言いながら『大御宝』に逆らえないなら天皇と国民は一体であり、天皇主権はそれ即ち国民主権でもあると言う事でこれを『君臣共治』と言うのです。

更に旧憲法を読めば、天皇の政治的権能はほぼありはしないのです。

八月革命説を取るならば『統治権』の何が天皇から国民に移譲されたのか?
これを明確に答えた者はいません。

そもそも、天皇とは権威の象徴でそれは歴史の事実が裏打ちしており、その存在を担保しているのは国民です。

帝国憲法を書いた井上毅は当初第一条に『大日本帝国は万世一系の天皇が之を知らす』と書いていました。
伊藤博文は『さすがに今の国民は知らすではわからない』と『統治す』と書き換えました。しかし自身の著である憲法義解に『統治とは知らすである』と示してあります。
『知らす』とは知ると言う事です。
天皇とは祈る人です。
国家、国民の安寧を願い一心に祈ります。
祈る事で統治するのです。祈る為には広く知らなければなりません。知れば祈りも強くなります。
広く知り、祈ることで国家と国民をまとめるのです。
それを帝国憲法では『知らす』と言い、現憲法では『国民統合』です。
民の竈でも、臣民の竈から煙が立ち上っていない事を見て、皆が食べる事が出来ないと『知り』税を取る事を6年間止めたのです。
何故なら臣民は天皇にとって一番の『宝』だからです。

時の為政者と言うものは天皇の宝を『お預かり』しているのです。
ですから、お預かりした臣民の為に政を行わなければなりません。
幕末の大政奉還を見ても、政を朝廷にお返しした訳ですが、臣民の為の政ですかららこれは『お預かりした大御宝を天皇にお返しした』と言う事でもあるのです。

宮澤俊義は此れを理解していないのではないでしょうか。
論拠を見れば西洋の王と民の関係と考えているのでしょう。
王と民は対立関係にあり、西洋の王は権威と権力を持ちます。
また王は宗教を背景に王権神授説なるものを根拠としていたりします。

我が国では天皇と臣民は対立構造ではありません。むしろ補完し合う関係です。
また八月革命説では天照大御神の『天壌無窮の神勅』により即位していると言う前提に立ってもいますが、明治天皇による憲法制定の詔勅を読めば皇祖皇宗と初代神武天皇と以降の天皇の歴史的な意向について触れています。
草案を書いた井上毅にしても、憲法に神話を持ち込んでいません。
よって『神権主義』なるものでもありません。
宮澤俊義の前提が間違いであるならば、結果として八月革命説は成立しません。
つまり國體の断絶はありません。

余談ではありますが、男系女系を語る時に女系容認論者がよく言う事ですが『天照大御神が皇祖神ならば天皇は女系だ』とか言い出しますが、コレはアホな論理です。
そもそも天照大御神と須佐之男命の誓約によって生まれた男神である天忍穂耳尊の男子が邇邇芸命であり、この神が降臨なさったのです。
須佐之男命は伊邪那岐命から生まれた神です。つまりは完全に男系血統です。

例えば、天照大御神から生まれた説を採用したとて万世一系とは初代神武天皇からなる男系の血統を指しますから神話は関係ありません。ウルトラエクストリーム解釈で根底に皇統の断絶を望んでいる事は明らかです。

さて、もう一方の無効論です。
無効論では『新憲法制定過程に法的瑕疵があるから現憲法は無効で、旧憲法こそが正当な憲法だ』と言う論調でしょう。
法的瑕疵とは恐らくハーグ陸戦条約でありましょう。
占領下でGHQが書いた草案により新憲法制定は、条約に示された勝手に相手国の法を変えてはならないと言う事を根拠にしているのでしょう。
押し付け憲法論もこれに立脚していますね。

しかし、ハーグ陸戦条約は『戦闘状態』での改正を禁じており、占領時の非戦闘時には効力がありません。
ロシアがウクライナに侵攻しましたが、東部地域を占領しました。
しかし、今だに戦争状態で終結していません。にも関わらず、ロシアは東部地域で勝手に住民投票を行ってロシアに編入しました。
つまりウクライナの法律からロシアの法律に変えてしまったのです。
戦闘状態であるにも関わらずこれを行ったのでハーグ陸戦条約から見れば条約違反です。

また国際法違反を問う事も難しいのです。
国際法とは慣習法であり、違反したとてそれを裁く法などありません。
されは酷いと、国連憲章が作られてもいますが、そもそも敗戦国が戦勝国を裁く事は不可能である上に、国連は戦勝国が牛耳る組織です。

更に現憲法を無効とすれば、八月革命説と同じで戦後國體が断絶している状態とも言えるわけです。
そして現憲法には昭和天皇の御名御璽がある訳ですが、これをどう説明するのでしょうか。
無論、押し付け憲法論を感情的には理解は出来ますが、あくまで理解する程度の話しで言わば『気持ちはわかる』と言う程度。

日本政府は当初から考えが甘かったとしか思えません。
むしろ、マッカーサーはその辺りしっかりと理解していたと思われます。

先に述べた通り、極東委員会はソ連やオーストラリアが代表として参加しており天皇を戦犯として処刑することを強く打ち出して来る事は火を見るより明らかです。
昭和天皇が譲位され、処刑されようと皇統がその後維持されるかは不明です。
ポツダム宣言を履行するにしても帝国憲法では出来ません。

日本側が示した草案は帝国憲法を少しいじった程度でしかない。
これでは天皇を守れません。
天皇と会見したマッカーサーは『死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事情に照らし、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとった』と絶賛。
恐らく、昭和天皇との会見により皇室存続を強く意識させたのでしょう。

マッカーサーはGHQのホイットニーに草案作成を命じたのですが、その起草にあたり『天皇は国の元首にあたる、皇位は世襲される、天皇の職務及び権能は憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする』と言う事を盛り込みたいと述べています。

しかし、最高司令官が諸改革の実施を日本政府に命令するのは最終手段とも考えていました。何故ならば、それが連合国側から諸改革が強制されたと日本国民が知れば、日本国民はそれらを受け入れず支持もしないだろうと考えていたからです。
にも関わらず、最終手段に出た理由は極東委員会にあるのです。
天皇存続の為のウルトラCと言う事です。

ポツダム宣言のバーンズ回答に示された『自由に表明される国民の意思』により天皇の存続を国民が決めた

この様な大義名分を立てる事で天皇と言う存在を守ろうとしたのです。

しかし先に述べた様に、草案がGHQであるのは秘中の秘ではあるものの枢密院はそれを掴んでいたようです。
当初、枢密院は改正に反対でした。
しかし、枢密院は賛成に回ります。
議事録は残ってはいませんが、鈴木貫太郎と吉田茂の説得や説明があった様で、この後枢密院が賛成に回った事実を見れば議事録はないが容易に推認できます。

新憲法可決後、鈴木貫太郎は『これで國體は護持された』と漏らしてもいます。
『國體の芯の芯は守られた』と発言する者もいたのです。

現憲法1条から8条は國體について明記されています。
押し付け憲法論に立脚すればそれは『押し付け國體』と言う論理が成立します。
尊皇と宣いながら、この押し付け國體論と言う危険性が理解出来ないとすれば、事実が認識出来ない無知蒙昧丸出しです。
國體が押し付けなら辞めてしまえ!と言う世論が形成されかねない。

この辺りが理解出来ていない事が問題です。

現に東京裁判に於いて、被告に天皇がいない事に言及している判事もいたのですから、マッカーサーのナイスプレイとしか言いようがありません。
敗戦国の国家元首を存置するギリギリの判断であったのは事実です。

マッカーサーには思うところがありますが我が国の國體を護持しえて、2000年を超える伝統の火を絶やさなかった功績は小さくありません。

例えば、現憲法の第一条には
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
この様に明記されています。
我が国はナシオン主権と言うものをとっています。
主権の存する日本国民とは、ナシオン主権に於いて現在の国民だけではなく、過去そして未来の日本人をも含みます。
これと真逆なものがプープル主権と言うものです。

GHQの草案が基であるのにも関わらず、ナシオン主権に基づきしっかりと國體が過去から未来へと繋がっていると明記しているのではないでしょうか。

ならば、八月革命説も無効論も余りに思慮が足りないのではないでしょうか。
いや、何と言うか実にバカバカしい話しです。

左翼は先の大戦について、その時代を無視して批判し、その時代を批判せず国の為に散華された我々の先達のその苦労をバカにして己れの間違った、全く言語化すら出来ず定義すら作れぬアホなイデオロギーを正義と思い込んでいる無知蒙昧丸出しで自らの知能の低さを吐露するに過ぎない。

右翼は先の大戦を無闇に美化して、アホな論理で己れの都合の良い様に御英霊を祀り上げて排他的に論じている。國體の芯の芯を理解しようともせず、我々日本人が積み上げてきた大切な歴史を神輿に乗せて社会主義をやろうとしている。

例えば、東京裁判にしても随分と思い違いをしていると思います。

日本無罪論を展開し、我が国でもそれを顕彰しているインドのパル判事。


いわゆる右寄りな人々からは絶賛すらされています。
確かに彼は日本無罪を唱えた。
しかし、彼は『南京虐殺については事実』と述べています。
1235ページに及ぶ日本無罪の意見書は見事なものですし『司法裁判所は政治目的を達成するものであってはならない』と述べてはいます。しかし、全体的な論調は事後法で裁くなと言うものでもあります。

フランス人判事アンリ・ベルナールもまた日本無罪を主張した人でもあります。


しかしこれを知る人は少ない。
それは彼が『東京裁判で天皇が不起訴』であった事に異議を唱えていたからではないでしょうか。

ベルナールはパル判事の無罪論ですら『法立証主義にとらわれ過ぎだ』と発言しています。
彼は満州事変をありふれた事件とした上で『自衛するべきであると思う時に自衛権はある』と言い『実際に攻撃も侵略もないケースに於いても自衛権発動を妨げるものではない』と満州事変は自衛権の発動だとする日本側の主張を支持していました。
また日支衝突について日本側の責任を問う事は間違いであるとも述べ『事変と称される事実が起きた時点で支那国民党政府自身、日本を敵国とみなしていなかった』と述べています。
更に『法的な解決、或いはイニシアティブを取るべきは日本によって行使される特権の廃止を求めていた支那にある』と主張。

共同謀議についても定義がない上に証拠もないと主張しました。
コレは事実を見れば全く正論で、当時と言えばコロコロと政権交代ばかり繰り返していたのですから謀議のしようがありません。

ベルナールはその意見書にて日本側の自然法について触れ、日本の自衛権は自然法の範疇であるとしました。
しかし、その自然法によって侵略戦争が犯罪でことは証拠があれば立証可能ではあるが、日本の侵略陰謀の直接的証拠はない。東アジアを支配したいと言う希望の存在は証明されたが、希望を平和に対する罪なるもので有罪にする事は出来ないと主張しました。
また予審もなかった事にも言及し裁判そのものを正当性がないと断じています。

至極真っ当な意見ではないでしょうか。
大陸での我が国の振る舞いを正当な行為と言っているに等しい話しです。

またよく言うWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)、いわゆる連合国側が日本人に贖罪意識を植え付けようとした政策てますが、これもやたらと評価され過ぎです。
戦後80年、こんなものが効いた事などありはしない事は火を見るより明らかです。
こんなものは歴史の事実を見ればアホでもわかります。

昭和22年
共産党と左翼勢力がゼネラルストライキをやろうとしたのです。
戦争勃発を期に禁止され解体された労働運動でしたが、GHQは米国式民主主義を日本に植え付ける為に、意図的に労組勢力拡大を容認しました。
共産党と労組幹部と結び付き人民政府なるものの樹立を目指し出します。
吉田政権妥当をスローガンに労働者の生活確保と大義名分を打ち出していますが、何のことはない共産主義政府樹立の運動です。
『デモだけでは内閣は潰れない!労働者はストライキをもって断固、吉田亡国内閣を妥当しなければならない!』と労働闘争により内閣妥当と日本の共産化を目指したのです。

既に東西冷戦化を感じとり、共産主義を脅威と感じていたのでしょう。GHQはこのゼネストに中止命令を出して潰します。
GHQ内部でも幅を利かせていた左派精力はコンサバ勢力に取って代わられ、パージされていた保守層、いわゆるブラックパージされていた連中が次々と戻り出します。
後に、皆さんもご存知の赤狩りへと繋がるわけです。

それ以降、GHQの態度は変わるのです。

その辺りの事実を見れば、WGIPなどどれだけ長く見てもたかが2年ある無しです。
こんなものが戦後80年も効果を出し続けるなどありません。

事と次第によっては我が国はソ連と米国による分割統治と言う現在の朝鮮半島やかつての東西ドイツの様になる寸前であったわけですが、何とか米国が占領することになり分割統治は免れた訳ですが、それでもソ連からの赤化の圧力はあったのです。

米国にしても対戦時は民主党政権であり、ルーズベルト大統領は社会主義者でありました。



ハルノートで知られるコーデル・ハルはコミンテルンであった事は今や事実です。



戦後の我が国の労働争議も社会主義運動がその根っこです。
戦後のインフレを背景に、社会主義により国家統制を目論む連中が労働者を焚き付けて日本を社会主義化しようとしていたのです。

現に戦後、社会党の片山政権すら誕生していたのですからコレは間違いありません。
農地改革にしても画策した連中は社会主義主義者です。結果としてこれは赤化を防ぐ事になったので良かったです。
社会主義化を望んでやった政策は結果的に共産化を防ぐ事になりました。
戦後の経済新体制綱領では国家社会主義丸出しであったのは事実で、自由主義経済を標榜していた小林一三など経済人は猛反発していまささた。小林一三は阪急電鉄の創業者です。

戦後の左翼的教育を見ても容易に理解出来る様に、常に赤化の圧力を受けていた我が国です。
米国は、かなり過激とは言えレッドパージまで行って来ましたが、戦後の我が国はいわゆる赤がマスコミ、教育といった所に浸潤して現在にいたるわけです。

要するにWGIPよりも、我が国の戦後の問題は社会主義や共産主義に浸潤されて来た事にあるのです。それが証拠に大学の経済学部では信じられない事にマルクス経済学なるものを教えているわけですから。

1951年の米国議会マッカーサーは対日戦争は間違いだったと証言し、東京裁判などやるべきではなかったと発言しています。



終戦後、石原莞爾は米国の間違いを指摘し日本が何と戦い、今後米国がどう苦しむかを病床で説いていましま。

ソ連との冷戦が始まり、中華人民共和国が建国し、朝鮮戦争の勃発。
マッカーサーは石原莞爾の言葉が身に染みたでしゅう。

戦争する相手を間違えた。

都市空爆や原爆にも触れ『あれは虐殺』と認めたのです。
自身は次の大統領候補でもあったのですからこの証言は大変なものです。

これが我が国への占領統治終了を早めた事は間違いありません。

イデオロギー病に冒された人々は、左の人間は事実を『歴史修正主義』と言うのです。
こんなもの、戦争を指揮し、あの東京裁判を管轄した人間が己れの地位もかけて証言したのですから戦後6年で勝った側が歴史を修正したのです。

右の連中は、ルサンチマン丸出しにやたらと美化して歴史の事実は無視しているのです。

戦後80年も経てば、新たな事実が掘り起こされるのは当たり前です。

そういった事を無視して、例えば憲法など語ることはできません。

そもそも『憲法とはなんぞや』が全く議論されていないのですから。

いつまで、戦後左翼の影響を受け続けるつもりでしょうか?

八月革命説

ハンデキャップ国家論

憲法九条平和論

日本人はどれだけ、ものを考えなくなったのか?

単純な話し

生きる気ないんか!

と、思う次第ですね。































優生思想と社会主義

2024-06-03 17:48:00 | 草莽崛起
優生保護法による被害者が国家賠償を求めて裁判を起こし、全ての審理が終わり今夏にも最高裁は判決を下す見込みです。

これが優生保護法に対する一つの基準となる判決であるのは間違いありません。

優生保護法は現代社会では明らかな『人権侵害』であるのは間違いないでしょうし、異論のある方もまずおられないでしょう。
しかし、現実として1948年から1996年まで施行されて来た法律です。

我々はただ『人権侵害だ』と叫べば良いと言う話しではありません。
それが如何なる思想の下、1996年まで続けられたのかをよく考えなければなりません。

ダイナミックな思考を巡らせ、我が国の『今そこにある危機』をしっかりと見つめなければ祖国は某国と成り果てるのです。

我が国の『優生保護法』は戦前にまで遡って見なければなりません。
明治13年(1880)年、堕胎罪が規定されました。母体が危険な場合など例外規定を設けて、それ以外の理由による人工妊娠中絶が禁止となりました。
その後、昭和9年(1934)『民族優生法案』が議員提案されナチスドイツの遺伝病子孫防止法をモデルとし『国民優生法』が制定されました。
悪質なる遺伝性疾患の素質を有する者の増加の防遏すると共に健全なる素質を有する者の増加を図り、以って国民素質の向上を期する事を目的とす
と、言う様なもっともらしい大義により制定されましたが優生思想の導入、人口妊娠中絶や不妊手術の規制を図るものでした。
しかし実態としては『悪質遺伝防止』よりも人口増加が最優先されていましま。

敗戦後は優生保護法と改められて、優生思想はそのままに強制不妊手術の他、一定の要件を満たせば中絶、不妊を合法化しました。
様々な考察はあるものの、戦後の混乱状態で治安維持が困難であり進駐軍による乱暴狼藉の結果としての望まぬ妊娠、いわゆるGIベイビーや寿産院事件、復員兵による人口増加など諸問題がこの法制度に影響を与えたと思われます。

政府は戦争による人口減少を懸念して産児制限には消極的でした。
この優生保護法に前のめりであったのは加藤シヅエ議員(社会党)議員でした。




加藤シヅエは『戦前の国民優生法は軍国主義の産めよ殖やせよの精神によって出来たもので、手続きも煩雑であり悪質遺伝防止の目的を達成しうるものではない』と批判。
『飢餓戦場に立たされる国民の食糧事情、失業者の洪水、絶無に近い医療そのどれをとっても産児制限は必要だ』と訴えました。
そもそもこの議員は戦前より産児制限運動を主導する人物です。
何故そこまで強く優生思想や産児制限に傾倒しているのでしょうか。

19世紀、フランシス・ゴルトンと言うイギリス人学者が提唱したのが優生学です。
『人類の遺伝的素質を改善する事を目的として、悪質なる遺伝的形質を淘汰し、優良なるものを保存する』ことを研究する学問と定義されています。
その様な優生思想の実現の為に強制的に不妊手術や断種を行う政策が優生政策です。

20世紀に入り、アメリカで積極的に優生政策が取られた事を皮切りに国民保護の為と世界的に支持を集める様になりました。
1907年アメリカ・インディアナ州で世界初の優生思想に基づく堕胎断種法が制定され、以降1923年までに32州で制定されます。
カリフォルニア州などでは、梅毒患者や性犯罪者も対象とされました。

1930年代には、欧州や北欧にも広がり次々と制定されていきました。

このアメリカの断種法はナチス・ドイツにも多大な影響を与え優生政策が『障碍者の断種』を超えて『障碍者の殺害』にまで至る事態を招きます。
これがその後のナチスによるユダヤ人迫害にまで至ったと言うのは容易に想像できます。
偉大なるゲルマンは他の民族を支配しなければならない、ユダヤ人は根絶やしにしなければならないと言う発想にまで発展したのです。

さて、先述の加藤シヅエですがロシア革命に感化され、夫と共にマルクス主義、社会主義に系統し労働者問題の改善と言う活動に傾倒するゴリゴリの社会主義者です。

夫が労働問題の研究の為に渡米すると、幼児二人を実家に預けて自分自身も後を追って渡米します。
その後、ニューヨークで秘書学などを学びますが、そのあたりから周辺の社会主義者らと親交を持つ様になります。
ジャーナリスト、アグネス・メドレーを介して貧民街で産児調整運動をしていたマーガレット・サンガーと出会います。
このマーガレットを生涯の師と仰ぐ様になります。

マーガレット・サンガーはゴリゴリのフェミニストであり社会主義者です。
その上、有色人種に対する差別主義者でもあったようです。
黒人に対する差別意識は強かった様です。

マーガレットを師と仰ぐ加藤シヅエは昭和21年(1946)4月の第22回衆議院選挙にGHQの要請を受けて出馬、日本社会党から衆院議員最高得票当選を果たし、日本初の女性国会議員の一人となります。
公約は『アメリカ型自由民主主義の導入と、家族計画、女性の社会経済の地位向上』でありました。

この辺りを鑑みれば、相当アメリカとズブズブな関係ではなかったかと思われます。
日本家族計画連盟なるものを結成し、核家族を推進もしています。
成田闘争にも参加し一坪地主にもなっています。
歌手のさだまさしは加藤シヅエを大絶賛し歌まで作っています。
社会主義者でフェミニストであった加藤ですが、さだまさしの『関白宣言』を何故か絶賛していますからよくわからないもんです。

さて、ここで申し上げたいのは優生思想なるものが社会主義やフェミニズムと結びついている事です。
戦後の優生保護法を『最悪』と断じているアホの社民党・福島瑞穂ですが、元を辿れば嫌がる政府をねじ伏せて推進した社民党の前身である日本社会党です。
その事をまさか知らないはずもなく、ほっかむりをして断じるなど自ら愚かなるを晒す様なものです。

この様な郵政思想や実際の政策は、後のナチスの選民思想と結びつきユダヤ人の迫害へと繋がるのです。
ナチ党は国家統制による社会主義で『革新派』と言われる連中です。

戦前に於いての『革新』は右翼をさす言葉であり、革新を左などと言う様になったのは戦後の話しです。
それについては拙著記事にても掲載しています。


また加藤シヅエの提唱する政策を見れば、戦後アメリカが押し付けた政策そのものです。
また、生涯の師と仰いだマーガレット・サンガーは社会主義者でフェミニスト。
更には人種差別主義者です。

加藤シヅエに、自覚があったかどうかはわかりませんが社会主義なる思想はとどのつまりは選民思想であるのは明白で、昨今の左翼連中の発言を見てもよくわかります。
自らの意見は必ず正しいとばかりに宣う始末。国民が安倍政権を選択すれば『国民はバカ』だと罵り、我々が真の国政を教えてやると一体どの目線で言い出すやら。

そして右翼も同じです。
国家統制による社会主義を目指していたのが右翼です。
そうした連中が、自らの主張の為に天皇と言う御存在を神輿に乗せて社会主義をやろうとしたのが226事件です。

そして右であろうが左であろうが、自らのイデオロギーの為に大切な国民の根幹、日本と言う国の根幹を利用していると言う問題があり、何より日々普通にコツコツと暮らす大多数の国民を蔑ろにしている事です。

自らのイデオロギーの為に、天皇陛下と言う大切な御存在を恣意的に利用し、国旗を恣意的に利用し、国歌を利用する。

自らのイデオロギーの為に、大切な御存在である天皇陛下の写真を芸術だと言って燃やす、国旗を燃やし国歌を忌避する。

右翼も左翼もイデオロギーの病に犯された同じものです。
昨今も、地方選挙に於いて落選した候補者が当該地の有権者に対して『自らを選ばなかったから、この地域は没落する』と投開票日の夜に言い出す始末です。
これこそが統制であり選民、有生思想の根っこであり、本人すら気づいていないでしょう。

私が社会主義や共産主義を忌避する理由がここにあるのです。
そして、右翼や左翼を忌避する理由でもあるわけです。

選民思想や有生思想、果てに全体主義なる統制と言う馬鹿げた発想と言うものが根っこにあるが故に保革を標榜する、自称する連中が全くまとまらずに内ゲバを繰り返すのです。

僅か数%のバカを横目に一般の大多数の国民は正しい判断をしよう、我が子の為に、我々の子々孫々の為に今を一生懸命に生きているのです。

僅か数パーセントのバカに好き勝手されるわけにはいかないのです。