今日は何の話をしようかと考えました。
もういよいよ今年もあと少しです。
そこで祈る人について話してみようかと思います。
祈る人は何か?
それは天皇陛下です。
我が国で民の為に祈る人。
天皇陛下とはその様な存在です。
我が身の為に生きない、他者を想い生きる。
私(わたくし)を真っ先に脱し生きる人。
その御存在のある部分について考えてみようかと思います。
四方拝
四方拝(しほうはい)とは、宮中で行われる一年最初の儀式です。
戦前にはこの儀式を四方節と呼んでいました。
皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準じ行われていますね。
元日の午前五時半。
今上陛下が黄櫨染御袍(こうろぜんのごぼう)と呼ばれる束帯を着用して、皇居内宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側庭に設けられた建物に入り、伊勢の神宮の皇大神宮、豊受大神宮の両宮に拝礼します。
続いて四方の諸神を拝するのです。
拝する神々・天皇陵は
伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵、先帝三代の各山陵、武蔵国一宮、山城国一宮、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮、下総国一宮です。
この四方拝は宮中の祭祀の中でも最も重要なもので天皇自ら行います。
その為に代理人が祭祀を行う御代拝は認められません。
過度
この四方拝の祭に唱えられる呪文があるのです。
それは以下の通りです。
賊冦之中過度我身
(ぞくこうしちゅうかどがしん)
毒魔之中過度我身
(どくましちゅうかどがしん)
毒氣之中過度我身
(どくけしちゅうかどがしん)
毀厄之中過度我身
(きやくしちゅうかどがしん)
五急六害之中過度我身
(ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん)
五兵六舌之中過度我身
(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん)
厭魅之中過度我身
(えんみしちゅうかどがしん)
萬病除癒、所欲随心、急急如律令
上記に示したのは、それぞれ厄災や魔や毒を表しています。
問題は呪文に必ず出てくる言葉。
之中過度我身(しちゅうかどがしん)です。
『之中』何々の中という意味でしょう。
『過度』とは守りたまえと解釈されています。
『我身』は我が身ということでしょう。
それで過度について考えてみます。
これは一般的に道教の常套句として『守りたまえ』と解釈されてきました。
守りたまえなんて呪文は数々あるわけです。
何故、この文言なのか?
過とは、すぎる・わたる・よぎる・あまねく、という意味があります。
度とは、悟らせるという意味があります。
そこでこの之中過度我身を考えると、つまり…
全ての罪、障、毒、厄は我が身を通し悟り至らしめる
その様になる訳です。
これは『罪障厄災毒気から我が身を守って下さい』という事ではないとわかります。
むしろ罪障厄災毒気を我が身に呼び寄せるのだと理解出来ます。
そしてそれらの罪障厄災毒気を悟り至らしめる。
それが過度という呪文には含まれているのです。
魔を弾かない。
むしろ呼び寄せて、我が身を通して悟り至らしめる。
我が身に魔を取り込む。
魔にも憐憫(れんびん)の情をもって道筋を示し悟らせる
魔除けではなく、魔寄せの儀式であるということです。
四方拝とは崇高なる神事である
そういうことなのです。
民の身に降りかかる魔を一身に引き受け、それら『魔』にも憐れみの情を以って道筋を立ててやる。
それが天皇陛下が行う四方拝です。
それは兎にも角にも天皇陛下とは他者を想い、民を想い
あなたこそが大事
と、いう生き方をする人であるとわかります。
我が国の皇帝が受ける『帝王学』とは、その様な生き方を示すものなのです。
その御存在を中心とした一つの家族が日本民族なのです。
我々にはその様な生き方は容易には出来ません。
しかし、私を脱しよう、脱しようと生きる事で日本人としての生き方を考える事が出来ます。
我々は道に迷います。
しかし、道に迷ったならば、我々民の真ん中に居られる御存在に帰一すれば良い。
それだけで我々はまた元の道に戻る事が出来るのです。
その御存在が神々の性質を受け継ぐ人。
現人神
だということなのです。
もういよいよ今年もあと少しです。
そこで祈る人について話してみようかと思います。
祈る人は何か?
それは天皇陛下です。
我が国で民の為に祈る人。
天皇陛下とはその様な存在です。
我が身の為に生きない、他者を想い生きる。
私(わたくし)を真っ先に脱し生きる人。
その御存在のある部分について考えてみようかと思います。
四方拝
四方拝(しほうはい)とは、宮中で行われる一年最初の儀式です。
戦前にはこの儀式を四方節と呼んでいました。
皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準じ行われていますね。
元日の午前五時半。
今上陛下が黄櫨染御袍(こうろぜんのごぼう)と呼ばれる束帯を着用して、皇居内宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側庭に設けられた建物に入り、伊勢の神宮の皇大神宮、豊受大神宮の両宮に拝礼します。
続いて四方の諸神を拝するのです。
拝する神々・天皇陵は
伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵、先帝三代の各山陵、武蔵国一宮、山城国一宮、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮、下総国一宮です。
この四方拝は宮中の祭祀の中でも最も重要なもので天皇自ら行います。
その為に代理人が祭祀を行う御代拝は認められません。
過度
この四方拝の祭に唱えられる呪文があるのです。
それは以下の通りです。
賊冦之中過度我身
(ぞくこうしちゅうかどがしん)
毒魔之中過度我身
(どくましちゅうかどがしん)
毒氣之中過度我身
(どくけしちゅうかどがしん)
毀厄之中過度我身
(きやくしちゅうかどがしん)
五急六害之中過度我身
(ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん)
五兵六舌之中過度我身
(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん)
厭魅之中過度我身
(えんみしちゅうかどがしん)
萬病除癒、所欲随心、急急如律令
上記に示したのは、それぞれ厄災や魔や毒を表しています。
問題は呪文に必ず出てくる言葉。
之中過度我身(しちゅうかどがしん)です。
『之中』何々の中という意味でしょう。
『過度』とは守りたまえと解釈されています。
『我身』は我が身ということでしょう。
それで過度について考えてみます。
これは一般的に道教の常套句として『守りたまえ』と解釈されてきました。
守りたまえなんて呪文は数々あるわけです。
何故、この文言なのか?
過とは、すぎる・わたる・よぎる・あまねく、という意味があります。
度とは、悟らせるという意味があります。
そこでこの之中過度我身を考えると、つまり…
全ての罪、障、毒、厄は我が身を通し悟り至らしめる
その様になる訳です。
これは『罪障厄災毒気から我が身を守って下さい』という事ではないとわかります。
むしろ罪障厄災毒気を我が身に呼び寄せるのだと理解出来ます。
そしてそれらの罪障厄災毒気を悟り至らしめる。
それが過度という呪文には含まれているのです。
魔を弾かない。
むしろ呼び寄せて、我が身を通して悟り至らしめる。
我が身に魔を取り込む。
魔にも憐憫(れんびん)の情をもって道筋を示し悟らせる
魔除けではなく、魔寄せの儀式であるということです。
四方拝とは崇高なる神事である
そういうことなのです。
民の身に降りかかる魔を一身に引き受け、それら『魔』にも憐れみの情を以って道筋を立ててやる。
それが天皇陛下が行う四方拝です。
それは兎にも角にも天皇陛下とは他者を想い、民を想い
あなたこそが大事
と、いう生き方をする人であるとわかります。
我が国の皇帝が受ける『帝王学』とは、その様な生き方を示すものなのです。
その御存在を中心とした一つの家族が日本民族なのです。
我々にはその様な生き方は容易には出来ません。
しかし、私を脱しよう、脱しようと生きる事で日本人としての生き方を考える事が出来ます。
我々は道に迷います。
しかし、道に迷ったならば、我々民の真ん中に居られる御存在に帰一すれば良い。
それだけで我々はまた元の道に戻る事が出来るのです。
その御存在が神々の性質を受け継ぐ人。
現人神
だということなのです。