犬神スケキヨ~さざれ石

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祈る人

2016-11-28 22:00:46 | 草莽崛起
今日は何の話をしようかと考えました。

もういよいよ今年もあと少しです。

そこで祈る人について話してみようかと思います。

祈る人は何か?

それは天皇陛下です。

我が国で民の為に祈る人。
天皇陛下とはその様な存在です。

我が身の為に生きない、他者を想い生きる。
私(わたくし)を真っ先に脱し生きる人。

その御存在のある部分について考えてみようかと思います。

四方拝

四方拝(しほうはい)とは、宮中で行われる一年最初の儀式です。

戦前にはこの儀式を四方節と呼んでいました。

皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準じ行われていますね。

元日の午前五時半。

今上陛下が黄櫨染御袍(こうろぜんのごぼう)と呼ばれる束帯を着用して、皇居内宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側庭に設けられた建物に入り、伊勢の神宮の皇大神宮、豊受大神宮の両宮に拝礼します。

続いて四方の諸神を拝するのです。

拝する神々・天皇陵は
伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵、先帝三代の各山陵、武蔵国一宮、山城国一宮、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮、下総国一宮です。



この四方拝は宮中の祭祀の中でも最も重要なもので天皇自ら行います。

その為に代理人が祭祀を行う御代拝は認められません。

過度

この四方拝の祭に唱えられる呪文があるのです。

それは以下の通りです。

賊冦之中過度我身
(ぞくこうしちゅうかどがしん)

毒魔之中過度我身
(どくましちゅうかどがしん)

毒氣之中過度我身
(どくけしちゅうかどがしん)

毀厄之中過度我身
(きやくしちゅうかどがしん)

五急六害之中過度我身
(ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん)

五兵六舌之中過度我身
(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん)

厭魅之中過度我身
(えんみしちゅうかどがしん)

萬病除癒、所欲随心、急急如律令

上記に示したのは、それぞれ厄災や魔や毒を表しています。

問題は呪文に必ず出てくる言葉。

之中過度我身(しちゅうかどがしん)です。

『之中』何々の中という意味でしょう。

『過度』とは守りたまえと解釈されています。

『我身』は我が身ということでしょう。


それで過度について考えてみます。

これは一般的に道教の常套句として『守りたまえ』と解釈されてきました。

守りたまえなんて呪文は数々あるわけです。

何故、この文言なのか?

とは、すぎる・わたる・よぎる・あまねく、という意味があります。
とは、悟らせるという意味があります。

そこでこの之中過度我身を考えると、つまり…

全ての罪、障、毒、厄は我が身を通し悟り至らしめる

その様になる訳です。

これは『罪障厄災毒気から我が身を守って下さい』という事ではないとわかります。

むしろ罪障厄災毒気を我が身に呼び寄せるのだと理解出来ます。

そしてそれらの罪障厄災毒気を悟り至らしめる。

それが過度という呪文には含まれているのです。

魔を弾かない。

むしろ呼び寄せて、我が身を通して悟り至らしめる。
我が身に魔を取り込む。

魔にも憐憫(れんびん)の情をもって道筋を示し悟らせる

魔除けではなく、魔寄せの儀式であるということです。

四方拝とは崇高なる神事である

そういうことなのです。

民の身に降りかかるを一身に引き受け、それら『魔』にも憐れみの情を以って道筋を立ててやる。

それが天皇陛下が行う四方拝です。

それは兎にも角にも天皇陛下とは他者を想い、民を想い
あなたこそが大事
と、いう生き方をする人であるとわかります。

我が国の皇帝が受ける『帝王学』とは、その様な生き方を示すものなのです。

その御存在を中心とした一つの家族が日本民族なのです。

我々にはその様な生き方は容易には出来ません。

しかし、私を脱しよう、脱しようと生きる事で日本人としての生き方を考える事が出来ます。

我々は道に迷います。

しかし、道に迷ったならば、我々民の真ん中に居られる御存在に帰一すれば良い。

それだけで我々はまた元の道に戻る事が出来るのです。

その御存在が神々の性質を受け継ぐ人。

現人神

だということなのです。


古事記を摘んで日本を知る43

2016-11-25 17:20:22 | 古事記
さてさて古事記です。

古事記を読めば日本人が解る!
と、常々申してます。

古事記には神話の部分がありますね。

神話は日本の民族としての根っこがあるのです。

その上で神道は全く宗教ではなく、更に古事記は日本人の哲学だと申してきました。

哲学とは考える事です。

古事記は日本人の哲学です。
日本人とは、どう生きてどう死ぬのか?

古事記を読み、中身を覚えたからとて哲学を身につける事は出来ません。

「哲学と言ったのに、読んでも哲学が身につかないとは?おかしな話しだ」

そう思われるでしょう。

では、この古事記に秘められた哲学とはなんでしょうか?

それは古事記に書かれた事を深く考える事で哲学を得る。

その様なものだと私は考えます。

「これは一体、何を表しているのか?」

「この物語から何を読み解けば良いのか?」

そうやって我々の先祖が示した思いを深く考える事によって哲学を得るのであろう、その様に思うのです。

草薙剣

まだまだ天孫は降臨しません。

前回三種の神器に触れましたね。
鏡と勾玉です。

で、草薙剣についても触れておきます。

八岐大蛇(やまたのおろち)
この尾っぽから出てきた草薙剣、高天原に行き、天孫つまり邇邇芸命が地上界に持ち込みます。

これは具体的な記述はないものの美夜受比売(みやずのひめ)に預けられた本体は、どうやら熱田神宮にあります。

そして形代も宮中にあるようです。

熱田神宮の本体も一度も滅失した記録はありません。
つまりは三種の神器の一つ草薙剣はいまだに現存していると言うことでしょう。

神代の時代に八岐大蛇の尻尾から出てきたと言われるその剣は今も熱田神宮に泰安されているそういう事です。

宮中にあるのはその形代です。

しかし、この形代の方は源平合戦の時、壇ノ浦の戦いで滅失しています。

安徳天皇が三種の神器を抱いたまま入水しました。
実際には剣と勾玉だけを持って入水したようです。

鏡は置いて行ったのですね。

鏡は実はすごく大きいらしいです。
だから持って行けなかったのでかね。
だから船の上に残されてました。

そして剣は無くなってしまいました。

そこで伊勢の神宮から御神剣を出していただき形代に分霊したのでしょう。
この形代はいまだに宮中で継承されています。

現在どこにあるかと言うと新吹上御所劒璽の間(けんじのま)に泰安されています。

新吹上御所とは天皇陛下のお住まいです。

天皇陛下の寝所の隣が劒璽の間です。
陛下に一番近いところに…ということでしょう。

とは剣のことです。
とは勾玉のことです。

ですから、三種の神器のうち剣と勾玉は陛下に一番近いところに納められています。

これは陛下が御即位あそばされた時の映像にも残されています。
三種の神器と共に陛下が高御座(たかみくら)にお上がりになり、高御座が開いた時には劒と璽がちゃんと置かれてあります。

皇位継承とはこの三種の神器を継承する儀式でもある
と、いう事でもあります。

ここで面白い話しですが、剣が失われた時から武家政権が始まったわけです。

壇ノ浦を境に平家の時代は終わる。
源氏の時代が始まった。
それ以降、ずっと武家政権が続くのですね。

これはを失った=皇室が軍事力を失った。
その様に解釈する人もいます。
一つの解釈と言えるでしょう。

海に沈んだ勾玉

で、勾玉ですが勾玉は安徳天皇が入水した時に一緒に海に入ってしまいましたね。

実はこの勾玉は本体だったのです。

御鏡と御剣は伊勢と熱田にそれぞれ泰安されてますけども、勾玉は本体だったのです。
勾玉の本体は当時も宮中にあったんですね。

本体が失われたのですから大変です。

じつは安徳天皇入水で失われた勾玉ですが、日本国中きら優秀な海女さんを集めて探したんですよ!

しかし、実際には数日後に浜に打ち上げられてたんですけどね。
以来本体は劒璽の間に泰安されてますね。

御鏡は伊勢

御剣は熱田

勾玉は宮中

と、本体はそれぞれ三箇所に泰安されています。

これ…一箇所に集めたらどうなるんでしょう?
なんか起こるんじゃないですか?

だって神器なんですよ。

相当な力があるはずです。

あまりの力なんで三箇所に別れてるんじゃないですか?

だから一箇所に集めたら、それはドえらいことになるんじゃないですかね?

かなりヤバいですよ!

そんな三種の神器。

神々の時代に神々の手により作られた、それが地上世界に持ち込まれる。

それが天孫降臨に読み込まれているのです。

一個人

2016-11-20 12:00:06 | 草莽崛起
さて、今回は何の話しをしようか…とか考えてました。

と、言うより『どう話を纏めようか』という感じでしょうか。

毎度、申し上げておりますが、あくまで問題提起の一つであります。
ここで私が話す事は『問題提起』です。

皆さんも一緒に考えてみませんか?

その様な趣旨です。

人間というものは、何気ない一言で深く考えさせられたりするものです。

今回はそんな話しをしようかと思いますが…
実は、2、3日考えさせられました。

頭の中ではぶつ切りになった状態でした。
しかし、周囲の人と話す事でやっと、点が線になりました。

私自身、全く意識もせぬ言葉をぶつけられ深く考える事態となりました。
しかし自分自身も陥りやすい、しかし世に当たり前に氾濫した『常識』を考えるキッカケともなりました。

…とは、何だ

世の中には、様々な人がいます。

例えば体にハンデを抱える方。
車椅子や義手や義足を使う方々。
或いは精神的疾病を抱えた方々。

子供にお年寄り、男に女。

様々な人が、この日本のみならず世界に沢山いますね。

例えば、私の友人にも『うつ病』を抱えた者や、事故で片腕を無くした者や、事故で片足に障碍を持った者などいます。

また、街を歩いていても車椅子の人、白丈を持つ人や盲導犬を連れている人。

さて、この様な人を何と言うのでしょうか?

社会的弱者

その様に呼ばれることが多々あります。

例えば、イジメ

これは、とある方との話しに出て来たのですが…

イジメについての話しです。
その方は

「テレビのコメンテーターや専門家みたいな人が話す事は、基本的に間違っているんじゃないか?」

その様な趣旨でした。

「イジメににあった子供達が、自殺を選んでしまうのは、イジメにあってどうにも解決出来ない惨めさや情けなさからではないか」

つまり、イジメにあっても自分では解決出来ず、周りの助けもない。
イジメをする連中に対抗も出来ず、言いなりになる。
その自らの哀れさ、惨めさ。

そして周囲は自分に対し「イジメられてる子」とか「イジメにあってるかわいそうな人」と言う目。

イジメにあってる弱い子

そんなレッテルを貼られてしまっている事への悲観的な状況を打開出来ず。
打開する方法が自らを殺すことになってしまうのでは?

その様な見解でした。

私は思わずハッとしました。

私の中で、点と点が繋がる瞬間でもありました。

では、イジメた側は強い子なのか?

ならば強い子でなければ自殺までしてしまうのか?

そうなれば皆が強い子にならなければイジメによる自殺は防ぐことは出来ない、そういう事になってしまいます。

この場合『強い子』はイジメを行なった子供達で、つまりはイジメを行なう側にならねば死んでしまうと言う事になります。

イジメは良くない!イジメを止めろ!と言いながら、実はイジメを行なう側にならなければ自殺してしまう…こんな論理が成り立つのです。

全く違和感しかありません。

イジメられた子供は決して弱い子などではありません。

イジメはある種、人間としての尊厳を傷付けるものです。
暴力や誹謗中傷、更に金品を巻き上げる。

これは、犯罪行為です。
しかし『イジメ』と言う言葉で括ってしまい、その犯罪行為を誤魔化しているのです。
犯罪は人間としての尊厳を奪うものです。

イジメにあっている子供は決して弱い子ではないのです。
イジメた子供達から人間としての尊厳を奪われたのです。
だから、自殺を選んでしまったのです。
人は人としての尊厳を奪われては生きていけません。

イジメは強いとか弱いの問題ではないのです。
人間の尊厳と言う問題なのではないでしょうか?

電通問題

先頃、電通の新入社員の女性が無理な勤務を強いられ自殺をしました。
これを労災認定されました。

無理な勤務を強いた電通は、これは勿論大問題です。無茶苦茶な話しです。

しかし、考え方を変えればこの自殺した女性も、その状況から逃げる事も出来たはず。
しかし、彼女はこの状況から抜け出す事が出来ずに自殺を選択しました。

これに労災認定をしたのです。

労災は労働災害です。

例えば職務中に、足場から落ちた。
或いは、通勤中に事故にあった。

これは労働災害です。

しかし、彼女の場合はこれらに当てはまるのか?

むしろ、この様な状況の彼女を『弱い立場の人』と、世間は見てはいないか?

そこに実は見落としがあるのではないか?
私はそう考えます。

労使間は本来、対等でなければならないはずです。
労働者は使用者に労働を売るのです。
それを立場の強い弱いと考えてしまっているのではないでしょうか?

つまり、資本家が労働者から搾取するような行動を取り労働者に対し強い立場を取る為に労働者は拒否し難い状況になる。
本来労働者の権利は徹底的に守らねばなりません。
無理な労働を強要され、それに従うなど労使関係ではなく主従関係です。

これも、人間としての尊厳の問題です。
人は誰の所有物ではありません。
労働者は労働を売ることで対価を得るだけであって、宮仕えではありません。

つまり、この自殺した女性は『労働災害』でもなく『弱い人』でもないのです。

人間の尊厳を傷付けられた人ないのです。

弱者とは?

では弱者とはなんでしょうか?

例えば先に述べたように、身体的にハンデを持つ人を世は『社会的弱者』と括ります。

車椅子で生活する人。

片足の無い人。

片腕の無い人。

精神的疾患を抱える人。

それは弱者なのでしょうか?

では両手両足があり、車椅子にも乗っていない私は強者なのでしょうか?

私にはその様な括りは違和感しかありません。

友人には片腕が動かぬ者や、事故で足が不自由な者や、或いは精神的疾患を持つ者がいます。
しかし、私は彼らを弱者などと見たことはありません。

私自身も様々な疾患を抱えています。
正直、私は難聴です。
会話が出来ない程ではないが、時に人と話すのがツライ。
更に、どうしても声が大きくなってしまう。

他にも体質的なものもあります。
つまり、これらは私自身、一生付き合って行かねばならない症状です。

私からすれば、いわゆる障碍を抱えた友人も私も同じで何がしかの症状を抱えた人と言う事で、同じ人間同士と言う事です。

つまりは持病のある者と言うだけのことだと考えます。

果たして『弱者』とはなんなのでしょうか?

しかし現在は障碍や既往症など抱える人を『社会的弱者』としています。

交通弱者

【交通弱者】と言う言葉をご存知でしょうか?

何らかの運転免許をお持ちの方ならば、知っている言葉ですね。

私自身、運転免許を取得する祭にこの言葉を散々聞かされました。

車を運転する者にとって、歩行者、自転車、子供やお年寄りを交通弱者と言うのです。

これら交通弱者を守る運転を心掛けよ!
そういうことです。

一見マトモな主張の様に感じます。
しかしここにも違和感を感じます。

子供やお年寄りや歩行者、自転車は弱者なのか?
その様な疑問を持つのです。
確かに、それらの人に注意し運転しなければなりません。
しかし、運転をする者は『強者』なのでしょうか?

ならば、先に述べた身体にハンデを持つ方々の中にも車を運転する者もいます。
例えば私の知人にも、右腕がないけども車を運転する人がいます。
車椅子で生活する人にも車を運転する人がいます。

この様な人は、社会的弱者とされていますが、運転すれは『強者』になってしまうのでしょうか?

私は『弱者』だから守るのではないと思います。

それは人間だから守るべきだと考えます。
つまりらはを守る運転をしろ!と言うことではないでしょうか?

弱者だから守るのではない、大切な命だから守る

そういうことなのではないでしょうか?

それを『弱者』と括ってしまうことに違和感を感じざるを得ません。

私はかわいそうな人ではない

オウム真理教による一連の事件の中で、ある弁護士一家が拉致され殺害された事件がありました。

その時、その被害者家族である母上が意を決してマスメディアに顔も実名も公表し、今後この様な悲惨な事件が起きぬ事を願い記者会見を行いました。

すると、当然マスメディアは大きく報じました。

実はこれがキッカケとなり、その母上は日常生活が困難な程になってしまいました。

毎日の買い物や、或いは諸用を行う事もままならなくなりました。

外を歩けば好奇の目に晒され、「ほら、あの人が…」とか「ツライと思いますが頑張って」等と言われる毎日。

その母上は後に何がしかの手記で話されていました。

「私は犯罪被害者の家族です。そして普通の主婦です。毎日買い物に行き家族の世話をしています。私はかわいそうな人でも、弱い人でもありません。家族を犯罪に巻き込まれ失くした母です」

その様な趣旨を話されていた様に記憶しています。

そう、この母上は決してかわいそうな人ではありません。
また『弱者』でもありません。
犯罪被害者家族で、一人の母で、主婦です。
普通に何処にでもいる女性の一人です。
勿論、この一人一人の人間に違う人生はあります、が特別取り上げなければいけない人ではなかったはずです。

ただ家族を犯罪に巻き込まれ失くした。

それをまるで腫れ物に触るように扱い、マスメディアも含めて我々社会がかわいそうな人とか社会的弱者と言うようなレッテルを貼ったのです。

ですから、逆に「何だ弱者なら弱者らしい生活をしろ!」と言うような心ない言葉まで受けていたのです。

一体何なのでしょう

我々は簡単に弱者と言う言葉を使っています。

しかし、弱者とは何なのでしょうか?

例えば体にハンデを持つ人を『弱者』とするならば、その方々にあなたは弱者ですと言うのでしょうか?

私は友人に「君は弱者だ」と言わねばならんのでしょうか?

ある方は「弱者です」とハッキリ言い切ります。

私には全く違和感しかありません。

では、その方は身体的にハンデを抱える方に「あなたは弱者ですよ」と言っているのでしょうか。

私は弱者と言う言葉の中にかわいそうな人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。

或いは我々とは違う人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。

無意識に使う言葉に、その様な意味を内包していて、実はその表現が間違いかもしれないと気付きもせず使っているのではないか?
その様に考えます。

例えば私の友人などは自分自身を『弱者』などとは考えていません。
私もその様に考えていませんから、ぶつかる時は本気でぶつかるし、冗談も言えます。
それは共に同じ人間として付き合っているからです。

例えば体にハンデを抱える人を『弱者』とすれば、弱者の振る舞いを強いられてしまうと友人は話します。

だから自らを社会的弱者等とは決して口にはしません。

それは自らを弱者と言い、補助金を不正に受給したりする連中もいて、そんな連中と一緒にされては堪らないという思いもあると話します。

車椅子に乗っていようと、義足を付けていようと犯罪を犯すものもいて、それらの人間も『弱者』と呼ばねばならん事になってはしまいませんか?
犯罪者は犯罪者であって弱者ではありません。

パラリンピックに出るアスリートを見てあなたは『社会的弱者』だと感じるでしょうか?
私は車椅子に乗るテニスプレイヤーや片腕のスイマー、義足のランナーを見て社会的弱者などとは思いません。

パラリンピックの選手はアスリートであって弱者ではないのではありませんか?
弱者が競技をしていると見れば、もうアスリートではないのではないか?
車椅子に乗ったアスリート、片腕のアスリート、義足のアスリート。
ただそれだけです。

例えば沖縄の基地外連中は自らを『権力に虐げられた弱者」であると主張しているのです。

私は弱者と言う括りに違和感しか感じない。

弱者とはなんだ?

子供だろうと、年寄りだろうと、女だろうと、男だろうと。
車椅子に乗ってようと、白杖をついていようと、盲導犬を連れていようと、精神的疾患があろうと。

弱者ではなく一人の人間であり、一個人です。

先の弁護士の母上の話しを借りるならば、例えば拉致被害者やその家族は『かわいそうな人』でも『弱者』でもありません。

同じ日本に住む我々の同胞で、守るべき命。
それは人間であって『弱者』ではない。

天皇陛下は我々国民の統合された象徴です。

これは
我々日本国民は天皇陛下を中心とした統合された国民で、その象徴が天皇陛下である

その意味は、日本国民は一つの家族(統合)であり、その中心に天皇陛下を戴き一人一人が支えあって成る国だと言う事だと考えます。

その家族を弱者だとかかわいそうなどと思うのでしょうか…

弱者と言う言葉に内包された意味。

弱者と括れば当然ながら、それ以外の人と分けてしまうことにはなりませんか?

人間は人間として人生を謳歌する権利があるのです。

ならば、車椅子に乗っている人も、白杖をついている人も人間として人生を謳歌する権利があります。

我々は弱者だから、これらの人を『弱者』だから守るのではなく、人間としての人生を謳歌する権利を徹底的に守るのが本来なのではないでしょうか?

車椅子の方が出掛けるとき、車椅子が通行出来ない障害があれば、それは車椅子の方の人間としての権利を阻害する事になる。
だから、車椅子がすんなり通れる道を整備する。

車椅子に乗ってようと、行きたいところに出掛け、見たい物を見て、好きな人と会話ん楽しむ。買い物を楽しむ。

それは人間としての当然の権利です。

我々は弱者だから車椅子の方の通行を守るのではありません。

人間としての当然の権利を守るのです。

それは車椅子に乗らない私の権利をも守ることになるのです。

社会的弱者なるレッテルを貼りを皆さんも一度考えてみませんか?



古事記を摘んで日本を知る42

2016-11-13 18:30:49 | 古事記
古事記です。

まだまだ天孫降臨してませんが、御印についての話しをもう少し。

このおさらいは古事記を摘んで日本を知る40にてお願いします。

では、古事記の世界へ参りましょう。

神々の手による

三種の神器のうち、特には重要なようです。

なぜならば
「この鏡を私の御魂として、我が身を拝むように祀りなさい」

そのように天照大御神は仰ったのです。

八咫の鏡は大御神を象徴するもの。
天照大御神そのものなのです。
三種の神器を渡したのですけれど、鏡だけは特別なんですね。

その為に邇邇芸命思金神五十鈴宮現在の三重県伊勢市の五十鈴川のほとりに、お宮を建てて、お鏡をお祀りする事になりました。

そして系譜についても書かれてもいます。

天児屋命(あめのこやねのみこと)は中臣連(なかとみのむらじ)の祖であります。

中臣連は後の藤原氏ですね。

この藤原氏は日本の歴史の中では決して外すことの出来ない重要な一族です。

1600年間、藤原氏の出身の者が国の政治を預かってきた!
その様な事実があるんですね。

現在は国会で首班指名なんかされれば、言わば誰でも内閣総理大臣とかなれちゃいます。
政治を預かる事が出来る訳です。

しかし幕末までは藤原氏と決まっていました。

藤原氏といっても分家がたくさんあります。
なかでも藤原北家の五摂家(ごせっけ)。

この五摂家出身の人間しか摂政関白にはなれないという不文律がありました。

1600年間、日本の政治を担当してきたのは藤原氏なわけです。

超長期政権ですよ!

その御先祖様が天児屋命という事なんです。

中臣鎌足という中大兄皇子の塾仲間です。
大化の改新のヒーローです。
それ以降、藤原氏は力を持つ様になるわけです。
その御先祖が書かれているのです。

忌部首(いんべのおびと)
忌部氏です。

宮中の祭祀に物資を供給する役割です。

これは布刀玉命(ふとだまのみこと)がその御先祖です。
また猿女君(さるめのきみ)の御先祖は天宇受売神です。

どの一族が、どの神様の一族か?
そんなことが事細かに書かれているのですね。

後々、八咫鏡は宮中に置いておくのはあまりに畏れおおい!と、言う事で形代を作って、本体は環境の良い場所に移す事になります。

そして伊勢のお宮に辿り着くのです。

形代(かたしろ)

これは、まぁ複製ですね。
レプリカと言うと余りに軽くなってしまいますが…しかし、その様な物です。

三種の神器の価値と言うのは、何も物質そのものではありません。

そこに御魂が宿っていることがその本質なわけです。

だから形代を作り、そこに分霊するのです。

そして本体は五十鈴宮に鎮座頂く。

形代は物質的には後に作った物ではあるけれど、中身は同じだよ!と、言う事です。

そこに宿る霊力は全く同じものであると考えられています。

皆さんも神社で『お札』をもらう事がありますよね?

あのお札には御神体の御魂が分霊されているんですよ。
ですから、その神様と同等の価値があるのです。

そのお札を持ち帰り、神棚に納めれば拝んできた御神体の分霊が自宅に鎮座する事になるのです。

つまりは御神体を比べてみれば、型や紙、或いは木の札ですから、木や紙そのものに価値がある訳じゃない事は皆さん解りますよね?

その型や紙や木にに宿ってる御魂に価値があるのです。

ですから本体と形代では物質的な違いはあるけれど、宿る御魂は全く同じだと言う事です。

そういう事で宮中では鏡がずっと大切に保たれているのですね。
そして伊勢に祀られた御鏡は一度も滅失する事なく今に至っています。

現在、伊勢神宮の内宮の御正宮に奉安されている御神体は古事記に書かれた神代の時代に神々の手によって作られたあの八咫鏡であり、現在そのまま伊勢神宮の御神体として奉安されているのです。

形代と本体

三種の神器全てにおいてなんですが見てはいけないものなんです。

所有者である天皇ですら見てはいけません。

見れば命を落とす!
と、言われています。

三種の神器を見た者はいません。

しかし、時間が経つと外の箱とか包んでいる布とかボロボロになってしまいます。
その場合はそれを作り変えたりします。

しかし中身は天皇ですら見る事は出来ません。

これが三種の神器なんです。

伊勢の神宮には1600年に及ぶ記録が残っています、何か異変なんかあれば全て記録されます。

火災などがあっても『御神体が焼失した』記述はありません。

てますから神々の時代の鏡がそのままある!と、言う事なんですね。

では宮中の鏡はどうでしょう?

宮中の御鏡は何回か火災にあって、三種の神器を奉安したお宮が焼けています。

チョットの火事だと、鏡だけ焼け跡から発見されたと言う事もあったんですね。

でも江戸時代のある時は火が強かった様で粉々になってしまいました。
しかし、慌ててその粉々になった破片を集め、伊勢の神宮から御鏡を出して頂いて、それで新たな形代を作って、火事で粉々になった形代も一緒に袋に詰めて今あるんですね。

御鏡に関しては本体は伊勢の神宮、形代は今も宮中に鎮座されているのです。

つまり形代は幾ら粉々ぬなろうと本体が無事なら問題なし!と言う事です。

では宮中の形代はどこに奉安されているかと言うと、御鏡を奉安する場所があります。

賢所(かしこどころ)と呼ばれる場所です。

宮中三殿のうちの真ん中のお宮です。

ここに御鏡の形代が今も祀られているのです。


サクラ・サクラ

2016-11-11 21:00:27 | 草莽崛起
1996年

ペリリューの激戦に参加した二人の米国元軍人を迎えて、靖国神社でシンポジウムが開かれました。

その席上で千葉大学名誉教授の清水氏が、この元軍人に質問をぶつけます。

「日本は大東亜戦争でアジア諸国を全て解放したが、この偉業をどう思うか?」

この質問にコードリン・ワグナー氏は回答します。

「私は太平洋戦争にそれ以上の価値を見出しているものがあります。それは日本軍人の忠誠心です。太平洋の島々で玉砕するまで戦い、特攻隊まで繰り出した。祖国に対する忠誠心。その名誉は数千年の価値をもって語り継がれるでしょう。」

このシンポジウムにワグナー氏と共に参加していたエド・アンダウッド氏も語ります。

「日本軍は、勝てないとわかっている戦争を最後まで戦い抜いた、しかもその内部では反乱は起きず、誰も投降すらしない。その忠誠心は天皇の力だと知ってペリリュー島を『天皇の島』と名付けました。」

激戦

ペリリュー島の戦いは、硫黄島の戦いと並び称される太平洋方面の激戦であります。

激闘は実に73日間にも及びました。

南太平洋のパラオ諸島内にある面積20平方キロの珊瑚礁で出来た小島です。

1543年
スペインが発見して統治します。
1899年
ドイツがこれを買収。

その後1919年に日本の統治下に入り1947年にアメリカの支配下に置かれました。

大東亜戦争中、日本軍はここにフィリピン防衛の為の飛行場を建設しました。

1944年攻勢に出てきたアメリカ軍はフィリピン攻略への懸念となるペリリュー島を陥落させるべく総兵力42000人、約800隻の艦艇を出撃させました。

ペリリューの人々

ペリリュー島の人々は白人統治時代と日本統治時代の両方を経験しています。

ペリリュー島の人々は日本統治時代がいかに良いものであるかを知っています。

島民は老若男女問わず、日本軍と仲良くなり互いに信頼していました。

飛行場の建設を手伝ったり、その合間に日本の歌や文化を教えてもらったりしては共に笑い合ったり。

中川邦男陸軍大佐は島民を戦火に巻き込むまいと、船舶をかき集め、空爆の少ない夜間に島民を全員パラオ本島に避難させました。

ペリリュー島の人々は「我々も日本軍人と共に戦うから、何でも手伝いをさせて欲しい」と言ったのです。

しかし日本軍は「天皇陛下の日本軍人が、お前達の様な土人と一緒に戦えるか!」そう答えます。

ペリリュー島の人々は大変ショックを受けます。

あれほど一緒に歌い、一緒に笑い合った、あの日本人が手のひらを返した様な態度…

「やはり…日本人も白人と同じか…」

そしてペリリュー島の人々を乗せた船はペリリュー島を離れて行く。

港に日本人の見送りはない…

失意の中、離れて行く島。

ふと見ると、大声を上げ、千切れんばかりに手を振る日本軍人が現れました。

歌いながら、叫びながら、離れて行く島民に手を振る日本軍人。

ペリリュー島の人々は気がついたのです。

「そうか!日本人は我々島民の命を救う為に、巻き込むまいと敢えてあの様な事を言ったのか…」

日本軍人の心に触れた人々は「これが日本人か…」そう思うのです。

そして、もう生きては帰れぬ覚悟をした日本軍人の真意を知るのです。

ゲリラ戦

ペリリュー島に徹底的な艦砲射撃と空爆を浴びせるアメリカ軍。

1944年9月15日遂に上陸します。

当初、数日で落とせると楽観視していたアメリカ軍は手痛い打撃を受ける事になります。

中川邦男陸軍大佐は、これまで水際で敵軍を迎え撃とうとしては艦砲射撃や空爆で撃滅されてきた日本軍の教訓から、島の奥深くまで洞窟を掘り要塞を築くのです。

その為、アメリカ軍の艦砲射撃は日本軍に致命傷を与えるに至りません。

洞窟から出ては消える。

神出鬼没のゲリラ戦の前に、アメリカ軍は大打撃をくらい二度も上陸に失敗します。

この激戦の海岸を戦後アメリカ軍はオレンジビーチと名付けます。

この美しい珊瑚礁の海が、アメリカ兵の血でオレンジ色に染まったからです。

このペリリュー島の戦法は後に栗林忠道中将に受け継がれ、硫黄島でアメリカ軍を寒からしめる鬼神の如き戦いをします。

補給もない日本軍は、物量に勝るアメリカ軍に日に日に押されていきます。

そして73日を経過した時、残る兵力は僅か五十数名。

11月24日
中川邦男陸軍大佐以下3名は割腹自決。

最後の電文サクラ・サクラが打電されました。

これは一切の機密書類などを焼却し
これから桜花の如く玉砕するという意味です。

この打電を終え、満身創痍の日本軍人はアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行。

アメリカ海兵隊公刊戦史は「日本の斬り込み隊の一団は、米軍の包囲網を突破できず、24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕」と伝えています。

米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督は自著の中でペリリュー島の激闘を振り返っています。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史に於ける他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率40%を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領した事は今もって疑問である。」

ペリリュー島の戦いが終結してから、パラオ本島から島民達が帰ってきました。

そして日本軍人の遺体を見て泣き出した…

アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見たのです。

ペリリューの人々は島民一丸となって日本軍人の遺体を手厚く葬ってくれました。

1982年
日本人有志の手によってペリリュー神社が創建されました。
更にペリリュー戦50周年にはニミッツ提督の言葉と伝えられる詩碑が建立されます。

諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために、日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したか伝えられよ」

建立式には現地からも多くの人々が集まり式典を歓迎しました。

ペリリュー島の人々は、今尚親日感情が強い。

「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創り上げてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」

そう語るのはトヨミ・オキヤマという名前を持つ現地女性です。

1981年パラオ諸島はアメリカから念願の独立を果たします。

独立国家として必要なものに国旗があります。

パラオ島民にデザインを公募し、選ばれたのは
日本の日の丸と同じデザインです。

日の丸は白地に赤。

パラオ共和国は青地に黄色。

パラオ共和国民はこう語ります。

「日の丸の部分が黄色なのは月を示します。青地はパラオを囲む海。月は太陽がないと光輝く事はできません。太陽とは即ち『日本』、ペリリュー島の戦いで戦死した一万を超える日本の戦没者達は、国を愛する心と勇敢ささえあれば、アメリカよりも強くなれる事を我々に教えて散ったのです」

我々の先輩は武士道のこころをペリリューの人々に見せたのでしょう。