犬神スケキヨ~さざれ石

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大日本帝国の国家戦略7

2016-09-21 21:00:13 | 大日本帝国
随分と間が空いてしまいました。
前回は明治の世を迎えた日本で行われたインフラ整備の要『鉄道』について話しました。

おさらいはここです。

今回は海運業について話してみたいと思います。

駆逐

明治新政府は鉄道だけではなく海運業の充実にも力を入れて来ました。

岩倉使節団で欧米を見聞した政府高官達は、海運業が一国の経済の発展に不可欠だと気づくのでした。

なかでも大久保利通は大英帝国の栄光が海運業の発展と共にあることを知り「海運業のあり方を英国に学ぶべきだ!」と考えるのでした。

英国では17世紀に航海条例というものが作られていました。

これは1951年に英国イングランドで制定された法律です。当時、貿易で大きな比重を占めていたオランダ船を締め出す目的で作られた法律で、英国の植民地における外国船の交易が禁じられる事になるのです。

つまり、当時海運業で圧倒的な力を持っていたオランダに対抗する為に、入港船の船籍を限定するなどして、自国の海運業を保護したのです。

この航海条例は200年間続き、海の大国イギリスをつくる上で大きな役割を担ったのです。

大久保利通らは、この英国の航海条例に学び海運業者の保護育成に乗り出すのです。

締め出し

幕末から明治初年にかけて、日本沿岸の船舶輸送というのは英米国が大半を握っていたのです。

明治維新期には、日本の民間人には西洋船の所有が禁じられていました。
それにより競争のしようもなかったのです。

そのため新政府は明治2年(1869)に日本の民間人による西洋船の所有を解禁したのです。

続いて明治4年(1871)駅逓頭の前島密が政府肝いりによる運輸会社の設立を画策するのです。

駅逓(えきてい)とは、郵便事業などを司る明治初期の官庁です。そこの頭とは今で言う『長官』にあたります。

その運輸会社が日本国郵便蒸気船会社です。

前島は、廃藩置県により没収された各藩所有の船を払い下げるなどの保護を行い『日本国郵便蒸気船会社』を外国の運輸会社に対抗出来る様に育成しようとしたのです。

明治7年(1874)には台湾出兵に伴い、兵員輸送の為に13隻(1万1974t)の汽船を購入。
これらの船舶は台湾出兵後に岩崎弥太郎の三菱商会に委託されています。

岩崎弥太郎とは、ご存知三菱財閥の創始者で元土佐藩の地下浪人。下級武士です。
下級武士ながら土佐藩の参政吉田東洋に見出され、幕末には土佐藩商務部『土佐商会』を任されます。
坂本龍馬とも親交のあった人物です。

政府は三菱商会に多額の援助金を出し後押しもしています。

政府の後ろ盾を得た三菱商会は日本沿岸の航路を瞬く間に占有してしまいます。

三菱商会が次の戦いの舞台に選んだのが『上海〜横浜』を結ぶ上海航路でした。

当時この上海航路はアジアの重要な海のルートで、海運業者にとってのドル箱航路です。
しかし、上海航路は外国の海運業者の独占状態でした。
米国の太平洋郵船です。

政府の支援を受けた三菱商会は明治8年に日本初の外国航路である上海航路を開拓すると、太平洋郵船に対して『運賃値下げ競争』で挑むのです。

激しい値下げ競争の末に、太平洋郵船は遂に撤退を決断するのです。

日本政府の交渉により、太平洋郵船の船舶と港湾施設を総額81万ドルで買収。
同社をこの航路から撤退させる事に成功するのです。

翌年には英国のP&O汽船が上海航路に参入してきます。
しかし、三菱商会は政府の支援で価格競争を仕掛け、同社を撃退してしまいました。

これらの保護政策により明治9年(1876)には、日本の開港間の航路は日本船が89.1%を占めるほどになりました。
日本沿岸の航路から外国の船会社をほぼ駆逐してしまったのです。

これは、そこまで外国の船会社から得ていた運賃収入を日本人が得るという直接的な利益もありましたが、軍事上でも大きな利点があったのです。

日本沿岸の海運を押さえておけば、戦争になった時、素早く兵員や軍事物資を輸送出来るのです。

『富国』だけでなく『強兵』も同時に実現しようとする明治新政府のしたたかさの表れと言えるでしょう。

大日本帝国の国家戦略~6

2016-05-19 15:00:10 | 大日本帝国
今回は富国強兵を素早く遂行する為に我が国が取った手段を見てみます。

維新から5年

富国強兵を成すには、どうすれば良いか?

明治新政府が最優先課題として取り組んだのがインフラ整備だったのです。

特に交通機関の整備は不可欠です。

そこで最優先で作られたのが鉄道です。

19世紀というのは鉄道の時代でもありました。
19世紀前半にはイギリスで初の商用鉄道が開業しました。
その後、フランス、アメリカ、ドイツと鉄道建設ラッシュが始まりました。

19世紀中頃から後半には中東、インド、オーストラリアなども相次いで鉄道が開通します。

鉄道という強力なインフラは産業構造を劇的に変化させます。

鉄道の有用性については、かねてから気づいていた明治新政府は維新直後から鉄道建設に向けて動き出します。
そして維新から僅か5年。
明治5年(1872)品川~横浜間の鉄道開通を成し遂げました。

これは世界きら見れば画期的なことです。

欧米以外の国で自力で鉄道建設したのは日本が初!

当時既に支那やオスマントルコでも鉄道は開通していましたが、それは自国で建設したものではありません。
外国の企業に鉄道の敷設権や土地の租借権を与え、その企業の資本で建設したものです。
もちろん鉄道運営は外国企業です。

しかし、日本は技術こそ外国からの輸入でしたが、建設の主体はあくまで日本、運営も日本自身で行なっています。

明治新政府の鉄道計画が持ち上がったのは明治2年11月。
朝議において東京と京都を結ぶ幹線と東京から横浜、京都から神戸、琵琶湖から敦賀港の4路線の敷設が決定しました。

新政府は鉄道の資金を広く日本から集めようと考えます。
しかし、それにはまず「鉄道とは何か」を国民に知らしめねばなりません。

そこで明治新政府はロンドンで外国公債を発行します。
資金調達に成功するとデモンストレーションとして新橋~横浜間から建設を始めました。

工事は朝議の翌年には開始され、沿線住民の反対などもあったけれど、2年後の明治5年5月新橋~横浜間29kmの仮運転にこぎつけます。

鉄道開通と共に沿線には連日見物人が押し寄せます。

日本人は鉄道の利便性に気づくのでした。

新政府の狙い通り、各地の商人や実業家達がこぞって鉄道建設を始めるようになります。

明治14年(1881)日本初の私設鉄道会社「日本鉄道」が設立されます。

土地の収容、工事代行など新政府の手厚い保護を受け、10年後には上野~青森間を開通させました。

明治20年代には日本鉄道に続けとばかりに各地で民間鉄道会社が勃興します。
日本の鉄道網は勢いよく広がります。

初開通から僅か35年、明治40年には日本の鉄道の営業km数は9000kmを超える事になりました。

運命の分かれ道

当時アジア諸国にとって、鉄道を自国で作ることには重要な意味がありました。

まず「国力の増強」

鉄道のある国と、ない国では産業構造が全く異なります。
流通が発達していないと、生産者はモノを広く売ることが出来ません。
消費者も色々なモノを買う事が出来ません。
したがって生産も消費も拡大しません。
必然的に産業は発展しません。

しかし、流通が発達すればモノを売る範囲が飛躍的に広がります。
市場も拡大し、生産量またむ増えます。

また鉄道は国内の飢餓問題を解決する手段にもなります。

ある地域が凶作になった場合でも他の地域からスムーズに輸送出来ます。

実際、鉄道が開通する前の日本では流通不備の為に悲惨な状況になることがありました。

明治2年には東北、九州地方が凶作に陥ったけれど、他の地域は豊作。
或いは例年並みでした。

余剰の米を抱える地域もあったのですが流通が上手く行かずに東北、九州地方では米価の高騰を招きます。

こうした問題から国民も鉄道に対して大きな期待を寄せるのです。

明治18年(1885)資本金払い込み総額は713万6千円でした。

これは日本の工業に関する全ての企業への資本金払い込み総額777万1千円と同じぐらいの資本金が鉄道事業に投入されたことになります。

また明治28年には鉄道会社への資本金払い込み総額は7325万3千円になり、工業全企業への払い込み総額5872万9千円を大きく上回るのです。

当時の鉄道会社の規模は日本に全工業規模よりも大きかったということです。

この傾向はしばらく続き、工業全体の資本金払い込み総額が鉄道会社を超えたのは日露戦争だったのです。

明治の日本の産業は鉄道網の広がりに応じて発展するのでした。

鉄道を自国で作ることのもう一つの意味は外国に自国の基幹産業を握らせない為でもあります。

欧米諸国にとって、鉄道は一つの侵攻ね手段にもなっていました。

外国企業に鉄道を作らせた場合、先に述べた様に鉄道関連施設の租借権を与えることになります。
欧米諸国はこの権利をキッカケとして領土に侵攻するケースが多々あったのです。

例えば、支那から満州における鉄道敷設権とそれに付随する土地の租借権を得たロシアは、それを盾に満州全土に兵を進めました。

日露戦争に勝利した日本も満州鉄道の権利を譲り受けて、それをキッカケに満州に兵を進めました。そして満州を独立させた。

外国に鉄道を作らせた場合、それだけ危険を伴うという事です。

外国からの侵攻を防ぐ意味でも、この自国建設の鉄道は重要なことだったのです。

飛躍的に高める

鉄道建設は軍事力を高めることにもなります。

鉄道網の発達は、兵の動員を素早く行うことが出来ます。

その国の軍事力というのは、単に保持してる兵力だけでは測れません。
どれだけ素早く兵力を戦地に運べるか?
輸送力も重要な要素です。

100の兵力を持っていても、戦地に半分しか送れないならば、その兵力は50となってしまいます。

逆に50の兵力全てを素早く戦地に送れたなら、輸送力のない100の兵力の国ね対抗することも出来る訳です。

また戦地が一箇所ではない場合も、100の兵力しか動かせず他所への移動が出来なければ意味がない。

しかし素早く兵力を輸送出来れば、少ない兵力を2倍、3倍に活用出来ます。

兵力×輸送力がその国の本当の軍事力となるのです。

明治政府は、そのことをよく理解していました。
鉄道建設も常な「軍事力を高める」ということを念頭に置いて進めていました。

鉄道特許条約書24条「非常の事変乱等の時に当ては会社は政府の命に応じ、政府に鉄道を自由せしむるの義務あるものとす」

交通網整備は大陸での有事に対応することも視野に入れていました。

日本軍の特徴であった素早い動員も、地道な努力の上に成り立っていたのです。

大日本帝国の国家戦略~5

2016-04-24 16:33:53 | 大日本帝国
前回は大がかりなリストラが、日本を活性化させた事に触れました。

今回は最先端技術導入について見てみます。

西洋文化の吸収

富国強兵プロジェクトが成功した要因に我々の先達の好奇心があったと思います。

当時の日本人の好奇心。
「西欧の事を知りたい!学びたい!」という姿勢があったのだと思います。

元来、我々日本人は世界でも珍しい程の好奇心旺盛な民族なのです。

幕末、日本は「黒船の来航で目覚めた」と言われます。

しかし、果たしてそうでしょうか?

幕府や諸藩の中には外国の情報を熱心に集めていた者も沢山いました。

黒船来航前から、欧米の文明やアヘン戦争などの情報はありました。
高杉晋作などは直接、支那にてアヘン戦争を目の当たりにし、白人による植民地支配を最も危惧していました。

江戸時代、鎖国していたとされるものの、実際には出島など外国に解放されておりオランダなどとは交易がありました。
そこを窓口に世界情勢を収集していた。

オランダ語やオランダの技術を学ぶ「蘭学」は江戸時代の流行の学問でもありました。

この蘭学からも多くの西洋情勢がもたらされました。

大阪で適塾を開き日本で初めて天然痘予防を行なった緒方洪庵や、幕末に咸臨丸で渡米航海を成功させ、戊辰戦争(本来は戊辰の役)で江戸無血開城に尽力した勝海舟も蘭学を修めていました。

黒船来航で「欧米の事を知りたい」という日本人の好奇心はますます高まりを見せました。

外国への渡航が禁じられていたにもかかわらず、長州藩の吉田松陰は黒船に密航しようと捕縛された話は有名ですね。
薩摩や長州は秘密裏に欧州へ留学生を派遣しています。
あの伊藤博文も幕末にイギリス留学しています。

外国に目を向けたのは志士や藩だけではありません。

幕末明治の日本は「万国博覧会」に参加しています。

世界初の万国博覧会が開かれたのは1851年、その僅か16年後、パリで開かれた1867年万国博覧会に日本は正式出品しています。

当時はまだ幕府が倒れる前、日本政府の代表として幕府が出品したのです。

このパリ代表団の中に渋沢栄一もいました。
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれる人物ですね。

代表団は万博終了後も当地に一年ほど留まり、ヨーロッパ中を見聞しました。

渋沢栄一は鉄道、各種工場、造船所、製鉄所、銀行などを精力的に見学します。
「二時間で14万枚印刷する」というタイムズ新聞、イングランド銀行では金銀貨幣の貯蔵所なども見て回っています。

これが後の明治日本の経済社会に役立ったことは想像に難くありません。

明治政府として初めて出品したのは1873年のウィーン万国博覧会。

大隈重信(早稲田大学創設)を代表に据え、政府の威信をかけて展示しました。

展示品の中には鎌倉大仏の原寸大模型までありました。
あの巨大な鋳造物が展示会場に置かれたのです。
さぞやヨーロッパ人を驚かせたことでしょう。

名古屋城の金のシャチホコも展示されました。

当時此れ程、万国博覧会に積極的に参加した国はアジアでは日本だけです。
中国も1873年ウィーン万国博覧会に出品していますが、これは商人が取り仕切ったもので国家代表ではありません。
国家として正式に参加したのは、日本に遅れること10年。
1876年フィラデルフィア万国博覧会から。
清は日本より随分早く開国していたにもかかわらずです。
如何に国家としての体をなしていなかったか?
そういうことです。

しかしこれは清だけではありません。
アジア諸国はどこもそうです。
何しろ白人達の権益だった訳ですから国家の体を全くなしていません。

日本だけが、鋭敏に欧米へアンテナを張っていたという訳です。

岩倉使節団

日本人の好奇心、アンテナ気質が最も表れているのが岩倉使節団と言えるでしょう。

岩倉使節団は、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とする使節団です。

不平等条約改正の下準備と欧米技術や文明を視察する目的で2年近くにわたってヨーロッパやアメリカに滞在しました。

しかし、時期的にみて、それは大冒険でもありました。

岩倉使節団が海を渡ったのは明治4年。
まだ維新の混乱が収束していない最中です。

そんな重要な時期に、政府の中枢が国を空け、長期間視察旅行に出かけたのです。

政府の中枢メンバーが長期間、視察行脚をするなど世界的にも例はありません。

当時の日本人はそれ程に「状況把握」を重要視していたのです。

岩倉使節団は特命全権大使に岩倉具視、副大使に長州木戸孝允、薩摩大久保利通、長州伊藤博文、山田顕義、土佐佐々木高行ら全部で46名。

留学生として派遣される青少年43名と随行員、合わせて総勢107名。

岩倉使節団は、まずサンフランシスコに上陸。
横断鉄道で首都ワシントンに赴き、その後イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツなどを訪問しました。

一行はアメリカの豪勢なホテル設備、イギリスのリバプール造船所、グラスゴーの製鉄所、上水道、下水道の整備された街並みなど、欧米の科学技術の最先端を見て回りました。

岩倉使節団の面々は産業の発達には、鉄道などのインフラ整備、教育制度の充実が欠かせないと感じました。

岩倉使節団に参加した者の多くは帰国後、国の中枢となって国家建設に従事しています。

大日本帝国が素早く欧米文明を取り入れたのは、この岩倉使節団の功績が大きいと言えるでしょう。

大日本帝国の国家戦略~4

2016-03-07 20:58:54 | 大日本帝国
前回は「農地解放」による明治維新を述べましたね。

では、今回は特権階級と呼べる武士階級について、どんな明治維新を迎えたのか。

明治維新で損をしたのは?

農地解放による、ダイナミックな経済改革は、これまでの制度をぶち壊すものです。
得をする者もいれば、損をする者もいます。

農民は得をした代表です。

では損をしたのは誰でしょうか?

それは武士だったのではないでしょうか。

「地租改正」は、それまで武士が持っていた土地を農民に分配するものです。
結果、武士階級は生活の基盤である土地を失いました。

富国強兵プロジェクトには莫大な資金が必要です。
最大の財源として「武士特権の剥奪」でありました。

武士が持っていた既得権益を取り上げる事で富国強兵プロジェクトの財源としました。

現代で言うならば、会社の役員をばっさり切り捨て、会社再建の費用を捻出するようなものです。

しかも武士の既得権益を奪ったのは、武士自身です。

この辺りが明治維新が「革命」ではないと言うことです。

既得権益に虐げられた階級が既得権益を打ち破り、自らの手で国を作る。
それが、世界で起きた革命です。

しかし日本の明治維新は既得権益が既得権益を打ち破り新しい国を作るのです。
既得権益が自らの既得権益を打ち破る。
それを革命とは呼びません。

かの坂本龍馬も下級ではあっても武士です。
既得権益側の立場です。
その既得権益で飯を食う人間が自らの食い扶持をぶち壊すのです。
これを革命とは呼びません。

明治新政府の要人は大部分が武士です。

武士特権剥奪に際しアホの左翼などは「薩長武士だけは優遇された」とほざきます。

確かに要人に薩長の武士出身者は多かった。
しかし、制度的に優遇された事実はありません。
「薩長閥」があったけれど、それは政治的派閥であって決して「制度的優遇」があった訳ではありません。

国の制度としては薩長も諸藩の武士も同じ扱いで、薩長武士も同じ様に特権を剥奪されています。

路頭に迷った武士階級出身者からは、明治新政府の指導者達は恨まれたものです。

武士団解体と言う軍制改革を実施しようとした大村益次郎は明治2年に暗殺されています。

また大久保利通も暗殺されています。

大久保利通は特に出身地の薩摩で強い恨みを買っており、鹿児島に彼の銅像が建てられたのは没後100年です。

明治新政府の要人は出身母体を自ら切り捨てる事でプロジェクトを推進しました。
自らの身を捨てても合理性を取る。
これこそが明治維新成功の大きな理由ではないでしょうか。

敵も味方も

明治維新の大変重要なスローガンは

「人材の登用」

門閥や立場、身分などにとらわれず優秀な人材を採用することにあります。

人材の登用は組織を合理化し、活性化する上では大変重要です。
しかし、これを実行するのは簡単なことではありません。

門閥や立場や敵味方を超えて広く人材の登用をすれば必ず利害がぶつかります。

とくに激しくぶつかり合った幕府側からの登用は感情的対立も生みます。
かなり困難なことです。

しかし明治新政府は旧幕臣からも積極的に採用しました。

最後まで明治新政府に抵抗した榎本武揚などは、3年ほどの刑期を終えると、そのまま政府高官に起用されています。
初代ロシア公使になっています。

当時はロシアと国境問題を抱えており、ロシア外交は特に慎重さを求められた。
その重要なポストに、つい5年前まで新政府と対立していた男を充てたのです。

明治8年には榎本武揚は中露特命全権大使として日露間で「樺太、千島交換条約」の締結を行い、日本の外交史に名を刻みました。

内閣制度発足後には文部大臣、外務大臣といった要職も歴任しています。

他にも幕府軍の実質的総司令官だった勝海舟も、明治新政府で初代海軍卿になっています。
敵の大将を新政府の海軍大臣にしたのです。

明治に活躍した旧幕臣は枚挙にいとまはありません。

実務を支える中、下級官僚にも多くの旧幕臣が名を連ねます。

明治4年には不平等条約改正の下交渉と欧米視察のために岩倉使節団が組織されました。
使節団は総勢46名。
うち10名が旧幕臣です。

明治新政府が如何に柔軟であったか。

明治政府はその後、首脳部の登用も門閥を廃し、能力主義に切り替えました。

発足当初の新政府は旧大名や皇族を中心に据えてきました。
これは明治維新はあくまで薩長のクーデターではなく諸藩が団結して天皇中心とした新国家を作る為です。

しかし明治4年の制度改正がなされると、明治維新で名を挙げた下級武士達が政権の中枢を担う様になります。
旧大名や皇族方では実質的に役に立たなかった、ということもあった。

明治新政府は「地位は高いが役立たず」を大ナタでばっさりリストラすることで、明治日本の活性化を達成した要因だと言えるでしょう。

大日本帝国の国家戦略~3

2016-02-05 21:37:48 | 大日本帝国
廃藩置県と並ぶ明治新政府の事業を見てみましょう。

日本経済を劇的に変えた改革です。

地租改正

廃藩置県により中央集権体制を実現した明治新政府、同時期に経済面でも大きな改革を実行しています。

それが地租改正(ちそかいせい)です。

地租改正は「版籍奉還」や「廃藩置県」に比べるとあまり顧みられる機会は少ないです。

しかし、その実態は画期的なものであると言えます。後の日本社会にも大きな影響を与えました。

地租改正とは、明治6年(1873)年に新政府が行った税制改革です。

江戸時代、農民は年貢をその年の取れ高に応じて納めていました。
しかし、幕府や藩によりその負担はまちまちでした。
収穫量により年貢が左右される為に、税収が不安定でした。

そこでそれまでの税制を廃止し、取れ高ではなく土地に応じて税金を納めさせることにしました。

この改革により政府は安定した税収を得ることが出来る様になりました。
しかし、改革の効果はそれだけにとどまらず、地租改正は農民のモチベーションをも向上させ生産力を増大させました。

無償払い下げ

何故、農民のモチベーションが上がったのでしょうか?
それはこの改革が農民の地位を向上させたからです。

版籍奉還や廃藩置県により土地が武士から国に返還されました。

で、その土地がそのまま国家の所有物になったかと言うと、そうではありません。

実質的に農民に無償で払い下げられたのです。

地租改正で農民が耕作している農地に「壬申地券」と言うものが発行され地租を土地に応じて納めることになりました。
この制度が画期的だったのは地券が現代で言う、土地の所有権とほぼ同じ性格のもので売買まで出来たと言う点です。

この地租改正のおかげで、働きたい農民は他の地券を手に入れ農業を拡大することが出来ました。
農業に向いてないと思えば、地券を手放して他の職業に就くことも出来る。
農民には江戸時代に無かった、土地の所有権と職業選択の自由を手に入れました。

地租改正には他にも大きなポイントがあります。

それは商業地にも地租をかけたということです。

江戸時代を通じて商工業者には年貢が課されていませんでした。
茗荷金(みょうがきん)と言う営業税の様なものはありましたが、各業界に不規則に課されていて負担率は年貢よりはるかに少なかったのです。

これは税制上の大きな欠陥です。

しかし、明治の地租改正では商工業者も地券に応じて地租を納めることになりました。

農民から見れば相対的に税負担は軽くなります。

これほどダイナミックな経済改革もないでしょう。

農民の地位を向上させ、税制面の不公平感を是正した地租改正によって農民の勤労意欲が大幅に増加した事は想像に難くありません。

事実、農業生産量は大日本帝国の約80年間で実質3倍に成長しています。

明治以降の急速な経済成長はこの「地租改正」の影響が大きかったと言えます。

やる気引き出す地租改正

義務教育では「地租改正とは単に、納税の方法が変わっただけ。年貢と地租は同程度に設定されていたので農民の実質的な負担は変わらなかった。また農民は税を現金で納税しなければならなくなったので、むしろ負担が増えた」

この様に習います。

しかしながら、これは間違いです。

地租は土地代の3%を現金で納めるという制度だったのです。

この土地代の3%というのは、収穫米の平均対価の34%程度に設定されていました。
これは江戸時代の年貢とほぼ同等の負担率です。
その為に「年貢と地租は負担率は変わらない」と言う解釈になっています。

しかし、これは表面上の負担率だけを見ているに過ぎません。

江戸時代は収穫高に応じて年貢を納めていたので、もし収穫が上がるとその分、年貢も増えました。
しかし、地租の場合は納める税金は一定です。

そうなると頑張って収穫を増やせば、増えた分は自分の取り分になります。
その為に勤労意欲は湧きます。
その為、生産量が増加しました。

また地租改正では農民が自分で作る農作物を決められる様になりました。
江戸時代は原則として農民は幕府や藩の決めた農作物を作らねばなりませんでした。

しかし、地租改正以降その縛りはなくなった。

農民は儲かりそうな作物や、実入りが良さげな作物を自ら選択して作る事が出来る様になりました。

いいこと尽くしの地租改正。

しかし、問題点もありました。
地券に応じ税を払う
それは何があっても例年通り一定額を納めなければならない。
凶作の様な不測の事態が起きた時はしばしばトラブルが発生しました。

明治9年には米価の低落で農民の収入が大きく減り、税負担が相対的に高くなりました。
その為に三重、茨城、和歌山などで農民一揆が起きました。

これを見た明治政府へ地租を3%から2.5%に減額しました。

当時は不平士族などが度々反乱を起こし、また自由民権運動も盛んになっていたため政府としては、これ以上の不満を持たれたくなかったのです。

地租の2.5%制はその後も続けられたので、農民は結果的に江戸時代よりも20%程度の減税となりました。

幕府や藩によってまちまちだった貢租負担を公平化し、税徴収の透明性を高める狙いの地租改正でしたが、結果的にこの改革が生産量を拡大させ、人材の流動性を進め、後の産業の発展を呼ぶことになりました。

この地租改正も、明治政府の大英断と言えるでしょう。