日本人にとっては平等さよりも、公平さや公正と言うことの方が重要であると申しました。
江戸期の封建体制の中、明らかに身分があったけども、皆自分達の『分』をよく理解していました。
だから士農工商の身分があろうとも不満はなかったのです。
武士の身分が農工商を虐げ搾取に搾取を重ねた!
なんてこともありません。
もし、そんな事をしていれば260年も平和は続きません。
その証拠に今ある日本文化、武士道に象徴される様な様々な文化は江戸期に花開いたものが大半です。
搾取されたり、命の危機があるなかで茶の道だの生け花だのやってる余裕はありません。
新渡戸稲造の武士道にもあるように『武士とは他者の為に生きる』と言う生き方を突き詰めて来たのが江戸期でもあるのです。
武士は食わねど高楊枝
腹が減っていようとも、その様な素振りは見せてはいけない。
つまり、困窮したからと身分の下の者に集ったりゆすったり、搾取するなどもってのほか。
幕藩体制の中、一番貧乏だったのは武士階級であったのです。
それは、入った金は領地の領民の為に治水事業や干拓事業などに使っていたからです。
毎度金が無くてピーピーです。
そして武士階級はどうするか?
一番身分の低い商に金を借りるのです。
商が貸した金は開墾に使われて、それが農によって作物が育ち、その作物を商が流通する。
実に面白いではありませんか!
本来の意味では農は農業と言う意味だけではありません。
よく『百姓』と言いますが、これは
百の姓
と言う事です。
姓とは職業を指し、つまり百の職業と言う事です。
昔は一人の人間が様々な職業を兼務していたのです。
一人の人間が大工もやり、農業もやる。
一人が兼務しながら助け合って働いて来たのです。
ですから特定の職業が技術的な失業をするなんて事もなかったわけです。
技術的失業とは、例えば『この仕事は将来はロボットにとって代わられるから、やがて仕事がなくなるぞ』と言う様なものです。
百の職業は価値あるものを生み出します。
農作物は生きる糧である価値のあるものです。
それを商が流通して売る。
商は価値を生み出しません。
つまり、労働者の中でも一次産業に従事する者などの身分を高くし、流通や販売をする者を低い身分にする。
士は身分は高いが、しかし領地の領民などは領主の占有物ではない。
士は民を何故支配しないのか?
答えは簡単ですね。
それが我が国の國體だから
我々日本人は、例えば醤油や味噌が切れたら隣の家に借りに行ったり、貸してあげたりと、そんな感じで皆お互い様と助け合って生きて来たのですが、明治維新以降『西欧列強に習え』とばかりに近代国家にする為に邁進して来ました。
様々な事柄を欧州や米国から取り入れた。
しかし、それにより超個人主義と言うものも取り入れてしまった。
味噌や醤油の貸し借りのない世界になってしまったのです。
味噌や醤油の貸し借りとはつまり
相互依存
と、言う事です。
お互いに依存し合う事で、自然と助け合い、思いやる生き方をして来たのです。
例えば『国体』に触れた部分を見ても我が国は『君民一体』或いは『君民共治』こそが国体です。
我々民が話し合って決めた事を天皇が承認する。
権力である我々が決め、権威である天皇が承認することで国政を行う。
それが我が国の根っこです。
どちらが欠けても我が国は成り立たない。
権威である天皇は我々民を宝とし、権力に預ける。預かった権力者は宝を大事にする。
天皇のもと民は平等。
すでに権威が平等に民を扱い、自らは権利権力を持たず民に預ける。
ですから、民は平等さではなく公平公正さを求める。
実にわかりやすい。
一人一人が強力な権利を有する『国民国家』なるものは我が国には必要ないのです。
この『国民国家』なるものこそ、自称リベラルな人々の主張によく聞かれますが、その根っこに我が国の国体に対する考え方が現れています。
士農工商の身分もフタを開ければ『相互依存』。
天皇と民も『相互依存』の関係なのです。
お互いが依存し合う社会の中で、平等さを追求する意味があまりないのです。
それよりもフェアである方が重要なのです。
我々はこれらを長い年月を経て築き上げてきました。
これは西洋にはない考えです。
近代国家を目指していた時代には個人主義の平等さは必要だったかもわかりませんが、それは白人支配のグローバリズムでしかありません。
しかし、今や制度疲労を起こしているのです。
グローバリズムとは『誰にでもわかるようにしろ!』と言うものです。
『俺が理解出来ないものはダメだ』と言い切ってしまうものです。
しかし我々日本人は、剣術にしろ、華道や茶道にしろ、また古事記にしても、じっくりと掘り下げて考え、また或いは修業すら必要なものです。
ある種の修練により到達するものばかり。
そうしたグローバリズム的な考え方が良かった時代もあったけれど、そんな時代は終わったのです。
評論家・作家である日下公人氏はこう言うのです。
今後世界は日本化する!
これはどう言う事か?
世界の若者が、子供が、日本のポップカルチャーやサブカルチャーに夢中になっている。
ポケモンやワンピースなどです。
その中身は実に日本的です。
その日本的なものに幼少のころからずっと触れて楽しんできた世代が次に大人になっていく。
彼らは知らず知らずの内に日本的なものを吸収していくのです。
これが次世代の大人になるのです。
もうグローバリズムは崩壊したのです。
今やっているのはグローバリズムの残滓にしか過ぎません。
アメリカと言う国が自国ファーストの大統領を誕生させた事を見ればグローバリズムは崩壊し、ナショナリズムの高まりを感じる。
世界はグローバリズムから自国ファーストのナショナリズムに変わる時。
必要なものは平等ではなく公平さではないでしょうか?
平等などは実はあり得ない。
日下公人氏の言う『日本化』とはそういう事ではないかと考えます。
グローバリズムが崩壊した世界で、今までいなかった米国大統領から助言を求められる総理大臣。
先進国が意見を聞きたがる総理大臣。
安倍晋三と言う総理大臣が誕生したのも、私は世界の秩序、世界の変わり目だからではないかと思います。
平等と言うまやかし。
国体と共に今一度考えてみても良いのではないでしょうか?
江戸期の封建体制の中、明らかに身分があったけども、皆自分達の『分』をよく理解していました。
だから士農工商の身分があろうとも不満はなかったのです。
武士の身分が農工商を虐げ搾取に搾取を重ねた!
なんてこともありません。
もし、そんな事をしていれば260年も平和は続きません。
その証拠に今ある日本文化、武士道に象徴される様な様々な文化は江戸期に花開いたものが大半です。
搾取されたり、命の危機があるなかで茶の道だの生け花だのやってる余裕はありません。
新渡戸稲造の武士道にもあるように『武士とは他者の為に生きる』と言う生き方を突き詰めて来たのが江戸期でもあるのです。
武士は食わねど高楊枝
腹が減っていようとも、その様な素振りは見せてはいけない。
つまり、困窮したからと身分の下の者に集ったりゆすったり、搾取するなどもってのほか。
幕藩体制の中、一番貧乏だったのは武士階級であったのです。
それは、入った金は領地の領民の為に治水事業や干拓事業などに使っていたからです。
毎度金が無くてピーピーです。
そして武士階級はどうするか?
一番身分の低い商に金を借りるのです。
商が貸した金は開墾に使われて、それが農によって作物が育ち、その作物を商が流通する。
実に面白いではありませんか!
本来の意味では農は農業と言う意味だけではありません。
よく『百姓』と言いますが、これは
百の姓
と言う事です。
姓とは職業を指し、つまり百の職業と言う事です。
昔は一人の人間が様々な職業を兼務していたのです。
一人の人間が大工もやり、農業もやる。
一人が兼務しながら助け合って働いて来たのです。
ですから特定の職業が技術的な失業をするなんて事もなかったわけです。
技術的失業とは、例えば『この仕事は将来はロボットにとって代わられるから、やがて仕事がなくなるぞ』と言う様なものです。
百の職業は価値あるものを生み出します。
農作物は生きる糧である価値のあるものです。
それを商が流通して売る。
商は価値を生み出しません。
つまり、労働者の中でも一次産業に従事する者などの身分を高くし、流通や販売をする者を低い身分にする。
士は身分は高いが、しかし領地の領民などは領主の占有物ではない。
士は民を何故支配しないのか?
答えは簡単ですね。
それが我が国の國體だから
我々日本人は、例えば醤油や味噌が切れたら隣の家に借りに行ったり、貸してあげたりと、そんな感じで皆お互い様と助け合って生きて来たのですが、明治維新以降『西欧列強に習え』とばかりに近代国家にする為に邁進して来ました。
様々な事柄を欧州や米国から取り入れた。
しかし、それにより超個人主義と言うものも取り入れてしまった。
味噌や醤油の貸し借りのない世界になってしまったのです。
味噌や醤油の貸し借りとはつまり
相互依存
と、言う事です。
お互いに依存し合う事で、自然と助け合い、思いやる生き方をして来たのです。
例えば『国体』に触れた部分を見ても我が国は『君民一体』或いは『君民共治』こそが国体です。
我々民が話し合って決めた事を天皇が承認する。
権力である我々が決め、権威である天皇が承認することで国政を行う。
それが我が国の根っこです。
どちらが欠けても我が国は成り立たない。
権威である天皇は我々民を宝とし、権力に預ける。預かった権力者は宝を大事にする。
天皇のもと民は平等。
すでに権威が平等に民を扱い、自らは権利権力を持たず民に預ける。
ですから、民は平等さではなく公平公正さを求める。
実にわかりやすい。
一人一人が強力な権利を有する『国民国家』なるものは我が国には必要ないのです。
この『国民国家』なるものこそ、自称リベラルな人々の主張によく聞かれますが、その根っこに我が国の国体に対する考え方が現れています。
士農工商の身分もフタを開ければ『相互依存』。
天皇と民も『相互依存』の関係なのです。
お互いが依存し合う社会の中で、平等さを追求する意味があまりないのです。
それよりもフェアである方が重要なのです。
我々はこれらを長い年月を経て築き上げてきました。
これは西洋にはない考えです。
近代国家を目指していた時代には個人主義の平等さは必要だったかもわかりませんが、それは白人支配のグローバリズムでしかありません。
しかし、今や制度疲労を起こしているのです。
グローバリズムとは『誰にでもわかるようにしろ!』と言うものです。
『俺が理解出来ないものはダメだ』と言い切ってしまうものです。
しかし我々日本人は、剣術にしろ、華道や茶道にしろ、また古事記にしても、じっくりと掘り下げて考え、また或いは修業すら必要なものです。
ある種の修練により到達するものばかり。
そうしたグローバリズム的な考え方が良かった時代もあったけれど、そんな時代は終わったのです。
評論家・作家である日下公人氏はこう言うのです。
今後世界は日本化する!
これはどう言う事か?
世界の若者が、子供が、日本のポップカルチャーやサブカルチャーに夢中になっている。
ポケモンやワンピースなどです。
その中身は実に日本的です。
その日本的なものに幼少のころからずっと触れて楽しんできた世代が次に大人になっていく。
彼らは知らず知らずの内に日本的なものを吸収していくのです。
これが次世代の大人になるのです。
もうグローバリズムは崩壊したのです。
今やっているのはグローバリズムの残滓にしか過ぎません。
アメリカと言う国が自国ファーストの大統領を誕生させた事を見ればグローバリズムは崩壊し、ナショナリズムの高まりを感じる。
世界はグローバリズムから自国ファーストのナショナリズムに変わる時。
必要なものは平等ではなく公平さではないでしょうか?
平等などは実はあり得ない。
日下公人氏の言う『日本化』とはそういう事ではないかと考えます。
グローバリズムが崩壊した世界で、今までいなかった米国大統領から助言を求められる総理大臣。
先進国が意見を聞きたがる総理大臣。
安倍晋三と言う総理大臣が誕生したのも、私は世界の秩序、世界の変わり目だからではないかと思います。
平等と言うまやかし。
国体と共に今一度考えてみても良いのではないでしょうか?