犬神スケキヨ~さざれ石

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公平と言う生き方...2

2018-05-31 13:31:24 | 草莽崛起
日本人にとっては平等さよりも、公平さや公正と言うことの方が重要であると申しました。

江戸期の封建体制の中、明らかに身分があったけども、皆自分達の『分』をよく理解していました。

だから士農工商の身分があろうとも不満はなかったのです。

武士の身分が農工商を虐げ搾取に搾取を重ねた!
なんてこともありません。
もし、そんな事をしていれば260年も平和は続きません。
その証拠に今ある日本文化、武士道に象徴される様な様々な文化は江戸期に花開いたものが大半です。
搾取されたり、命の危機があるなかで茶の道だの生け花だのやってる余裕はありません。

新渡戸稲造の武士道にもあるように『武士とは他者の為に生きる』と言う生き方を突き詰めて来たのが江戸期でもあるのです。

武士は食わねど高楊枝

腹が減っていようとも、その様な素振りは見せてはいけない。
つまり、困窮したからと身分の下の者に集ったりゆすったり、搾取するなどもってのほか。
幕藩体制の中、一番貧乏だったのは武士階級であったのです。
それは、入った金は領地の領民の為に治水事業や干拓事業などに使っていたからです。

毎度金が無くてピーピーです。

そして武士階級はどうするか?
一番身分の低い商に金を借りるのです。
商が貸した金は開墾に使われて、それが農によって作物が育ち、その作物を商が流通する。

実に面白いではありませんか!

本来の意味では農は農業と言う意味だけではありません。
よく『百姓』と言いますが、これは

百の姓

と言う事です。
姓とは職業を指し、つまり百の職業と言う事です。

昔は一人の人間が様々な職業を兼務していたのです。
一人の人間が大工もやり、農業もやる。
一人が兼務しながら助け合って働いて来たのです。
ですから特定の職業が技術的な失業をするなんて事もなかったわけです。
技術的失業とは、例えば『この仕事は将来はロボットにとって代わられるから、やがて仕事がなくなるぞ』と言う様なものです。

百の職業は価値あるものを生み出します。
農作物は生きる糧である価値のあるものです。
それを商が流通して売る。
商は価値を生み出しません。
つまり、労働者の中でも一次産業に従事する者などの身分を高くし、流通や販売をする者を低い身分にする。
士は身分は高いが、しかし領地の領民などは領主の占有物ではない。

士は民を何故支配しないのか?

答えは簡単ですね。

それが我が国の國體だから

我々日本人は、例えば醤油や味噌が切れたら隣の家に借りに行ったり、貸してあげたりと、そんな感じで皆お互い様と助け合って生きて来たのですが、明治維新以降『西欧列強に習え』とばかりに近代国家にする為に邁進して来ました。
様々な事柄を欧州や米国から取り入れた。

しかし、それにより超個人主義と言うものも取り入れてしまった。

味噌や醤油の貸し借りのない世界になってしまったのです。

味噌や醤油の貸し借りとはつまり
相互依存
と、言う事です。

お互いに依存し合う事で、自然と助け合い、思いやる生き方をして来たのです。

例えば『国体』に触れた部分を見ても我が国は『君民一体』或いは『君民共治』こそが国体です。
我々民が話し合って決めた事を天皇が承認する。
権力である我々が決め、権威である天皇が承認することで国政を行う。
それが我が国の根っこです。

どちらが欠けても我が国は成り立たない。
権威である天皇は我々民を宝とし、権力に預ける。預かった権力者は宝を大事にする。

天皇のもと民は平等。
すでに権威が平等に民を扱い、自らは権利権力を持たず民に預ける。

ですから、民は平等さではなく公平公正さを求める。

実にわかりやすい。

一人一人が強力な権利を有する『国民国家』なるものは我が国には必要ないのです。

この『国民国家』なるものこそ、自称リベラルな人々の主張によく聞かれますが、その根っこに我が国の国体に対する考え方が現れています。

士農工商の身分もフタを開ければ『相互依存』。
天皇と民も『相互依存』の関係なのです。

お互いが依存し合う社会の中で、平等さを追求する意味があまりないのです。
それよりもフェアである方が重要なのです。

我々はこれらを長い年月を経て築き上げてきました。

これは西洋にはない考えです。

近代国家を目指していた時代には個人主義の平等さは必要だったかもわかりませんが、それは白人支配のグローバリズムでしかありません。
しかし、今や制度疲労を起こしているのです。

グローバリズムとは『誰にでもわかるようにしろ!』と言うものです。
『俺が理解出来ないものはダメだ』と言い切ってしまうものです。

しかし我々日本人は、剣術にしろ、華道や茶道にしろ、また古事記にしても、じっくりと掘り下げて考え、また或いは修業すら必要なものです。
ある種の修練により到達するものばかり。

そうしたグローバリズム的な考え方が良かった時代もあったけれど、そんな時代は終わったのです。

評論家・作家である日下公人氏はこう言うのです。

今後世界は日本化する!

これはどう言う事か?

世界の若者が、子供が、日本のポップカルチャーやサブカルチャーに夢中になっている。
ポケモンやワンピースなどです。
その中身は実に日本的です。
その日本的なものに幼少のころからずっと触れて楽しんできた世代が次に大人になっていく。
彼らは知らず知らずの内に日本的なものを吸収していくのです。

これが次世代の大人になるのです。

もうグローバリズムは崩壊したのです。
今やっているのはグローバリズムの残滓にしか過ぎません。

アメリカと言う国が自国ファーストの大統領を誕生させた事を見ればグローバリズムは崩壊し、ナショナリズムの高まりを感じる。

世界はグローバリズムから自国ファーストのナショナリズムに変わる時。
必要なものは平等ではなく公平さではないでしょうか?

平等などは実はあり得ない。

日下公人氏の言う『日本化』とはそういう事ではないかと考えます。

グローバリズムが崩壊した世界で、今までいなかった米国大統領から助言を求められる総理大臣
先進国が意見を聞きたがる総理大臣。
安倍晋三と言う総理大臣が誕生したのも、私は世界の秩序、世界の変わり目だからではないかと思います。

平等と言うまやかし。

国体と共に今一度考えてみても良いのではないでしょうか?

公平と言う生き方...1

2018-05-31 13:30:59 | 草莽崛起
前回は『国体』について考えてみました。

その国体では『君民一体』の国政について考えてみました。

我が国には天皇と言う存在があるのです。

天皇にとって我々民は『大御宝』です。
天皇の下(もと)我々民は平等である。
天皇にとって、天皇が好きな人、嫌いな人、何とも考えてない人、全ての人々は天皇にとって宝であると言う事です。

では我々民同士はどうなのか?

それは『平等』と言う事ではありません。
我々日本人は平等さを、さほどに求めません。

天皇にとっては我々は平等です。

我々民は平等さよりも『公平』さが重要なのです。

平等と公平。

今回はこれを考えてみようと思います。

日本人と言う民族は平等なるものにはたいして重きを置いていないものです。
士農工商なる身分があった時代、これは平等ではなかった。
しかし、それでも世の中は回っていたのです。
さほどの問題はなく、人々はその身分をわきまえて生きていました。

例えば、フランスはその王朝や貴族の既得権、圧政により民は虐げられていました。
だからフランス革命により『自由と平等』を勝ち取ったのです。
それが現在の『フランスの国体』であることは前回の拙著記事で述べました。
平等・博愛・自由。
これがフランスの国体で、それはフランス革命により成し遂げられたのです。
一旦フランスは王朝と言う国体を断絶し、現在のフランスへと変貌を遂げたのです。

だから全てにおいて平等を意識します。

では我が国は平等かと言えば、それは先に述べた様に天皇と言う存在から見て国民は平等ではあります。
しかし、国民同士が平等さを特に重要としているかと言えば、そうではありません。

昨今やたらと平等さを殊更に強調する向きもあるのではないかと私は感じています。
日本の歴史や伝統をよく掘り下げて見てみれば平等というものはあまり我が国に合わない。

それは明治維新後、西欧にならい我が国を近代国家に押し上げようとする中で輸入したものであると理解出来ます。
中央集権体制を成す中で平等さと言う物を輸入した。
当時はそれも必要であったでしょうが、今やそれはもう疲労しているのではないでしょうか。

では我が国に合うものは?

公平さ

平等と公平は本来関係ないのです。
意味も全く違う。

平等さとは権利が一様であると言う事です。
ある権利を一度、一箇所に集めてそれら権利を再分配することにより、全員に同じ権利がある状態です。

しかし公平とは、フェアと言う事。
エラーや不正がない、ズルや優遇をしない。
それを公平と言うのです。

例えば、東京大学は東京にあります。
この東京大学は誰でもが試験を受け、合格すれば入る事が出来ます。
誰でもが入るチャンスがある。
これは公平です。

しかし沖縄や北海道から入学する者と、東京在住の者とでは掛かる経費に差があります。
東京在住なら自宅から通えますが、沖縄や北海道から通う事はなかなか困難です。
ならば、下宿をするとかしなければならない。
不平等ですね。
平等にするには北海道や沖縄に『東大を作れ』となります。

食べ放題も、平等ならば老若男女問わず金額は一律でなければなりません。
子供だろうが、年寄りだろうが、女だろうが皆同じ料金。
しかし、実際には食べる量に差があるわけですから公平にすれば、子供や年寄りは安い設定になるのです。

だからと言って金額の差に文句を言う人はいないでしょう。

地域や地方の格差も平等さを考えるなら非常に我々は問題視しなければならないはずです。
しかし、例えば受験と言うものを考えたなら、教育の地域格差などは不平等極まりないはずです。
しかし我々は試験に不正がないか?
エラーがないか?
カンニングや裏口入学には厳しく考えるのに、教育の格差にはどちらかといえば無頓着な状態ですね。
試験が公正、公平に行われたならば文句はありません。

冒頭話した士農工商などと言う身分に対しても我々日本人は無頓着です。
平等さから考えれば、不平等ですね。
しかし、その不平等さはたいして気にならないのです。
むしろその様な不平等さよりも、公平に公正に行われているのかが重要なのです。

不平等であったとしても、社会システムとして公平であれば不平等さは気にならないのです。

自分が暮らすこの現状で著しく損をする者、または不正に徳を得る者がいなければ良いのです。

江戸期の士農工商が不公平であったなら、何かと言えば内戦ばかり起きていたはずですが、そんなものはなく260年実に平和でした。
だから現在の日本文化が様々花開いたのです。

男女平等と言うのも我が国には合わないと思います。
例えば、男女混じって飲み会などすれば、割り勘と言えど女性は男性より払いが少ない。
こんなものは海外なら『女性をなめている』と、そちら関係の団体から『男女差別だ!』と声があがりますよ。

電車の女性専用車両にしても『女性は弱いから痴漢に対処出来ない』と言う前提であると文句が出ようと言うものです。

例えばクォーター制なるものも、海外の社会システムや規範から見れば正しいと思ってしまいますが、こんなものは我が国には全く合わないのですから、無理に入れる必要はありません。

日本には50:50なる平等は合わない!

結論はそうなります。

要するに割合の問題で、決して不平等が良いと言っているのではありません。
公平ならば、平等さは50:50でなくても良いのだと言う事です。

70:30や60:40の平等さでも、ゲームが公平ならば文句はないのです。

労働に関しても、労働者の権利はこれは守らなければなりませんが、過度に考え過ぎではないのかと言う事です。

自称リベラルな人々は『労働者は常に虐げられている』と言う前提に立って議論しようとしますが、私は決してそうは思わないのです。
むしろ自称リベラルな人々の言う労働者の権利は平等を理由に過度に権利を得ようと言うものではないかと考えます。

前回の国体の話しでも触れたのですが、我々には労働による信頼こそが重要な訳です。

1000円の対価に対して1500円の仕事をする。
これはコストではなく、あくまで仕事です。
それにより信用を得て次の収入に繋げていく。
そして、自分の労働により誰かの役に立っていると感じる。
これが我が国の労働に対する国柄です。

昨今の自称リベラルな人々の主張を見ていると、そのような労働に対する考え方ではない。
労働=苦役
その様な考え方であると思います。

確かに働く事はしんどいです。
しかし働かねば収入は得られません。
しかし、そこへのこだわりこそが重要だと思います。

労働を苦役と考えるのは、西洋的な感覚です。
アダムとイブは神の怒りに触れて地上世界に落とされた。
それさえなければ、生きる糧を神が与えてくれていたのに、地上世界では生きる糧を自ら得なければならない。
言わば労働は神からの罰なのです。
だから労働はなるべく早く終わりたい。
1000円のものには1000円の仕事しかしない。
罰ですからね。
それ以上の仕事はしませんよ。

だから、この世の全ては克服しなければならないものであると考えるのです。
自然も何もかも神からの罰ですから克服しなければなりません。
苦役も克服しなければならない。

労使間系は罰を与えようとする者と罰を受ける者と言う様な意識があるのではないのかと考えます。
ですから『労働と生活』のバランスを考える。

しかし、我々日本人は労働は罰でもなんでもないのです。
自然は克服すべきものではなく、抱かれて恵をくれるものですから、恵を頂く為に働く。
その恵が生きる糧になっているのです。

2へ続く

国体を見れば日本の成長がある...6

2018-05-08 10:05:53 | 連続
さて付き合うべき国を挙げてみました。

まずはインドです。

インドにはもちろんのこと将来性がある。
それと英雄を生む土壌がある。
歴史を共に研究出来る共通の認識がある。
核保有国である。
これらを挙げる事が出来ます。

インドにはカースト制があります。
実はこれが英雄を生む土壌なのです。

幕末期、日本にも士農工商の様な身分がありました。

例えば、坂本龍馬や中岡慎太郎など脱藩浪士は士族ではあったけれど下級武士でした。
士農工商、士と農の間の様な存在です。

侍でありながら百姓。
或いは、海援隊の近藤長次郎は丸っきりの町人です。
この様な身分の者こそが明治維新を成したのです。
それは、自由な発想と行動力。
虐げられたが故のハングリー精神。
本当に国を良くしたい、守りたいと思い行動出来るのは後ろ盾もなく、既得権にも寄らない者です。

上級武士は既得権の頂点におり、それで飯を食っているのですから、そりゃ手放したくはありませんね。
今の官僚と似ているのではありませんか?

しかし明確な身分制度を手放した我が国では、この様な英雄を生む土壌はもうありません。

インドとはインド独立に日本が寄与した事で、共通の認識をもち真っ直ぐ真ん中から歴史を研究する事が出来ます。
これも大きな理由です。
また現在、核を持たない我が国にとって、インドの核は安全保障上、魅力的ですね。
アメリカ、そしてインド、両面から覇権主義で我が国を狙う輩を挟み撃ちに出来るのです。

ベトナムは親日の国であり、やはりベトナム独立に日本が寄与した事は大きい。
日本人と気質も似ており、勤勉で手先も器用。
また、我が国のシーレーンの確保を考えればベトナムは、やはり付き合っていくべき国でしょう。

台湾はもう運命共同体とも言える国。
今更言わなくても皆さんはよくご存知のはず。

そしてこれらの国々から広がって、更に付き合っていくべき国を考えればよい。
あの国は日本と付き合いがある、仲良しだ!
と、なってその国が更に繁栄すれば我が国にとってもこれは新たな成長への道を開く事にもなるのです。

そして民族にとって最も重要な事に『言語』があります。

AI、ロボット、次世代高速通信の分野では、我が国はトップランナーです。
中でも次世代高速通信では他を寄せ付けない。

この次世代高速通信とAIにより、言語教育は変わります。
つまりは翻訳機です。

次世代高速通信では1マイクロ秒程のタイムラグで通信出来る様になります。
これにAI技術が絡めば、もう機械が同時通訳してしまいます。

そうなれば、むしろ日本語が重要になる。
語学教育はむしろ母国語に重きを置かねばなりません。

例えば『飯を食うか?』と言うと、現在は『Eat meals』と訳したり『food』と訳してしまう。
『飯』だけなら『米』とか『食材』とすら訳してしまい『食事』とは訳してくれません。

それをAIが時間や会話、場所などを的確に判断し必要な言葉に翻訳する。

この技術が確立されば、先に述べた国々とも容易にコミニケーションを取ることが出来る様になります。

我々は国柄を再認識し、何を残していくのか?
何を守らねばならないのか?
我々の祖国とは何なのか?

これを今一度認識し、守るために、残す為に何を変えなければならないか?

それをよく考え議論しなければなりません。

もう時代は変わり、敗戦国と言う事で過ごした日々に終わりを告げねばなりません。

国体を見れば日本の成長がある...5

2018-05-08 10:04:21 | 連続
我々は国際社会の中で、世界有数の経済大国となり、そして長年の夢であったものも手にしました。

それは人類共通の願いでもあった長寿です。

長寿を手にした結果、新しく生まれて来る命は減ってしまいました。

人類が未だ経験していない超高齢化社会を経験するのです。

そして、我々日本人は戦後の占領政策もあり人口は減少しています。
しかし、実は我々の成長はここにこそある。

実は我が国にはいち早く高齢化社会から脱出する事になります。
世界は今から高齢化社会へと向かうのですが、我々は世界で一番早くコレを脱出する。
簡単な話しで、高齢者は死ぬからです。
団塊の世代と言われる年寄りは間もなく死にます。
すると人口減少に向かうのですが、我々はそれをAIやロボットにより乗り切ります。

例えば、為替取引や株式市場などはAIにやらせれば24時間不眠不休でやり続けます。
介護や医療の分野でも、AIやロボットが入り込むのです。

江戸期の封建制度の中、士農工商の身分制度がありましたが、例えば坂本龍馬などは武士ではあったけれど、下級武士です。
士農工商で言えば士と農の間と言ったところです。
農とは農民と言う事ではなく、農民を含む百姓と言う事です。

百姓とは百の姓と言う事で、これは百の職業と言う事です。

この百姓とは一次産業などを指し、これは価値の高い物を生み出していく職業なのです。

では、商はと言うと流通して売る、或いは付加価値を付けるものです。そしてこの商の部分こそがAIやロボットに変わっていくのです。

士農工商の身分では、士が一番貧乏で商が一番金持ちです。
士は商に金を借りたりするが、商はそれを良しとして金を貸す。
また商は工や農の為に儲けた富を還元する。
基本的にこの様な社会的仕組みが出来ており、つまりは金が価値の高いものではなかった。
お金よりも価値のあるものにこだわった
そう言う事ではないでしょうか。

それは先の東北の震災により、我々日本人は再度確認する事になりましたね。

金が金を生むマネーゲームに強い人間を祭り上げたり、若いIT企業の社長を時代の寵児と持ち上げてきたけど、実はそんな事には大した価値はなかったと言う事で、それは一部の人間が用意した基準に合わせて金儲けをしただけです。

金儲けが悪いのではない、如何にそれが社会に役立つかが重要なのです。
或いは如何に社会に還元されるのか。

そして日本はいち早く高齢化社会を脱出し、人口減少時代に入る。
しかし、その人口減少こそがイノベーションを起こして新たな成長を生むのです。

これは支那には無理な事です。

広過ぎる領土、多過ぎる人口を抱える支那には出来ないのです。
そして支那は爆発的な超高齢化社会を迎えて、更に13億もの人口を食わして行かねばならないのです。

それを、AIやロボットに置き換えたら、どれだけの人間が職を失ってしまうか。

だから支那は覇権主義に打って出るしかない

領土を拡張し、発展途上国に自国民を送り、まるで前世代の様な帝国主義による侵略を繰り返し他国の富を収奪しなければならないのです。
それは共産党一党独裁の『国体』を守らねばならないからですね。

そして金儲けの為の金儲けではなく、役に立つものを作り出せる事が一番金になる時代が来るのではないかと思います。
金が金を生むマネーゲームはAIがやります。
我々人間の様なミスは犯さない。
商はAIに取って代わられる。

人口減少を理由に移民政策をやり、一時を凌いでも、その先には仕事はありません。
時代は変わってしまうのです。

先述の通り、我々は学びを忘れてはいけない。
支那を学べば、覇権主義の国。
そんな国が付き合わねばならない国か?
我が国の国益を守ることになるのか?

私は付き合わねばならない国が、支那や朝鮮半島とは思えません。
だからといって断行しろ!と言う事ではありません。

利害だけで付き合えば良い。安全保障を含めて国益を共有する国ではないと言う事です。

その上で考えれば、私は付き合っていく国は

インド

ベトナム

台湾

辺りで良いのではないかと思います。

6へ続く

国体を見れば日本の成長がある...4

2018-05-08 10:03:56 | 連続
成熟した国家である日本に成長する分野があるのか?と、言う問題に直面します。

しかし、よくよく考えたると実は沢山あることに気付きます。

まずわかっている事から話せば、例えばメタンハイドレートですね。
更に熱水鉱床。

メタンハイドレートは凍った天然ガスで、これはもう実用化にこぎつけました。
2020年、東京オリンピックの電気はもしかしたらメタンハイドレートによる火力発電を利用したものになるかもしれません。

熱水鉱床に至っては、そこに埋蔵されているレアアースは世界の600年分に相当するとか。

資源が原因で戦争をやり、原爆まで落とされ無辜の民の大虐殺に会い、ボロボロに負けた敗戦国が、世界でも有数の資源国になる

そんな日が、もう間近に迫っているのです。

しかし、我々は資源の奪い合いで戦争が起きる事はしない。
それは明治天皇の御製にある四方の海を大御心として知っているからです。

まだまだ発展の途上にある国々には安く分ける。

それが遡って考える『大東亜共栄圏』の理念。

人種を超え皆同胞(はらから)と思う。

人は個性を発揮し尊重しながら、しかし統率のとれた社会。
それが我が国の国体であり、理念です。

そう言うと『国境を無くすのか?』と言われてしまいますが、決してそうではありません。
それはグローバリズムというものです。
グローバリゼーションとは国境をなくし、同じ基準で世界を支配しようとするものです。
先に述べた様にグローバリズムは一部の既得権のみが利益を生むもので、このグローバリズムの基準に合わないものは徹底的に排除するものですから、到底個性などありません。

もうそんな時代は終わったのです。
今やっているのは、グローバリゼーションの残滓であって、その残滓にすがっている程度の話しで、トランプ大統領はそれに気づいている。
日本でも政治家でそれに気づいているのは安倍晋三と言う男だけでしょう。

官僚などはあまり気づいていないし、変わったことをして失敗すれば出世に響くのですから、官僚には新しい時代の流れに乗る事は無理です。
この辺りは安倍晋三と言う政治家の外交を見返してみれば気づくはずです。

この辺りがトランプと安倍晋三の蜜月さに出ているのではないでしょうか。

そして、神話に遡って考えると天照大御神は天孫である邇邇芸命に地上世界を『知らせ』と言って天孫を地上に遣わせた。

『知らせ』とは、広く世界を知れと言う事です。
知らせは知るの命令語です。
知る事で地上を統治しなさいと言われたのです。

我々の神話はそのまま国体へと繋がります。

知るは、これは『学ぶ』と言う事でもある。
我々日本人は『学ぶ』時、最大の力を発揮するものです。

我々はアジアを学ぶ事です。
支那を学び、韓国を学び、あの北朝鮮も学び、東南アジア諸国を学び、アジア全体を学び。
そして本当に付き合っていく国を選べば良い。
何も仲良くするだけが国交ではありません。
お互いの利益を上げ合える国々と付き合って行けば良い。

我が国の歴史や伝統を見ればやはりアジアの盟主としての振る舞いを要求されるのです。

我々は学び、力を発揮する

それは江戸期、取り分け幕末期の志士を見てもわかります。
例えば坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、他にも沢山いますが、彼らは学ぶ事で世の中を変えてしまった。
西欧列強の支那における支配。
他のアジア諸国への植民地支配。
これらをよく学んだ。

学んだ上で、このままでは日本は白人に食い物にされると明治維新を起こして世の中を変えてしまった。
夷狄を打ち払えと攘夷を断行した。

明治維新後、今度は近代化を図るために打ち払ってきた西欧列強から学んだのです。
その学びの力は凄まじく、あの世界最強のバルチック艦隊を打ち破り日露戦争に勝った。

有色人種が遂に白人に勝ったのです!

勝った事で学びを忘れた我々は大東亜戦争に負けた。
そして我々を負かしたアメリカから学んだ。

アメリカのグローバリズムを学んで敗戦国が世界有数の経済大国となったのです。

しかし、それと引き換えに我々『国体』を蔑ろにしてきたのです。
国体を蔑ろにしたからこそ、我々後世の為にこそ命を捧げて頂いた先輩を、同じ日本人を悪者にして、引き換えに豊かな暮らしを手に入れたのです。

5へ続く