槍の使い手
新撰組十番隊長。
原田左之助
ご存知でしょうか?
暴れ出したら誰も止められぬという、この男。
戊辰戦争で戦死したと伝えられるが、しかし…
死後も尚、伝説を残した新撰組隊士。
暴れん坊
新撰組一の暴れん坊。
槍を使わせたなら史上最強!
そう呼ばれる男が新撰組十番隊長
原田左之助です。
伊予出身、松山藩で雑事に従事していた様ですが、この男に使用人のような務めを大人しく出来るはずもありません。
左之助の怒りがピークに達した時は、あの近藤勇や沖田総司すら戦慄させたと言われます。
伊予松山藩時代に主である武士と口論となり「切腹の作法も知らん輩が!」と罵られ、売り言葉に買言葉。
「そんなもん簡単じゃ!」
ブチキレた左之助は腹に短刀を突き刺し大量出血、仲間が慌てて止めに入り命は取り留めた。
この男、キレると何をしでかすか解りません。
この騒ぎで故郷に居れず江戸に出奔。
そこで試衛館に出入りするようになり、そのまま居着いて新撰組結成に加わります。
槍術は種田流免許皆伝。
命知らずの鉄砲玉。
新撰組最初の手柄は芹沢鴨暗殺です。
左之助は刺客の一人として八木邸を急襲しています。
この時、芹沢鴨と一緒に側近の平山五郎と平間重助という隊士がいました。
この平間重助は山南敬助と原田左之助の手にかかったと言われています。
池田屋事件
池田屋事件では遅れて参戦したものの、逃走を図り屋外に出て来た浪士を有無を言わさず殺害。
得意の槍で串刺しにした。
相手が悶絶し血を吐いても許さずに内臓を槍でグリグリ搔きまわしたとか。
我が腹に短刀を突き刺す男ですから、他人に情けはかけないのです。
この後、新撰組が関わるあらゆる修羅場に参戦。
最多出場記録を樹立する暴れん坊ぶりを発揮しています。
アームストロング砲
原田左之助と言えば、坂本龍馬暗殺の嫌疑を真っ先にかけられた男です。
それは、殺害現場に左之助の朱色の鞘が落ちており、中岡慎太郎の「伊予弁だった」という証言により嫌疑をかけられたのです。
しかし、左之助は数日前に刀を盗まれ、さらに伊予弁かどうかも曖昧で私は否定的に見ています。
鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでも生き残った原田左之助。
敗戦続きで苛立ちもあったのか、近藤勇や土方歳三と仲違いし新撰組を離脱しています。
凄まじい戦闘力と爆発力をもつ男。
ある意味制御の難しい男です。
しかし、動乱の世が彼を放って置くはずもありません。
また大人しく傍観しているはずもありません。
左之助は彰義隊に参加し上野山に立て籠もりました。
得意の槍で大勢の官軍兵士を血祭りに上げました。
しかしこの火の玉野郎も近代兵器には敵わず。
官軍は新兵器アームストロング砲で上野山を激しく砲撃!
原田左之助も被弾。
その傷が悪化し死んだ…
そう伝えられています。
しかし、彼を知る者はこの人間兵器の様な男の死を信じませんでした。
その後も原田左之助生存説は各地で語られます。
満州に渡り、馬賊の頭目になって大陸で暴れ回っているとか…
日清、日露戦争から帰還した兵士達の中には
「原田左之助と名乗る馬賊の親玉に助けられた」
その様に証言する者が多数現れたとか…
日本軍が窮地に陥ると颯爽と現れ敵を蹴散らす!
原田左之助は死後も尚、伝説となって大陸で生き続けたのです。
新撰組十番隊長。
原田左之助
ご存知でしょうか?
暴れ出したら誰も止められぬという、この男。
戊辰戦争で戦死したと伝えられるが、しかし…
死後も尚、伝説を残した新撰組隊士。
暴れん坊
新撰組一の暴れん坊。
槍を使わせたなら史上最強!
そう呼ばれる男が新撰組十番隊長
原田左之助です。
伊予出身、松山藩で雑事に従事していた様ですが、この男に使用人のような務めを大人しく出来るはずもありません。
左之助の怒りがピークに達した時は、あの近藤勇や沖田総司すら戦慄させたと言われます。
伊予松山藩時代に主である武士と口論となり「切腹の作法も知らん輩が!」と罵られ、売り言葉に買言葉。
「そんなもん簡単じゃ!」
ブチキレた左之助は腹に短刀を突き刺し大量出血、仲間が慌てて止めに入り命は取り留めた。
この男、キレると何をしでかすか解りません。
この騒ぎで故郷に居れず江戸に出奔。
そこで試衛館に出入りするようになり、そのまま居着いて新撰組結成に加わります。
槍術は種田流免許皆伝。
命知らずの鉄砲玉。
新撰組最初の手柄は芹沢鴨暗殺です。
左之助は刺客の一人として八木邸を急襲しています。
この時、芹沢鴨と一緒に側近の平山五郎と平間重助という隊士がいました。
この平間重助は山南敬助と原田左之助の手にかかったと言われています。
池田屋事件
池田屋事件では遅れて参戦したものの、逃走を図り屋外に出て来た浪士を有無を言わさず殺害。
得意の槍で串刺しにした。
相手が悶絶し血を吐いても許さずに内臓を槍でグリグリ搔きまわしたとか。
我が腹に短刀を突き刺す男ですから、他人に情けはかけないのです。
この後、新撰組が関わるあらゆる修羅場に参戦。
最多出場記録を樹立する暴れん坊ぶりを発揮しています。
アームストロング砲
原田左之助と言えば、坂本龍馬暗殺の嫌疑を真っ先にかけられた男です。
それは、殺害現場に左之助の朱色の鞘が落ちており、中岡慎太郎の「伊予弁だった」という証言により嫌疑をかけられたのです。
しかし、左之助は数日前に刀を盗まれ、さらに伊予弁かどうかも曖昧で私は否定的に見ています。
鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでも生き残った原田左之助。
敗戦続きで苛立ちもあったのか、近藤勇や土方歳三と仲違いし新撰組を離脱しています。
凄まじい戦闘力と爆発力をもつ男。
ある意味制御の難しい男です。
しかし、動乱の世が彼を放って置くはずもありません。
また大人しく傍観しているはずもありません。
左之助は彰義隊に参加し上野山に立て籠もりました。
得意の槍で大勢の官軍兵士を血祭りに上げました。
しかしこの火の玉野郎も近代兵器には敵わず。
官軍は新兵器アームストロング砲で上野山を激しく砲撃!
原田左之助も被弾。
その傷が悪化し死んだ…
そう伝えられています。
しかし、彼を知る者はこの人間兵器の様な男の死を信じませんでした。
その後も原田左之助生存説は各地で語られます。
満州に渡り、馬賊の頭目になって大陸で暴れ回っているとか…
日清、日露戦争から帰還した兵士達の中には
「原田左之助と名乗る馬賊の親玉に助けられた」
その様に証言する者が多数現れたとか…
日本軍が窮地に陥ると颯爽と現れ敵を蹴散らす!
原田左之助は死後も尚、伝説となって大陸で生き続けたのです。