犬神スケキヨ~さざれ石

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原田左之助

2016-02-29 14:23:54 | 維新の剣
槍の使い手

新撰組十番隊長。

原田左之助

ご存知でしょうか?

暴れ出したら誰も止められぬという、この男。

戊辰戦争で戦死したと伝えられるが、しかし…
死後も尚、伝説を残した新撰組隊士。

暴れん坊

新撰組一の暴れん坊。
槍を使わせたなら史上最強!

そう呼ばれる男が新撰組十番隊長
原田左之助です。

伊予出身、松山藩で雑事に従事していた様ですが、この男に使用人のような務めを大人しく出来るはずもありません。

左之助の怒りがピークに達した時は、あの近藤勇や沖田総司すら戦慄させたと言われます。

伊予松山藩時代に主である武士と口論となり「切腹の作法も知らん輩が!」と罵られ、売り言葉に買言葉。

「そんなもん簡単じゃ!」

ブチキレた左之助は腹に短刀を突き刺し大量出血、仲間が慌てて止めに入り命は取り留めた。
この男、キレると何をしでかすか解りません。

この騒ぎで故郷に居れず江戸に出奔。

そこで試衛館に出入りするようになり、そのまま居着いて新撰組結成に加わります。

槍術は種田流免許皆伝。

命知らずの鉄砲玉。

新撰組最初の手柄は芹沢鴨暗殺です。

左之助は刺客の一人として八木邸を急襲しています。
この時、芹沢鴨と一緒に側近の平山五郎と平間重助という隊士がいました。
この平間重助は山南敬助と原田左之助の手にかかったと言われています。

池田屋事件

池田屋事件では遅れて参戦したものの、逃走を図り屋外に出て来た浪士を有無を言わさず殺害。

得意の槍で串刺しにした。

相手が悶絶し血を吐いても許さずに内臓を槍でグリグリ搔きまわしたとか。
我が腹に短刀を突き刺す男ですから、他人に情けはかけないのです。

この後、新撰組が関わるあらゆる修羅場に参戦。
最多出場記録を樹立する暴れん坊ぶりを発揮しています。

アームストロング砲

原田左之助と言えば、坂本龍馬暗殺の嫌疑を真っ先にかけられた男です。
それは、殺害現場に左之助の朱色の鞘が落ちており、中岡慎太郎の「伊予弁だった」という証言により嫌疑をかけられたのです。
しかし、左之助は数日前に刀を盗まれ、さらに伊予弁かどうかも曖昧で私は否定的に見ています。

鳥羽伏見の戦い甲州勝沼の戦いでも生き残った原田左之助。

敗戦続きで苛立ちもあったのか、近藤勇や土方歳三と仲違いし新撰組を離脱しています。

凄まじい戦闘力と爆発力をもつ男。
ある意味制御の難しい男です。

しかし、動乱の世が彼を放って置くはずもありません。

また大人しく傍観しているはずもありません。

左之助は彰義隊に参加し上野山に立て籠もりました。

得意の槍で大勢の官軍兵士を血祭りに上げました。
しかしこの火の玉野郎も近代兵器には敵わず。

官軍は新兵器アームストロング砲で上野山を激しく砲撃!

原田左之助も被弾。
その傷が悪化し死んだ…
そう伝えられています。

しかし、彼を知る者はこの人間兵器の様な男の死を信じませんでした。

その後も原田左之助生存説は各地で語られます。

満州に渡り、馬賊の頭目になって大陸で暴れ回っているとか…

日清、日露戦争から帰還した兵士達の中には

「原田左之助と名乗る馬賊の親玉に助けられた」

その様に証言する者が多数現れたとか…

日本軍が窮地に陥ると颯爽と現れ敵を蹴散らす!

原田左之助は死後も尚、伝説となって大陸で生き続けたのです。

古事記を摘んで日本を知る!その31

2016-02-23 21:17:01 | 古事記
久しぶりの古事記です。

前回は神様は実はあんまり見ていない!と、お話ししましたね。

声に出そう!

神様は見てくれてないのか…

そんなことを知ってしまいました。
私達はどうしたら良いのでしょうか?

神様は見てくれていないのですから、時々は伊勢神宮とか神社なんかに参拝に行かねばならないのです。

神社は言わば、コンビニのATMみたいな感じでしょうか。
本来なら高天原まで行きたいところですが、そうはいきませんね。
ですから、地上世界にいながら高天原に通じる、つまり神様に通じる神社に出向きます。

そこで、感謝を申し上げ誓約をします。

つまり神社に行けば神様にその様なことが出来るという訳です。

ですから「神様、大切に想って感謝しています」と言う気持ちを表します。

心に留めておくだけでは神様も解りません。
このシリーズを読んで頂けたら皆さんも理解していると思いますが神様も感違いをします。
神様も誤解をなさるのです。
だからこそ神社等でしっかりと感謝申し上げる。

ちゃんと行動し口にして神様に感謝しなければ神様に通じず誤解されてしまいます。

恋愛も同じですね?

ちゃんと伝えて行動しなければ、好きな人には通じませんよ。

だから「神様、見てないんかい!」とかツッコミを入れたりせずに神社なんかに出向いて感謝申し上げるのです。

気持ちだけじゃダメ!
行動が必要なんですね。

神勅なんです!

そしてもう一つお話を。

天皇統治の根拠です。

天皇が何故、天皇なのか?

今上陛下を遡ると初代天皇に行き着きます。
神武天皇です。

しかし、初代天皇も勝手な思い込みで天皇になった訳ではありません。

天照大御神の命令により天皇になった訳です。

では天照大御神は何故その様なことを命令する権限があったのか?

これは天照大御神の父である伊邪那岐命の神勅が根拠です。

「高天原を統治せよ」と伊邪那岐命は天照大御神に命令したのです。
これに従い天照大御神は天上世界を統治することになりました。

その頃、地上世界は荒ぶる神々が跋扈する事態となっていました。
これを平定して清らかに状態にしなくてはなりません。
そこで地上世界に自分の子孫わ遣わせたのです。
高天原を統治した時点で地上世界は従属物であると確認された訳ですからね。
天照大御神といえど伊邪那岐命の神勅を忠実に実行しているに過ぎません。

では、何の権限で伊邪那岐命は神勅を下したのでしょうか?
そもそも伊邪那岐神は神代七世の末っ子です。
神々が相談し、末っ子が実行する。

「この漂っている国を修め理り固め成せ」

これが最初の神勅です。

これに従い伊邪那岐命は国を生み、神を生み、三貴子のうち天照大御神に天上界を治めさせたのです。

伊邪那岐命が「我が子にこうさせたい!」なんて私心でそうしたのではなく神々の決議に従い淡々と、それを行いました。

天皇が天皇である根拠とは数々の神勅に遡り最終的には古事記にある最初の神勅
「この漂っている国を修め理り固め成せ」
と、いう神々の総意にたどり着くのです。

日本の神々は正に自然から生まれた神々。
無から有へと変わって生まれた神々です。
宇宙誕生にさえ繋がる大自然の摂理なんです。

その大自然の摂理から生まれた神々です。
この神々の総意が繋がり繋がり今上陛下へと繋がるのです。

私利私欲や出世欲などではない。

大宇宙の意思

それが天皇が天皇たる、天皇が統治する根拠なのです。

守ると言うことは覚悟である!

2016-02-22 12:18:11 | 草莽崛起
本日は2月22日

竹島の日です!

しかし、朝からテレビを見ていても「猫の日」だとか「忍者の日」だとか…

アホか!

竹島の日

敗戦後、韓国如き小国に奪われた竹島の日です!

奪われたのは

竹島が奪われた経緯は皆さんご存知ですね。

この竹島を奪われた時日本人が44名殺されました!

これは明らかな侵略行為です!

拉致も竹島も、更に北方領土も全て侵略行為により奪われたのです。

しかし、拉致はわずか5名を取り返しただけ。

国土は奪われたまま、奪った国が実効支配をしている状態です。

我が国は一度たりとも取り返そうとしていません。
「話し合っているじゃないか」と聞こえて来そうですが、暴力で奪われた物は実力を行使して奪還する以外に取り返す方法はありません。

平和的解決など正に「絵に描いたような話し」です。

奪った相手は平和的に奪った訳ではない。
それを平和的解決などと宣うのは絵空事以外の何物でもありません。

アホか?

常にアホの反日左翼どもは「不測の事態」とか「自衛隊員の安全」を強調します。

しかし、不測の事態が何故いけないのですか?

自衛隊員に犠牲が出たら何故ダメなのか?

不測の事態を避けては国や国民を守る事は出来ません。

不測の事態を避けているからこそ拉致被害者が取り返せないのです。
既に国民を拉致された時点で不測の事態です。

拉致が予定していたなら、その方が大問題です!
だから不測の事態なんです。
不測の事態は既に起こっているんです。

なのに何故、不測の事態を避けているか?

誰か説明出来ますか?

自衛隊員は自国、つまりこの我々が暮らす祖国日本と日本人を守る為の組織です。
それは命をかけて守るのです。

安全保障を考えるならば、それは有事となれば自衛隊員に犠牲が出ます。

また自衛隊員は不測の事態に対応し、他国からの侵略者を殺します。

それを現実的に考えない日本国民。

我々は絶対に国を守りぬかねばなりません。

その気概がなければ拉致は解決せず、韓国に殺された島根の漁民は報われず。

北方領土は返ってきません!

不測の事態が起きようと、自衛隊員に何人犠牲が出ようと必ず国を守る!

それが一番の抑止力となるのです。

血を流しても拉致被害者を取り返す!

奪われた国土を取り返す!

そして国防という崇高な使命を果たさんと、自衛隊員に犠牲が出たら国士として扱う。
例え侵略者を殺害しても必ず国士として扱う。

我々の気概を世界に見せつけるしかないのです!

血を流しても守る覚悟こそが一番の抑止力となる!

敵か味方か…拉致解決に向け

2016-02-11 21:02:46 | 草莽崛起
2月11日は「紀元節」です。

建国記念などではありません。

2676年前の今日、神武天皇が即位された。
その日である訳です。

日本の誕生日と言える日でもあります。

しかし、私はそうは考えません。

あくまで神武天皇が即位された日であり皇室が始まり、そして世界一古い暦の始まりであると考えます。

天皇が即位した日が日本の始まりではありません。
それ以前から日本国はあり、其れを皆が食える世界を作ろうと即位された。

世界がまだまだ、なんの観念も持たぬ時代から日本には国家観があった。

その国家は一体、何を第一義にせねばならんのか?

少女も救えぬ国

我が国は13歳の少女すら救えぬ国です。

そうです!

北朝鮮による拉致被害者です。

一体我が国はどうするつもりなのか?

我が国ということは
我々日本国民

我々日本国民は、この日本という国に暮らす我々主権者はどうするつもりなのか?

それをずっと問われているのです。

北朝鮮という国は一体我々にとって、どういう国でしょうか?

敵国か友好国か?

皆さんは北朝鮮を敵国だと思いますね?
私もそのように考えたい…

しかし、事実はどうでしょうか?

事実は違うのです

事実から考えれば北朝鮮は敵国ではありません。

2002年小泉訪朝の際に日本政府は北朝鮮に対して「拉致を認め、謝罪し、拉致被害者を返しなさい」と突きつけました。

北朝鮮はこれに対し拉致を認め、謝罪をし、拉致被害者五人を返しました。

突きつけた日本の要求を全てクリアしたのです。

その見返りに小泉首相は北朝鮮と水面下で約束を交わし金を渡そうとした。

北朝鮮にしてみれば約束を守ったじゃないかということになります。

他の拉致被害者についても日本は北朝鮮の調査報告に委ねてしまいました。

つまり下駄を預けた訳です。

これが我が国のやり方なんです。

我が国にはこれしか出来ないのです。
しかし、これしか出来ないと思いこんでいるだけではありませんか?

拉致とは侵略です。

主権国が他の主権国の主権者を誘拐するのは明らかな侵略です。
国際法にもそう書いてある。

しかも、例えば横田めぐみさんは腹を気絶するまで殴られズタ袋に詰められて北朝鮮に拉致された。

つまり暴力を用いて侵略をしたのです。

なのに話し合いを重ね取り返そうとしています。
更に調査も相手に委ねています。

こんな状態は敵国とは言えません。

暴力による侵略にはこちらも実力で対抗せねばならず、それは国際法でも認められています。
個別的自衛権行使の事態であり、国際法では事実上これを義務化しています。

つまりは個別的自衛権行使をしなければ国際紛争を抑えたりする力が働かなくなるからです。

日本は北朝鮮を事実上、敵国と見ていない。

侵略を受けたにも関わらずです。

暴力によって受けた侵略は実力を持って対抗する以外に止める方法はないのです。

我々が拉致被害者を取り返す、暴力による侵略を解決する手段は実力行使しかありません。

ここで使え

我々、個別的自衛権行使の事態を迎えているのです。

国連の場で我が国は「拉致被害者を取り返す為に個別的自衛権を行使する!」と北朝鮮に向け主張するべき事態です。

日本の本気を見せなければ北朝鮮は被害者を返しません。

そうした上で、北朝鮮に自衛隊を差し向け「返さなければ今から乗り込む」と。

こんな事は何の問題もありません。
日本以外の国はどの国も取る手段です。

そうしなければ、今後も拉致が起きる可能性があります。

我々は国を侵されたのです。

不測の事態が起きようと、自衛官が何人死のうと、絶対に国を守る!

そう言わなければ何も守れません。

我々は死人を出そうとも絶対に国を守る!

そう言わなければ拉致被害者を取り返す事は出来ません。

大日本帝国の国家戦略~3

2016-02-05 21:37:48 | 大日本帝国
廃藩置県と並ぶ明治新政府の事業を見てみましょう。

日本経済を劇的に変えた改革です。

地租改正

廃藩置県により中央集権体制を実現した明治新政府、同時期に経済面でも大きな改革を実行しています。

それが地租改正(ちそかいせい)です。

地租改正は「版籍奉還」や「廃藩置県」に比べるとあまり顧みられる機会は少ないです。

しかし、その実態は画期的なものであると言えます。後の日本社会にも大きな影響を与えました。

地租改正とは、明治6年(1873)年に新政府が行った税制改革です。

江戸時代、農民は年貢をその年の取れ高に応じて納めていました。
しかし、幕府や藩によりその負担はまちまちでした。
収穫量により年貢が左右される為に、税収が不安定でした。

そこでそれまでの税制を廃止し、取れ高ではなく土地に応じて税金を納めさせることにしました。

この改革により政府は安定した税収を得ることが出来る様になりました。
しかし、改革の効果はそれだけにとどまらず、地租改正は農民のモチベーションをも向上させ生産力を増大させました。

無償払い下げ

何故、農民のモチベーションが上がったのでしょうか?
それはこの改革が農民の地位を向上させたからです。

版籍奉還や廃藩置県により土地が武士から国に返還されました。

で、その土地がそのまま国家の所有物になったかと言うと、そうではありません。

実質的に農民に無償で払い下げられたのです。

地租改正で農民が耕作している農地に「壬申地券」と言うものが発行され地租を土地に応じて納めることになりました。
この制度が画期的だったのは地券が現代で言う、土地の所有権とほぼ同じ性格のもので売買まで出来たと言う点です。

この地租改正のおかげで、働きたい農民は他の地券を手に入れ農業を拡大することが出来ました。
農業に向いてないと思えば、地券を手放して他の職業に就くことも出来る。
農民には江戸時代に無かった、土地の所有権と職業選択の自由を手に入れました。

地租改正には他にも大きなポイントがあります。

それは商業地にも地租をかけたということです。

江戸時代を通じて商工業者には年貢が課されていませんでした。
茗荷金(みょうがきん)と言う営業税の様なものはありましたが、各業界に不規則に課されていて負担率は年貢よりはるかに少なかったのです。

これは税制上の大きな欠陥です。

しかし、明治の地租改正では商工業者も地券に応じて地租を納めることになりました。

農民から見れば相対的に税負担は軽くなります。

これほどダイナミックな経済改革もないでしょう。

農民の地位を向上させ、税制面の不公平感を是正した地租改正によって農民の勤労意欲が大幅に増加した事は想像に難くありません。

事実、農業生産量は大日本帝国の約80年間で実質3倍に成長しています。

明治以降の急速な経済成長はこの「地租改正」の影響が大きかったと言えます。

やる気引き出す地租改正

義務教育では「地租改正とは単に、納税の方法が変わっただけ。年貢と地租は同程度に設定されていたので農民の実質的な負担は変わらなかった。また農民は税を現金で納税しなければならなくなったので、むしろ負担が増えた」

この様に習います。

しかしながら、これは間違いです。

地租は土地代の3%を現金で納めるという制度だったのです。

この土地代の3%というのは、収穫米の平均対価の34%程度に設定されていました。
これは江戸時代の年貢とほぼ同等の負担率です。
その為に「年貢と地租は負担率は変わらない」と言う解釈になっています。

しかし、これは表面上の負担率だけを見ているに過ぎません。

江戸時代は収穫高に応じて年貢を納めていたので、もし収穫が上がるとその分、年貢も増えました。
しかし、地租の場合は納める税金は一定です。

そうなると頑張って収穫を増やせば、増えた分は自分の取り分になります。
その為に勤労意欲は湧きます。
その為、生産量が増加しました。

また地租改正では農民が自分で作る農作物を決められる様になりました。
江戸時代は原則として農民は幕府や藩の決めた農作物を作らねばなりませんでした。

しかし、地租改正以降その縛りはなくなった。

農民は儲かりそうな作物や、実入りが良さげな作物を自ら選択して作る事が出来る様になりました。

いいこと尽くしの地租改正。

しかし、問題点もありました。
地券に応じ税を払う
それは何があっても例年通り一定額を納めなければならない。
凶作の様な不測の事態が起きた時はしばしばトラブルが発生しました。

明治9年には米価の低落で農民の収入が大きく減り、税負担が相対的に高くなりました。
その為に三重、茨城、和歌山などで農民一揆が起きました。

これを見た明治政府へ地租を3%から2.5%に減額しました。

当時は不平士族などが度々反乱を起こし、また自由民権運動も盛んになっていたため政府としては、これ以上の不満を持たれたくなかったのです。

地租の2.5%制はその後も続けられたので、農民は結果的に江戸時代よりも20%程度の減税となりました。

幕府や藩によってまちまちだった貢租負担を公平化し、税徴収の透明性を高める狙いの地租改正でしたが、結果的にこの改革が生産量を拡大させ、人材の流動性を進め、後の産業の発展を呼ぶことになりました。

この地租改正も、明治政府の大英断と言えるでしょう。