犬神スケキヨ~さざれ石

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国粋主義と全体主義と自由主義

2023-05-23 16:42:00 | 草莽崛起
G7による、広島でのサミットも終了いたしました。
我が国も、法の支配による自由主義国家として重要な役割を担う事が出来たのではないかと思います。
ウクライナのゼレンスキー大統領を迎え、力による現状変更を認めないと主張する事が出来ました。

『日本は停戦に向けて努力しろ!ウクライナに肩入れするな!』と主張する方もおられます。日本に中立的な立場を取れと言う主張なんでしょうね。
我が国は日米同盟、クワッド、TPPを見てもわかる通り『中立国』ではありません。
中立的な立場を取る理由も全くありません。
ロシアがウクライナから撤退すれば、この侵略も終わり、ウクライナは防衛戦をする必要が無くなります。

また、他方『ウクライナ等我が国には関係ない』から、援助するなと言う主張も散見されますね。『自国が大変な時に遠い日本まで何しに来たのか?自国が大変だと考えていないからだ』と。だからウクライナなど大した話しではない、助けてやる必要はないと言う事でしょうか?

自由主義国家として、侵略を受けた国を助ける事に何の問題があるのでしょうか?
随分と利己的な考えであると同時に、国際関係論や安全保障の意味を全く理解していないと自ら愚かさを吐露する様な話しですね。
戦後の安全保障は自国一国で完結出来るものではなく、あの米国ですら自国のみで完結出来ません。戦前の安全保障体制でも日独伊三国同盟があった事する知らないのでしょうね。

国粋主義だった男
先日、とある動画配信にて面白い話しを小耳に挟んだのです。
話しをしていたのは作家で怪異収集家の中山市朗氏と怪談作家である竹内義和氏の両名です。





お二方が先日、元オウム真理教の上祐史浩氏とトークイベントを開催された時の話しです。



上祐氏曰く麻原彰晃こと松本智津夫は国粋主義者だったと言うのです。
そもそもは、何故教団はあの狂気に走ったのか?を『オカルト』と言う側面から考えてみようと言う趣旨のイベントだったようですが、これはびっくりする発言ですね。
(オカルトについては、いずれの機会に話したいと思います)

ものの解説によれば『国粋主義』とはナショナリズムの一つであり、自国の伝統的要素こそが最も優れていると考え、それを強調しそれ以外は排除しようとする、排外的、保守的、右翼的思想。
まぁ、こんな感じに解説されています。

あの麻原彰晃が国粋主義だったとは、あまりイメージ出来ませんね。
そもそも国粋主義なるものの始まりは、幕末期に遡り『尊王攘夷論』が始まりだろうと考えられます。
勿論、幕末期に国粋なる言葉はなかったでしょう。
今や排外主義的思想と言うカテゴリ分けされる国粋主義なる言葉ですがいつから使われているのでしょうか。

これまた、ものの解説によれば評論家・衆議院議員であった志賀重昂の論文(1888年発表)『国粋保存旨議』です。政府の西欧化政策に反発するものでした。ここから国粋主義と言う言葉が出来たのです。

徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲するものに非ず、只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也

と言う主張で、現在の排外主義的ナショナリズムとは全く違う主張ですね。

日本の伝統を保存しながら、西欧の良き面を輸入しつつ咀嚼し消化し、我が国に合うものに同化せよ!と言う主張です。

これが時間の経過と共に排外主義やナショナリズムとなってしまったのですね。
日本人特有の宗教観や同調性等から、西欧の考え方を異質な物として捉える意見があったのでしょう。
東洋の新興国が白人層と肩を並べ、勢力を拡大することに危機感を覚えた列強からの対日圧力もあり、そうした圧力を忌避する世論と相まって『国粋主義』はいつしか、排外主義ナショナリズムの象徴になったのでしょう。
では麻原彰晃のナショナリズムとは何だったのでしょう。現在では、既に死刑になっており本人の話しを聞く事も叶いません。
上祐氏の話しから想像するしかありません。
麻原彰晃は生前『あの戦争(大東亜戦争)は、あの天皇だから負けたのだ。私がその地位にあれば負けはしなかった』と発言していたそうです。随分と歪な考えですね。
天皇と言う存在を否定しているのですから、麻原彰晃のナショナリズムとは何なのか興味が湧くものです。

恐らく、麻原彰晃はこう考えたのではないでしょうか?
『昭和天皇は、我が国の伝統的思想に立った天皇ではなかった』それが故に戦争に負けたのだと。それ以降の天皇陛下と言う御存在も麻原彰晃のナショナリズムに反する存在だったのでしょう。
故に『自身が変わって天皇となり日本の伝統文化を維持し他を排する』と言う考えだったようです。なんと独善的な思想でしょうか。
後の狂気を鑑みれば、国家を転覆させ天皇を亡き者にして自らが天皇となり新たな国家を構築しようとしたのでしょう。
言わば、テロリズムの正当化ですね。
カルト集団によく見る話しです。
正当性がないからこそ、暴力を用いて正当化しようとする。オウム真理教と言う新興宗教を正当化し、他を排除する。これ以外は認めないのです。麻原彰晃と言う教祖を頂点とし上意下達の『全体主義』の構築です。
恐ろしい話しです。

しかし何も、麻原彰晃だけがそうではなかったのではないでしょうか?
カルト集団特有の思想はあったでしょうが別に麻原彰晃だけが特異な全体主義であったとは考えられません。

戦前の事件
戦前の事件を見ても、そのナショナリズムの危うさを知る事が出来ます。
例えば5.15事件や2.26事件などです。
2.26時家については、あの阿南惟幾が決起した者を強く非難し『愛国心を理解出来ぬ者』と断罪していますね。
我がの独善を振り回し、同時の総理や閣僚をクーデターの名を借り殺害したのですから。
これは、私の見解ではテロ行為です。
まがりなりにも、憲法を持ち、法の支配を尊ぶ近代国家としてはあるまじき行為です。
我が国の伝統的象徴である天皇陛下と言う御存在を蔑ろにする行為ですから。
法には天皇の御名御璽があるわけで、これは日本の國體である『君臣共治』と言う伝統を瓦解する行為です。
暴力を用いて世の中を変革する事は、現在を見ても共産社会主義がやる行為です。
我が国は『君臣共治』という独自の民主主義と自由主義を旨とする国家です。
独善的な思想で、法を飛び越え変革を起こすなどは他の意見を排除する行為で『全体主義』的思想と言わざるを得ないものです。

これを評論家・江崎道郎氏は『右翼全体主義者』と言っています。



江崎道郎氏によれば『全体主義ではなく自由主義でなければならない』と言っています。

現在でも同じ様な事を目にするものです。

保守だ、革新だと言っては他者を排除するような行為は日常的によく目にします。

私は他者から『保守的思想』とか酷い時には『右翼』だとまで言われたりもします。
私自身はその様に発した事はありません。
そもそも、そんな定義も出来ない話しはバカバカしくてどうでもいいのです。

人によって、その考えが変化する様な保守や革新なるイデオロギーに何の意味も見出せないからです。

所謂、保守を標榜する人や活動をされている方と話しをしますが、明確な答えを聞いた事がないからです。
話しをしていても、その言葉の源流には観念論的な『保守思想』なるものしか感じられず、酷い時には『我こそは保守本流なり』と言う独善的な思想が見えるからです。

これまた、ものの解説を読んでみると保守思想とは『長年培ってきた伝統や文化、先達の行いには、それを継続するだけの何らかの意味があり...云々』とありますが...

しかし実際には、保守を標榜なさる方々と話していると『あれは保守じゃない』とか『そんな事言う奴は保守ではない』などと言っては他者を排除する方々をよく目にします。

例えば、アベノミクスなどいわゆるリベラルな経済政策でありますが、自称保守の方々は絶賛されていますね。
それ以外の意見には『保守じゃない』と仰るわけです。
アベノミクスなるものは、マクロ経済学に則る経済政策です。ならばマクロ経済学は保守思想なのか?と言う話しです。
誠にバカバカしい話しです。

『保守思想』なるイデオロギーを以て、意見の統制を計っているに過ぎないと私は考えます。

例えば、中華人民共和国を見てこれは『全体主義』だと理解できます。
中国共産党の党是こそが絶対で、もう一つ言うなら習近平体制こそが絶対で、上意下達のヒエラルキーが構築されています。
言論も思想も、経済も統制され国民はの受動的、消極的な行動しかできません。
日本共産党でも、党是に疑問を呈した党員を除名するなど『絶対的な全体主義』を最近も見せたものです。

いわゆる左翼が全体主義であるのは、明白な事実ではあるのですがね。
そもそも共産社会主義が前述の通り専制主義であるのですから当たり前です。

我が国は、神話に遡っても合議を得る事が国家の根幹で、多数決ではない一致点を見出すと言う事が本来の政なのです。

保守や革新なるイデオロギーを用いるならばせめて保守自由主義、革新自由主義でなければなりません。
独善的なイデオロギーで他者をパージしたり、意見を排除したり、或いは一人のカリスマを作り上げて絶対的思想なるものを主張するなど、それこそ我が国の伝統文化には相入れないものでしょう。

例えば、5.15事件を起こした者達を、助命嘆願したりと同情的だった国民感情を現代社会で、『あの同情こそが軍国主義の強化を招き、後の戦争へと繋がった』と宣うたいわゆる左翼連中が、今度は安倍晋三と言う政治家を殺した殺人者を擁護し、思想言論の自由、内心の自由に制限をかける様な事を言い出し、あの殺人者を英雄の様に扱うのですからね。一体どの口が言うのやら。

他方では、日本の伝統文化を尊ぶと言いながら法を犯しても構わないと遵法精神と言う社会規範すら無視した行動で『ヘイトスピーチ法』なる物の原因を作った観念論者の集団もあるわけです。

私にしてみれば、殺人者を奉る遵法精神のないアホンダラと、民主主義にとって重要な言論を萎縮させたアホンダラで、どちらもアホンダラでしかありません。
そんなもんは左翼全体主義と右翼全体主義でどちらも一周回って同じものです。



この様な、我々日本人にとって誠に不敬な表現をしたウクライナです。
これを不敬だと、だからウクライナなど助けてやるなと言う意見を直接言われる事もあります。

しかし、よく考えてみれば世界はこの様に考えているのです。
何故なら、世界は戦勝国が仕切っているからです。
戦勝国の論理が蔓延しているからです。
戦争に勝った者は嘘でもなんでもアリだからです。
国際連合なる組織はこの世界にありません。
あるのは連合国と言う組織です。
国連本部を見て下さい。
United  nations
と書いてあります。
意味は連合国です。
もっと言えば戦勝国連合です。
常任理事国は5カ国です。そこには現在のロシア、旧ソ連があります。
ウクライナはそもそもソ連です。
戦勝国であるウクライナは戦勝国として戦後を過ごして来ました。
戦勝国の論理は、昭和天皇、ヒトラー、ムッソリーニはファシズムです。
戦後の教育でもそう教育して来たでしょう。
我々とは違う『戦後体制』での教育です。
しかも、ソ連共産主義と言う全体主義国家です。

今や同盟関係である米国も、広島長崎の原爆投下を正当化して戦後体制を構築しています。

枢軸側だった我々、日本やドイツ、イタリアにフィンランドは未だ敗戦国の悪者です。
少なくとも、我々日本人は戦後教育で『悪者』を骨の随まで浸潤させられています。

文句を言って、誰かを悪者にして吊るし上げれば、あなたの自己肯定感は満たされるでしょう。しかし、現実を変える事にはなりません。
勝つと言ってやった戦争に負ければ、こんな始末になると言う現実にただ蓋をして見ていないだけです。

例えば、大阪堺市では我らが聖の帝である仁徳天皇の御陵を不敬にも、気球から見下ろすと、観光資源にするのです。
これは大変不敬な話しです。
維新の会の仕業です。これを反日だ、売国奴だ国賊だと罵倒する方もおられます。
勿論、私もその気持ちは同じです。
しかし、先の統一地方選挙では維新が圧勝してしまいました。
つまりは民意を得てしまったのです。
すぐさま『大阪の人間は反日だ、国賊だ』だの罵詈雑言の嵐です。
選挙は民主主義で、多数意見を予め決めると言う手続きです。
決して維新の肩を持つ気はありませんが、民主主義は尊重しなければなりません。
それが民主主義で自由主義です。

罵詈雑言を宣う方に『あなたは何か、この事について行動されましたか?』と問うてみたいのです。
行動もせず、ただ誰かを悪者に吊るし上げるのは単に自己顕示欲を満たす程度の話しです。大阪の民意を貶せば、あなたのプライドは満たされるでしょう。

保守を標榜なさる方々も、伝統や文化や歴史を重んじるなら、この聖の帝をしっかり啓蒙出来たのでしょうか?
出来ていれば、少なくても堺市で維新が勝つなどなかったのではありませんかね?

とある方に『罵詈雑言で誰かを悪者にしても解決しませんよ。そんな暇があるなら我が国の國體や伝統を啓蒙する事で皆さんの意識を変える事が出来るんじゃないですか』と進言したところ『忙しくてそんな時間はない』と仰るので『お友達やお仲間とご飯を一緒に食べる事もあるでしょう、そんな時に話されてはどうですか』と申しました。
すると『そんな時間はない』と言われてしまいました。

いわゆる自称保守と言われる方はこんなもんかと思いましたね。誠に残念です。

しかし、よく考えてください。
今般の広島サミットで平和記念公園でかつての日独伊三国と戦勝国が揃って慰霊の献花をしているのです。
こんなものを誰が想像したでしょうか?

堺市においての、仁徳天皇への不敬は誠に遺憾な話しです。
しかし、このネガティブな話しは裏を返せば我らが仁徳天皇『民の竈』に見る天皇と言う御存在を知らしめる機会だとポジティブなものに転換出来るチャンスでもあるのです。

天皇の御存在や國體の意味など、誰からも教えられず大人になってしまい、学ぶ機会がなかったから何も知らない我らが同胞(はらから)に知る機会を設ける事が出来るではないですか。
知らない事は考えない。ならば知れば考える。知っていれば維新が圧勝などしなかったかもしれません。



かつての戦勝国がかつての宗主国に侵略され
敗戦国の日本に頼って来ているのです。

原爆を落とした国は世代交代が始まり、若い世代では原爆投下の正当性に疑問を抱き始めたのです。

確実に我々はジワジワと、嘘を払拭しているのです。

問題は我々が、あの戦争を総括していない事です。
あの戦争は正しかった、あの戦争は間違いだった。
あの戦争はこうすれば負けなかった。
様々な意見があっても、国家として敗戦の責任も誰も取らず、他国の嘘の裁判に委ねたままです。

その総括すらせずに、罵詈雑言を宣うても、ただ虚しくなるだけです。

2000年を優に超える歴史を持つ我が国の伝統をこの先断絶する様な愚かなイデオロギーを振りかざすのか?

先のウクライナの我が天皇への侮辱行為も、戦後体制に安穏として歴史の事実を知ろうともせず、ただ受動的に振る舞って来た結果ではなかろうかと思います。

さて、この拙く地味な文章が、この先日本人がどう振る舞うべきかの問題提起となれば幸いだなぁと思う次第です。