犬神スケキヨ~さざれ石

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戦争を選択する世界の常識

2023-09-11 13:06:00 | 草莽崛起
前回のこの地味ブログでも問題提起しましたが、国際紛争を解決する手段として戦争を選択する事に何らの問題はありません。
むしろ戦争を選択肢から除外する事の危険性についても問題提起したつもりです。

世界を見渡せば、戦争を選択する国が沢山あります。
それは抵抗もせず白旗を上げる事の危険性をよく知っているからです。

我々日本人もよく知る、チベットやウイグルの悲劇を見れば明らかではあります。

我が国も対米戦争に敗北し、占領政策を受けて来ました。
米国による占領政策では、日本人が長らく大切にして来た文化や伝統を蔑ろにする酷い占領政策であったにも関わらず、現代日本人はその事をあまり考えなくなりました。

何より、いずれ皇統が先細る事を考え沢山あった宮家を廃止させたのですから。
しかし現代日本人はそんな事を知りません。

また宮中祭祀や暦、伝統に根差した祝祭日の名称まで変えさせたのです。

それでも國體は断絶する事なく、我々は占領されたにもかかわらずアメリカ人にはなっていません、我々は今も日本人です。

それは米国による日本の占領政策が世界の基準とは違ったからです。
東西冷戦を考えれば容易に理解できるでしょう。
世界は民主主義と非民主主義との対立にすぐさま以降した事もあり、米国としても日本の独立や対共産主義の最前線としての日本が必要であった事もあります。

『米国の占領政策は稀に見る優しいものであった』と言う人もいます。
確かにそうであったかもしれません。

戦前の白人による植民地・占領政策と言えば、それは酷いものです。
被占領国民に人権などなく、まともな教育はなく優秀な若者は将来自分達に刃向かわぬ様に、手首を切り落としたり、幽閉したりと凄まじいものでした。

現在のチベットでも、人権無視の政策を受けており、ウィグル等でもウイグル人は臓器を抜かれたり酷いものです。

占領政策とはそれ程に凄まじいものなのです。

例えば、ポーランドやフィンランドなどもその歴史を見れば常に『戦争』を選択して来ました。

ポーランドもドイツやソ連に侵略を受け続ける歴史であったわけです。
それでも、ソ連に対して『戦争』と言う手段を選択して来ました。
それは何故かと考えれば、ポーランド人はこう言うのです。

『占領政策の酷さを考えれば、戦争する方が随分と良い』

世界の真実がこの言葉から理解できます。

凄まじいまでの占領政策に比べれば、戦争を選択して国民に犠牲者が出る方がマシだと言う事です。
だから負けても負けても戦争を選択するのです。徹底的に抵抗するのです。
負けて占領されても、国家民族としての火を絶やさなければ必ずや再起出来るからです。

ポーランドにしてもフィンランドにしても戦争には弱い。
フィンランドなど先の大戦では、枢軸国側として敗戦しています。
しかし、戦争に強くないからこそ負けた時どうするべきかをよく心得ているのです。
ですから、敗戦後は自分達で敗戦の裁判をサッサとやってしまい、当時の戦争主導者を自分達でサッと裁いてしまいました。
だから我々が受けた『東京裁判』やドイツに対する『ニュルンベルク裁判』の様な仕返しを受けていません。

それは後の占領政策が酷いと知っているからです。

我々、日本人が受けた占領政策は世界的に見ても珍しいのです。
その珍しい占領政策が世界の占領政策だと間違った思い込みをしているのです。

本来の占領政策は『自決権』を奪われ、人権もなく、民族は浄化されてしまうのです。
とは言え、我々もジワジワと首を絞められる占領政策を受けてはいます。
だからこそ現在の皇統に対して女系だ男系だと、訳のわからない話しが出て来ていたりするのですが...

ともかく、たった7年の占領政策、沖縄にしても平和裏に返還された事は非常に珍しい事ですが、それには沢山の日本人が後の日本の為に血を流したからである事は理解出来るはずです。
先述の通り、占領政策よりマシな戦争と言う選択を考えれば僅か7年で占領を解くほか米国に選択はなかったのではないかと思います。

そしてよく考えておかなければならない事は、何も米国の占領政策が優しかった等と言う話しではなく広島・長崎に落とした原爆以上に酷い占領など存在しないと言うだけの話しであって、何も優しい訳ではなく、東京裁判で石原莞爾が証言した通りに戦後僅かの時間で米国自身が自らの振る舞いに苦しみ出したと言うだけの話しです。

世界の占領政策や植民地支配とはそれ程凄まじいものだと、現代日本人の我々が全く理解出来ていないと言う現実。

何故、ウクライナがアレ程の抵抗をするのかと言うのはポーランドやフィンランドが言う様に『占領政策』より『戦争』の方がマシだと知っているからです。

かつてウクライナはソ連の政策により、数百万人の餓死者を出すと言う経験をしているのですから当然と言えば当然です。

台湾にしても、世界の歴史を知っているのですから今現在最も効果的であろう手段で、支那からの侵略に抵抗するのは辺り前です。

我が国も、例えば沖縄県など支那から侵略されたなら漏れなく凄まじい占領政策を受ける事は間違いありません。
殺すより殺されようとか、酒飲んで話し合うなんて言う生優しい話しではありません。

それが同じ民族同士でも虐殺し、鍋で人肉を煮て食う連中なのですから。

国際紛争を解決する手段として戦争を選択肢から除外することの危険性について、我々日本人は真剣に考えなければならない時代にフェーズが変わった!

その様に理解すべきです。



間抜けな平和と利益ある戦争

2023-09-02 17:09:00 | 草莽崛起
さて前回は拙著NOTEでの記事と、この地味ブログでいつもの様に考えてみました。
今回はそれら2本の記事を踏まえて、更に平和や戦争、そして我々人類はどうなるのかを考えてみたいと思います。

全く結論を導き出そうと言う趣旨ではありません。あくまで『問題提起』です。
ご一読頂いた皆様にも、ご自身の頭で考えて頂きたい話しです。

平和を維持する為に何を考えるか - 犬神スケキヨ~さざれ石

平和を維持する為に何を考えるか - 犬神スケキヨ~さざれ石

先の8月15日にNOTEにて拙著記事を掲載致しました。『終戦の日』に問題提起として考えてみました。今回はその続きと、更に掘り下げて考えてみたいと思います。8月15日に考え...

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先ずは上記拙著記事を一読頂ければ幸いです。

拙著記事中でも紹介いたしましたが、今や戦争をやっても大した利益を得る事が出来ません。よって20世紀には人類の5%が、戦争紛争で死んでいましたが21世紀には1%にまで減少しました。

これは生き延びる為に資源を確保する必要があるからです。なんとか資源を独占する事がそのまま安全保障に繋がっていたからです。
ですから、領土を拡張し資源を得る為にせんそを仕掛けます。
国の政策として『戦争』を常に考えて国政を行なって来たのが20世紀の世界です。

現在は資源ではなく、技術や知識が財産のベースにある為、それらを得る手段としていわゆる戦争なるものを選択しても余り意味がないのです。
ですからドンパチする様な戦争ではなく、サイバー空間でやっていてサイバー空間では既に第三次世界大戦と言える状況です。

サイバー空間で行われているうちは、国民は直ぐに死人が出ないので今が戦時であると全く自覚出来ないものです。
しかし、ある日いきなり経済がストップしたり、インフラが機能しなくなったりして結局は死人が出る結果を招きます。

花畑に暮らす平和主義者は、爆弾や鉄砲の弾が飛んで来ていないので『いや〜平和だねぇ』と真顔でボケた事を言い出します。
そして何があっても『戦争反対』と言うわけです。戦争がなければ平和で、平和は最高だと考えるからです。戦争がない事が『平和』な状況だと信じているからです。
全く無知蒙昧甚だしい限りです。知能が低すぎて心配になるレベルですね。

例えば、この『平和主義者達』は最悪の平和と言う様な考えには至りません。
この平和主義者の論理に立って考えるならば
毎年三万人を超える自殺者を出していても、戦争がないので平和であると考えているからです。
我が国の自殺者は経済の見通しが悪くなると増えます。自殺者と失業率の相関関係は証明されています。
第二次安倍政権になり、失業率が減ると自殺者も減った事実を見れば明らかです。
経済的に困窮すれば自死を選択するのが我が国の事実です。
それは現代においての特殊な事情ではなく、先の戦争の理由にもなっていて、あのダグラス・マッカーサーも戦後に『日本の失業者は最高で1200万人を超えたであろう』と証言しています。実に労働者の15%以上が失業する事になるのですから、自殺者数はどうなる事か容易に想像できます。

たかが失業率4%弱で毎年三万人を超える自殺者が出ているのですから恐ろしい話しです。

連合国に対して『戦争』と言う選択をしなければどうなっていたか?
歴史にifはないと言うけれど、それらを全く考えないのは、やはり『敗戦』と言う決定的な間違いであり故に現代我々は危機的状況にあるのではないかと思います。

例えば、兵士が10万人程度死ぬぐらいならば『戦争』と言うものを選択する事もあり得るのではないかと思います。

30年も毎年三万人の自殺者を出す経済状況でしかし戦争はないと言う『最悪の平和』を続ける事に耐えられるのか?
いや、それなら兵士を10万人失うが一年で終結し、その後数十年経済が疲弊する事なく、それが理由で自死を選ぶ者がいない事が良いと考える事もあり得るわけです。

しかし『いや!ダメだ!何があっても戦争と言う手段は避けろ』と考え、自殺者を許容し最悪でも平和が優先だ!と考える人もいるはずです。

これはどちらも正しい事で、全く結論を得る様な話しではないのです。

戦争になれば兵士は死にます。兵士は自国民です。兵士だから死んで良いと言う話しではありません。しかし上記拙著記事にも掲載しましたが『戦争』をしているうちは自国の民間人が死ぬ事はありません。
兵士の死と言うギリギリ最低の死で多数を生かす選択もある訳です。

私個人は紛争を解決する手段として戦争を選択する事に賛成です。
全く戦争と言う手段を『悪』であるとは考えていません。
しかし憲法を蔑ろにしてまで戦争を選択する理由はないと考えています。
右翼全体主義者には実に受け入れ難い爆弾発言かもしれませんが。

世に改憲派か護憲派かと言われますが『お前の立場はどっちだ?』と聞かれたならば『護憲派』であるのは間違いありません。
現憲法が、米国からの押し付けだろうが現代日本人の知らぬ所で制定されていようが私個人にとっては、どうでも良い話しです。

むしろ憲法を蔑ろにしても戦争と言う選択をする方が危険極まりないのです。
我々は民主主義国で自由主義国です。
それを担保するのが、憲法であり法です。
それが法の支配と言う事であり法治国家と言う事です。

十人十色と言われる様に各々考えが違うのが人間なのです。
その個々人の考えを抽象的に概念としたものが憲法であるからです。
ですからある意味『国民より上位』にあるのが憲法なのです。
その様な物を人間より上位に置く事を我々は既に数百年前に決めて来ました。大宝律令の様に律令を重んじる国家を作ってきましたし、西洋では其れら人間の概念を宗教に拠り人間の上位としてきました。
我が国の天皇陛下でも憲法を守っているのですから明らかなものです。

民主主義も自由主義もこの概念がベースとなっているのです。

ですから、アメ公が作った憲法だろうがなんだろうが我が国が憲法と言うものを持っていて何人ともこの憲法条文を最優先に考えて法律も国家も形成するのだと決めているからです。アメ公が作ったから守らなくても良いとか、正当性がないなどは実は関係ないのです。
例えば、大日本帝国憲法こそが正当憲法だ!と主張する方もおられますが、その明治の憲法など現代日本人は全く知らず、預かり知らない所で作られて、今やそんなもんは存在していません。

自由主義国、民主主義国の一員として考えるならば拙い所や矛盾があるなら変えよう!と言う事が正しい事なのです。


今の時代、一番紛争や戦争で死ぬ人が少ないにも関わらず現憲法制定時より最も『戦争』についてリアルに考えなければならない時代であるのは間違いありません。

戦争を回避する為には現実として、相対的な軍事力と強固な同盟が必要であるのは国際関係論でも明らかにされています。
我が国には周辺国に中華人民共和国・北朝鮮・ロシアと言う民主主義度の低い独裁国家があり核を保有しています。
ロシアのウクライナ侵攻を見れば、非論理的思考で人間の愚かさを丸出しにした状況です。この愚かさを蔑ろにすれば我々は虐殺されてしまいます。
そうなりたくなければ、この愚かな連中と手を組めば随分と楽になるのはずです。
しかしこんな国と手を組めるはずもないのです。

その為に米国と同盟を結んでいるのです。
しかし米国とて我々の絶対的な味方などではありません。米国にも米国の国益があり、都合があるからです。
そんなものは先の戦争を見れば明らかで、日本とソ連は不可侵条約を結んでいたにも関わらず、一方的に破棄された。
こんな経験をしながらも危機感を抱かない他方の花畑も存在するから恐ろしい話しです。

我々はこれ程危険な時代にいながら、何も講じていない事に危機感を持つべきです。

民主主義国に於いて、法や憲法の解釈を変える事は何ら問題ありません。
例えば、平和安全法制などは典型例です。
人間が立場や状況を踏まえて『手心』を加えるのは構いません。

しかし、憲法を大きく逸脱する事は決してやってはいけないのです。

基本的に平和安全法制は与党が選挙で勝ち、憲法の解釈変更を行って可決されたのですから、現憲法を逸脱していません。
つまりこれを変更したいなら、変更したい勢力が選挙で勝ち、与党となって解釈変更を行なって法案を出し可決すれば良いのです。
それが『法と憲法に合致しているからです。

法治国家ではやるべき事が決まっているにも関わらず、アホみたいに国会前や各所で思想問わずデモやパレードをやっているのです。
それは悪い事ではないけれど、それだけで世の中や法や世の理が変わるはずはありません。思想問わず、手段と目的を履き違え本来の民主主義の絶大なパワーを蔑ろにするアホな行為です。

敗戦後、我が国は最悪な平和のみ選択し続けてきました。

だから国民に対して経済的困窮から自死を選択させ国民を死地に追い込み、最悪な平和しか選択する事しか出来ないから、三流国家に愛する家族を拉致されても取り返しも出来ないのです。

最悪な平和しか選択の余地がない事は、結局は不幸にしかなりません。

そして

間抜けな平和、最悪の戦争
最悪な平和、利益ある戦争を決めるのが政治の役割なのです。

この選択をやるのが政治です。

政治の本質はここにあるのです。

ハッキリ言ってしまえば、それ以外はどうでも良い程にこの選択にかかっているのです。

我々国民の日々の生活も間抜けな平和か最悪の戦争か、最悪の平和か利益ある戦争かが決めるのです。
間抜けな平和、最悪の平和しか選択出来ない現状こそ最も危険極まりないのです。