人の死とは様々です。
しかし『死』はあくまで『死』であってそれ以下でもそれ以上でもありません。
死そのものに正しさも間違いもない。
病死、事故死、自殺。
先の大戦での英霊の死。
死に至るプロセスを見て我々は『死』に価値を見出そうとするだけで、それそのものは例えば犬や猫であっても人と差がある訳でもありません。
どんな聖人君子も、どんな極悪人でも同じなのです。
教誨師(きょうかいし)
聞きなれない言葉ですね。
この教誨師と呼ばれる人々はいわゆる宗教家であります。
戦前は公務員であったのですが、戦後GHQにより公務員ではなくなってしまいました。
ですから現在は職業ではなくボランティアで行われています。
ではこの教誨師と呼ばれる人々は一体何なのか?
死刑囚に対し、宗教を用いて被害者への供養を兼ねて、宗教を学んでもらい死刑執行までの間に僅かでも真人間として生きてもらう
これを目的にしているのです。
つまり、死刑囚への最後の人間としての受け皿の様なものでしょうか。
教誨とは『教え諭す』という意味があります。
つまり、例え極悪非道の死刑囚であろうと最後には僅かな時間でも宗教の力により、少しでも人間性を取り戻し死刑執行に臨ませるのです。
この話は半世紀に渡り教誨師を担ってきた、浄土真宗僧侶渡邊普相氏の話しを中心に話してみたいと思います。
この渡邊普相氏は浄土真宗のお寺の次男坊として広島に生まれます。
自分自身、宗教に興味がなかったことや兄が寺を継ぐこともあり、自分は別の道を歩もうと単身広島市に行くのです。
しかし、当時は戦時下であり学校に通うも勤労奉仕や学徒動員ばかりでありました。
ある日のこと、渡邊氏はその日、広島駅前で荷運び作業の為に陸軍のトラックを待っていました。
やがてトラックが見えて来ました。
見慣れたトラックになんだか安心と言うかホッとした瞬間に空襲警報も鳴らない、暑い暑い夏の広島の青空に突然、真っ白でキレイな飛行機雲とともにB29が姿を現わすのです。
その場に居た全員が一斉に空を見上げた...
その瞬間
光の雨が降ってきた...
その約10秒後、爆風が彼を襲うのです。
人間がまるで新聞紙の様に宙を舞う。
全ての建物が海藻の様に揺れる。
次の瞬間、渡邊氏は気を失うのです。
目覚めた時には真っ黒な雨が降っていたのです。
正気を取り戻した彼は広島市内に歩き出すのです。
市内では、そこかしこに黒焦げになった死体が横たわる。
それは地獄の光景でしょう。
彼自身も被曝者でもあります。
首を捻り見上げていた彼は顔半分を火傷します。
しかし、後ろの建物の影にいた為体は焼かれなかった。
横にいて真っ直ぐ見上げていた友人は全身を焼かれ溶けていた。
渡邊氏はこの経験により『人の死』について向き合うきっかけともなり更に『何故、自らは死ななかったのか?』をその後考え続けるという人生を送るのです。
彼は死について家の教え、つまり浄土真宗の教えに従い考え続けるのです。
26歳の時、兄が実家を継いだ事もあり自身は単身東京のとあるお寺の副住職となって勤めます。
その時、篠田氏という老僧がそのお寺に宿を借りるということがありました。
その篠田氏がお寺で説法をする。
その説法の迫力に、親子ほど離れた先輩僧侶に魅入られます。
その篠田氏が『教誨師』であった訳です。
若い渡邊普相氏は篠田氏に問いかけます。
『何故、そんなご苦労を引き受けられたのですか?』
その問いかけに篠田氏はたった一言
誰かせにゃぁならんだろう
そう言うのです。
『突き詰めて考えていたら、おかしゅうなるぞ』
何故俺が?
何の為にやるのか?
そんな事を突き詰めない!と、言う突き詰め方をしたという事でしょうか。
浄土真宗宗祖・親鸞、その親鸞の教えでもある。
『悪人正機』
親が特に病気の子を心配する様に、医者が重篤な患者から見るように、阿弥陀仏もまた悪人から救う
悪人こそ導かねばならんと、親鸞が教えている、宗派がそう言う。それに従う。
そう言う事なんです。
渡邊氏は篠田氏の跡を継ぐ形で自らも教誨師としての道を歩み始め、西巣鴨の東京拘置所へと通う日々が始まるのです。
1966年早春より篠田氏と共に西巣鴨にある東京拘置所内の教誨室に通い詰めるのです。
一番最初に任されたのが山本という死刑囚です。
罪名は強盗殺人。
被害者は一人であったが、死刑判決を受けた。
何故、そうなったのか?
実は刑務所に服役中、看守を殺害して脱走。
500円を奪い王子駅前で無銭飲食で酒を飲み、駅前で自首していたのです。
後に死刑判決を受けたが上告せず確定。
渡邊普相氏と出会い熱心な浄土真宗門徒となっています。
この山本、熱心な浄土真宗門徒となり逆に親鸞の教えであるところを死刑囚の立場から渡邊氏に説いたという程であったのです。
死刑囚の気持ちは死刑囚が一番解る。
だから、教誨をする時の心得を逆に説いてみせる程の優秀さを見せるのです。
他に渡邊氏が担当したのは三鷹事件の死刑囚である竹内景介です。
三鷹事件とは
昭和24年、三鷹駅で7両編成の無人列車が突然暴走
死者6名・負傷者20名。
この頃、中国共産党が発足した頃です。
当時の国鉄は労組に共産党員が多数おり、経営者と対立が激しかったのです。
その中の一部集団が列車を暴走させたとして逮捕されたのです。
その逮捕の殆どが共産党員。
しかし、9名の共産党員が無罪判決を勝ち取った。
その後、共産党員でもない竹内が一人でやった犯行であるとして死刑判決を受ける。
しかし、当初より竹内一人での犯行には無理があると言われてもいました。
その為に竹内景介の死刑執行は明らかに躊躇われ、竹内は獄中死を遂げたのです。
当時、死刑執行されないのでは?と噂されていたのはこの竹内景介と帝銀事件死刑囚・平沢貞通でありました。
この竹内景介は教誨師・渡邊普相氏には事件について何も語りはしませんでした。
ただ竹内はこう語る。
『(共産)党に死刑にされた様なもんですよ。しかし考えてみれば騙された自分も悪い。その点ではジタバタしないつもりです』
竹内は知識欲も旺盛で、浄土真宗の経典を読み込み、写経も上手く、雑誌に寄稿したり、本も出版していました。
また、竹内景介は自分に差し入れされた羊羹や果物を渡邊氏に差し出し『あんた、話は半分でいいからさコレ食いなよ』と言うのです。
その差し出された物を旨そうに食べる渡邊氏を幸せそうな顔で見ている。
死を挟んだ人間同士の関係性。
不思議な感覚に囚われてしまいます。
渡邊普相氏が忘れ得ぬ死刑囚がいると語る一人に白木と言う死刑囚がいます。
この白木は、売春宿の女性2名を殺害。
3人目に重傷を負わせた時に逮捕された。
ところが、この男には間も無く結婚を控えた婚約者がいたのです。
彼の犯行は刃物で何百回と女性を切り刻むもので、その傷は内臓を露出させるものでした。
和製切り裂きジャックと言われたのです。
実は裁判に於いて犯行動機が殆ど解明されませんでした。
動機を聞いても『ただ、なんとなく...』と答えるだけ。
教誨に於いて白木はやがて自らの身の上を話すのです。
しかしそれは壮絶な過去でもありました。
昭和15年、樺太に生まれます。
その後3歳で両親に捨てられます。
養父母にも5歳で捨てられそうになり、当時最北の樺太で寒さに耐えながら生きた。
学校にも通えず、7歳頃より職を求めて流浪の生活を送ります。
木賃宿を転々としながら、宿賃のない時はそこで働かせて貰いながら思春期を過ごしたのです。
16歳の時、弘前の旅館に遊びに来ていた7歳の子供を絞殺しています。
懲役15年の判決を受け少年刑務所に服役。
模範囚として、15年の刑期を7年で終えて出所。
出所後、文京区の洋服店で職人として働きメキメキと腕前も上がりなくてはならない職人にまでなっていた。
事件を聞いても、誰も信じなかったたほどにまでなっていたのです。
渡邊普相氏とすっかり打ち解けていた白木はやがてポツリポツリと話すのです。
『私はね、渡邊さん、正直申せばね、まだ他に三人殺しとるんですよ』
いずれも少年時の犯行です。
13歳の時、旭川市内でアル中の中年女性を殺害。
14歳で小学一年生の女の子を殺害。
15歳で5歳の女の子を殺害。
うち一件は別の15歳の少年が服役し刑期を終えているという。
正に血まみれの青春と言えます。
人は此れ程に鬼や悪魔になれるのか...
渡邊普相氏は白木に尋ねます。
『なんで、あんたそうまでして女の人を殺すのかね?』
この白木、女性を殺害する時に性的な興奮を覚えるのです。
だから、彼は決して性的イタズラや猥褻な行為には及ばないのです。
ただ、ただ殺すことにのみ興奮を覚える。
だからひたすら殺すことに没頭するのです。
『だからね、渡邊さん!そんな私みたいな人間は早よ死刑にしないと可哀想なんですよ』
そう白木は語るのです。
群馬で七人の女性が殺害されるという事件があった時などは『こいつは早く捕まえてやらんといかん!この犯人は私と同じだから早く捕まえてやらんと被害者も犯人も可哀想だ』と言ったそうです。
この教誨師には少なからず汚点がある。
それは、教誨師は元々宗教家の善意で行われていたが1939年、国家公務員として登用されるのです。
その意図は政治思想犯対策です。
宗教の名の下に政治思想の『転向』を促す役目を負わされたのです。
敗戦後、このことからGHQは教誨師を公務員の職から追い出したのです。しかし、この占領下に於いてその真偽を疑わざるを得ない死刑判決もありました。
後に冤罪が確定する免田事件の免田栄氏は語ります。
『冤罪を訴え、再審請求をしようとする者に対して「これは前世の因縁だ、例え無実でも先祖の悪行の因縁で無実の罪で苦しむ事になっている。その因縁を甘んじて受け入れなさい。それが仏の導きですよ」と再審請求を思い留まる様に説得する僧侶がいる』と証言しています。
しかし、免田事件の再審請求が動き出すきっかけを作ったのもキリスト教の教誨師であることも事実です。
先述の『山本』と言う死刑囚。
看守を殺し脱獄、酒を飲み自首をした男。
いよいよ死刑執行の日を迎えます。
東京拘置所から小菅に移され死刑が執行される事になりました。
小型のバスで1時間の移動です。
この日はもう一人『櫻井』と言う死刑囚と共に小菅刑務所へ向かいます。
東京拘置所を出たバスは沈黙の車内です。
山本は静かに座り、窓から見える景色を眺めている。
これが最後のシャバの景色です。
自分とは関わりのないところで日常を営む人々の姿や通学の子供。
酒好き故に、酒が元で人を二人殺した男。
最後に見る景色をその脳裏に焼き付け様としているかの如く景色を一生懸命に眺めている。
もう一人の櫻井はガタカタと震えている。
小菅へ向かうバスが、とある場所に差し掛かる。
すると突然に山本は声を発する。
『先生!あれ!あれ見て!ほら!普相さん!あそこあそこ!』
そう言いながら山本は指をさして渡邊氏に話すのです。
なんとそこは脱獄して、酒を飲んだ居酒屋です。
酒が飲みたいと、その欲望に取り憑かれ看守を殺し脱獄してまでも酒を飲んだあの店がそこにあるのです。
『待ちに待った酒だったんだよ!普相さん!あの一杯がね』
渡邊普相氏は山本に尋ねます。
『山本さん!あんたどれぐらい飲んだの?あの店で』
山本は答えます。
『先生、一合だよ!』
渡邊氏も返します。
『あんたも一合で死刑は辛いねぇ...』
山本は
『いやぁ、ホントそうねぇ。死刑だったら一升飲みゃ良かったね』
罪というのは一体何なのか?
此れ程に切ないものなのか...
人間と罪というものは、親鸞の教えの通りなのでしょうか...
親鸞は弟子に向かい『試しに人を千人殺してみなさい、直ぐに阿弥陀仏がお救いくださる』と語ります。
弟子は『私は千人どころか、度胸がないので一人も殺せません』と答えた。
親鸞は『そうだろう、人は心の良し悪しで人を殺さないのではないのだよ。殺さなければならない所へ堕ちた者が人を殺してしまうのだ』
山本は読経の中、刑を執行されました。
さて、もう一人の死刑囚『櫻井』。
恐怖のあまりバスの中ではガタカタと震えていました。
この男の教誨師は渡邊普相氏ではなく、別の教誨師がついていました。
震えの為に目の前にあるロープへと歩いて行けなくなっていました。
実はこの櫻井を担当していた教誨師は、渡邊普相氏をこの道に導いてくれた先輩僧侶であり、先輩教誨師である篠田氏でした。
櫻井の横にいる看守達も櫻井を励ますのです。
決して無理矢理にロープを首に掛ける訳ではないのです。
しかし、震えが止まらず足が一歩も前に出ないのです。
そこで櫻井は篠田氏に叫びます。
『先生ー!悪いが、私に引導を渡して下さい!』
ロープに向かって一歩踏み出す。
その『死に向かう』一歩を踏み出す勇気を与えてくれと言っているのです。
しかし、仏教には実は引導なるものはないのです。
しかし今から死に向かう男の最後の願いです。
篠田氏自らの言葉を引導として渡すのです。
『櫻井さん!櫻井さんね、あんたこれから死ぬるんやないんやで、あんたね、これから生まれ代わりに行くんじゃけ!しっかり歩きなさい!』
この瞬間、櫻井の震えはピタッと!と止まるのです。
そして振り返り
『先生、私は死ぬんじゃないんですね?これから浄土へ生まれ代わりに行くんですね?』
そして篠田氏は
『そうよ!あんたね生まれ代わりに行くんじゃけね!しっかり歩きなさい!あんた少しばっかり先に行くんじゃけど、私も後からすぐ行くんじゃけ!』
櫻井は最後にその言葉に笑顔で返すのでした。
それから暫く後に櫻井は絶命しました。
渡邊普相氏はあの大久保清の死刑にも立ち会っています。
大久保清は実は最後まで教誨師を断り続けたのであります。
しかし、渡邊普相氏は半ば強引に大久保清の前に行くのです。
『あんた、一回でええから私の話しを聞かんかね?』
しかし大久保清は『自分は宗教への信仰がない』と拒み続け、遂に一度も教誨を受けずに死刑執行を迎えています。
しかし、これを渡邊氏は許さなかった。
大久保清自身は拒否していますから刑務官に非はありません。
拒む者に強引に教誨を受けさせる訳にはいかないのです。
しかし、渡邊氏は刑務官を怒鳴りつけたのです。
死刑執行にあたり、宗教家の立会いもなく執行すれば、それはただの殺人になる
そういうものでした。
宗教家抜きで人を殺してはならない。
殺される本人だけじゃない、看守達の為にも
それが渡邊普相氏の考えでもあるのです。
現在、教誨師は全国に1800ほどいます。
人の死に立ち会う職業は様々あります。
医者や警察官、消防士など。
しかし、実はこの様な形で人の死に立ち会う人々がいるのです。
人は生まれた瞬間から死に向かって歩いています。
死に違いはない。死は死である。
死そのものは全て同じです。
私は常に生きる意味を考えます。
その中で一つの答えとしているのが『死ぬ理由』です。
死ぬ理由を考える事で生きる意味を見い出す。
何の為になら死ねるのか?
その為に死ねるならば、その為に生きる。
では、この死刑囚達は何の為に死ぬのか?
死刑という死に方に至ったならば、生きる理由は犯罪であったのか?
私には答えは出ていません。
死刑に対して是か非か、賛否様々な意見があるでしょう。
しかし、先述の『白木』と言う死刑囚の様に自らは死刑にならなければならないと言う人間もいるのです。
私は死刑反対論者ではない。
しかし、死刑が執行されたとて何かを生み出すものでもない。
しかし、我々は死刑と言う制度を設けている。
制度である以上はそれを支える人がいる。
犯罪を犯し死に向かって歩く者。
その死を支える者。
これは事の良し悪しではありません。
我々の社会はそうやって成り立っているのです。
しかし『死』はあくまで『死』であってそれ以下でもそれ以上でもありません。
死そのものに正しさも間違いもない。
病死、事故死、自殺。
先の大戦での英霊の死。
死に至るプロセスを見て我々は『死』に価値を見出そうとするだけで、それそのものは例えば犬や猫であっても人と差がある訳でもありません。
どんな聖人君子も、どんな極悪人でも同じなのです。
教誨師
教誨師(きょうかいし)
聞きなれない言葉ですね。
この教誨師と呼ばれる人々はいわゆる宗教家であります。
戦前は公務員であったのですが、戦後GHQにより公務員ではなくなってしまいました。
ですから現在は職業ではなくボランティアで行われています。
ではこの教誨師と呼ばれる人々は一体何なのか?
死刑囚に対し、宗教を用いて被害者への供養を兼ねて、宗教を学んでもらい死刑執行までの間に僅かでも真人間として生きてもらう
これを目的にしているのです。
つまり、死刑囚への最後の人間としての受け皿の様なものでしょうか。
教誨とは『教え諭す』という意味があります。
つまり、例え極悪非道の死刑囚であろうと最後には僅かな時間でも宗教の力により、少しでも人間性を取り戻し死刑執行に臨ませるのです。
この話は半世紀に渡り教誨師を担ってきた、浄土真宗僧侶渡邊普相氏の話しを中心に話してみたいと思います。
この渡邊普相氏は浄土真宗のお寺の次男坊として広島に生まれます。
自分自身、宗教に興味がなかったことや兄が寺を継ぐこともあり、自分は別の道を歩もうと単身広島市に行くのです。
しかし、当時は戦時下であり学校に通うも勤労奉仕や学徒動員ばかりでありました。
ある日のこと、渡邊氏はその日、広島駅前で荷運び作業の為に陸軍のトラックを待っていました。
やがてトラックが見えて来ました。
見慣れたトラックになんだか安心と言うかホッとした瞬間に空襲警報も鳴らない、暑い暑い夏の広島の青空に突然、真っ白でキレイな飛行機雲とともにB29が姿を現わすのです。
その場に居た全員が一斉に空を見上げた...
その瞬間
光の雨が降ってきた...
その約10秒後、爆風が彼を襲うのです。
人間がまるで新聞紙の様に宙を舞う。
全ての建物が海藻の様に揺れる。
次の瞬間、渡邊氏は気を失うのです。
目覚めた時には真っ黒な雨が降っていたのです。
正気を取り戻した彼は広島市内に歩き出すのです。
市内では、そこかしこに黒焦げになった死体が横たわる。
それは地獄の光景でしょう。
彼自身も被曝者でもあります。
首を捻り見上げていた彼は顔半分を火傷します。
しかし、後ろの建物の影にいた為体は焼かれなかった。
横にいて真っ直ぐ見上げていた友人は全身を焼かれ溶けていた。
渡邊氏はこの経験により『人の死』について向き合うきっかけともなり更に『何故、自らは死ななかったのか?』をその後考え続けるという人生を送るのです。
彼は死について家の教え、つまり浄土真宗の教えに従い考え続けるのです。
26歳の時、兄が実家を継いだ事もあり自身は単身東京のとあるお寺の副住職となって勤めます。
その時、篠田氏という老僧がそのお寺に宿を借りるということがありました。
その篠田氏がお寺で説法をする。
その説法の迫力に、親子ほど離れた先輩僧侶に魅入られます。
その篠田氏が『教誨師』であった訳です。
若い渡邊普相氏は篠田氏に問いかけます。
『何故、そんなご苦労を引き受けられたのですか?』
その問いかけに篠田氏はたった一言
誰かせにゃぁならんだろう
そう言うのです。
『突き詰めて考えていたら、おかしゅうなるぞ』
何故俺が?
何の為にやるのか?
そんな事を突き詰めない!と、言う突き詰め方をしたという事でしょうか。
浄土真宗宗祖・親鸞、その親鸞の教えでもある。
『悪人正機』
親が特に病気の子を心配する様に、医者が重篤な患者から見るように、阿弥陀仏もまた悪人から救う
悪人こそ導かねばならんと、親鸞が教えている、宗派がそう言う。それに従う。
そう言う事なんです。
渡邊氏は篠田氏の跡を継ぐ形で自らも教誨師としての道を歩み始め、西巣鴨の東京拘置所へと通う日々が始まるのです。
1966年早春より篠田氏と共に西巣鴨にある東京拘置所内の教誨室に通い詰めるのです。
一番最初に任されたのが山本という死刑囚です。
罪名は強盗殺人。
被害者は一人であったが、死刑判決を受けた。
何故、そうなったのか?
実は刑務所に服役中、看守を殺害して脱走。
500円を奪い王子駅前で無銭飲食で酒を飲み、駅前で自首していたのです。
後に死刑判決を受けたが上告せず確定。
渡邊普相氏と出会い熱心な浄土真宗門徒となっています。
この山本、熱心な浄土真宗門徒となり逆に親鸞の教えであるところを死刑囚の立場から渡邊氏に説いたという程であったのです。
死刑囚の気持ちは死刑囚が一番解る。
だから、教誨をする時の心得を逆に説いてみせる程の優秀さを見せるのです。
他に渡邊氏が担当したのは三鷹事件の死刑囚である竹内景介です。
三鷹事件とは
昭和24年、三鷹駅で7両編成の無人列車が突然暴走
死者6名・負傷者20名。
この頃、中国共産党が発足した頃です。
当時の国鉄は労組に共産党員が多数おり、経営者と対立が激しかったのです。
その中の一部集団が列車を暴走させたとして逮捕されたのです。
その逮捕の殆どが共産党員。
しかし、9名の共産党員が無罪判決を勝ち取った。
その後、共産党員でもない竹内が一人でやった犯行であるとして死刑判決を受ける。
しかし、当初より竹内一人での犯行には無理があると言われてもいました。
その為に竹内景介の死刑執行は明らかに躊躇われ、竹内は獄中死を遂げたのです。
当時、死刑執行されないのでは?と噂されていたのはこの竹内景介と帝銀事件死刑囚・平沢貞通でありました。
この竹内景介は教誨師・渡邊普相氏には事件について何も語りはしませんでした。
ただ竹内はこう語る。
『(共産)党に死刑にされた様なもんですよ。しかし考えてみれば騙された自分も悪い。その点ではジタバタしないつもりです』
竹内は知識欲も旺盛で、浄土真宗の経典を読み込み、写経も上手く、雑誌に寄稿したり、本も出版していました。
また、竹内景介は自分に差し入れされた羊羹や果物を渡邊氏に差し出し『あんた、話は半分でいいからさコレ食いなよ』と言うのです。
その差し出された物を旨そうに食べる渡邊氏を幸せそうな顔で見ている。
死を挟んだ人間同士の関係性。
不思議な感覚に囚われてしまいます。
忘れへぬ死刑囚
渡邊普相氏が忘れ得ぬ死刑囚がいると語る一人に白木と言う死刑囚がいます。
この白木は、売春宿の女性2名を殺害。
3人目に重傷を負わせた時に逮捕された。
ところが、この男には間も無く結婚を控えた婚約者がいたのです。
彼の犯行は刃物で何百回と女性を切り刻むもので、その傷は内臓を露出させるものでした。
和製切り裂きジャックと言われたのです。
実は裁判に於いて犯行動機が殆ど解明されませんでした。
動機を聞いても『ただ、なんとなく...』と答えるだけ。
教誨に於いて白木はやがて自らの身の上を話すのです。
しかしそれは壮絶な過去でもありました。
昭和15年、樺太に生まれます。
その後3歳で両親に捨てられます。
養父母にも5歳で捨てられそうになり、当時最北の樺太で寒さに耐えながら生きた。
学校にも通えず、7歳頃より職を求めて流浪の生活を送ります。
木賃宿を転々としながら、宿賃のない時はそこで働かせて貰いながら思春期を過ごしたのです。
16歳の時、弘前の旅館に遊びに来ていた7歳の子供を絞殺しています。
懲役15年の判決を受け少年刑務所に服役。
模範囚として、15年の刑期を7年で終えて出所。
出所後、文京区の洋服店で職人として働きメキメキと腕前も上がりなくてはならない職人にまでなっていた。
事件を聞いても、誰も信じなかったたほどにまでなっていたのです。
渡邊普相氏とすっかり打ち解けていた白木はやがてポツリポツリと話すのです。
『私はね、渡邊さん、正直申せばね、まだ他に三人殺しとるんですよ』
いずれも少年時の犯行です。
13歳の時、旭川市内でアル中の中年女性を殺害。
14歳で小学一年生の女の子を殺害。
15歳で5歳の女の子を殺害。
うち一件は別の15歳の少年が服役し刑期を終えているという。
正に血まみれの青春と言えます。
人は此れ程に鬼や悪魔になれるのか...
渡邊普相氏は白木に尋ねます。
『なんで、あんたそうまでして女の人を殺すのかね?』
この白木、女性を殺害する時に性的な興奮を覚えるのです。
だから、彼は決して性的イタズラや猥褻な行為には及ばないのです。
ただ、ただ殺すことにのみ興奮を覚える。
だからひたすら殺すことに没頭するのです。
『だからね、渡邊さん!そんな私みたいな人間は早よ死刑にしないと可哀想なんですよ』
そう白木は語るのです。
群馬で七人の女性が殺害されるという事件があった時などは『こいつは早く捕まえてやらんといかん!この犯人は私と同じだから早く捕まえてやらんと被害者も犯人も可哀想だ』と言ったそうです。
汚点
この教誨師には少なからず汚点がある。
それは、教誨師は元々宗教家の善意で行われていたが1939年、国家公務員として登用されるのです。
その意図は政治思想犯対策です。
宗教の名の下に政治思想の『転向』を促す役目を負わされたのです。
敗戦後、このことからGHQは教誨師を公務員の職から追い出したのです。しかし、この占領下に於いてその真偽を疑わざるを得ない死刑判決もありました。
後に冤罪が確定する免田事件の免田栄氏は語ります。
『冤罪を訴え、再審請求をしようとする者に対して「これは前世の因縁だ、例え無実でも先祖の悪行の因縁で無実の罪で苦しむ事になっている。その因縁を甘んじて受け入れなさい。それが仏の導きですよ」と再審請求を思い留まる様に説得する僧侶がいる』と証言しています。
しかし、免田事件の再審請求が動き出すきっかけを作ったのもキリスト教の教誨師であることも事実です。
死に歩き出す
先述の『山本』と言う死刑囚。
看守を殺し脱獄、酒を飲み自首をした男。
いよいよ死刑執行の日を迎えます。
東京拘置所から小菅に移され死刑が執行される事になりました。
小型のバスで1時間の移動です。
この日はもう一人『櫻井』と言う死刑囚と共に小菅刑務所へ向かいます。
東京拘置所を出たバスは沈黙の車内です。
山本は静かに座り、窓から見える景色を眺めている。
これが最後のシャバの景色です。
自分とは関わりのないところで日常を営む人々の姿や通学の子供。
酒好き故に、酒が元で人を二人殺した男。
最後に見る景色をその脳裏に焼き付け様としているかの如く景色を一生懸命に眺めている。
もう一人の櫻井はガタカタと震えている。
小菅へ向かうバスが、とある場所に差し掛かる。
すると突然に山本は声を発する。
『先生!あれ!あれ見て!ほら!普相さん!あそこあそこ!』
そう言いながら山本は指をさして渡邊氏に話すのです。
なんとそこは脱獄して、酒を飲んだ居酒屋です。
酒が飲みたいと、その欲望に取り憑かれ看守を殺し脱獄してまでも酒を飲んだあの店がそこにあるのです。
『待ちに待った酒だったんだよ!普相さん!あの一杯がね』
渡邊普相氏は山本に尋ねます。
『山本さん!あんたどれぐらい飲んだの?あの店で』
山本は答えます。
『先生、一合だよ!』
渡邊氏も返します。
『あんたも一合で死刑は辛いねぇ...』
山本は
『いやぁ、ホントそうねぇ。死刑だったら一升飲みゃ良かったね』
罪というのは一体何なのか?
此れ程に切ないものなのか...
人間と罪というものは、親鸞の教えの通りなのでしょうか...
親鸞は弟子に向かい『試しに人を千人殺してみなさい、直ぐに阿弥陀仏がお救いくださる』と語ります。
弟子は『私は千人どころか、度胸がないので一人も殺せません』と答えた。
親鸞は『そうだろう、人は心の良し悪しで人を殺さないのではないのだよ。殺さなければならない所へ堕ちた者が人を殺してしまうのだ』
山本は読経の中、刑を執行されました。
さて、もう一人の死刑囚『櫻井』。
恐怖のあまりバスの中ではガタカタと震えていました。
この男の教誨師は渡邊普相氏ではなく、別の教誨師がついていました。
震えの為に目の前にあるロープへと歩いて行けなくなっていました。
実はこの櫻井を担当していた教誨師は、渡邊普相氏をこの道に導いてくれた先輩僧侶であり、先輩教誨師である篠田氏でした。
櫻井の横にいる看守達も櫻井を励ますのです。
決して無理矢理にロープを首に掛ける訳ではないのです。
しかし、震えが止まらず足が一歩も前に出ないのです。
そこで櫻井は篠田氏に叫びます。
『先生ー!悪いが、私に引導を渡して下さい!』
ロープに向かって一歩踏み出す。
その『死に向かう』一歩を踏み出す勇気を与えてくれと言っているのです。
しかし、仏教には実は引導なるものはないのです。
しかし今から死に向かう男の最後の願いです。
篠田氏自らの言葉を引導として渡すのです。
『櫻井さん!櫻井さんね、あんたこれから死ぬるんやないんやで、あんたね、これから生まれ代わりに行くんじゃけ!しっかり歩きなさい!』
この瞬間、櫻井の震えはピタッと!と止まるのです。
そして振り返り
『先生、私は死ぬんじゃないんですね?これから浄土へ生まれ代わりに行くんですね?』
そして篠田氏は
『そうよ!あんたね生まれ代わりに行くんじゃけね!しっかり歩きなさい!あんた少しばっかり先に行くんじゃけど、私も後からすぐ行くんじゃけ!』
櫻井は最後にその言葉に笑顔で返すのでした。
それから暫く後に櫻井は絶命しました。
死刑とは
渡邊普相氏はあの大久保清の死刑にも立ち会っています。
大久保清は実は最後まで教誨師を断り続けたのであります。
しかし、渡邊普相氏は半ば強引に大久保清の前に行くのです。
『あんた、一回でええから私の話しを聞かんかね?』
しかし大久保清は『自分は宗教への信仰がない』と拒み続け、遂に一度も教誨を受けずに死刑執行を迎えています。
しかし、これを渡邊氏は許さなかった。
大久保清自身は拒否していますから刑務官に非はありません。
拒む者に強引に教誨を受けさせる訳にはいかないのです。
しかし、渡邊氏は刑務官を怒鳴りつけたのです。
死刑執行にあたり、宗教家の立会いもなく執行すれば、それはただの殺人になる
そういうものでした。
宗教家抜きで人を殺してはならない。
殺される本人だけじゃない、看守達の為にも
それが渡邊普相氏の考えでもあるのです。
現在、教誨師は全国に1800ほどいます。
人の死に立ち会う職業は様々あります。
医者や警察官、消防士など。
しかし、実はこの様な形で人の死に立ち会う人々がいるのです。
人は生まれた瞬間から死に向かって歩いています。
死に違いはない。死は死である。
死そのものは全て同じです。
私は常に生きる意味を考えます。
その中で一つの答えとしているのが『死ぬ理由』です。
死ぬ理由を考える事で生きる意味を見い出す。
何の為になら死ねるのか?
その為に死ねるならば、その為に生きる。
では、この死刑囚達は何の為に死ぬのか?
死刑という死に方に至ったならば、生きる理由は犯罪であったのか?
私には答えは出ていません。
死刑に対して是か非か、賛否様々な意見があるでしょう。
しかし、先述の『白木』と言う死刑囚の様に自らは死刑にならなければならないと言う人間もいるのです。
私は死刑反対論者ではない。
しかし、死刑が執行されたとて何かを生み出すものでもない。
しかし、我々は死刑と言う制度を設けている。
制度である以上はそれを支える人がいる。
犯罪を犯し死に向かって歩く者。
その死を支える者。
これは事の良し悪しではありません。
我々の社会はそうやって成り立っているのです。