戦前の我が国は『軍国主義国家』であったと多くの国民が考えるところでしょう。
教育も政治もマスコミも、そこに立脚して言説を垂れ流してもいます。
よく人と話してもいても『戦前の軍国主義が』ともよく耳にするものです。
なので『軍国主義とは何なのか』と尋ねてみるのですが、皆一様にフワッとした答えしか返ってきません。
侵略を繰り返しアジア諸国を苦しめた、それが軍国主義だと言う人もいます。
アジア諸国とは一体どの国を指すのかと尋ねても、これまた明確に答える人は稀です。
そりゃそうです。
戦前のアジアは白人の植民地でしたから、諸国と呼べる様なものはありません。
明確に国名を言い出す人がいれば、それは認知能力に問題のある人でしょう。
軍国主義なるものは軍の意思が全てに優先する事ではないでしょうか。
どの省庁や役人、更に時の内閣よりも軍が優先される政策でしょう。
戦前の日本がそうであったのでしょうか?
軍国主義であったから戦争をしたのでしょうか?
事実を紐解いてみれば、甚だ疑問です。
昔、知り合いの方から聞いた話しを紹介します。その方は、とある旧帝国陸軍人のお爺さんから話しを聞いたそうです。
その元軍人の方は南方で終戦を迎えて生き延びて帰って来られた方です。
『あれ程に餓死病死者を出す程に、継戦能力がない戦争をしたんですかね』と質問しました。
すると元軍人さんは『あの時代、皆んな貧乏だった。貧乏で食うものもなかった。なのに資源を絶たれたら戦争に活路を見出すしかなかったんだよ。戦争するしかないぐらい貧乏だった』
と答えたそうです。
貧乏でも、助け合い皆笑顔で仕事もあり、子供の成長を楽しみに生きたり。
貧乏だが、豊かであった。
それなれば人は生きて行けます。
しかし資源を絶たれたなら、戦後マッカーサーが証言した通り資源のない我が国は失業者を1200万人は出したでしょう。
僅か8000万人の人口です。
そうなれば、貧乏な上に仕事もなく困ってしまいます。
貧乏で困る、貧乏が理由で困る
これを『貧困』と言うのです。
貧乏でも豊かならば、単なる貧乏です。
国際連盟の椅子を蹴って、そこから脱退して帰って来た松岡洋右を称賛したのは日本国民です。
世界が国益の為に植民地支配を散々やっていた時代に、我が国も権益を求めて大陸に進出した事を戦後『平和』に対する罪としたが、フランス人判事アンリ・ベルナールは『願望を持っていただけの事だ』と言って日本無罪論展開しました。
対米戦についても、国民の支持があればこその事です。
軍であろうと国民の支持がなければ戦争など出来ません。戦争になれば真っ先に死ぬのは軍人であるからです。
なんでもかんでも話し合いをする事が外交ではありません。
超リベラル国家のフランスには国家憲兵隊と言う組織があり、第4の軍隊とも呼ばれます。
この国家憲兵隊には警告無しの射撃や射殺が認められています。
特にテロに対して強く、例えば原発等に配置されています。
非公式ながら、実際に原発に侵入しようとした人間を無警告で射殺した事があるそうです。
そしてこの組織、始まりはナポレオンだそうです。ですから必ずしも現在の第五共和制に準じないのだと公然と発言しています。
コレが真のリベラル、自由主義の事実です。
自らの自由と権利の為には武器を取るのです。
リベラリズムとしての理想とリアリズムとしての実力行使です。
射殺と言うある種の暴力によって、解決は出来なくとも決着を付ける事が出来る典型例です。
人類の歴史を見ても、随分と暴力によって決着を付けた歴史は枚挙に暇がない。
このフランスの考えを見れば理想を語るならば現実を覚悟しなければならないと理解出来ます。
現実を覚悟出来ぬ者には理想など語る資格はないと言う話しです。
先に紹介したフランス人判事アンリ・ベルナールは『自衛権を行使しなければならないと日本が感じたのであれば、それは自衛権を行使する事態だ』と言う様な発言もしています。
現代日本に於いても、バブル崩壊以降の30年近く経済的理由により自死を選択する人が沢山いたのです。
毎年3万人を超え自ら死を選ぶ人が絶えないアホな時代。
単純計算90万人が死んだのです。
それに目を瞑って『平和である』と思い込んでいるのですから救い様がない。
なんと愚かな平和でしょうか!
人間は圧倒的に『暴力』により決着した歴史の方が遥かに多いのです。
コレが理解出来ない人間は認知能力に問題があります。
我々、今生きているホモ・サピエンスも暴力により生き延びて来たのです。
だからと言って暴力を肯定する話しではありません。
私の話しを歪曲、曲解し『自分も暴力を振るって良いのか』と考える短絡的、直情的人間もまた認知能力の低い、境界知能以下のアホです。
一個人に行使して良い実力行使などありません。
軍や治安組織は統制されているのです。
法と民主主義の手続きにより統制されているからこその実力行使です。
アホなデモや、そのカウンター等で個人や単なる団体が行使出来る暴力など法も憲法も認めていません。
我々は先の対米戦を見ても、豊かな貧乏を無理矢理に貧困へと引き摺り込まれようとしたのですから、アンリ・ベルナールが言う様に『自衛権の範疇』であったのでしょう。
それは『日本の戦争は主に安全保障によるものだ』と証言したマッカーサーの話しと矛盾しません。
そうであるならば我が国が軍国主義であったからアジア諸国を侵略し対米戦までやったと言う話しは全く成立せず、それは単なる日本人の思い込みと言う話しです。
何をどう刷り込まれたのか、今や解りませんがそういう事です。
では、現代日本は一体何なのか?
先述しましたが、年間に経済的理由により自死を選ぶ者が三万人を超える事実をどう見ればよいでしょうか?
現代日本でも、それ程の死者を経済的理由により出すのですから、戦前の日本人が外圧により1200万人の失業者を出す事態を安全保障問題だと考えるのは当然でしょう。
失われた20年だ30年だと言う話しはよく聞くもんです。
何故、そうなったか。
それは政府の経済政策の失敗にあります。
バブル崩壊後の金融政策、経済政策、財政出動などやるべき政策を全くやっていなかったと言う話しに反対する人はいないでしょう。
逆に第二次安倍政権でアベノミクスにより景気浮揚した途端に自殺者が減った事実を見れば明らかです。
そして、そのアホな国策の中心にいるのがいつの世も財務省です。
時の政権ですら、財務省には逆らえません。
第一次安倍政権を潰したのも財務省の画策があればです。
現政権など財務省ベッタリの政権です。
各省庁、役人にしても全く財務省には逆らえません。
政治家にしても、財務省に真っ向逆らえば翌日には突然国税庁や検察が現れる始末です。
小選挙区当選議員などは地元に還元すら出来なくなる。
勝手に国民の懐に手を入れて『安定財源』と言って我々の、血の滲む努力によって得た収入を鷲掴みにして持っていくのです。
誰も逆らえず、財務省の意見が全てに優先するのです。
ならばこれは
財務省主義国家
と呼ばねばならないのではないか?
軍国主義国家なる、アホな刷り込みどころの話しではありません。
財務省国家主義は事実なのですから。
例えば、支那や北朝鮮と言う国は国民を餓死させても軍が優先しています。
コレを『軍国主義国家』と言うのであって、貧困や餓死から国民を守ることは『安全保障』です。
国民を貧困や失業から守れず、自死者を毎年数万人出すアホな事態をなんとするのか。
間抜けで愚かな平和を教授して喜んでいる場合ではありません。
前時代なら『戦争』に活路を見出す事も出来たでしょうが、現代社会ではありえない話しです。
世界は未だ腹黒で、自国ファーストでなんだってやるのです。
にもかかわらず、財務省主義により国民は苦しむのです。
ありもしない軍国主義を考えるなら、財務省主義こそ何とかしなければならない。
国民の喫緊の課題ではありませんかね。