大東亜戦争を見るに
緒戦こそ日本の快進撃であった印象があります。
終盤に至ってはアメリカから、それはもうボコボコにやられた!
そんな印象が少なからずあるのでは、ないでしょうか?
しかし、それは一方向からの見方でしかありませんね。
実際には前半だけではなく、我が国は終盤戦に至ってもアメリカは日本に散々悩まされ続けるのです。
アメリカ軍が、明らかな国際法違反である日本本土への空襲、原爆。
その国際法違反の攻撃。
最大の要因は太平洋諸島での苦戦にあるのです。
戦争終盤、日本軍はアメリカ軍を徹底的に研究し、有効な戦術を考え出した!
アメリカ軍の戦術は、考えれば非常に単純なものです。
物量に物をいわせて、砲弾爆弾雨あられ。
それにより、敵の戦闘能力を奪う。
しかしこれは非常に合理的。
近代戦におけるセオリー
しかしながら、我が国にこれに対抗するだけの物量などありはしないのです。
では?どうすれば?
日本軍は太平洋戦線で劣勢に立たされて以降、アメリカ軍に対する研究を行い続け1つの結論に至ります。
ゲリラ戦
もちろんゲリラ戦など我が国オリジナルではありません。
それは古くからあった戦法です。
しかし、日本軍はこれに専門性と組織性を加えた独自のゲリラ戦を編み出したのです。
そのゲリラ戦が後にアジア各地の独立戦争に引き継がれ、そしてあのベトナム戦争でも効果的に使われた!
日本陸軍は昭和18年(1943)から陸軍中野学校に若い士官を送り込み『遊撃戦闘員』として特別訓練を行います。
翌年には本土決戦における『遊撃戦』に備え、一期204名という大量の若手士官を陸軍中野学校に受け入れます。
ここで特別訓練を行います。
特別訓練は静岡県二俣で行われ、この訓練施設は
陸軍中野学校二俣分校
その様に称されました。
この二俣分校出身者には、終戦後30年にわたりルバング島に潜伏、戦闘を行っていた小野田寛郎少尉がいます。
陸軍中野学校は工作員、秘密戦闘員を養成する機関であった為に、今もって尚、秘密にされている部分も多く存在はベールに包まれています。
大東亜戦争終盤。
日本はこれまでの研究を基に独特の戦法を編み出したのです。
上陸部隊を水際作戦で食い止める事に固執せず、艦砲射撃や空爆に耐え得る様に地下に陣地を構築する。
これにより戦力を温存し、アメリカ軍が上陸して来てから、本格的な攻撃を仕掛けるというもの。
正面突破は避け、ゲリラ戦に徹する。
この作戦を本格的に実行したのは、ご存知ペリリューの戦いです。
ペリリュー島守備隊は厚さ2.5mのコンクリートの中に、大砲やら機関銃やらを隠すなどして島内を要塞化すると、神出鬼没のゲリラ戦に打って出る。
散々ぱらアメリカ軍を苦しめたのです。
ペリリュー島守備隊は兵力約一万。
アメリカ軍はその三倍。
更に戦艦5隻、巡洋艦8隻と物量でも圧倒していました。
アメリカ軍は当初、二、三日でペリリュー島を攻略するつもりでしたが、蓋を開ければ二ヶ月以上もかかってしまい、更に死傷者数はほぼ同数。
このペリリュー島の戦いは、その後の日本軍の戦い方の手本となり、硫黄島、フィリピン、沖縄戦でも用いられた
アメリカ軍は多大な損害と犠牲を強いられたのでした。
またベトナム戦争でも、物量では圧倒的に勝るアメリカ軍に対しベトナム兵はジャングルを最大限に生かしたゲリラ戦を展開するのです。
これによりアメリカ軍は徐々に追い詰められたのですが、このベトナム兵のゲリラ戦法は
日本軍が教えたもの
であったのです。
ベトナム軍創設には、日本軍が大きく関わっています。
大東亜戦争終結後、東南アジア戦線にいた日本軍兵士の一部は帰国せずに現地の独立戦争に義勇兵として参加しています。
ベトナムでも700〜800人の日本軍兵士が残留しています。
その中にはベトナム軍士官養成学校『クァンガイ陸軍中学』の教官を務めた元陸軍少佐・石井卓雄の様な人物もいたのです。
この石井少佐は秘密戦・遊撃戦のスペシャリストであり、その身につけた技術を余す事なくベトナム軍兵士に叩き込んだのです。
しかも石井少佐がベトナム軍に参加することは日本軍の師団司令部の了承済み。
つまり石井少佐は
旧日本軍の使命としてベトナム独立戦争に参加!
そう言う事です。
昭和21年(1946)
宗主国フランスと植民地ベトナムやラオスの間で第一次インドシナ戦争が始まると、石井少佐はベトナム独立軍の顧問として戦争に参加。
残留日本軍兵士の活躍もあり、フランスは敗北しベトナムやラオス、カンボジアは独立を勝ち取ったのです。
旧日本軍はクァンガイ陸軍中学だけでなく、ベトナム各地の養成機関で中的な役割を果たしました。
この日本人達から学んだ生徒達は後のベトナム戦争では軍の中心であったのです。
実際のところ、ベトコン戦法は日本軍が硫黄島などで採用した戦法に驚く程似ています。
地上での正規軍同士での正面衝突は避け、相手の攻撃を地下深くに籠り被害を最小限に食い止める、そして縦横無尽、神出鬼没の地下陣地を構築し昼夜問わずのゲリラ戦。
アメリカ軍は地形が変わるほどの爆撃、村ごと焼き払い、枯葉剤まで撒いてジャングルを丸裸にして対抗するのです。
しかし、ベトナム軍を仕留めることは出来ずに、アメリカは世界から非難轟々。
遂には根負けして撤退しています。
ベトナム戦争で日本軍の影響が大きかった事は、ベトナム政府の態度にも表れています。
ベトナム政府は残留日本軍兵士の労に報い、1990年代に、日本に帰還した旧日本兵達に対し勲章を授与するのです。
大東亜戦争終結後、他国の兵士に勲章を与えるなど非常に稀なケースです。
国際法違反で無辜の民を大虐殺する事で戦争に勝ったアメリカは後年、またしても日本に苦しめられる事になるのです。
このゲリラ戦法は戦後の台湾でも行われてもいたのですが、この作戦の立案、指揮は根本中将という元大日本帝国陸軍人です。
今日の台湾が戦後、支那共産党に飲み込まれなかったのは、やはり日本人の活躍あればこそ。
例えば、チベットやウィグルに元大日本帝国軍人がいたなら...
歴史は変わっていたかもしれない。
ベトナムが親日派であるのも、自国の独立に日本人が大きく関わっているからです。
しかし、これは先達の行い。
その先達の行いが我々の時代に『親日』という形で現れたに過ぎません。
つまりは先達の遺産です。
遺産も三代目には無くなるというのは、よくある話し。
戦時下から考えて三代目は我々世代です。
二代目は、年齢から言えば団塊の世代から少し上の世代。
団塊の世代を見ても『遺産』をしっかりと受け継いだのか?
遺産を相続したが、それを維持或いは増やすということをやったのか?
我々世代でせっかく相続した遺産を食いつぶして良いのか?
しっかりと考えなければなりません。
余談になりますが、とあるジャーナリストが硫黄島の生き残りである元アメリカ軍兵士がフランスにいるという事で、硫黄島の真実を考えようと取材を依頼したとか。
なんとかアポイントが取れいざ取材の為にフランスへ。
しかし取材当日、その元アメリカ軍兵士に会ってみると彼は見事にベロベロに酔っ払っていた。
訳を聞いてみると
『俺は日本人が恐ろしくて仕方ない。その恐ろしい日本人が自分に会いに来ると思ったら酒を飲まずにはいられなかった...』
と、言うのです。
何故、それほど日本人が恐ろしいのか?
『俺はあの場所で、塹壕から機関銃を撃った。いよいよ弾がつき装填しようとした時に日本人兵士が目の前に来た。その日本人は真っ赤に焼けた機関銃の銃身を日本刀で見事に真っ二つに斬った!』
と話す。
『その時、その日本人兵士は満足そうな顔で笑みを浮かべた...俺は恐ろしさのあまりに、その日本人兵士を撃ち殺した。あれからあの日本人の満足そうな顔が頭から離れない...彼は何故、俺を殺さず銃身を真っ二つにして満足そうな顔が出来たのか...俺は恐ろしくてたまらない。』
と、言ったそうです。
日本人は心に、もしかしたら鬼神を宿しているのかもしれません。
その鬼神が目覚めた時、ペリリューや硫黄島、或いは沖縄やそれ以外の地域でも見せた恐ろしい戦いをやる。
特攻だってそうかもしれない。
鬼神が目覚めた時、どうなるのかを我々は知っている。
だからギリギリまで争いを避けたいと願う。
しかし一度目覚めたなら、これは鬼神哭かしむる事になる。
世界はそれを覚えているのではないでしょうか?
緒戦こそ日本の快進撃であった印象があります。
終盤に至ってはアメリカから、それはもうボコボコにやられた!
そんな印象が少なからずあるのでは、ないでしょうか?
しかし、それは一方向からの見方でしかありませんね。
実際には前半だけではなく、我が国は終盤戦に至ってもアメリカは日本に散々悩まされ続けるのです。
アメリカ軍が、明らかな国際法違反である日本本土への空襲、原爆。
その国際法違反の攻撃。
最大の要因は太平洋諸島での苦戦にあるのです。
戦争終盤、日本軍はアメリカ軍を徹底的に研究し、有効な戦術を考え出した!
アメリカ軍の戦術は、考えれば非常に単純なものです。
物量に物をいわせて、砲弾爆弾雨あられ。
それにより、敵の戦闘能力を奪う。
しかしこれは非常に合理的。
近代戦におけるセオリー
しかしながら、我が国にこれに対抗するだけの物量などありはしないのです。
では?どうすれば?
日本軍は太平洋戦線で劣勢に立たされて以降、アメリカ軍に対する研究を行い続け1つの結論に至ります。
ゲリラ戦
もちろんゲリラ戦など我が国オリジナルではありません。
それは古くからあった戦法です。
しかし、日本軍はこれに専門性と組織性を加えた独自のゲリラ戦を編み出したのです。
そのゲリラ戦が後にアジア各地の独立戦争に引き継がれ、そしてあのベトナム戦争でも効果的に使われた!
日本陸軍は昭和18年(1943)から陸軍中野学校に若い士官を送り込み『遊撃戦闘員』として特別訓練を行います。
翌年には本土決戦における『遊撃戦』に備え、一期204名という大量の若手士官を陸軍中野学校に受け入れます。
ここで特別訓練を行います。
特別訓練は静岡県二俣で行われ、この訓練施設は
陸軍中野学校二俣分校
その様に称されました。
この二俣分校出身者には、終戦後30年にわたりルバング島に潜伏、戦闘を行っていた小野田寛郎少尉がいます。
陸軍中野学校は工作員、秘密戦闘員を養成する機関であった為に、今もって尚、秘密にされている部分も多く存在はベールに包まれています。
大東亜戦争終盤。
日本はこれまでの研究を基に独特の戦法を編み出したのです。
上陸部隊を水際作戦で食い止める事に固執せず、艦砲射撃や空爆に耐え得る様に地下に陣地を構築する。
これにより戦力を温存し、アメリカ軍が上陸して来てから、本格的な攻撃を仕掛けるというもの。
正面突破は避け、ゲリラ戦に徹する。
この作戦を本格的に実行したのは、ご存知ペリリューの戦いです。
ペリリュー島守備隊は厚さ2.5mのコンクリートの中に、大砲やら機関銃やらを隠すなどして島内を要塞化すると、神出鬼没のゲリラ戦に打って出る。
散々ぱらアメリカ軍を苦しめたのです。
ペリリュー島守備隊は兵力約一万。
アメリカ軍はその三倍。
更に戦艦5隻、巡洋艦8隻と物量でも圧倒していました。
アメリカ軍は当初、二、三日でペリリュー島を攻略するつもりでしたが、蓋を開ければ二ヶ月以上もかかってしまい、更に死傷者数はほぼ同数。
このペリリュー島の戦いは、その後の日本軍の戦い方の手本となり、硫黄島、フィリピン、沖縄戦でも用いられた
アメリカ軍は多大な損害と犠牲を強いられたのでした。
またベトナム戦争でも、物量では圧倒的に勝るアメリカ軍に対しベトナム兵はジャングルを最大限に生かしたゲリラ戦を展開するのです。
これによりアメリカ軍は徐々に追い詰められたのですが、このベトナム兵のゲリラ戦法は
日本軍が教えたもの
であったのです。
ベトナム軍創設には、日本軍が大きく関わっています。
大東亜戦争終結後、東南アジア戦線にいた日本軍兵士の一部は帰国せずに現地の独立戦争に義勇兵として参加しています。
ベトナムでも700〜800人の日本軍兵士が残留しています。
その中にはベトナム軍士官養成学校『クァンガイ陸軍中学』の教官を務めた元陸軍少佐・石井卓雄の様な人物もいたのです。
この石井少佐は秘密戦・遊撃戦のスペシャリストであり、その身につけた技術を余す事なくベトナム軍兵士に叩き込んだのです。
しかも石井少佐がベトナム軍に参加することは日本軍の師団司令部の了承済み。
つまり石井少佐は
旧日本軍の使命としてベトナム独立戦争に参加!
そう言う事です。
昭和21年(1946)
宗主国フランスと植民地ベトナムやラオスの間で第一次インドシナ戦争が始まると、石井少佐はベトナム独立軍の顧問として戦争に参加。
残留日本軍兵士の活躍もあり、フランスは敗北しベトナムやラオス、カンボジアは独立を勝ち取ったのです。
旧日本軍はクァンガイ陸軍中学だけでなく、ベトナム各地の養成機関で中的な役割を果たしました。
この日本人達から学んだ生徒達は後のベトナム戦争では軍の中心であったのです。
実際のところ、ベトコン戦法は日本軍が硫黄島などで採用した戦法に驚く程似ています。
地上での正規軍同士での正面衝突は避け、相手の攻撃を地下深くに籠り被害を最小限に食い止める、そして縦横無尽、神出鬼没の地下陣地を構築し昼夜問わずのゲリラ戦。
アメリカ軍は地形が変わるほどの爆撃、村ごと焼き払い、枯葉剤まで撒いてジャングルを丸裸にして対抗するのです。
しかし、ベトナム軍を仕留めることは出来ずに、アメリカは世界から非難轟々。
遂には根負けして撤退しています。
ベトナム戦争で日本軍の影響が大きかった事は、ベトナム政府の態度にも表れています。
ベトナム政府は残留日本軍兵士の労に報い、1990年代に、日本に帰還した旧日本兵達に対し勲章を授与するのです。
大東亜戦争終結後、他国の兵士に勲章を与えるなど非常に稀なケースです。
国際法違反で無辜の民を大虐殺する事で戦争に勝ったアメリカは後年、またしても日本に苦しめられる事になるのです。
このゲリラ戦法は戦後の台湾でも行われてもいたのですが、この作戦の立案、指揮は根本中将という元大日本帝国陸軍人です。
今日の台湾が戦後、支那共産党に飲み込まれなかったのは、やはり日本人の活躍あればこそ。
例えば、チベットやウィグルに元大日本帝国軍人がいたなら...
歴史は変わっていたかもしれない。
ベトナムが親日派であるのも、自国の独立に日本人が大きく関わっているからです。
しかし、これは先達の行い。
その先達の行いが我々の時代に『親日』という形で現れたに過ぎません。
つまりは先達の遺産です。
遺産も三代目には無くなるというのは、よくある話し。
戦時下から考えて三代目は我々世代です。
二代目は、年齢から言えば団塊の世代から少し上の世代。
団塊の世代を見ても『遺産』をしっかりと受け継いだのか?
遺産を相続したが、それを維持或いは増やすということをやったのか?
我々世代でせっかく相続した遺産を食いつぶして良いのか?
しっかりと考えなければなりません。
余談になりますが、とあるジャーナリストが硫黄島の生き残りである元アメリカ軍兵士がフランスにいるという事で、硫黄島の真実を考えようと取材を依頼したとか。
なんとかアポイントが取れいざ取材の為にフランスへ。
しかし取材当日、その元アメリカ軍兵士に会ってみると彼は見事にベロベロに酔っ払っていた。
訳を聞いてみると
『俺は日本人が恐ろしくて仕方ない。その恐ろしい日本人が自分に会いに来ると思ったら酒を飲まずにはいられなかった...』
と、言うのです。
何故、それほど日本人が恐ろしいのか?
『俺はあの場所で、塹壕から機関銃を撃った。いよいよ弾がつき装填しようとした時に日本人兵士が目の前に来た。その日本人は真っ赤に焼けた機関銃の銃身を日本刀で見事に真っ二つに斬った!』
と話す。
『その時、その日本人兵士は満足そうな顔で笑みを浮かべた...俺は恐ろしさのあまりに、その日本人兵士を撃ち殺した。あれからあの日本人の満足そうな顔が頭から離れない...彼は何故、俺を殺さず銃身を真っ二つにして満足そうな顔が出来たのか...俺は恐ろしくてたまらない。』
と、言ったそうです。
日本人は心に、もしかしたら鬼神を宿しているのかもしれません。
その鬼神が目覚めた時、ペリリューや硫黄島、或いは沖縄やそれ以外の地域でも見せた恐ろしい戦いをやる。
特攻だってそうかもしれない。
鬼神が目覚めた時、どうなるのかを我々は知っている。
だからギリギリまで争いを避けたいと願う。
しかし一度目覚めたなら、これは鬼神哭かしむる事になる。
世界はそれを覚えているのではないでしょうか?