犬神スケキヨ~さざれ石

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古事記を摘んで日本を知る40

2016-10-24 20:50:49 | 古事記
古事記です。

遂に天孫降臨へ向かいます。
しかし、まだ天降る準備段階です。

いよいよクライマックスへ向かいます。

しかしまだ降りてきてません。

そう簡単にパッパッパとやったら値打ちがありません。

他のブロガーさんなんかも古事記を書かれていますね。
皆さんしっかりと書かれておられます。

でも古事記だけ書くなら、こんな長い連続にはならないでしょう。
私の古事記がこんなに長くなってしまうのは、古事記にある哲学を感じていただけたら…という趣旨からです。

日本の文化や風習、我が国の根っこを伝えようとすると、どうしても長くなってしまうのです。
古事記に隠された本当の意味。
物語の裏にある本質。
それらを現代の我々に繋がるものであると、是非感じて頂きたいと考えます。


全く影響がない神

天照大御神と高御産巣日神は太子(つぎのみこ)つまり皇太子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔あそばされます。

今、葦原中国を平定したと報告がありました。よって命じた通り、葦原中国に降りて、国を知らせ

そう仰せになりました。

しかし、天忍穂耳命は「私が降りる準備をしていると子供が生まれました。この子に葦原中国を知らせるべきでしょう」

知らす、知らせるとは『シラス』ということで、統治するという意味です。

天忍穂耳命の子とは
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひこひほのにににぎのみこと)

この御子は、高御産巣日神の娘万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつひめのみこと)との間に生まれた御子です。

天忍穂耳命とこの女神の間には二柱の神が生まれ、天火明命と邇邇芸命です。

さて天孫が降ろうとすると天之八衢(あめのやちまた)にピカーッ!
と、光る神様がいました。

「なんだなんだ!」て感じになります。

遣いを出して名前を尋ねます。

しかし、この部分の逸話がなくても物語が変わる訳ではないんです。

その遣いが天宇受売命(あめのうずめのみこと)です。

前に出てきましたね、覚えてますか?

天照大御神が岩屋戸にお隠れになった時に人類初のストリップをやられた神様です。

その神様が遣わされたのですが理由は「あなたはか弱い女だけれども、神と向き合った時に気後れしなかった、だからあなたが行きなさい」

さてさて、この神様はかなり明るい神様ですよ。

高天原から葦原中国まで照らすんですから、普通の神様じゃ目が眩む。
なんせ上から下まで照らす神様と言ったら天照大御神ぐらいしかいませんからね。

普通の神様じゃ眩しい過ぎて目を開けてられません。

ですから天宇受売命が選ばれたんです。

天の岩屋戸隠れで、直接天照大御神の近くで会話をしたのです。

たぶんですけど天照大御神は相当に明るいですよね。
その天照大御神と直接話しをしたのです。
その気後れしない経験が買われたのでしょう。

そしてその神様の名前を聞きました。

猿田毘古神

猿田毘古神(さるたびこのかみ)だとわかりました。
別に天下りを妨害しに来たようでもありません。

「天つ神の御子が天下りされると聞きつけ、それを先導させて頂こうと、待って降りました」

「そうかそうか、ではお願いしよう」となるのです。

三種の神器
そこで

天児屋根命(あめのこやねのみこと)

布刀玉命(ふとたまのみこと)

天宇受売命

伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)

玉祖命(たまのおやのみこと)

この五柱の神様五伴緒(いつともお)、五つの職業集団の一族がズラーッと従うことになりました。

そこに思金神と天手力男神か加わります。

どの神様も天の岩屋戸開きの時に活躍した神様ですね。

天宇受売命だけではありません。

三種の神器の勾玉を作った神様、鏡を作った神様。岩屋戸開きで活躍した神様方が、みんな天孫に従って降りて来るのです!

そして重要なのが天照大御神は邇邇芸命に授け物をします。
それが三種の神器です。

八尺勾玉やさかのまがたま

八咫鏡やたのかがみ

草薙剣くさなぎのつるぎ

勾玉と鏡は岩屋戸開きに使われましたね。
草薙剣は須佐之男命がヤマタノオロチの尾から出て来たものを天上界に運び込んだもの。

勾玉と鏡は天上界で作られたものです。

これが皇位の印として天照大御神から邇邇芸命に授けられたのです。

これは大変意味のある事です。

どれも王権の象徴です。

旅立つ我が孫に「これを持って行きなさい」と授けた。
これは大変意味があり、どれも大切なものです。

勾玉は天皇の御印です。

世界の王様とか貴族とか王冠や杖にデッカい宝石がついてたりして、これが国家権力の象徴だったりするのです。

勾玉が宝石かどうかはわかりません。
しかし、八尺勾玉というのは天皇の象徴の一つなんです。

鏡にしても、現代なら¥100でも買えます。
しかし、この当時、大昔は鏡というのはそれは凄いもんで、国家レベルでしか製造出来なかったのですよ。

それなりの技術で、巨大な箱物を作るぐらいの予算を投じて鋳造するわけです。
これは凄い、特別なことなんですね。

古墳時代に自らの顔を映すものなんてありません。
湖面だって、風が吹けば波が立ちます。

だから鏡と言うのは奇跡に近い、信じられない道具なわけですね。

鏡を持っているという事は物凄い権力を持っていた

その様に言えるのです。

そしてです。

古墳時代と言えば棍棒とか石で殴り合ったり、そんな感じの決闘だったりするのです。

そんなレベルの話しで剣を持っているのは物凄いことなんですね。
凄い力ですよ!

剣で来られたら、剣のない人は太刀打ちできませんからね。

剣は軍事力の象徴です。

今で言うならイージス艦を持ってるようなもんでしょう。

だから鉄で出来た剣は、それそのものが王権の象徴なのです。

この様に3つの宝物
三種の神器は価値のあるもの!意味のあるもの!

地上世界を統治するのに必要なもの!

これが授けられたのです。

そして三種の神器は邇邇芸命から、その子供、その子供、その子供と代々継承され、やがて神武天皇に行き着くのです。

今上陛下で代125代。
代々その宝が継承されて、今も天皇陛下のお手元にあると、そういう事なんです。

この天孫降臨は邇邇芸命が降臨した!
と、言うだけでなく天皇の証である三種の神器もこの時に地上世界に神の手によって持ち込まれたという事が解るのですね。

古事記を摘んで日本を知る39

2016-10-19 19:00:49 | 古事記
しばらく時間が空いてしまいました。

久しぶりの古事記です。

前回のおさらいは38にてお願いいたします。

それでは日本人なら知らねばならない古事記の世界へ参りましょう。

天下り

前回、ようやく国譲りの話がまとまりました。

ですので、誰か行って地上世界を治めなければなりませんね。

しかし、天照大御神が降りてしまっては天上界である高天原を統治する方がいなくなってしまいます。天上界が留守になる。

さすがにこれはちょっと無理!

ですから、その息子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に「じゃあ、あなたが行きなさい」と話します。

すると「私が下る準備をしていますと、その間に子供が生まれました」と言うのです。
そして「その生まれた子供に行かせてはどうでしょうか?」と。

天照大御神は「あぁ、それでも良いでしょう」ということになります。

天忍穂耳命の子供ですから、つまりは天照大御神の孫となりますね。
それが邇邇芸命(ににぎのみこと)です。

高天原、つまり天上界の統治者、日の神の孫。
その方が降りて来る。
だから天孫降臨なのです。

もしお父さんが降りてくれば『天子降臨』となったでしょう。

天下りて言葉がありますが、これは1300年前にできた言葉なんですよ!
古事記が初めて。
天孫降臨こそ正に天下りなわけです。

神様には該当しない

天照大御神は女神といわれますね。

女の性質を持った神様だということです。

最初に地上に降りて行ったのは天孫です。
女神の孫が降りた事になります。
その子孫が初代の天皇神武天皇になります。

あれ?みなさんお気づきですか?

天照大御神からみたら、これ最初の天皇は女系天皇という事になりますよね?
その様に言う人もいます。

昨今、男系か?女系か?なんて、皇位継承について色々議論があります。
女性宮家創設か?なんて話しもありますね。

私個人の意見として「女性は既に天皇ではない」という意見です。
そういうと「最初は女神の孫だから女系じゃないか」とか言われるわけです。

しかし、この主張は大きな間違いです。

そもそも我々が議論している女系・男系というのは、我々人類の話しです。
或いは地球上の生物の話し。
これそのまま神代に持ち込めるのか?
そういう話しです。

男神・女神というのは、これは人間の男女とは一致しません。
男性的な性質の神様、女性的な性質の神様をそれぞれ男神・女神と言っているわけです。

XYとかXXとか遺伝子の話しを神様に持ち込めるはずはありません。

そういうことですから天照大御神は女神=女性ということではありません。

人間は哺乳類で男女があって子が生まれます。
しかし、神様はそうではありません。

交わりで子が生まれる事もありますが、男神が目や鼻を洗って生まれたりするんです。
ですから神々の誕生は生殖で誕生する訳ではありませんね。
最初の神様なんて宇宙の大パワーの中で忽然と現れた訳ですからね。
親が誰かすらわからんもんですよ。

ですから、最初が女系なんて話は違和感しかありませんよ。

神に男も女もあるかい!

誓約(うけい)で生まれた正勝吾勝速日天忍穂耳命、この神様は天照大御神の首飾りから生まれたのです。
男神ですね。
これが天照大御神の子である!と観念された。
ところが須佐之男命の剣から生まれたのは女神。

これはどっちがどっちの子だ?
て、話しになりましたよね?
結局結論に至りませんでした。

一応、須佐之男命は『自分の心が清らかだから女の子が生まれた!ワッハッハ!』とか言ってました。
その割には、男の子の方は『正に勝った!私が勝った!』と言う名前なわけですよ。

どっちが勝ったかようわからん!

古事記では、そうなっているんですよ。

古事記では勝敗をはっきりさせない方式が取られてるわけですね。

実際は正勝吾勝速日天忍穂耳命天照大御神の首飾りから成ったわけです。
でも、首飾りから単純に成ったのではなく、これは須佐之男命が天照大御神の首飾りを口に放り込んでガジガジガジガジ!と噛み砕きブハっ!と息を吐いて、その息の霧の中からブワンブワンブワ〜!て成ったのが天忍穂耳命です。

これどっちの子でしょう?

動作は須佐之男命。
物は天照大御神。

じゃあどっちの子でしょうか?
そう言ったらこれは両方の子供と見るべきでしょう。

自分だけで自分の道具で生まれた子ならば、それは自分の子供でしょう。
しかし、他人に物を使って生まれたならば、これは両方の霊力を受け継いだと考えるべきです。

この時、生まれた男の子と女の子は皆様、天照大御神と須佐之男命の子供だ!
と、この様に観念すべきです。

それに天照大御神から見るからおかしな解釈になるんです。
これは見る方向が間違っているんです。

須佐之男命も天照大御神も、生みの親は伊邪那岐神です。
伊邪那岐神から見れば、天照大御神も須佐之男命も子供。
この二人が生んだのが正勝吾勝勝速日天忍穂耳命です。

つまりは伊邪那岐神と邇邇芸命は男系で繋がっているのです。

伊邪那岐神と神武天皇も男系により繋がっているということです。

そこに女系の継承はありません。

天照大御神も須佐之男命も同格の神様ですから、二人で生んだ!と観念すべきでしょう。

ならば伊邪那岐神から見れば女系の継承なんかは一度もない!ということになります。


当事者となる覚悟

2016-10-17 23:00:33 | 草莽崛起
今般、国会では稲田防衛大臣への下らぬ質疑で紛糾しましたね。

まぁ、さすがに白紙領収書はダメですよ。

なによりも今回の質疑はPKOですよ。

南スーダンにPKOで派遣されている自衛隊に新任務を与えるのか?
駆け付け警護はどうするのか?

それを少し考えてみたいと思います。

新任務

今晩、政府は新任務に対し判断を来月に先送りしました。

この新任務とは駆け付け警護を含むものです。

この判断の先送りに関しては、国会審議の停滞を避ける為と見られ、重要な審議を避けた姑息な判断であると私は見ています。
安倍政権と言えど、これは批判されて然るべしと思います。

南スーダンではこの度、武力衝突がありました。
これはやはり、どう見ても武力衝突です。
現地の治安状況は実に不安定であります。

その上で、命をかけて任務にあたる自衛官の安全を考えるならば、やらなければならない議論を避けたのはより自衛官の身を危険に晒す恐れがあるからです。

現地の治安は確実に悪化しています。

質問する側は戦闘行為という。
政府側は違うと言う。

しかし、これは普通に見れば明らかな戦闘行為が行われているのです。
普通に日本語で言うならばやはり現地で戦闘行為、武力による衝突が起きているのです。

政府側は戦闘行為に対し『国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し物を破壊する行為』と定義付けているのです。
これはイラク派遣の時にも幾度と繰り返されて来た議論です。

これはイラクでも似たようなことが起こりました。
これに対し質疑において「これは戦闘行為だろう」と出ました。
しかし、政府側の答弁は「いやいや、国際的に…云々」と繰り返す。

つまり、これは国際的な紛争や戦闘行為ではなく、例えばイラク国内、或いは南スーダン国内での衝突であって本法の定める国際的な紛争ではないのですよ、と言う答弁です。

イラクも南スーダンも、自衛隊が派遣されている場所が他より比較的安定した地域であるという見方をしているのです。

しかし、南スーダンのジュバ辺りは確かに安定した地域ではあったものの今回の武力衝突は、そのジュバ近辺であったわけです。

その中で、この政府答弁は苦しい答弁と言えるでしょう。
先送りした判断は来月には決めなければなりません。
その際、もう少し実のある議論と判断をせねばなりません。

このPKOは国連安保理決議により派遣されており、我が国は主要国でもあります。
その日本がどう振る舞うかを世界が見ているわけです。
更に言うなら、主要国である日本がこのPKOから撤退すれば、他国も撤退を始める事になります。

その意味においても非常に重要な判断をしなければなりません。
憲法9条を持つ我が国が、この憲法と自衛隊法の縛りの中で自衛隊を都合よく使えば犠牲を払うのは自衛官です。
自衛官の志にだけ頼り、足して二で割る様な判断をすれば益々自衛官を危険に晒す恐れがあります。
危険な任務は付き物だ!という自衛官に対する国民の意識は、これは自国防衛を考えても危険極まりないでしょう。

しっかりと裏打ちしてやらねば、自衛隊は動けません。
自身の安全を確保するのも、現地では自衛官自身です。
その根拠をしっかりと与えなければ、座して死を受け入れる事態になります。

憲法前文に書かれた平和主義、平和への希求こそがPKO派遣の意義です。
そうやって平和を希求するならば、それなりのリスクを覚悟せねばならない。
その議論をしなければなりません。
しかし、その議論を妨げているのが憲法9条です。

PKOの変容

南スーダンでは危険な地域になってしまい、停戦合意は破られてしまっています。

PKOは『平和維持活動』という意味です。

本来は国連が紛争当事者間に立ち停戦や軍の撤退の監視を行うことで事態の沈静化や紛争の再発を防止し、当事者間の対話による紛争解決を支援する軍事的活動を指すのです。

その中身は停戦監視、パトロール、インフラ整備などがあります。

軍事的活動ですから、これにあたるのは我が国ならば当然自衛隊ということになります。

防衛大臣の答弁では自衛隊派遣先は戦闘地域ではない、比較的安定した地域での派遣活動だと言っています。

これは意外にも的はずれではありません。

自衛隊の任務はインフラ整備や施設整備に生活支援などで任務にあたっているのも施設部隊であり戦闘部隊ではないからです。
国連側も日本の事情は充分把握していますから戦闘部隊の派遣を要請していません。

しかし、元々は国対国を前提にしていたので『国同士の停戦なら破りませんよね』ということで戦闘行為は想定されていません。

紛争に疲れたとか、もう辞めたいとか言う紛争当事国の間に入って中立を保ち停戦監視するなどが任務であったわけです。
ですから戦闘行為を想定していません。

その上で自衛隊の駆けつけ警護が新たに任務として加えられました。
実際法律に『駆けつけ警護』なる文言はなく、武器使用の法律が変わった為に駆けつけ警護が出来るようになったのです。

駆けつけ警護はあくまでPKOの要員やNGOの要員を対象にしたものです。

国連平和維持活動等に対する協力に関する法律
第二十六条が次の通りです。
従事する自衛官は、その業務を行う際に、自己若しくは他人の生命、身体若しくは財産を防護し、又はその業務を妨害する行為を排除するため、やむお得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる

これが駆けつけ警護の根拠になります。

ところが、自衛隊は安定的に安全な場所とされる地域に派遣されます。
その意味において考えるならば安全な場所なら駆けつけ警護しますよとなり、安全でない場所には派遣されませんから本当に必要な危険な場所では駆けつけ警護しませんという事になります。

かなり矛盾してしまいます。

安全な場所なら警護はいらんでしょうよ!

PKOは主に4段階に分かれます。
これは段階というだけでなく、時代により分かれた世代とも言えます。

第一段階
停戦監視(中立的立場で停戦監視)
紛争終了後に当事者同士が休戦停戦合意を結び同意する場合。
第二段階
平和構築活動(複合型)
停戦監視に加え武装解除、難民、避難民帰還、地雷除去、選挙支援、人権保護。
第三段階
平和強制(戦闘行為を行う)
停戦合意が結ばれていない紛争に対しても国連が介入。
第四段階
一つの国連を目指した統合ミッション
人道支援や開発支援を専門とする他の国連機関と連携し、停戦監視〜平和構築〜人道支援を効果的に行われるようにする。

と、以上の4段階(4世代)に分かれます。

日本は第二段階(第二世代)を行なっているのですが、しかし世界は既に第三段階(第三世代)へと入っているのです。

つまり紛争地域に強制介入しても紛争を止めさせるという段階に踏み込んでいるのです。

これが世界と日本のPKOに対するギャップとなっているのです。

この第三段階に至ると、これはもう軍隊にしか出来ません。
その上で軍隊としての位置付けがない自衛隊のPKOは中途半端な状態にあるのです。

PKOは平和維持の為の軍事的行動であるからです。

そもそもPKOは国対国の紛争しか想定していません。現在、国対国などの紛争はほぼありません。
ほとんどが内戦です。

第一段階では、国対国の紛争です。
第二段階は内戦が考慮され、複雑な任務に対応する為に複合型になっているのです。

日本の五原則

1、紛争当事者間の停戦合意が成立していること

2、受け入れ国を含む紛争当事者の同意

3、中立的立場の厳守

4、1〜3の条件が満たされなくなった場合に撤収が可能

5、武器使用は要員防護の為の必要最小限に限る

これは世界のスタンダードと異なるものです。

1の紛争当事者間の停戦合意が成立について、世界は停戦合意が破られても撤退出来ません。

2の受け入れ国を含む紛争当事者の同意、これも世界は重大な人権侵害が行われていれば介入をします。

3の中立的立場の厳守についても、世界のスタンダードは目の前で人権侵害が行われた場合、その行為を行う相手を武力で止めます。

よって4にある撤収は出来ません。

5に関しては、武器使用権限の見直しにより、駆けつけ警護が実施可能となりました。

そこで南スーダンを見れば、今や大統領ですらPKOに懐疑的というか反感を持っています。
しかし、重大な人権侵害が行われる可能性がある為、撤退はあり得ません。
事実、稲田大臣訪問直後に民間人が乗ったバスが襲撃され22人の死者が出ています。

以前のPKOならば、そこで撤退していたのですが現在の国際社会は積極的に関わる方向に向かっているのです。

例えば、重大な人権侵害に対し対抗するとなれば、人権侵害を行なった側と戦闘になるわけで、そうなると規定の3にある断固たる中立的立場は意味を無くします。
しかし、例えそうなったとしても人権を徹底的に守るんだ!というのが今や国際的認識となっているのです。

そうなると、PKOそのものが紛争当事者となり得るのです。
それでも人権侵害は許さない!
これが世界のスタンダードです。

その為、4にある撤収は出来難くなってきます。
もし、重大な人権侵害があるにも関わらず撤収や撤退をすれば『人権侵害を放置した国』として国際社会から徹底的に叩かれる事になるでしょう。

実はこのPKOの変容に『これじゃたまらん』と主要国、つまりG7と呼ばれる先進国が派遣をしなくなっているのです。

しかし、これらの人権侵害を放置すれば、シリアのアサド政権が徹底的に反政府を叩き、そこに介入しなかった為に自称『イスラム国』の様な組織が跳梁跋扈する事態になっているのです。

それ以前にはルワンダ大虐殺ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際のPKOの失敗により大虐殺を招き重大な人権侵害を引き起こしたのです。
実は、これこそがPKOのトラウマとなり現在の積極的介入となっているのです。

1948年から現在までPKOで3420人の犠牲者が出ています。
つまりはPKOとはこういうものなのです。

PKOに日本が自衛隊を派遣するならば、これらの覚悟をせねばならないのです。

国内法に於いて警察のごっつい版という位置付けである自衛隊、軍隊ではない自衛隊に現憲法、現行法のまま任務だけ増やせば当然リスクはたかまります。

では、どうするのか?

PKO派遣を辞めるのか?

自衛隊の位置付けを変えるのか?

とにかく一番困るのは自衛隊員そのものです。

国際貢献に対し、我々主権者はもっと深く考え議論しなくてはなりません。

この中途半端な関わりこそがリスクだと知らねばなりません。

そして誰も信用しない

2016-10-14 18:00:42 | 草莽崛起
さて久しぶりのアップになります。

ツイキャスを始めて何回になりましょうか…

まぁ、なんやかんやで3時間ほどを一人で好き放題喋っております。
与太話に毎度お付き合い頂きありがとうございます。

色んなニュースがありますが、兵庫県の国道で体が真っ二つになった事故がありましたね。

警察に停止を求められたが、警官の足を轢き逃げたライダーです。

警官はこのライダーをすぐさま追跡しましたが、対向車線に入るなど無謀運転で振り切りました。
しかし、対向車のバイクと接触。
弾みで電柱を支えるワイヤーに激突。
そのワイヤーで上半身と下半身が真っ二つ。
上半身は道路と平行する線路に飛ばされ、山陽本線が一時不通。
男性は即死。

と、言う内容です。

体が真っ二つでは恐らく即死ではなかったと思いますがね…

まぁ自業自得というヤツです。

しかし、ネット上では警察を非難するコメントが溢れていました。
更に「自業自得とか言ってる日本が嫌だ」とか言うコメントもあったとか。
全くアホな発言ですね。

独自の調べでは警察に落ち度はないと判断できますし、更にこのライダーは警察に突っ込んで言ったとも聞いています。
こんな無謀をすればアメリカなら即射殺です。
また警官が足を轢かれています。

当然追跡をします。

しかし「警察の追跡が強引だったのでは」とか言っているのです。
これは自業自得です。
自業自得を否定するなら、この様な無謀や無法をする者の責任は社会が取るのでしょうか?

もし社会が責任を取ると言うならば私はこの様な事をやる恐れのある人間は、社会から隔離して外に出さず監禁しておきます。
社会に責任を被せるならば、この様な事を未然に防ぐことが重要になります。

今回、幸い本人以外は大した被害はありませんでした。
しかし、他人を巻き込む恐れもあった事は容易に想像出来ます。
こんな無謀運転をやれば誰かが死ぬ。
その死ぬ『誰か』は今回本人であったと言う事ですね。

これで他者に被害が出ていれば殺人にもなります。
そんな人殺しをやりかねない人間を野放しには出来ませんから社会の責任として事件を起こす前に先に捕まえておき、監禁します。
これが自業自得の責任を社会が取ると言う事です。

例えば殺人を犯した者がいても、その殺人者に責任はなく殺人を犯したのは、殺人者に責任があるのではなく『社会』に責任があるので、殺人者は無罪です。
これが社会を責任とする事です。
ですから、殺人を犯す恐れのある者は予めしょっ引いて監禁します。
社会の責任として未然に防ぐことが重要です。

まるでどこかの国の様ですね。

我々は例えば、しっかりとした交通教育を受けて、受けた教育が必要な水準に達し初めて車やバイクを運転出来るのです。
そういうルールです。
ルールは民主主義の根幹です。
各々が個人の自由を謳歌する為にルールを作り、そのルールに従い社会を成り立たせる。
これが民主主義です。
社会が全ての責任を取るなば自由はありません。

このライダーは交通教育を受け運転免許を取得しているのです。
その様な者はルールに従わねばなりません。

先ず、我々は何が正しいのかを決めなければ、ルールは作れません。
我々のルールは先ず教育を受けることから始まります。

このライダーがやるべきは、警察から停止を求められたらバイクを停止する事です。
これがルールです。
法を遵守するからこそ我が国は自由を謳歌出来るのです。

個人の責任を取ることが我々の社会のルールではない、これが基本です。
好き勝手やって、他人を巻き込むことを良しとするルールは我が国にはありません。

妄想

今般中日新聞がやらかしました。

明らかな捏造記事を掲載しました。

書いた記者も認めています。

どうしようもない言い訳をしてますが…

マスコミと言うのは、この様な事をやらかすものなのです。

今更驚きもしません。

どうしても自らの妄想を真実にしたいようですね。

困ったものです。

それで一人前に『報道の自由』だけは宣うのですから呆れたもんです。

一体、報道の自由とはなんでしょうか?

結論から言うなら
報道の自由などありません

そんなものは我が国にはありません。

報道の自由など現憲法にも現行法にも一切担保されていません。

ただし『言論の自由と表現の自由』は憲法に担保されています。

ですから、マスコミはどの様な表現をし、言論を展開しようとかまいません。
しかし、それは報道ではありませんね。

マスコミは報道を国民の知る権利を代わりに行使しているとか国民に知らせる責任があるとか言ってます。
それが事実ならば報道とかジャーナリズムと言う物は必要なものです。

しかし、事実は偏向報道・捏造報道のオンパレードです。

国民の知る権利を代行するどころか国民の知る権利を阻害しています。

我々日本国民は主権者で、その権利は明確です。

知ることは主権者として国をどうするのか?
一体誰を我々の代理人として国政に送るのか?

それらを考える為に『知る事』が重要です。

マスコミはこれを阻害しているのです。

つまり
報道の自由とは国民の知る権利に乗っかっているに過ぎないわけです。

其れを阻害するとは、つまりは我々の知る権利の侵害しているのです。
これは明らかな人権侵害です。

我々はマスコミに人権侵害を受けているのです。

マスコミがジャーナリズムだと主張しないなら、言論の自由、表現の自由と言う事で問題はないでしょう。
フィクションでもなんでも書けば良い。

しかし、報道だと主張するならば、これは知る権利に乗っかっているのですから偏向報道や捏造記事は許されません。
主権者への人権侵害です。

と、まぁこれは以前からこのブログでも主張してきましたからご存知の方もおられると思います。

既得権まみれ

今や我が国は正しい方向に向かおうとしています。
しかしメディア、特に新聞というヤツは相変わらず全時代の様です。

だいたい新聞社というのは社屋建設に対して総務省から国有地を安く払い下げてもらって、社屋をそこに建設しているのです。
これは実際のところ優遇措置です。
国有地は我々主権者のものです。
それを一等地の国有地を安く払い下げてもらえるのです。

さらに日刊新聞紙法という法律です。

商法の大原則として、株式には譲渡制限はありません。
譲渡制限がないから、いつでもオーナーは代わり得るわけです。

オーナーだからと胡座をかいてのうのうとはしていられません。
いつオーナーの座を奪われるかわからない。
だから、きちんと経営をして頑張ります。
緊張感を持って仕事をするのです。

しかし新聞社には譲渡制限があるのです。
これが『日刊新聞紙法』なのです。

全国紙にしろ地方紙にしろ長々とオーナーが続くのです。
朝日新聞にしても、ずっと同じオーナーです。
株式譲渡に制限があるからオーナーが変わらないのです。

しかし新聞社のオーナーは現場に意見などほとんどしません。
すると現場の社長が経営のほとんどを握る事になります。
そうなると絶対クビにならない社長が出来上がってしまいます。

株式譲渡がなく、オーナーが口出ししない。
経営陣はなんのプレッシャーも受けません。

『ガバナンスが…」なんてよく聞きますが、そういう新聞社こそガバナンスが利かないのです。

新聞社の株式が譲渡されなければ、絶対に買収されません。
そして新聞社がテレビ局を持つのです。
そうなるとガバナンスの利かない新聞社と同じでテレビ局もガバナンスが利かなくなるのです。

世界を見渡せばメディアとて買収されます。
経営者も変わる事もあります。

2015年フィナンシャルタイムズを買収した日経新聞。
親会社のイギリスピアソンから株式を買収して日経のグループに入れたのです。
これは極々当たり前の企業買収です。

しかし日経新聞の方は株式が譲渡される事はありません。
だから、決して買収などされません。

これは地方紙でも同じ。

だから沖縄タイムズや琉球新報はのぶのびと嘘や偏向を書きまくります。

このある種の商法違反の様な状態を許しているのが、日刊新聞紙法というものです。

不祥事があれば『ガバナンスができてない!』とか書きまくる新聞。
一番ガバナンスが出来てないのが新聞なのです。

そのガバナンスができてない新聞社がテレビ局も持っているのですから、これまたガバナンスは利かないのです。

お役所と持ちつ持たれつの関係がマスメディアというものです。

そういう事情を総務省も重々承知しているのですから、何をか言わんやです。

たまに「放送法」を持ち出しテレビ局を脅してみたりしますが腹の中はお前たちの既得権を守ってやってるんだぞというわけです。

幾ら主権者がマスメディアを糾そうと思っても、この腐った法律がある限り既得権まみれのメディアは、実は屁とも思ってないのです。

ですから朝日新聞など、吉田清治のヨタ話しだろうが、本多勝一のクソ話しだろうが、面白おかしく書いているのです。
そして主権者の知る権利を侵害しながら、国民に対して謝罪などしないのです。

我々はこの辺りもしっかり見ていかねばなりません。

世界を幸せにする

2016-10-05 18:00:54 | 草莽崛起
私の祖国は日本です。

私は日本に生まれ、日本に育まれ今に至ります。
そして私の家系は遡っても日本人です。

そして私は愛国者です。

では何故、愛国者なのかと言えば、それは日本に生まれ育まれたからです。
日本は素晴らしい国です。
しかし、素晴らしいばかりではない。
問題も沢山あります。

しかし、私には日本しかないのです。

例えば私が韓国に生まれたならば私の祖国は『韓国』という事になります。
しかし、私は韓国に生まれてはいない。

私がこの日本に生まれたのは、その様に『日本を祖国とする』意味があったのでしょう。

生まれと祖国が一致しているのは幸せな事です。

例えば在日朝鮮人韓国人は気の毒です。
生まれは日本、しかしルーツは朝鮮半島。
日本に生まれ、日本で暮らし、日本の良さを知っている。
しかし、祖国は朝鮮半島です。
そしてその祖国を見れば、トンデモ国家なのですから大変です。
日本人ではないが日本に生まれ日本を理解も出来ているけど、家庭教育や祖国の教育も受けて心の葛藤やいかばかりか…
誠に気の毒です。
だからこそ心の安定がなく、常に矛盾を抱えて生きねばなりません。
日本人になるか?
朝鮮半島で生きるか?

アイデンティティが揺らぐ人々は気の毒です。
だからと言って、それを肯定したり同情したりはいたしません。
真っ直ぐ歴史の事実と根拠、論理性を見つめるならば、その葛藤は意味のないものになるだろうと考えるからです。
そんな事実に生まれたことを気の毒だとは思いますが、日本人がそれを解決する立場にはないのです。

祖国を脱し日本人となる在日の方々も多数いるのですから、方法は数多あるわけです。
私は嫌なのに無理に日本人になる必要はないと思うので、都合で帰化するなら辞めた方が良いでしょう。
そんな帰化をすれば心のバランスを取るのは益々難しくなります。

それは我が国が朝鮮半島を置き去りに『更に発展』するからです。

我が国も敗戦後の嘘と矛盾に悩まされ、葛藤してきました。
しかし、我々は自らを奮い立たせ歴史の真実を見つめなおし、そして自らを変革しようともがいているのです。
自ら変わらなければ、変えられないのです。

今日は十月五日。
横田めぐみさんの誕生日です。
13歳で北朝鮮ごとき三流国家に拉致され、帰らぬままついに52歳の誕生日を迎えてしまいました。
1977年11月15日に拉致されました。

11月15日は我が尊敬する坂本龍馬の誕生日で命日です。
勝手ながら、僭越ながら私にはこの日本に生まれ、この日本を祖国とする理由が、此れではなかったのか?
と、勝手に感じています。

我が国の問題の全てがこの拉致に詰まっているのです。
だからこそ我々は自らの手で変えなければならないのではありませんか?

自らのアイデンティティをしっかりと見つめ直せば、自ずと『日本人としての哲学』に思いが至るところです。
我々はその哲学を我々の手に取り戻すことを考えなければ民族は滅びます。

さてさて

前置きが長くなってしまいましたね。

評論家や経済学者なんてのは全く信用出来ないもので、とある紫のババァ経済学者などはアベノミクスを『アホノミクス』などと口汚く揶揄したりしていて、正直「こんなアホの話しが信用できるのか?」と思う訳です。

株価はアベノミクスの所為で8000円代まで下がり、為替は1ドル=¥50になるとか言う始末。

それでも真っ直ぐ真ん中を事実と根拠と論理性で鋭く見る識者も存在します。

宋文洲という支那人。
これは明らさまな反日で私は大嫌いです。
しかし、ビジネスを展開するリアリストとしての目は評価できるものです。
実際に資産が数百億と言われる人物のリアルな先見性は冷静に考えなければなりません。

暴落する支那経済を鋭く読み、一人勝ちに似た金儲けをしたのです。
この先見性こそが支那人の強みなのです。

今は昔と産業構造が変わっています。
金が金を産む、そんな時代でもあるのです。
頑張って経済が良くなる時代ではありません。

デフレが続いて国内需要は伸びなくなりました。
我が国は輸出型経済ではなく、GDPの6割が国内需要なのです。

国内需要が増えないのは将来への不安から、金を使わず貯めて置こうとするからです。
言い方を変えれば、預貯金をし金を使わないのは将来に備えてです。
目的はただ将来の飯を確保する為。

例えば、将来「こんな楽しい事があるぞ」とか「将来に不安はないよ」となれば人は金を使うのです。

我が国の指導者は国民にその楽しい事を示し実行しなければなりません。

メタンハイドレートによる資源産業の勃興輸出型畜産農業なども一つです。

しかし、それだけではありません。

そこから派生する様々な産業も重要なのです。
経済が成長し、底上げが出来て皆が将来への不安や食う心配が無くなれば人は遊びを楽しもうとします。

江戸期の平和な時代、人々は戦さや食う心配がなくなったらどうなりましたか?
我が国の文化は一気に花を咲かせましたね。
食、芸術、そして遊び。

遊びを楽しむ

遊びが創造性を生み、世界を引っ張る時代になって来たのです。
いや、昔からそうだったのです。
あまり頑張ると古い時代に戻ってしまうのではないか?
そう思います。

遊んでいた方が世界を取れる!

遊ぶのは悪いことではありません。
これからの時代、遊びが勉強になるのです。
勉強をガチガチやるのではなく、遊んでいる人間こそが求められる。

勉強一本の人間では何も生み出せないのです。

これは近年、日本人によるノーベル賞受賞を見てもわかります。
受賞者は皆、冗談も好き、話しを聞けば研究をガチガチにやるのではなく、趣味だか仕事なんだか何なのか?と思うぐらい研究を楽しんでいます。
受賞者にとって研究は「好きな事をやっている」そんな感覚なのでしょう。

ノーベル賞物理学受賞の私が尊敬する小柴博士など、話しを聞くとまるで少年みたいで、それは楽しく物理を語ります。

例えば、大阪近畿大学などは近代マグロで有名ですが、マグロだけではなく産学連携にて芸術やファッションの世界にも関わっています。
学生の就職率は高く、学生達は『遊び』の中から自らの学びを得ているのです。
これはやはりガチガチに勉強していては出来ません。

官僚などを見てもわかります。
ガチガチに勉強をして東大に入り、ガチガチに勉強して官僚になる。
だから官僚はバカばかりなんです。
財務官僚が東大法学部出身者が多いことを見れば『こりゃダメだ』としか思えません。

金持ちアメリカ

近年、アメリカは既に力を失いつつあります。
しかし、それでも世界の超大国。
アメリカが此れ程に強くなり世界に受け入れられているのは遊びを売ったからです。

ハリウッド、音楽、スポーツ、車やバイクというモータリゼーション。
大衆文化社会
そう言えるでしょう。
アメリカ最大の発明です。

アメリカが金持ちだから大衆文化社会を作れたのではありません。
大衆文化社会を作ったからこそ金持ちになれたのです。

例えば、プロスポーツはアメリカの発明です。
ショービジネスとしてのスポーツ。
スポーツの分野に世界中のどこもショービジネスを持ち込む者はいませんでした。
アメリカはスポーツをビジネス化して、みんなを楽しませるものにしてしまった。
これによりスポーツの普及や発展も成してしまったのですね。

スポーツがプロ化し、大金が動く様になればスポーツ選手は大金を得ることが出来る。
元々移民だらけの貧しい労働者しかいなかった国で一攫千金の夢を見る事が出来る。
それは選手だけではなく、それに関わる仕事が沢山増える。

産業革命を背景にフォードなどは、画一的な大量生産で車を作り、車の値段を下げ庶民も買える自動車を作った。
頑張れば手が届くという夢を持てば人は良く働くものです。

こうして出来た、大衆文化を国民は楽しむ事が出来る様になったのです。
ハリウッド映画、音楽、芸術。
中間層というほどではないけれど、伸びしろを備えた庶民層を作り出す事に成功したのです。

高める

じつはアメリカの大衆文化を上手く取り入れる事が出来たのは日本だけです。

アメリカが大衆文化社会で成功しているのを見て日本は直ぐに取り入れました。
その代表が野球です。
ご存知、野球は日本で現在も人気のスポーツです。

元来、好奇心の強い日本人。

戦後も日本にはアメリカ文化が大量に入ってきました。
占領政策は大きな要因ですが、アメリカから楽しいものがいっぱい入って来たのです。
好奇心が強く遊び好きな日本人はこれを上手く取り入れ、大衆の力で戦後の日本を発展させたと言えるでしょう。

更に日本とアメリカには共通したものがあったと思います。
それは大衆でしょうね。
ヨーロッパなどは貴族と下層の階級社会。
庶民層や中間層がない。
だから野球などは欧州では普及しませんでした。
サッカーが盛んな国は、階級社会か貧しい国。
ボール一つで出来るサッカーは普及しました。

階級社会のヨーロッパ諸国では大衆がないのか、大衆文化が発展する要素がなかったのです。
これは朝鮮半島にも当てはまる。

我が国は天皇の下、皆が平等という考えが根付いていたからこそ、江戸期に花を開く文化。
その大衆文化の下地や素養をそもそも身に付けていたのです。

大衆文化社会を形成する為には、そもそも大衆の存在が必要なのです。
それが民主主義社会です。

それを見るならば我が国は昔から民主主義国家であったということは論理的な事実です。

文化を売る

世界史を見ても常に文化を売る国が繁栄して来たのです。

ヨーロッパ文化はギリシャが発祥でギリシャはローマに文化を売りつけました。
ローマは全ヨーロッパに文化を売りつけ、ヨーロッパはイギリスに売りつけ、イギリスはアメリカに売りつけ。
日本はアメリカに随分売りつけられてきました。

次は日本が世界に文化を売る時代!

例えばフランスは文化については国粋主義です。
テレビは日本製のアニメをそのまま流しはしません。
タイトルも主人公の名前も変えてフランス製に見える様に作り直して流しています。

フランスの子供達は日本製とは知らずに見ているのです。
放送時間も外国製番組が一定時間を超えてはいけないのです。
これはフランスがよく知っているからです。
それは文化の影響が非常に大きいと言うこと。
文化を売る国が世界の中心になる
そう知っているからです。

日本の文化は世界で大人気です。
反日の支那朝鮮でも『まがい物』が出る程です。

これは我が国の文化の需要が大きいと言うことです。

育ち

大衆文化社会を作ったアメリカは金持ちななりました。
しかし、作っている製品やサービスは低級品ばかりです。

高品質なものは日本にしか作れません。
アメリカで売られている高品質なものは日本製ばかりです。

我が国は支那や韓国の作る安い製品に負けてきました。
しかし、それは一時のもの。
日本には世界に売れる文化を持っているのです。
安い製品で一時は利益を得ようと、その文化的バックグランドが無ければいずれ凋落の一途を辿るのです。
安い製品を大量生産しても利益は少ない。
利益が少ないからデフレになる。

これからは我が国は、その文化的バックグランドを基に高品質な高級品を売りつければ良い。

日本人は独特の創造性を持っています。
それは文化的バックグランドが起因します。
このトップ技術を維持していかねばならないのです。
しかし、我が国にはそれが出来ます。
技術開発や研究開発には多大な資金が必要です。
しかし幾ら会社が金を払っても、そもそも最初に閃きがなければ始まりません。

閃き、思いつき、センスは金の問題ではありません。
要は素養が問題です。

一言で言えば『育ち』とでもいいましょうか。

思いやりの心や遊び心。

21世紀の産業のカギは『育ち』です。
高品質の裏には育ちがあり、育ちの良し悪しが製品の良し悪しを決めるのです。
上品さ上質さをなどの高品質を生み出せるのは世界に日本しかないのです。
世界一育ちが良い。

日本の若者は「だらしない」とも言われるけれども、日本の豊かな社会で育っているから、みんな育ちは良いはずです。
だからこそ、そこを伸ばすことで若者は世界をリードする創造性のある高品質な物を作れるのです。

まぁ、言えば21世紀の新たな文化産業を生み出していけるのは安倍晋三タイプか?或いは田中角栄タイプか?想像すれば理解も出来ようというものです。
時代が既に違うのです。

我が国では文化的なものでなければ売れません。

例えばトイレなど、幾らプレハブの建物でも中に窓を作り、鎧戸にしてきちんと作らねば売れません。
アメリカなどは風通しの為か、ドアは膝までしかなく窓もない。

日本で買ってもらうには文化的背景が必要なんです。
文化的でないものは売れないから自然と文化的な物を作る様になります。
それは日本人が高度に文化的だからに他ならないと理解できます。
日本人は貧乏な時ですら文化的なのです。

世界が欲しい

欧米では機能ばかりが重視され文化的な部分はコストと考えます。
しかし、世界の人間はそのコストを欲しがる時代になったのです。

例えばウォシュレットなんて典型的で、紙で拭くのだからわざわざ洗う必要なんかないのです。
しかし世界中からそれを求めてやって来ます。
無駄なコストと思われてきた部分を世界中が欲しがり、ウォシュレットは売れる。

そもそも、温水洗浄便座を考えたのはアメリカ人です。
元々は医療用に開発したのです。
しかしアメリカ人が作ると乱暴な製品しか出来ずに「こんなものいらない」となるのです。

ところが日本人が作ると文化的な製品になりました。
文化的だから売れてしまう。
アメリカ人は『清潔』さが商売になると気づいて開発したけれど、日本人は元々清潔です。

だから当初は売れないと考えていました。
しかし結果は飛ぶ様に売れました。

支那人もウォシュレットを爆買いします。
そもそも、信じられないほどに汚い便所しかない支那人にウォシュレットが必要か?
しかし、日本人が作る文化的な製品は支那人の心を掴んでいるのです。

マスクにしても、文化的な日本人は可愛いくしてしまったり機能性に付加価値を付けてしまう。
ヨーロッパ辺りでは「日本人は何でも可愛いくしてしまう」と言い出す程です。
芝犬のブームも、そんな背景があるのかもしれませんね。

清潔、衛生に限らず「いい匂い」とか「うまい」や「可愛い」とかそういう繊細で文化的なものは日本人にしか作れない

柄の悪い外国人も、その良さに惹かれる。

昔の欧米人は「自分達白人の方が日本人より遥かに優れている、文化的だ」と思っていたけれど、やっと間違いに気づいた様です。

日本の文化レベルは世界一高い!

世界はそれに気づき日本文化を欲しがる。

野蛮な行いで柄の悪い連中も惹かれる日本文化こそが日本人の強みです。

日本文化を売ることで、我が国は繁栄し世界は幸せになるのです。

そういう時代が来たのです。