第1部 ヨーロッパ・サブシステム
古き帝国からの出現
十字軍は、北ヨーロッパを、「ローマの崩壊」以後引き離されていた世界システムへ再統合するメカニズムだった。p56
13世紀「世界システム」のヨーロッパ・サブシステムにおける三つの主要参加者
・とりわけ12世紀、13世紀初頭にヨーロッパの新しい相互作用、あるいは東洋との相互作用を統御するシャンパーニュ大市の諸都市(トロワ、プロヴァン、ラニィ、バール・シュール・オーブ)
・13世紀後半と14世紀初期にこの重要な役割を引き継いだフランドルの工業/商業町(ヘントとブルージュ)
・北西ヨーロッパを中東の商品集散地に結び付けたイタリアの主要な海港(ジェノヴァとヴェネツィア)
第2章 シャンパーニュ大市の諸都市
1 経済的交換としての大市
遠距離交易の拡大のためのいくつかの基本的な必要条件
・安全性
・通貨の交換レート、負債の支払いと契約の履行を強制する何らかの方法
ブローデルの概観
オリエントとのつながりを持ち、商業的に発展しつつあったイタリアの海港都市と工業的に発展しつつあったフランドルの織物生産地帯の中間のいくつかの場所が共通の出会いの場として選ばれる。
しかしリヨンのようなもっと重要なローマの公道を利用でき、二つの大河川の合流地点にある街ではなく、シャンパーニュ地方になったのか?
前の二つの必要条件に加え、その場所を他の場所より一層魅力的にするための強い動機を持つ者がいなければならない。これが最も重要だった。
大市は、近隣の交易、地域的な交易、遠距離交易の組み合わせでできており、それぞれで扱われる商品は、最大限の機動性を必要と知るこれらの商人たちが遅れずに到着して販売できるよう、きちんとスケジュールが組まれていた。
交易者の種類
・大市の開催地である町自体の地元商人と、外国商人にサービスを提供する地元住民
・ハンザ(都市商人連合体)に組織されている、他のフランスの町やフランドルの町のからきた商人
・シャンパーニュ地方の西側と南側のさまざまなフランス都市から来た商人
・ジェノヴァと、それよりははるかに少ないが、ヴェネツィアの港から、あるいはトスカナ地方の内陸都市から来た、北イタリア都市国家の商人
・スペインやポルトガルやドイツ、イングランド、スコットランドのようなヨーロッパの辺境地帯から来た、比較的組織化されていない商人
・証拠はまだはっきりしたものではないが、ギリシャやキプロス島、シリアなどのオリエントから来た交易者
さまざまな町から来る商人たちは、いくつかの相互補助的な目的のために、連合を形成していた。
・大市に行くために、一緒に護衛隊を組んで、安全を確保した。
・(多国籍)カルテルのように活動し、伯から同一の好意的な取引条件を得ていた。
・大きな町から来る商人たちは彼ら自身の独立した宿泊施設、貯蔵倉、商館を維持していたが、小さな町から来る商人たちは、しばしば、施設、書記、運搬人、その他の人員を共有していた。
(当時の)イタリア人の類稀なビジネス上の独創性を讃えていたが、それでも十分な評価に値するわけではなかった。彼らは実際は、中東に追随していただけなのだ。p84
ブローデルは、シャンパーニュ大市の本当の独自性は、そこで交換された商品にではなく、「そこに見られる金融市場と初期の信用システム」にあると主張するが、それはイタリア人たちが牛耳っていたものである。p86
一世紀後、シャンパーニュ大市が衰退した理由
・政治的理由から生じた商人への通行の妨害
・シャンパーニュの競争優位性を失わせたフランスへの併合
・大西洋航海を可能とし、イタリアの港ジェノヴァ、ヴェネツィアと北方大織物都市をブリュージュを介して直接航路で結びつけることを容易にしたイタリア船の新型化・大型化
・ヨーロッパの低成長時代の前触れとなった黒死病
・フランドル地方への依存度を低下させたイタリア自体の工業化
・イタリア商人たちに行商を止めさせ、書簡や在住の「代理商」、支払い約束書による取引を行わせることとなった、商取引のやり方の変化
シャンパーニュ大市からの教訓
・外的な地政的要因が、ある場所が世界交易にとって「戦略的な」重要性をもつかどうか決定する上で、絶対的に重要
・必要とされる交易集散地の型は、隣接地の発達の度合いに大きく左右される
・ヨーロッパ中西部における河川輸送が重要になってきたために、またジェノヴァ人の船が大西洋に出ていける能力を手に入れたために取り残されてしまった。
第3章 ブリュージュとヘント フランドルの商工業都市
フランドルが前近代の世界システムにとって最も重要となったのは、1250年からおそらく1320年までの間である。p105
13世紀の間に、イタリアの商取引組織は、重大な変化を被っていた。
イタリアの会社の筆頭経営者は、旅をして回る代わりに、本拠地にとどまり、「代理人」が海外の支店を運営するようになっていた。p115-116
ブリュージュとヘントの衰退の主要因は、自然的、疫病的、政治的、経済的なものであった。
しかしその中で、政治的・経済的な変動要因の方が、より決定的だったように思える。
依存性が、フランドルの繁栄の基盤であった織物業と、時間をかけて手にした商業的金融市場機能の両方を、徐々にむしばんでいった。p122
第4章 ジェノヴァとヴェネツィアの海洋商人たち
第2部 中東心臓部
東洋への三つのルート
・コンスタンティノープルから中央アジアの陸地を横切る北方ルート
・地中海とインド洋をバグダード、バスラ、ペルシャ湾を経由して結びつける中央ルート
・アレクサンドリア-カイロ-紅海とアラビア湾そしてインド洋を結びつける南方のルート
モンゴルの成功は、この相対的に隔離された中国とヨーロッパを架橋し、生命を危険に陥れる伝染病の拡大を用意する結果をもたらし、14世紀後半の黒死病がその頂点となった。p215
モンゴルはその基礎として、貢納に寄生する性質を持っていたころから来る。
モンゴル自身は交易もしなければ生産もしなかったので、その生計を維持するためには、被征服民の技術と労働力に度を越えて依存していた。p229
(画像はプロヴァンの城門と城壁です)
古き帝国からの出現
十字軍は、北ヨーロッパを、「ローマの崩壊」以後引き離されていた世界システムへ再統合するメカニズムだった。p56
13世紀「世界システム」のヨーロッパ・サブシステムにおける三つの主要参加者
・とりわけ12世紀、13世紀初頭にヨーロッパの新しい相互作用、あるいは東洋との相互作用を統御するシャンパーニュ大市の諸都市(トロワ、プロヴァン、ラニィ、バール・シュール・オーブ)
・13世紀後半と14世紀初期にこの重要な役割を引き継いだフランドルの工業/商業町(ヘントとブルージュ)
・北西ヨーロッパを中東の商品集散地に結び付けたイタリアの主要な海港(ジェノヴァとヴェネツィア)
第2章 シャンパーニュ大市の諸都市
1 経済的交換としての大市
遠距離交易の拡大のためのいくつかの基本的な必要条件
・安全性
・通貨の交換レート、負債の支払いと契約の履行を強制する何らかの方法
ブローデルの概観
オリエントとのつながりを持ち、商業的に発展しつつあったイタリアの海港都市と工業的に発展しつつあったフランドルの織物生産地帯の中間のいくつかの場所が共通の出会いの場として選ばれる。
しかしリヨンのようなもっと重要なローマの公道を利用でき、二つの大河川の合流地点にある街ではなく、シャンパーニュ地方になったのか?
前の二つの必要条件に加え、その場所を他の場所より一層魅力的にするための強い動機を持つ者がいなければならない。これが最も重要だった。
大市は、近隣の交易、地域的な交易、遠距離交易の組み合わせでできており、それぞれで扱われる商品は、最大限の機動性を必要と知るこれらの商人たちが遅れずに到着して販売できるよう、きちんとスケジュールが組まれていた。
交易者の種類
・大市の開催地である町自体の地元商人と、外国商人にサービスを提供する地元住民
・ハンザ(都市商人連合体)に組織されている、他のフランスの町やフランドルの町のからきた商人
・シャンパーニュ地方の西側と南側のさまざまなフランス都市から来た商人
・ジェノヴァと、それよりははるかに少ないが、ヴェネツィアの港から、あるいはトスカナ地方の内陸都市から来た、北イタリア都市国家の商人
・スペインやポルトガルやドイツ、イングランド、スコットランドのようなヨーロッパの辺境地帯から来た、比較的組織化されていない商人
・証拠はまだはっきりしたものではないが、ギリシャやキプロス島、シリアなどのオリエントから来た交易者
さまざまな町から来る商人たちは、いくつかの相互補助的な目的のために、連合を形成していた。
・大市に行くために、一緒に護衛隊を組んで、安全を確保した。
・(多国籍)カルテルのように活動し、伯から同一の好意的な取引条件を得ていた。
・大きな町から来る商人たちは彼ら自身の独立した宿泊施設、貯蔵倉、商館を維持していたが、小さな町から来る商人たちは、しばしば、施設、書記、運搬人、その他の人員を共有していた。
(当時の)イタリア人の類稀なビジネス上の独創性を讃えていたが、それでも十分な評価に値するわけではなかった。彼らは実際は、中東に追随していただけなのだ。p84
ブローデルは、シャンパーニュ大市の本当の独自性は、そこで交換された商品にではなく、「そこに見られる金融市場と初期の信用システム」にあると主張するが、それはイタリア人たちが牛耳っていたものである。p86
一世紀後、シャンパーニュ大市が衰退した理由
・政治的理由から生じた商人への通行の妨害
・シャンパーニュの競争優位性を失わせたフランスへの併合
・大西洋航海を可能とし、イタリアの港ジェノヴァ、ヴェネツィアと北方大織物都市をブリュージュを介して直接航路で結びつけることを容易にしたイタリア船の新型化・大型化
・ヨーロッパの低成長時代の前触れとなった黒死病
・フランドル地方への依存度を低下させたイタリア自体の工業化
・イタリア商人たちに行商を止めさせ、書簡や在住の「代理商」、支払い約束書による取引を行わせることとなった、商取引のやり方の変化
シャンパーニュ大市からの教訓
・外的な地政的要因が、ある場所が世界交易にとって「戦略的な」重要性をもつかどうか決定する上で、絶対的に重要
・必要とされる交易集散地の型は、隣接地の発達の度合いに大きく左右される
・ヨーロッパ中西部における河川輸送が重要になってきたために、またジェノヴァ人の船が大西洋に出ていける能力を手に入れたために取り残されてしまった。
第3章 ブリュージュとヘント フランドルの商工業都市
フランドルが前近代の世界システムにとって最も重要となったのは、1250年からおそらく1320年までの間である。p105
13世紀の間に、イタリアの商取引組織は、重大な変化を被っていた。
イタリアの会社の筆頭経営者は、旅をして回る代わりに、本拠地にとどまり、「代理人」が海外の支店を運営するようになっていた。p115-116
ブリュージュとヘントの衰退の主要因は、自然的、疫病的、政治的、経済的なものであった。
しかしその中で、政治的・経済的な変動要因の方が、より決定的だったように思える。
依存性が、フランドルの繁栄の基盤であった織物業と、時間をかけて手にした商業的金融市場機能の両方を、徐々にむしばんでいった。p122
第4章 ジェノヴァとヴェネツィアの海洋商人たち
第2部 中東心臓部
東洋への三つのルート
・コンスタンティノープルから中央アジアの陸地を横切る北方ルート
・地中海とインド洋をバグダード、バスラ、ペルシャ湾を経由して結びつける中央ルート
・アレクサンドリア-カイロ-紅海とアラビア湾そしてインド洋を結びつける南方のルート
モンゴルの成功は、この相対的に隔離された中国とヨーロッパを架橋し、生命を危険に陥れる伝染病の拡大を用意する結果をもたらし、14世紀後半の黒死病がその頂点となった。p215
モンゴルはその基礎として、貢納に寄生する性質を持っていたころから来る。
モンゴル自身は交易もしなければ生産もしなかったので、その生計を維持するためには、被征服民の技術と労働力に度を越えて依存していた。p229
(画像はプロヴァンの城門と城壁です)