ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

作家たちの原風景 播磨文学紀行2

2020-12-05 21:12:06 | ヨーロッパあれこれ


作家たちの原風景 播磨文学紀行2

橘川真一 著

姫路文庫 9

ひめしん文化会 発行

神戸新聞総合出版センター 編集・制作



上田秋成の「秋山の記」

上田秋成が妻とともに安永8年(1779年)9月、播磨を歩いた時の紀行文。

大阪から須磨・明石を経て播磨に入り、市川沿いに北上し、辻川を通って但馬の城崎に湯治に出かけた。

柳田国男はどの道を通って但馬に向かったのか関心を持っている。p8-9



シーボルトの「江戸参府紀行」

文政9年(1826年)に江戸に参府旅行したシーボルト

往路で3月7日から11日まで播磨を見聞

帰路では6月19日から21日まで、海の上から播磨を眺めている。

3月7日、家島群島や赤穂の沖を通り、室(室津)の港に入港する。

室津で一泊し疲れを癒し、裏山の鳩ヶ峰を越え、正条の宿(揖保川町正条)で山陽道に合流した。これを室津道と称していた。

正条から揖保川を小さい舟で渡り、松林の間を歩くと龍野城が見えた。ここでヒバリの声を聞いた。シーボルトの故郷であるドイツのノヒバリに似た声であった。

斑鳩・山田を通って姫路に着いたのは午後も遅くなってからであった。

姫路でシーボルトを最も喜ばせたのは地誌「播磨名所」と見取り図であった。

3月10日、雪の姫路を朝の9時頃出発する。

市川を渡り、曽根で昼食をとった。そして加古川で宿泊。



長塚節の播磨路

長塚が播磨に関心を持ったきっかけは、家島からすぐれたうたを送り続けていた、姫路生まれの歌人岡本倶伎羅との縁がきっかけであった。

その倶伎羅とは会う機会もなく終わってしまうが、生涯で三度も播磨を訪れており、有名な白鷺の城のほか、飾磨の海、家島、明石の浜、瀬戸の海などのうたを残している。

明治38年(1905年)には神戸・須磨・明石に倶伎羅と会うため訪問している。しかし既に家島に転地療養のために移っており会えず、

飾磨の海よろふ群島つつみある人にはよけむ君が家島

などの短歌を残している。

倶伎羅は明治39年の秋、病が重くなり、故郷の八重畑に帰って翌年の2月に30歳の若さで亡くなった。



空襲の明石を描く、永井荷風の「断腸亭日乗」

昭和20年、相次ぐ空襲で東京を追われた永井荷風は6月3日に知人とともに明石に逃れた。

荷風にとっての明石は、焦土と化しつつ日本の中で、ただ一つフランスの詩人マラルメが描いた詩「牧神の午後」を思い起こすような素晴らしい風景であった。p102

そして憧れであったニースに似た景勝の地で、きびしい避難の日々を過ごしていた中でのひとときの安らぎであった。p107



数多く残る弁慶伝説 「義経記」に見る書写山

軍記物語「義経記」

室町時代の初め頃成立

その中に弁慶と書写山のことが詳しく書かれている。

軍紀というのは一種の語り物のため、史料としての信頼性は薄い。

しかし書写山をはじめとする播磨一円の弁慶伝説から見ると、弁慶が書写山に修行に来たという可能性は残る。
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