ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通

2023-03-25 07:56:57 | ヨーロッパ旅行記

 

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通
田中正明 編
昌文社 発行
2005年6月25日 初版

柳田國男が旅先から家族にあてた絵葉書の全容です。
国内篇は、明治二十三年から昭和二十六年にわたって投函された126葉。国外篇は、大正六年の台湾・中国への旅、および大正十一年から十三年の間に国際連盟統治委員会委員として滞欧した先々から投函された144葉です。

柳田民俗学のかくし味 鶴見和子(社会学) 
柳田民俗学のかくし味とは、柳田が心の中に隠し持たれたヨーロッパ体験の準拠枠である。p8
(柳田民俗学は一国民俗学といわれているが、ヨーロッパ体験はそのかくし味というより、民俗学が本当の学問になるための基盤になったような気がします)

 

国内篇
宛名を「孝子」としている。孝が本名で、遊び心が「子」を加えさせたものであろうか。同様な心情は三穂・千枝・三千・千津の四人の女児にもはたらいたようで、千津を除いてその例を認めることができる。 
なお“穂”とか“千”といった文字を用いたのは、柳田の“田”に合わせたもので、父國男の発想であった。p70 

『故郷七十年』より
一旦帰京してまたすぐ旅に出ようとした時、次女が病気で入院した。普段あまり文句をいわない養父から、この時だけは、「こんな時ぐらい旅行を止めたらどうか」といわれたので、さすがの私もすっかりへこたれてしまった。「秋風帖」の旅がたしか大正九年の十月で、それから一ヵ月ぐらいぼそぼそして家に居り、十二月末に九州の旅に出たのである。p72
(へこたれて、ぼそぼそして家に居り、という表現が面白いです)

 

国外篇
「本場の広東料理」より
日本はこれ迄種々のものを支那から学べるにも拘わらず、食事においてはとうてい支那と手をとって並び得なかったのは如何なるわけであろうか。自分は幾度か其の理由を見出だそうとして能わなかったが一言を以て云えば鰹節の束縛と云おうか、若しくはお茶のデスボジションと云おうか。日本の料理はサッと煮てサッと出す方が多い反対に、あちらの料理の一貫している原則は煮すぎなのである。p165

1921年6月、ニューヨークからフランスのブーローニュ=シュル=メールに入港し、イギリスには寄らなかった。ブーローニュから五時間ほどの汽車の旅でパリに到達p188-189

アナトール・フランスの著作には、特別な関心を持っていた。「ブランデスアナトールフランス論を読んでしまう」「アナトール・フランスのバルタザルも一読し了る」「アナトールフランスのタイスを英仏両文にて読みはじめ面白い為に外のことをせず」などと記されている。p191

 

滞欧時にはたくさんの本を収集して日本に送ったことが知られている。高橋治「柳田国男の洋書体験一九〇〇ー一九三〇」に詳しい。

1921年9月ストラスブールにて
「国際聯盟の発達」の中で「私は昨年九月末ナンシーから上アルザスを経て瑞西に帰った。此の辺も戦争中は肉弾戦の行われたに相違なく、その荒廃も仏国の戦場に等しいものがあったのに町の近くの道には人の往来が繁く野原に遊ぶ牛馬の群れは旅人に平和な感を与えていた。」p217

1922年6月、スエズにて
網干の中川欽之助に仏供送ることを絵葉書で依頼p237


1922年10月19日の絵葉書
イギリスのラファエル前派の画家ロセッティによる「見よ、われは主のはした女なり」ロンドン、テイト・ギャラリー
「此絵はロンドンの国立絵画館の神品にて日本にてもよく知られたる聖母夢想の図に候 右の端にある紅いツイ立てやうのも何ともいへずよい色に候」p262
(受胎告知系統の絵画にこのような作品があったのですね。構図といい、シンプルな服装や背景といい、何ともいえない聖母マリア様の表情といい、凄い新鮮で衝撃を受けました。まさに「神品」です。現代的な解釈による作品と言えます。柳田さんは右下の赤い衝立の色に感心していますが、確かにそこだけ妙に目立っていますね)

1923年2月ソルレント(ソレント)より
「帰れソレントへ」の歌で知られている
詩人トルクワート・タッソー(1544-95)、イタリア・バロック期の最大の詩人の生まれたところp275
(ゲーテがタッソーについて書いていました)

絵はがきの心 柳田冨美子(柳田國男長男為正未亡人)

 

編者解説 柳田國男 旅と絵葉書
柳田は一生の間に、何回くらい旅をしたのであろうか
『柳田國男写真集』の「年譜 旅の足跡」によると138回
ただし海外旅行と保養のための家族旅行は省いているので、実際はこれを凌駕している。
また一回ごとの旅の日数が長い。一週間から十日間は普通で、月を跨いで続けたり、旅先で年末年始を迎えることも一再ではなかった。p316-317
 
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