ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ローマのアウグストゥスの霊廟が公開

2021-04-10 08:07:58 | ヨーロッパあれこれ
(ローマのアウグストゥスの霊廟が公開されている、との記事です。
自分は2009年の年末にアラ・パチスなどを訪問し、この霊廟のそばも通ったのですが、その時は写真を撮っていませんでした。
記事にあるように閉鎖中で、修復工事で外観も殆ど見ることができなかったからだと思われます。
でもこういうニュースを読むと、工事中でもとりあえずその場所を写真にとっておけばよかったですね。
変遷の経緯を読むと、遺跡というものは、昔を表すものだけではなく、その後の時代時代を反映するものだと改めて痛感します。
あとこのそばにある教会のファサードが気になったのですが、当時は教会名がわかりませんでした。この記事をきっかけに確認すると、サン・ロッコ教会だと判明しました。)

【AFP=時事】初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)の巨大な霊廟(れいびょう)が数百年ぶりに修復され、イタリアの首都ローマで先月から一般公開されている。

テベレ(Tiber)川岸にそびえるこの霊廟は、紀元前28~23年、アウグストゥス帝のために建てられた。アウグストゥス帝は40年に及ぶ在位中にローマ帝国を築き上げた人物で、古代ローマの将軍・政治家ユリウス・カエサル(Julius Caesar)は大おじに当たる。

 円柱状の基礎部分の直径は約90メートル。かつては上部にイトスギの木がずらりと植えられ、最上部にはアウグストゥス帝の銅像が立ち、廟全体の高さは45メートルほどあった。

 アウグストゥス帝と妻リウィア(Livia)が埋葬されている中心部の部屋は、当初は表面が大理石とトラバーチン(石灰岩の一種)に覆われており、その周囲には一族を埋葬する墓室も用意されていた。

 ローマ帝国が滅亡すると、アウグストゥス廟は墓としての役割を失い、他の古代ローマ遺跡と同じく、用途がさまざまに変化していった。中世には要塞(ようさい)となり、ルネサンス時代には庭園や闘牛場に。1900年代初頭には、この上にコンサートホールが建てられた。

 1930年代になると、ファシストの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)が再び霊廟として一般公開する。ムソリーニは、自身の政権についてローマ帝国の後継というイメージを打ち出すことをもくろんでいた。

 その後2007年に閉鎖され、修復工事が始まるが、工事は現在も完了しておらず、現場にはクレーンがそそり立ち、多くの作業員がせわしなく働いている。

 廟の大きさから考えると、アウグストゥス帝が着想を得たのは、エジプトのアレクサンドリア(Alexandria)にあるアレクサンダー大王(Alexander the Great)の墓か、現在のトルコに当たるハリカルナッソス(Halicarnassus)に建てられ、「古代世界の七不思議」の一つに数えられていた霊廟だったのではないかと専門家らはみている。

 入場券はオンラインでのみ購入可能で、すでに6月末分まで完売している。【翻訳編集】 AFPBB News
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マルセイユ・フォス港の東部エリア

2021-04-04 08:17:32 | フランス物語
再びマルセイユのノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院からの眺め。
旧港の向こうには長く伸びる防波堤に守られた「新港」があります。
この港の正式名称はマルセイユ・フォス港と呼ばれています。
フォスというのはマルセイユから西に50キロメートルほどに位置するフォス・スール・メールという街からきています。ここにも別の港があります。
この街はマルセイユと同じブッシュ・デュ・ローヌ県に属しています。だから離れている港を一体化しているのかもしれません。
マルセイユの方が東部で、フォスの方が西部となります。
マルセイユ・フォス港のHPを見てみると、

Bassins Est : une zone portuaire urbaine, située au cœur de la ville de Marseille, 400 ha (entre la Joliette et l’Estaque), considérée comme un port de proximité en Méditerranée pour les marchandises et les passagers.

東部ドック:マルセイユ市の中心部、400ヘクタール(ジョリエットとエスタックの間)に位置する都市の港湾地域で、商品や乗客のための地中海沿岸の港と見なされています。

Bassins Ouest : une zone industrialo-portuaire à Fos-sur-Mer de 10 000 ha (soit la surface de Paris intramuros), dont 3 000 ha d’espaces naturels, considéré comme le port de la massification et du « deep sea », dédiés aux grands flux intercontinentaux pour l’industrie et la logistique.

西部ドック:10,000ヘクタールのフォスシュルメールの工業港地帯(パリ都市圏の面積とほぼ同じ)で、そのうち3000ヘクタールは自然地帯であり、巨大で「深海」の港と見なされ、産業とロジスティクスの主要な大陸間流通のために捧げられています。

bassinは辞書を見るとドックという意味が書いていましたが、日本語でドックとこれらの港をあらわすには大規模すぎて変かもしれません。
東西の違いをおおざっぱにいえば、マルセイユは乗客や商品、フォスは原材料を扱っていることになるのでしょうか。
あと、HPの中で見つけた印象的なフレーズは、「青い経済のための緑の港」というものでした。
青というのは海の青だけでなく、フランスの青という意味も含んでいるのでしょうか?
緑というのは環境を表しており、地球に優しい港づくりを目指しているそうです。
各港には見学コースも設定されていました。豪華客船とかを間近に見学できて楽しそうです。
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ストラスブールのレプュブリック(共和国)広場

2021-04-02 21:32:31 | フランス物語
画像はモクレンの花が咲き誇るストラスブールのレプュブリック広場です。
以前この広場の記事を書いた時には、現地で購入した日本語観光冊子の訳にならい「連邦広場」としたのですが、それは誤りで「共和国広場」と訳すのが正しいようです。
この広場は1881年に整備されました。この時はドイツ支配時で「皇帝広場」と名付けられ、皇帝ヴィルヘルム一世の騎馬像が据えられました。
その後第一次世界大戦が終わると、領有の変更とともに1918年、共和国広場と呼び名が変えられます。
そして1936年、皇帝の騎馬像は撤去され、画像の真ん中にあるような戦没者慰霊碑が据えられます。
この石像はドゥリヴィエというフランス人彫刻家により制作されました。
母が二人の瀕死の息子を膝の上に抱きかかえているのですが、母がストラスブールを表し、西を向いた息子がフランス、東を向いた息子がドイツを表しているそうです。
しかしこの慰霊碑の願いもむなしく、今度はナチスに蹂躙され、1940年には「ビスマルク広場」と改称されます。
そしてフランスの帰属に戻った後、1945年に再び「共和国広場」に戻されました。
広場の名前ひとつとってみても、アルザスの複雑な歴史が伺えます。

石像の向こう、更に延長線上には、大聖堂の姿が確認できます。
最初は広場の近くにあり、尖塔が印象的なサン・ポール教会かなと思ったのですが、よく見るとノートルダム大聖堂でした。
今のように大変な時代でも、春になると花は咲き乱れます。
そして慰霊碑は変わらず鎮座し、大聖堂は遥か天を目指して、しっかりそびえ立っています。

(物語 ストラスブールの歴史 中公新書 を参考にしました)
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