ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅰ 風景の地政学

2021-08-18 19:06:15 | ヨーロッパあれこれ


柳田国男のスイス
渡欧体験と一国民俗学
岡村民夫 著
森話社 発行
2013年1月24日・初版第1刷発行

ジュネーブなど、滞欧時代の柳田国男の足跡をたどると共に、柳田の滞欧経験がいかに学問的にも影響を与えたかが叙述されています。

プロローグ 柳田国男と私  
1921年から23年、柳田は国際連盟の常設委任統治委員会の初代日本人委員として、一時帰国を挟んで二度渡欧
45歳から49歳にかけて、人生最初で最後の洋行

外国生活は、単一の結論に収斂するほど単純な事柄ではない。
言語も社会も自然も突然一変し、余儀なくその変化に自分が巻き込まれ、これまでの経験との差異と共通性の計測を、あらゆるレベルで、際限なく行わなければならなくなる。
長期にわたる外国生活の体験とは、本人にも把握しかねるくらい多くの互いに異質な襞をもった多様体であり、その襞は、帰国後長い時間をかけて徐々に展開し、影響力を顕すはずだ。p9

Ⅰ 風景の地政学
第1章 住まい
ジュネーブ旧市街の南、左岸の後背には、さらに高い台地が広がり、その一画をシャンペルと呼ばれる緑豊かな高級住宅地区がある。柳田が長期滞在したホテル(オテル・ボー=セジュール)があったのも、二軒の借家があったのも、この地区だった。

シャンペルは右岸の国際連盟事務局からは非常に遠かった。
しかし国際連盟の会議は左岸のオー=ヴぃーヴ地区の宗教改革ホールで、シャンペルから歩いて通える距離。そして日本事務所がシャンペルの一角にあった。

第2章 山
サレーヴ山
二つの頂きをもつ石灰岩の山塊
端山だが、ジュネーブにじかに面する独立峰

セルバン(Servan)
オート=サヴォアやジェラ山脈、またそれらに隣接するスイスの田園地帯に伝わる[家の精霊]
柳田はセルヴァンを東北のザシキワラシと重ね見ている。p55

「此書を外国に在る人に呈す」という特異な献辞を冠した『遠野物語』が、ウィリアム・バトラー・イェーツの『ケルトの薄明』(1893)に触発され、西洋を強く意識して書かれた書物であり、彼の「山人」がハインリヒ・ハイネの『諸神流竄記』(1853)を一発想源とする概念を想起すべきである。p61

ジュネーブの柳田は大きな思想的過渡期にあって、アルプスの景観や民俗と南部や信州のそれらとを比較しながら、日本の山人譚や山民の位置づけを反省していたに違いない。
スイス時代の書簡中、遠野の佐々木喜善と松本の胡桃沢勘内へ宛てたものが、質量ともに群を抜いているのは、これと無関係ではないだろう。
(特に佐々木喜善宛ての書簡が、この本でも目立つ。氏は遠野物語だけの人ではなかったのだ。佐々木さんを見直しました)

第3章 川
「ジュネーブ」という地名は、「ジェノヴァ」と同様、「水の近く」を意味するケルト語系の言葉に由来する。

将来のチョコレート
地中海を渡り、アフリカとの窓口マルセイユに水揚げされたカカオが、川船によってローヌ川を遡上し、リヨンやジュネーブの工場でアルプス山麓からの牛乳と混ぜ合わされ、良質なチョコレートができあがる。
辻川と布川という河川交通に依存した場所で育った人物にふさわしい着眼だ。p69

スイスの永世中立、独立性、ローカリティと国際性の共存を支えている地政学的基盤は、西ヨーロッパの中央に位置し、山岳に囲まれ、大河の水源を湖や氷河として有することであり、ヨーロッパの分水嶺という自然条件である。p75

ジュネーブからアルヴ川を渡りカルージュという街に達する。 
柳田はこの街も散策していた。
Carougeという地名はラテン語のquadrivium(辻)に由来する。
川のそばの辻の村、辻川というわけである。

第4章 郊外
柳田にとって日常の〈郊外散歩〉が〈旅行〉におとらず重要なフィールドワークであり、思考方法だった。「瑞西日記」を読むと、ジュネーブにおいてもすでにそうだった。

柳田の住んだシャンペルは狭義の田園都市ではないが、田園都市的な郊外であり、それはある程度意図的に形成された性格だった。
また特別な文化的雰囲気を帯びていたと思われる。
ジュネーブ大学・旧市街・州立病院の後背地という立地条件だった。

ジェームズ・ティソ作「浴室の大和撫子」ディジョン美術館

2021-08-15 07:30:42 | フランス物語


この作品は、ジェームズ・ティソ(James Tissot 1836-1902)の「浴室の大和撫子」(Japonaise au bain 1864)です。
日本語訳においては、単に日本女性としたり、wikiの例のようにそのまんまラ・ジャポネーズという訳もありましたが、なんだか味気ないので、大和撫子と遊んでみました。
この絵はディジョン美術館訪問時には見た覚えがありません。ご覧のとおり妖艶な題材なので、自分のような好き者なら忘れられないはずなのですが。当時は展示されていなかったのかもしれません。
今回、ディジョン美術館について書くにあたり、そのHPをサーチしていたら、この絵と出会い、軽い衝撃を受けたので、書き残しておく次第です。
題名では浴室となっていますが、どこが浴室なのかよくわかりません。どうも裸のモデルを描くための言い訳のようにも思えます。水戸黄門の由美かおるさんや、ドラえもんのしずかちゃんの入浴シーンと同じ感覚なのでしょうか?(笑)
それは別にして、作者のティソはこのような絵を描くくらいですから、ジャポニズムの影響を相当受けていました。
更には現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」に出てくる徳川昭武のパリでの画学教師になっており、昭武の肖像も描いているそうです。

Jules-Jacques Veyrassat作「オーセールの眺め」(ディジョン美術館)

2021-08-14 12:54:41 | フランス物語


この絵画はJules-Jacques Veyrassat(1828-1893)による「オーセールの眺め」(Vue d'Auxerre 1865)です。
まずVeyrassatの読みがよくわかりません。ヴェイラサくらいでしょうか?
バルビゾン派に属する画家だそうです。
この絵も前回の作品と同じく、現地で観賞して、絵はがきを買っていました。
自分は風景画が好きなのですが、この絵は特に、一度訪問していたオーセールという街を描いているため、気にいったのかもしれません。
まず画家の視点はヨンヌ川のバタードー(Batardeau)と呼ばれた中洲からだそうです。今はその中洲はありません。
川の流れや街並みは今と違いますが、メインの建物は同じように残っています。
左から、背の高い木々の合間に位置するのは、サン・ピエール教会です。
そして中央にどっしり位置しているのはサンテティエンヌ大聖堂です。
右側に描かれているのはサン・ジェルマン修道院で、隣の尖塔はサン・ジャンの塔、と呼ばれています。
今も昔も、ヨンヌ川からの眺めに風情がありますね。

(ディジョン美術館のHPおよびwikiを参考にしました)

ジャン・ラロンズ作「シャロレーの漁師」(ディジョン美術館)

2021-08-11 19:08:56 | フランス物語


この絵は、ジャン・ラロンズ(Jean Laronze 1852-1937)による「シャロレーの漁師」(Pécheur charolais 1901)です。
ディジョン美術館を訪問時に展示されており、気にいってその絵はがきを買っていました。
薄ぼんやりした背景の中、透明感を伴った水面上(アルー川とロワール河の合流点)に浮かぶ小舟に乗って、長い棒(棹?)を握って胸を張る女性の姿が逆光に映えています。
船上の三人は夫婦とその子どもかと思ったのですが、ジャン・ラロンズ友の会のHPでの解説によれば、男から見ると子どもは孫娘、と書いていましたので、おじいさんということになります。
確かによく見ると、あご髭も白く見えます。三世代同乗というわけですね。女性の夫はどうなったのでしょうか?
更に向こう、中洲のようなところに小さく描かれているのは洗濯婦だそうです。
ジャン・ラロンズのwikiでは、関連しそうな他の作品として、小舟の三人が祈っているモチーフもありました。ミレーの「晩鐘」を彷彿とさせます。
あと、小舟だけがぽつんと浮かんでいる絵画も掲載されていました。こちらはちょっと怖い感じがします。

この絵画の舞台であるシャロレーとは、ブルゴーニュ地方内の地域の名称だそうです。
そのシャロレーで検索しているとシャロレー種という肉牛が引っ掛かりました。
その肉のステーキかブフ・ブルギニオンをブルゴーニュの赤ワインと共に食べたくなってきます。

シャロレー地方の街シャロルには、1933年、ジャン・ラロンズ美術館が開館していました。
現在彼の作品はシャロルの小修道院美術館(Le Musée du Prieuré)に展示されています。

レダと白鳥の彫像(ディジョン美術館、彫像の間)

2021-08-09 11:49:47 | フランス物語


ディジョン美術館の彫像の間の画像です。
この部屋は昔、ローマ賞を受賞した生徒の作品の内、特に素晴らしい古代芸術の複製の作品群が展示されています。
画像の作品はレダと白鳥の彫像です。左側の人物は彫像ではありません(当たり前だ・笑)
ギリシャ神話の主神ゼウスが白鳥に変身し、スパルタ王テュンダレオースの妻であるレダ(レーダー)を誘惑したというエピソードです。
ダヴィンチなど多くの芸術家によって扱われた、お馴染みのモチーフです。
後ろの彫像の右側はアポローン、左側はアフロディーテでしょうか。
更にはヘルメスなどの彫像も展示されていました。