柳田国男のスイス
渡欧体験と一国民俗学
岡村民夫 著
森話社 発行
2013年1月24日・初版第1刷発行
ジュネーブなど、滞欧時代の柳田国男の足跡をたどると共に、柳田の滞欧経験がいかに学問的にも影響を与えたかが叙述されています。
プロローグ 柳田国男と私
1921年から23年、柳田は国際連盟の常設委任統治委員会の初代日本人委員として、一時帰国を挟んで二度渡欧
45歳から49歳にかけて、人生最初で最後の洋行
外国生活は、単一の結論に収斂するほど単純な事柄ではない。
言語も社会も自然も突然一変し、余儀なくその変化に自分が巻き込まれ、これまでの経験との差異と共通性の計測を、あらゆるレベルで、際限なく行わなければならなくなる。
長期にわたる外国生活の体験とは、本人にも把握しかねるくらい多くの互いに異質な襞をもった多様体であり、その襞は、帰国後長い時間をかけて徐々に展開し、影響力を顕すはずだ。p9
Ⅰ 風景の地政学
第1章 住まい
ジュネーブ旧市街の南、左岸の後背には、さらに高い台地が広がり、その一画をシャンペルと呼ばれる緑豊かな高級住宅地区がある。柳田が長期滞在したホテル(オテル・ボー=セジュール)があったのも、二軒の借家があったのも、この地区だった。
シャンペルは右岸の国際連盟事務局からは非常に遠かった。
しかし国際連盟の会議は左岸のオー=ヴぃーヴ地区の宗教改革ホールで、シャンペルから歩いて通える距離。そして日本事務所がシャンペルの一角にあった。
第2章 山
サレーヴ山
二つの頂きをもつ石灰岩の山塊
端山だが、ジュネーブにじかに面する独立峰
セルバン(Servan)
オート=サヴォアやジェラ山脈、またそれらに隣接するスイスの田園地帯に伝わる[家の精霊]
柳田はセルヴァンを東北のザシキワラシと重ね見ている。p55
「此書を外国に在る人に呈す」という特異な献辞を冠した『遠野物語』が、ウィリアム・バトラー・イェーツの『ケルトの薄明』(1893)に触発され、西洋を強く意識して書かれた書物であり、彼の「山人」がハインリヒ・ハイネの『諸神流竄記』(1853)を一発想源とする概念を想起すべきである。p61
ジュネーブの柳田は大きな思想的過渡期にあって、アルプスの景観や民俗と南部や信州のそれらとを比較しながら、日本の山人譚や山民の位置づけを反省していたに違いない。
スイス時代の書簡中、遠野の佐々木喜善と松本の胡桃沢勘内へ宛てたものが、質量ともに群を抜いているのは、これと無関係ではないだろう。
(特に佐々木喜善宛ての書簡が、この本でも目立つ。氏は遠野物語だけの人ではなかったのだ。佐々木さんを見直しました)
第3章 川
「ジュネーブ」という地名は、「ジェノヴァ」と同様、「水の近く」を意味するケルト語系の言葉に由来する。
将来のチョコレート
地中海を渡り、アフリカとの窓口マルセイユに水揚げされたカカオが、川船によってローヌ川を遡上し、リヨンやジュネーブの工場でアルプス山麓からの牛乳と混ぜ合わされ、良質なチョコレートができあがる。
辻川と布川という河川交通に依存した場所で育った人物にふさわしい着眼だ。p69
スイスの永世中立、独立性、ローカリティと国際性の共存を支えている地政学的基盤は、西ヨーロッパの中央に位置し、山岳に囲まれ、大河の水源を湖や氷河として有することであり、ヨーロッパの分水嶺という自然条件である。p75
ジュネーブからアルヴ川を渡りカルージュという街に達する。
柳田はこの街も散策していた。
Carougeという地名はラテン語のquadrivium(辻)に由来する。
川のそばの辻の村、辻川というわけである。
第4章 郊外
柳田にとって日常の〈郊外散歩〉が〈旅行〉におとらず重要なフィールドワークであり、思考方法だった。「瑞西日記」を読むと、ジュネーブにおいてもすでにそうだった。
柳田の住んだシャンペルは狭義の田園都市ではないが、田園都市的な郊外であり、それはある程度意図的に形成された性格だった。
また特別な文化的雰囲気を帯びていたと思われる。
ジュネーブ大学・旧市街・州立病院の後背地という立地条件だった。