ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田國男 私の歩んできた道(後半)

2023-03-17 19:29:26 | ヨーロッパあれこれ

 

五 好尚
塔の絵葉書
柳田所有の欧州の塔の絵葉書
独逸「ケルン」大寺の塔
仏蘭西「マルセーユ」の「ノートルダム、ド、ラ、ガルド」
同 巴里の「ノートルダム」
洪牙利「ブダペスト」の「マチアス」寺
英吉利「ウエストミンスター」寺 二枚
英吉利「ストラトフォード、オン、アボン」の紀念塔
同 倫敦、聖波羅寺 p166-167

趣味のいろいろ
マッチ商標の採集

閉雲集 わが愛誦吟
芭蕉の連句

アンケート 私の愛誦する去来作品とその鑑賞

野川にそひて 砧村から武蔵野村に至る
時 三月二十五日晴天。暖か。
人 柳田國男氏 小野武夫氏 今 和次郎氏

柳翁閑談 すずめ
スズメが親孝行な鳥で、親の死の知らせをきいて、化粧半ばでかけつけたという、スズメ孝行の昔話は、ひろく語られている。化粧中だったので、スズメはほおが汚いというのである。この話には、スズメに対して、キツツキやツバメが対照的に語られている。彼らは化粧して、親の臨終に間に合わなかったので、その報いとして虫を食べなければならないのに、親孝行のスズメは、穀物を食べることが出来るのだという由来話である。p189

 

六 向学
写生と論文

私の書斎

私の信条

私の仕事

わたしの方言研究
播州あたりは、もとはことばが卑しいからといって京都から笑われたんです。大阪の人も来て笑いますし。それに東京にも笑う奴がいるっていうんですからね。そのくせ村(辻川)じゃ、どうも竜野のことばは、なるほど猫まで訛るっていうのは訛がひどいね、なんてことを言いますでしょう。そういうことを、立場(たてば。人力車の中継所)と宿屋茶店でもってしょっちゅう問題にしているんです。実際方言の多趣味な時代だったんですね。p216

旧幕時代の姫路藩で江戸のことばは、大へん尊敬されていました。まあ、あらたまって使う侍のことばですね。江戸のことばに、いいことば、感じのいいことばだという印象を持っていたのは、恐らくどこの地方でも同じでしょう。p224

柳翁閑談 先達

 

七 次代へ
はなむけのことば 青年期の話

次の代のために
本来、故老のことばが尊重せられた理由というものは、それが専ら、群の記憶であり、また群のための伝承であったところにある。p238

昭和二十二年に望むこと(アンケート)

ほしいもの・したいこと

考えない文化

緑蔭対談 若い女性に望むこと
柳田と和辻哲郎の対談

穀母信仰のことども
母親と子供、生母信仰というものと、穀母、穀物の親と子供の関係のあることをどちらかの経験によって、どちらかと云えば、恐らく稲の方が早いのでしょうが、穀母信仰、穀童信仰と云いますが、子供ができるということ、云わば親の穀物から次の種子が育って来る、つまり遺伝ですね、そういうことをはっきり意識したのは、牛や馬をいじくって居るだけでは判らない訳ですね。動物の方は期間が長く、稲の方は一年一年と繰り返されますから、よく判るわけですね。それで遺伝とか相続とか言われ出したんだろうと云って居ます。p268

 

八 雜
明治人の感想

柳田國男翁聴き書き
昭和三十四年五月二十九日


付編 家族・親族に映じた人と生活
父 柳田國男のこと 柳田為正

父 國男と私 柳田為正

思い出すことなど 堀三千子

父・柳田國男の思い出 堀三千

「新国学談」のころ 堀一郎

思い出すまま 太田千津

雷の褌に河童の屁 喰眼録の由来 井上通泰

布川・布佐と叔父 國男 松岡文雄

叔父と私と遠野郷 松岡文雄

伯父のこと 松岡磐木

國男先生をめぐる若干のこぼれ話 安東幸正

情報誌『蟲・自然』に寄稿してくださった柳田先生 安東忠幸

叔父のことなど 矢田部勁吉

叔父 柳田國男への回想 木越二郎

甥の見た柳田國男 木越進

柳田さん 佐々木克子

柳田先生の家 岩崎敏夫

 

解説
周知の通り、柳田は好んで散歩に出掛けた。先の堀三千の回想の中にも、「散歩を除いてのすべての時間は、研究に当てられるようになっていった。」とあったが、逆説的に言えば散歩こそはいつの場合にも、且つまた晩年に至るまで続けられたものである。p408

柳田國男の八十有余年に及ぶ全生涯の活動と業績は、日本民俗学のみならず、極めて広い範囲にわたっている。そのいずれもが卓越しており、それ故柳田に歌人、詩人、農政学者、大学講師、官吏、編集者、論説委員、言語学者、方言学者、国語学者、政治思想家、旅行家、講演家、更には教育家などといった修辞を冠したとしても、あながち的外れという謗りを受けることにはならないのではないかと、編者は考えている。p411
 
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柳田國男 私の歩んできた道(前半)

2023-03-16 19:57:09 | ヨーロッパあれこれ
柳田國男 私の歩んできた道
田中正明 編
岩田書院 発行
2000年(平成12年)10月 第1刷 400部発行

柳田國男自身が記したり語ったりした自らの歩みや信条などと、更にはこれまで他者にとって公にされている記録の中から、家族や親族・近親者などが柳田について語ったことを取り纏めています。p6

一 自伝
年譜

柳田國男自伝

私の歩んできた道
歴史学はもう従来の人物主義の歴史から着眼点を変えるようにしなければならない。国を盛んにさせたのは人物だという考え方は、芸術や文学においてもこれは変えなければならないと思います。
彼らを生み出した時代というか、社会がこれを支えているのだという、それだけの見方の相違は今後つけてゆかなければいけないと思う。p23

 

民俗学的方向に進むにあたって、示唆を与えてくれた学者は?
それはフレーザー(1845年生まれ。イギリスの人類学者、民俗学者)です。我々に非常に大きな影響を与えてくれた。暇さえあれば『ゴールデン・バウ』(フレーザーの主著。邦訳「金枝篇」)を読んでいた。あれはフォークロア(民俗学)の直接の専門書ではない。ただ比較の必要なことを言っている。むしろエスノロジー(人種学)のために云っているのだが、あの中に我々に関係したことが幾らも出てくる。また日本のことを書いているのが、大変我々には楽しみでした。p33-34

ジュネーブにおいでの時は?
あそこでは非常に大きい影響を受けております。私のいたのは南部ですけど、スイスのフォークロアは非常に進んでいた。ナショナル・グローリー(民族神話)の話も詳しく知られていることがわかり、大変勇気づけられた。p36

『遠野物語』の特徴は、ちっともどうとかしようとか解釈しようとかいう態度のないことです。これはヨーロッパの学者の気に入ったらしいね。イギリスで一時英訳させるという話がきたことがある。p37

 

村の信仰
日本でカミまたはカミサマというのは、英語のゴッズとそっくり同じかどうかは、向こうの言葉の意味も確かめなければならぬが、一方にはまたこちらでも十分にその成り立ちを究めて見なければなりません。
言葉は厄介な国の垣根ですが、これがあるために比較を精確にしうる利益もあります。
仏教は基督教と違って、最初からこの国ではカミという名を使うことを避けました。ホトケは仏または浮屠から出た語とはいいますが、その語源は実はまだ明らかではありません。ただ何処までも今までの神との混淆を差し控えたために、幸いにして我々は今も固有の神々の存在を知り得るのであります。p58

学校教育では試験というものがあるから仕方なく先生の結論について来るんです。それがひどかったのは私の知る限りでは穂積八束さんでしたね。自分の出した結論でないものを試験の時に書いたりすると、うんと点を悪くされたものです。だから不審があっても質問もしません。p70-71

日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。p73

 

(白雲と我身をなさば…)

私の歩んだ道

二 親・兄弟
(短歌三首)

童心画巻
松岡操の絵心に関した瑣事が主題

漱石の猫に出る名
越智東風の由来
井上通泰の変名

(『南天荘集』跋文)
井上通泰の遺稿集

太平洋民族学の開創 松岡静雄

考へさせられた事
松岡映丘への追悼

 

三 読書
乱読の癖  

読書余談

童時読書

本について

柳翁閉談 書物

 

四 旅行
旅行略暦 

旅行の上手下手
日本はどちらかといふとよい旅行のし易い国である。例を隣の支那や満州にとってみると、あの国で、あの平原の真中に住んでいては、どんなに上手に旅行をしようとしても、無駄な所を歩かねばならぬ。ところが京都、東京は周囲が直ぐにいい練習場である。p135

旅行史話 
戦中に私は山科言継卿の日記を読んで居て、あの中に幾つもの得がたい旅の記事のあるのを見て感動した。
その一つは岐阜へ信長に逢いに行った有名なものだが、なおその以下にも若い頃に、陸路近江の千種だが八風だがの峠を越えて、清須へ遊びに行った往復の道の記と、年をとって後駿府の今川家へ、叔母さんを訪ねて世話になりに行った際の日記などが、平凡な常の京都の記録の中に、挿まって光を放って居る。p144-145

 

昔の旅 これからの旅
旅は動機の上からこれを群の旅と一人の旅行との二つに分けて見ることができる。
群の旅行は主として信仰に発したもので道者が中心であり、熊野参りの道者などがその先駆者に数えられ、年百年中、沢山の旅人が熊野目指して集まった。富士や出羽三山の行者も型は熊野からとったものである。
この道者や行者の旅が段々庶民の間に弘まるようになると、当初は信心から始まったものであったが伊勢参拝や大和巡りが附加され、或は金比羅詣でや更に長駆して出雲大社や太宰府天満宮あたりまで赴く者などが出てきて、遂には信仰だけでなく遊覧をかねてする方が強くなってきたのである。
近世になって八十八ヶ所とか三十三番札所の如く、信仰に引き戻そうとするものもあったけれども、どちらかといえば名所旧蹟に心惹かれるようになってきた。
個人の旅即ち一人旅は比較的近世になって起こったもので、この一人旅の始は「あきない」ではなかったかと考えられる。
後には越中富山の売薬行商の如く顕著な発達を遂げたものもある。p148-149



中央と地方の文化が旅行に依って交流した著しい例は足利時代中期の京都の衰微と旅行の関係に見ることができる。
応仁の乱により即ち文人墨客などは食えぬ京都を棄てて、続々地方行脚に出たのである。
歌や物語を地方の大名や豪家に土産として書いてやり、或いは連歌を興行し、帰りに金銀を土産に貰って来る一種の文化交易である。
地方文化は乱世のときに培養されるものである。p149-150

柳翁閑談 こども
大正十年正月沖縄への途中、奄美大島に数日立ちよった。わずかの印象で決めてしまうのは酷であるが、この島の子供は、全体におっとりしたところがないように見受けられた。奇妙な遊びの流行している時で、旅人とみれば「今何時ですか」と時計を出させ、わぁーっとはやしたてる。金時計か、銀時計か、さきに言い当てたものが勝ちになるらしい。なんというわびしい子供の遊びであろうか。もっと子供らしい遊びはないものであろうかと、ずいぶんさびしい思いをしたものである。p156
 
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白い袋の天女牛若丸にゃんこ

2023-03-11 06:24:51 | 小説

 

 

うちのにゃんこです。

スポーツ用品店の白い商品袋に入ってしまいました。

天女みたいかな?

ちょっと違うかな…

それじゃ、これでどうだ!

牛若丸です。

うーん、やっぱり違うかな?

アタシはアタシでいいのにゃ

 

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柳田国男「山の人生」の冒頭の事件を赤ペン先生してみる

2023-03-06 19:21:12 | 小説

柳田国男「山の人生」の冒頭の事件について、「柳田国男と事件の記録」(講談社選書メチエ40)をもとに、恐れ多くも、赤ペン先生してみます。なお内容については、柳田が読んでいない『奥美濃よもやま話 三』に書かれた「新四郎さ」のテキストとの差異ではなく、あくまで当時の新聞報道など、柳田が得た情報に近いであろうものとの差異に限定しています。当時の同じような資料をどう読み外に表したかに興味を持つからです。
なお、書かれたページはすべて「柳田国男と事件の記録」からです。


今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。

(この事件の記録は、岐阜地方裁判所にも、岐阜の検察庁にも、東京の内閣法制局にも、法務省保護局恩赦課にも、残っていないという話であった。p181 
戦災や記録の廃棄処分のためであるという。p226)

三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞できり殺したことがあった。

(この記述は大正14年(1925)のもの。p129 
事件は明治37年(1904)に起こった。とすると三十年ではなく、二十年ほど前になるのか。場所は「西美濃」と書いているが、厳密には郡上郡明方村で、むしろ奥美濃もしくは北濃と呼ばれる地域。p172

この男は昭和15年(1940)に亡くなっているので、p160
当時50ばかりということは85くらいまで生きたということになるのか)

女房はとくに死んで、あとは十三になる男の子が一人あった。

(妻は事件の七年前に失った。p212
長男は戸籍謄本では満10歳となっていた。p174)

そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。

(戸籍謄本では養女とあるが、その男と妻のあいだでその婚姻前に生まれたのを、いったん妻の兄のもとに入籍させ、婚姻ののち、男の戸籍に養女として入れ直したものと考えられる。p174)

その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日には空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。

(事件は四月六日に起こっている。新聞報道では六日午前九時、戸籍謄本では午前五時と、やや食い違いがある。つまり秋の末の夕方ではなく、春の日の夜明け前ないし朝のことであった。p196) 

二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事で使う斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。

(特赦は明治三十九年(1906)三月に行われている。p216
事件は明治三十七年だったので、二年ほどで世の中に出てきたことになる)

そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。

(「新四郎さ」の語り部である金子信一の家で草むしりの仕事などして出入りしていたという記録あり。p139)


私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

(柳田は明治三十五年(1902)二月から法制局の参事官になったが、その時特赦の事務を取り扱うことがあり、そこでさまざまな犯罪の予備調書や関係資料を読むことになった。p129)
 
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チェコ語の隙間 東欧のいろんなことばの話

2023-03-05 06:27:20 | ヨーロッパあれこれ

 

チェコ語の隙間 東欧のいろんなことばの話
黒田龍之助 著
現代書館 発行
2015年2月28日 第1版第1刷発行

西スラブ語群(ポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語など)と南スラブ語群(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語、ブルガリア語など)についてのエッセイ集です。

第1章 ポーランド語いまだ滅びず
ポーランド語は綴りが長い。その理由は1つの音を2文字で書き表すことが少なくないから。英語でもやっている表し方だが、チェコ語と比べると長く感じてしまう。p15

ポーランドにはポーランド語以外に、カシューブ語という言語もある。だがこれは方言だという意見もある。
言語と方言の違いは言語学的に証明できない。これは歴史的あるいは政治的な判断なのである。2つの言語を比べて、似ているからとか同じ国内だからといったことは、何の証拠にもならない。
ただ21世紀は、方言に言語としての地位を与えようとする傾向が強い。カシューブのことばも、言語とする見解を以前に比べて多く見かけるようになった。p67

 

第2章 チェコ語の隙間、スロヴァキア語の行間
チェコ語には7つの格がある。格とは名詞が文の中で果たす役割のことで、日本語だったら「てにをは」をつけるところを、代わりに語尾をつけ替えることで表す。
格を持つ言語は何もチェコ語に限らないが、ドイツ語の4つ、ロシア語の6つと比べると、少し多い気がする。ちなみにチェコ語の7つの格は、その並べる順番が教科書などでは決まっている。

1 主格:「~は」「~が」 主語や辞書の見出し
2 生格:「~の」 所有
3 与格:「~に」 間接目的
4 対格:「~を」 直接目的
5 呼格:「~よ」 呼びかけ
6 前置格:いつでも前置詞と結びつく
7 造格:「~で」 道具や手段

 

チェコ語専攻の学生は、「チェコ語はスロヴァキア語に似ている」という説明を必ず入れる。
ところが、ポーランド語専攻の学生もまた「ポーランド語にもっとも近い言語はスロヴァキア語です」と書いてくる。
全体的に見れば、スロヴァキア語にもっとも近いのは、どちらかといえば、ポーランド語ではなく、チェコ語に軍配が上がりそうだ。ポーランド語に一番近いのはスロヴァキア語なのは確かかもしれないが、チェコ語との関係の方がより密接ではないか。

1993年、チェコスロヴァキアは連邦を解消し、チェコとスロヴァキアの2つの国に分かれた。
「その際に《チェコスロヴァキア語》も同様にチェコ語とスロヴァキア語に分かれた」というのは完全な誤解である。言語に関してはいつの時代もチェコ語とスロヴァキア語だった。
ただし20世紀初頭には、この2つの言語を統一しようとする運動が実はあった。しかしこれはうまくいかなかった。p179

 

1990年代半ば、シュプレー川沿いに住むスラヴ系民族ソルブ人は、周りをドイツ語の「海」に囲まれて、いまや風前の灯だと紹介した。
ところが21世紀に入ってから、ソルブ語擁護運動が非常に活発になってきている。
この言語は上ソルブ語と下ソルブ語の2つの標準文章語があるので、さらに大変なのだが、さしあたり上ソルブ語を中心に、さりとて下ソルブ語も無視することなく、普及活動が進められているのである。p199

 

第3章 「ユーゴスラヴィア」の言語はいくつか?
スロヴェニア語の特徴といえば、何といっても両数。
英語では1つは単数で2つ以上は複数だか、スロヴェニア語には2つだけを表す両数がある。p216

セルビア語とクロアチア語の違いが顕著な例としては、月の名称が挙げられることが多い。
セルビア語はラテン系名称が起源であり、英語を知っていれば覚えやすい。
クロアチア語はスラヴ系名称を用いるが、そのスラヴ系名称の中でも微妙に異なっている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスルプスカ共和国
清水義範『夫婦で行くバルカンの国々』に詳しい。
スルプスカ共和国は、国の北部と東部であり、全面積の49パーセント。スルプスカとはセルビアの形容詞形であり、セルビア人共和国という意味あいなのだが、そう呼ぶと隣にあるセルビア共和国と紛らわしいので、日本の外務省ではスルプスカ共和国と表記することにしているのだそうだ。p285

ボスニア語という表現もすっかり定着した。ボスニア人がボスニア語を名乗りたいというのだから、それを邪魔することもない。だが言語としてはクロアチア語やセルビア語との違いが微妙すぎる。だからBCSとして1つにまとめて捉えようとするのもわかる。
またツルナゴーラ語というのもある。
結局、「ユーゴスラヴィア」の言語はいくつだったのだろうか。

 

第4章 ブルガリア語はおいしい
ロシア語既習者に対して、ブルガリア語はとても簡単だという印象を与えるらしい。理由の1つは文字である。
ブルガリア語はキリル文字を使って書き表す。つまりロシア語と同じだ。というか、そもそもキリル文字はブルガリアが発祥の地である。p291

藤本ますみ『ドナウの彼方へ』(中公文庫)は、わたしが知る限りもっとも生き生きとブルガリアを紹介した旅行記である。p313

 

第5章 マケドニア語への旅
スコピエの街は川を挟んで2つの地区に分かれる。北部はイスラム地区で、細い路地が複雑に入り組み、小さな商店が密集し、昼どきになるとモスクから祈りの声が聞こえる。一方、南側はキリスト教地区といわれ、建物は西欧風で、マケドニア広場には巨大な石像がいくつも並ぶ。その2つの地区を石橋という名の橋が結んでいる。p324

スコピエでイスラム地区を歩いていると、周りに知らない言語が響いていることに気づく。
どうやらアルバニア語らしい。

CDショップのおばさん
マケドニア民謡は大好きで、セルビアやボスニアやツルナゴーラの民謡も心に響く。あと、クロアチアも。でも、スロヴェニアは違うのよね。
今回の旅で、もっとも印象に残ったことばだった。p330

 

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