二度ある事は三度ある。ブログ当番前日の残業+呑みは宿命と言っていいヒット率になってきた。
「どうせ呑まなくても書くのギリギリなんだから、呑んだ方がいいじゃねーか」なんていう頭の中に住んでいる参謀という名の悪魔の言葉に耳を貸し続けているのが問題と言えば問題なのだが。
さて本題である。
仕事をする上で種々多様の書類を作成したり、読んだりということはかなり多いと思う。日報や業務上のメールもその業務上の書類に含めると考えると仕事に費やす1日の大半は書類に触れていると言ってもいいのではなかろうか。
SEやPGとして日々を過ごしている方々でやはり書類と聞いて真っ先に思いつくのが設計書だろう。設計し、アウトプットとして設計書を作成し、それをレビュー、修正して納品する。普通にこなしている光景ではある。
ただ最近気になっているのが、設計書レビューで何度も同じような指摘を受ける事が多い人がいることだ。「同じ個所」ではなく「同じような」というのがミソで、同種の原因で他の個所の間違い、いわゆる水平展開チェックでつぶせる様な内容が形を変えていつまでも残る。あるいは別の設計書を執筆したときに再発しているという現象だ。
原因としては色々考えられるのだが、大きな部分を占めているのが、「設計書」というものを作る事を目的としてしまっていることなのではなかろうか、と最近仮説を立てている。
設計書をはじめ、さまざまな書類はそれを作る事が目的ではない。あくまで顔の見えない関係者を含めて複数人数で業務を遂行する上でのツール、つまり手段に分類されるものだ。書類で同じ指摘を受ける人というのはここを勘違いしている傾向がある。なので、「書類とメモ書きと落書きの違いは何?」という質問に答える事ができない。
ちなみに分類は以下の通りである。
・書類:
不特定であれ、特定であれ他者に見てもらう、あるいは伝える事を前提として作成する。コミュニケーションのツールである。
・メモ書き:
自分のみが使用する前提で作成する。備忘録等がそれに相当し、基本的に作成者自身さえ理解できればよい事を前提として作成する。
・落書き:
ただの自己満足かウサ晴らし。誰かのために書くものではない。アートとしての価値の有無はここでは論点がずれるので考慮しない。
上記の分類から言えば、書類そのものがコミュニケーション手段として前提から結果まで破綻していないかがチェックやレビューの目的になるわけだ。それゆえ例えていうならば設計書であっても相手に伝える「ストーリー」として破綻していないかを確認する。俯瞰したチェックが必要になるし、執筆の際もそういったセンスが必要になる。
ただし、書類が目的となってしまうとそれを完成させる事がゴールになってしまうため、指摘に対して「そこさえパッチを当ててしまえば完成なのね?」という思考に陥ってしまう。他は穴がない(と思い込んでいる)し、次の書類作成ではリセットされる。ここに負の連鎖が発生するのではないかと思われる。
ちなみに規約や形式の遵守があるのは、読む方がバラバラな書式だと大変だからである。そこで規約という共通ルールさえ理解していれば関係者が誰でも読める様に決められる。規約を守らない=読み手、受け取り手側に対して負担を強いているという理解でいいだろう。
役所や管理等でまず形式主義を取るのは、膨大な書類を読んで処理しなければならないからである。提出する方が「これぐらいいいじゃない」なんて気持ちでいい加減な書類を1枚提出しても、提出される側は膨大な枚数を処理するわけだ。皆がいい加減なもので出して来たら、まあやってられないわな。
自分は書類の域に達していない、あるいは見かけだけは書類のメモ書きで提出したり、メールを出したり、レビューに臨んでいないか?
「できました!」と元気よく言う前に一遍見直そう、という結論ぽい何かで今回は締めておく。
ああ、私もだった。ダッハッハ。
(刑事長)
monipet
動物病院の犬猫の見守りをサポート
病院を離れる夜間でも安心
ASSE/CORPA
センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
「できたらいいな」を「できる」に
OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
短納期HEMS開発をサポート!
GuruPlug
カードサイズ スマートサーバ
株式会社ジェイエスピー
横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
「どうせ呑まなくても書くのギリギリなんだから、呑んだ方がいいじゃねーか」なんていう頭の中に住んでいる参謀という名の悪魔の言葉に耳を貸し続けているのが問題と言えば問題なのだが。
さて本題である。
仕事をする上で種々多様の書類を作成したり、読んだりということはかなり多いと思う。日報や業務上のメールもその業務上の書類に含めると考えると仕事に費やす1日の大半は書類に触れていると言ってもいいのではなかろうか。
SEやPGとして日々を過ごしている方々でやはり書類と聞いて真っ先に思いつくのが設計書だろう。設計し、アウトプットとして設計書を作成し、それをレビュー、修正して納品する。普通にこなしている光景ではある。
ただ最近気になっているのが、設計書レビューで何度も同じような指摘を受ける事が多い人がいることだ。「同じ個所」ではなく「同じような」というのがミソで、同種の原因で他の個所の間違い、いわゆる水平展開チェックでつぶせる様な内容が形を変えていつまでも残る。あるいは別の設計書を執筆したときに再発しているという現象だ。
原因としては色々考えられるのだが、大きな部分を占めているのが、「設計書」というものを作る事を目的としてしまっていることなのではなかろうか、と最近仮説を立てている。
設計書をはじめ、さまざまな書類はそれを作る事が目的ではない。あくまで顔の見えない関係者を含めて複数人数で業務を遂行する上でのツール、つまり手段に分類されるものだ。書類で同じ指摘を受ける人というのはここを勘違いしている傾向がある。なので、「書類とメモ書きと落書きの違いは何?」という質問に答える事ができない。
ちなみに分類は以下の通りである。
・書類:
不特定であれ、特定であれ他者に見てもらう、あるいは伝える事を前提として作成する。コミュニケーションのツールである。
・メモ書き:
自分のみが使用する前提で作成する。備忘録等がそれに相当し、基本的に作成者自身さえ理解できればよい事を前提として作成する。
・落書き:
ただの自己満足かウサ晴らし。誰かのために書くものではない。アートとしての価値の有無はここでは論点がずれるので考慮しない。
上記の分類から言えば、書類そのものがコミュニケーション手段として前提から結果まで破綻していないかがチェックやレビューの目的になるわけだ。それゆえ例えていうならば設計書であっても相手に伝える「ストーリー」として破綻していないかを確認する。俯瞰したチェックが必要になるし、執筆の際もそういったセンスが必要になる。
ただし、書類が目的となってしまうとそれを完成させる事がゴールになってしまうため、指摘に対して「そこさえパッチを当ててしまえば完成なのね?」という思考に陥ってしまう。他は穴がない(と思い込んでいる)し、次の書類作成ではリセットされる。ここに負の連鎖が発生するのではないかと思われる。
ちなみに規約や形式の遵守があるのは、読む方がバラバラな書式だと大変だからである。そこで規約という共通ルールさえ理解していれば関係者が誰でも読める様に決められる。規約を守らない=読み手、受け取り手側に対して負担を強いているという理解でいいだろう。
役所や管理等でまず形式主義を取るのは、膨大な書類を読んで処理しなければならないからである。提出する方が「これぐらいいいじゃない」なんて気持ちでいい加減な書類を1枚提出しても、提出される側は膨大な枚数を処理するわけだ。皆がいい加減なもので出して来たら、まあやってられないわな。
自分は書類の域に達していない、あるいは見かけだけは書類のメモ書きで提出したり、メールを出したり、レビューに臨んでいないか?
「できました!」と元気よく言う前に一遍見直そう、という結論ぽい何かで今回は締めておく。
ああ、私もだった。ダッハッハ。
(刑事長)
monipet
動物病院の犬猫の見守りをサポート
病院を離れる夜間でも安心
ASSE/CORPA
センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
「できたらいいな」を「できる」に
OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
短納期HEMS開発をサポート!
GuruPlug
カードサイズ スマートサーバ
株式会社ジェイエスピー
横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業