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「六月の雨」

 6月の異称は水無月、田植えに多くの水を必要とする月の意だが、田植えには水がどんなにあっても足りないものらしい。6月になったと言うのに、昨日は晴れていた。5月に散々雨が降ったから、今月は雨が少ないのだろうか。近年暦が前倒しになっているようで、昔の感覚で考えるとピントがずれることがよくある。「6月は梅雨だよ、雨だよ、毎日雨が降るよ」と言いたいけれど、果たしてその通りになるのだろうか。
 
   「六月の雨」

  またひとしきり 午前の雨が
  菖蒲のいろの みどりいろ
  眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)
  たちあらはれて 消えてゆく

  たちあらはれて 消えゆけば
  うれひに沈み しとしとと
  畠の上に 落ちてゐる
  はてしもしれず 落ちてゐる

    お太鼓叩いて 笛吹いて
    あどけない子が 日曜日
    疊の上で 遊びます

    お太鼓叩いて 笛吹いて
    遊んでゐれば 雨が降る
    櫺子(れんじ)の外に 雨が降る
 
これは、中原中也の死後刊行された詩集「在りし日の歌」に収められた一篇である。この詩集には、長男文也の死を悲しむ中也の心が映し出された詩が多くあるが、この「六月の雨」もその一つである。1936年に文也が亡くなったときに激しい衝撃を受けた中也は、精神が不安定になり翌年2ヶ月ほど療養所に入院している。さらに37年に10月には、自らが結核性脳膜炎を発症し、死去してしまった。その翌年には、次男愛雅までが亡くなってしまっているから、中也の血は途絶えてしまったことになる。
 
 しかし悲しみが満ち満ちた詩だ。私は無事子供たちが大きくなってくれたから、こんな悲哀は想像するしかできない。中也がある書簡の中で文也を失った悲しみを「血を吐く思いでした」と述べているように、本当に身を断ち切られる思いだったことだろう。「春日狂想」では次のようにうたっている。

   「春日狂想」

  愛するものが死んだ時には、
  自殺しなけあなりません。

  愛するものが死んだ時には、
  それより他に、方法がない。

  けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
  なほもながらふことともなつたら、

  奉仕の気持に、なることなんです。
  奉仕の気持に、なることなんです。

  愛するものは、死んだのですから、
  たしかにそれは、死んだのですから、

  もはやどうにも、ならぬのですから、
  そのもののために、そのもののために、

  奉仕の気持に、ならなけあならない。
  奉仕の気持に、ならなけあならない。



六月の雨は、なぜか憂いと結びつく。
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