毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
丸谷氏の訃報
ヤンキースが地区シリーズを突破したことを記事にするため、シャンパンファイトの写真でもないか、と『時事ドットコム』のサイトを覗いたところ、思いがけず丸谷才一氏の訃報に接した。
『小説、エッセー、評論などの多方面で活躍し、日本現代文学の発展に貢献した作家の丸谷才一(まるや・さいいち、本名根村才一=ねむら・さいいち)さんが13日午前7時25分、心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。87歳だった。山形県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。
東京大文学部英文科卒。国学院大学助教授時代の30代でジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を共訳。1960年に最初の長編小説「エホバの顔を避けて」を発表。以降、「笹まくら」(66年)、谷崎潤一郎賞受賞の「たった一人の反乱」(72年)、「裏声で歌へ君が代」(82年)、吉永小百合主演で映画化もされた「女ざかり」(93年)など長編を執筆した。
いずれの作品も、思想や国家について真正面から扱い、さらに英文学の教養とウイットで、日本の私小説の伝統とは一線を画す作風を呈した。関心は、国家、社会から文学、言語へと広がりを見せ、「輝く日の宮」(2003年)などでは包括的なテーマを扱った。
エッセーでも人生の教訓を説くものではなく、「男のポケット」(76年)などで軽妙洒脱(しゃだつ)なジャンルを開拓。「文章読本」(77年)、「日本文学史早わかり」(78年)など、古典の楽しみ方を社会に広め、書評を文学の一つのジャンルとして確立した。
68年に小説「年の残り」で芥川賞、74年に評論「後鳥羽院」で読売文学賞、01年に多方面での文筆活動に対し菊池寛賞。06年に文化功労者、11年に文化勲章を受章した。
日本近代文学館理事などを務め、98年日本芸術院会員』
また一人偉大な碩学が去った。
不真面目な一読者でしかない私のような者が、丸谷才一氏について語ることなど、畏れ多くてとてもできないが、仰ぎ見て遙か高みにある彼の思想を、いくらかなりとも敷衍できたらな、と己の非才を顧みず思ったりする。
そのためにはまず、長らく巻を閉じたままである「輝く日の宮」の頁を改めて繰ることから始めねばならないだろう。
毎日新聞での氏の書評に長く接してきた私にとって、あの瑞々しくも麗々たる文章に触れることはもうできないのか、と思うと慟哭の極みであるが、今はただ氏のご冥福を心より願うばかりである。
合掌。
『小説、エッセー、評論などの多方面で活躍し、日本現代文学の発展に貢献した作家の丸谷才一(まるや・さいいち、本名根村才一=ねむら・さいいち)さんが13日午前7時25分、心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。87歳だった。山形県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。
東京大文学部英文科卒。国学院大学助教授時代の30代でジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を共訳。1960年に最初の長編小説「エホバの顔を避けて」を発表。以降、「笹まくら」(66年)、谷崎潤一郎賞受賞の「たった一人の反乱」(72年)、「裏声で歌へ君が代」(82年)、吉永小百合主演で映画化もされた「女ざかり」(93年)など長編を執筆した。
いずれの作品も、思想や国家について真正面から扱い、さらに英文学の教養とウイットで、日本の私小説の伝統とは一線を画す作風を呈した。関心は、国家、社会から文学、言語へと広がりを見せ、「輝く日の宮」(2003年)などでは包括的なテーマを扱った。
エッセーでも人生の教訓を説くものではなく、「男のポケット」(76年)などで軽妙洒脱(しゃだつ)なジャンルを開拓。「文章読本」(77年)、「日本文学史早わかり」(78年)など、古典の楽しみ方を社会に広め、書評を文学の一つのジャンルとして確立した。
68年に小説「年の残り」で芥川賞、74年に評論「後鳥羽院」で読売文学賞、01年に多方面での文筆活動に対し菊池寛賞。06年に文化功労者、11年に文化勲章を受章した。
日本近代文学館理事などを務め、98年日本芸術院会員』
また一人偉大な碩学が去った。
不真面目な一読者でしかない私のような者が、丸谷才一氏について語ることなど、畏れ多くてとてもできないが、仰ぎ見て遙か高みにある彼の思想を、いくらかなりとも敷衍できたらな、と己の非才を顧みず思ったりする。
そのためにはまず、長らく巻を閉じたままである「輝く日の宮」の頁を改めて繰ることから始めねばならないだろう。
毎日新聞での氏の書評に長く接してきた私にとって、あの瑞々しくも麗々たる文章に触れることはもうできないのか、と思うと慟哭の極みであるが、今はただ氏のご冥福を心より願うばかりである。
合掌。
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